ID:a > Q6dL20氏:- Love was sleeping. -

「ゆたか?」
 寝たのかな。みなみは口には出さなかったが、そう疑問に思った。

  - Love was sleeping. -

 長かったような短かったような、とにかく例年よりやや人の動きが多かったゴールデンウイークの明けた5月の半ば。陵桜学園の生徒たちは早くも、来週に控える中間試験に備えて少しずつ殺気立ってきた。一切の部活は活動を停止させ、元より部活に所属していない生徒もまた同様に、新しい学校や学年での初めての定期試験に対して可能な限りの情報網を頼りに対策を煉り始めている。
 実のところ、みなみ自身も少しだけ疲れていたのだ。ゴールデンウイークの間中ずっと学校に行かなかったせいで身体がなまったのだろうか。復帰初日の朝は、自分がこんな長時間の通学を丸1年以上こなしていたことなどまるで嘘のように全身がだるくてたまらなかった。
 それは先週の木曜日のことで、またすぐに週末はやってきた。ずいぶんと久しぶりに、まだ今ひとつ顔と名前が一致しないクラスに帰ってきたと思いきや、また少しの間は顔を合わせないことになる。


 だからだろうか、新担任との放課後面談を終えて職員室から戻ってきたみなみが、自分を待ちくたびれて眠るゆたかを見つけた時に、まだ自分が1年生であるかのような錯覚にとらわれたのも、ひょっとしたら至極当然のことなのかもしれない。
 陵桜学園の新2年C組。先々月までのみなみの唯一かつ最大の懸念事項――ゆたかと同じクラスになれるかどうか、は、誰の計らいによるものか、みなみの杞憂に終わってしまった。
 名簿順で各々の座席が並び、教室の窓際に置かれた自分の席の右斜め2つ後ろ――ちょうどチェスで言うところのナイトが退却する位置だ――にゆたかの姿を見つけた時の自分は、一体どれほど締まりのない表情をしていたのだろう。みなみはうっかりそれを思い出してしまって赤面せざるを得なくなる時が何度かあり、仲間内から少し不審な目で見られた。
 しかし、そうやって緩みきった表情で安堵して醜態を晒したことも、ゆたかと同じクラスになった代償にしてはあまりに小さいものだな、とみなみは考えている。或いは、さらに何らかの代価を支払わねばならないのだろうかと、何の根拠もなく不安になることもある。自分はみゆき以上に心配性なのだとは知っているのだが、人生には幸せと同じ数だけ不幸もあるのだと思えてならないのだ。


 外は五月雨が降っている。みなみは自分の教室で、机に突っ伏して眠るゆたかを眺めていた。
 起こそうか?いや、せっかく気持ち良さそうに眠っているゆたかを起こすのは気が引ける。試験前なだけでなく、今日の体育は1000メートル走だったし、少し体力を消耗しているのだろう。今はこのまま寝かせておいてあげたいが、置いていくなどもってのほかであるから、こうしてみなみは隣の座席で手持ち無沙汰なまま、ゆたかの寝顔を見つめている。

 心配性。それはみなみが自分自身の性格を把握する時によく使う言葉のひとつだ。何かにつけうまくいかないのではないか、失敗や過失があるのではないかと思ってしまう。未だに自分自身という人間に対して自信を持てないことも、恐らくこの言葉とつながっているのだろうとみなみは考える。
 最悪の状況を想定して動くことは必要だが、自分はいくら何でもやりすぎだということはみなみ自身にも分かっていた。しかし、だからこそ失敗したくないのだ。後悔したくないのだ。


 或いは、失敗を犯して自分が恥をかくことが怖いだけなのだろうか?失敗する姿を他の人に――ゆたかに、見られたくないのだろうか?


 初めてゆたかと出会った頃のみなみは、確かにゆたかのことが心配だった。元々の彼女の体質が虚弱だったということもあるし、ゆたかが内向的な自分に対して裏表も打算もなく無条件に友人として心を開いてくれたということもある。自分がゆたかに信頼を寄せられて、求めてもらえるように在り続けることがみなみの目標であり義務だった。
 しかし今のみなみは、実のところゆたかをあまり心配していない。いい加減に扱っているということではもちろんなく、ゆたかの身体的/精神的な限界というものが少しずつ分かってきたからである。みなみの手から離れていくとまでは言わないが、最悪自分と同じクラスでなくても何とかなる――何とでもなるはずだった。
 なのにみなみは、来年も自分とゆたかが同じクラスでありたいと強く願った。ゴールデンウイークがコマ切れにされても文句ひとつ言う気がないほど欲の薄いみなみが、珍しく強い願望を抱えることになった。


 ゆたかと、離れたくない。

 ゆたかが自分を求めているのではなく、自分がゆたかを求めているのではないのか?
 みなみはポケットから携帯電話を取り出した。もう5時だ……桜藤祭準備などの特別な事情のない限り滅多に学校に残ることのないみなみにはあまり馴染みのない時間である。帰りにリチャード・クレイダーマンのピアノスコアを買って帰ろうかと思っていたが、この時間だと明日に繰り越すか、或いはテストが終わってからにしよう。

 みなみがゆたかを求めている……?自覚はなかったが、ひょっとしたら自分は彼女以上に、1人では――独りでは生きて行けないのだろうか。
 以前の私は、誰に寄っかかって生きていたのだろう?孤独が似合う自分は誰にも肩を借りずに歩いていると思っていたが、実際はちゃんと一人前に自分ひとりの足で歩くことなど到底できていなかったのではないだろうか?

 高校に入るまでに出会った友人達の顔を思い出す。
 幼稚園の頃から幼なじみだった義理の姉。いつも自分よりも博学で優しくて、自分のことを本当の妹のように可愛がってくれた。大きくなってからは自分よりもずっと女性らしくなって、憧れは一層増すばかりだ。彼女の後を追って、みなみは長い通学時間にもかまわず、この陵桜学園に入学した。
 小学校で席が隣になって仲良くなった女の子。にぎやかな子で、引っ込み思案な自分に積極的に話しかけてきてくれた。彼女とは違う中学校に進学したから、今は音信不通だし年賀状のやりとりもしていない。
 中学校の頃まで習っていたピアノ教室で仲の良かった男の子。いつも演奏が荒すぎると注意されていた。よく彼の家まで遊びに行った。今思えば彼のことが好きだったのかもしれないが、恋だという自覚すらなかった“恋のようなもの”に対する未練など今のみなみには微塵もない。今頃彼は自分のことなど忘れて、新しい友人を見つけているのだろうか。
 思えば、いつも自分の近くには少なくとも1人、それなりに信頼の置ける友人がいた。一般的な“親友”よりは冷めた関係かもしれないが、みなみにとっては一番親しいと思える人たちだ。
 ならばゆたかも、みなみの人生において出会うそういった人たちのなかの1人に過ぎないのだろうか。いずれ別れの時が来て、そのまま疎遠になって、音信不通になってから時々思い出したりするような人になるのだろうか。

 ゆたかの寝顔は有り体に言えば天使のようだった。何の邪心も感じられない笑顔はゆたかの大きな魅力のひとつだが、寝顔もまた同じように清らかでかわいらしいことを、みなみは知っている。本来なら家族しか知らないようなことまで、みなみはゆたかのことをよく知っている。
 みなみはゆたかの柔らかそうな頬をつつこうとしたが、ゆたかの眠りが浅いことを思い出して手を止めた。そうしてまたみなみは、思索にふける。
 そういえばさっきの面談では志望校も聞かれたな、とみなみは思い出した。実のところ具体的な志望校はまだ決まっていないのだ。学部だけは、実学を修めてしっかり働きたいという思いから、経済学部に行こうと考えている。客観的に見れば、みなみは文系ならどんな学部でも行けるくらいの成績を取っているのだが。
 ゆたかは確か文学部に行きたいと言っていなかっただろうか。彼女には彼女の希望があるし、みなみはそれに口を挟むつもりなど一切ない。しかもみなみは自分の志望理由が理由だけに、あまり明確には自分の志望をゆたかに伝えていないのだ。
 面と向かって言ってしまえば、文学部を志すゆたかに対して失礼であるし、かと言って何も言わないままなのも悪いと思う。そのさじ加減も、無口なみなみにとっては意外と難しいものだった。
 ただひとつ分かっているのは、高校を卒業してしまえば、実家が離れていることもあり、恐らくもう今までのように毎日ゆたかと顔を合わせることは出来なくなってしまうだろうということだ。
 みなみはその未来を受け入れるための準備――ゆたかが常にそばにいなくても大丈夫な自分作りを始めなければならないと強く感じていた。自分がゆたかから独り立ちしなければならない日は、急速に、そしてに確実に近づいてきている。その時になって慌てて悲しみにくれていては、あまりに遅すぎるのだ。


 ゆたかは私のこんな悩みを知っているのだろうかと、みなみはまたゆたかの寝顔を覗き込む。顔と顔が触れ合いそうになって少し顔を引いた。

 いや、そういう考えを持つこと自体が、ゆたかに甘えている何よりもの証拠だとみなみは思う。本来は何事も言わなければ伝わらないし、自分の場合は言っても伝わらないことすらあるのが今までは普通のはずだった。
 しかし今は、ゆたかが自分の乏しい表情を読み取ってくれるのをいいことに、みなみは寡黙なみなみのままでいられる。表情だけで自分の意志が伝わる。
 もちろんそれは当たり前のことなどでは決してなく、ゆたかという優しくて寛大な親友がいてくれるからこそ可能なことなのだということを、みなみは忘れそうになってしまうのだ。

 ゆたかと離ればなれになったら、自分は1人の自立した人間としてちゃんとやっていけるだろうか?それとも、ゆたかのいない喪失感から自暴自棄になってしまうのだろうか?
 迷っているようではまだまだだ。みなみは自らを叱咤する。私は子離れできない親と同じで、ゆたかを守るという大義名分にすがっていたに違いない。ゆたかはとっくに私がいなくてもやっていけるようになっている。だからこそいつまでも親友として、対等な立場で在り続ければいいし、違う大学に進学することになっても、セメスター(学期)の間や週末の休みに会いに行けばいい。大事なのは、その時その時であるべき距離を取ることで、常にべったりとくっついて行動することではないのだ。
 それでも少しは寂しいし、ゆたかのことは心配だ。でもだからといって駄々をこねたりしないのが大人というものなのだろう、とみなみは思う。


 だから、子供でいられる今のうちは、精一杯ゆたかと同じ時間を過ごそう。何も今日明日に別れが迫っているわけではないし、高校生活の折り返し地点にさえ来ていない。
 やっぱり私は心配性だ。こんなことを考えるにはいささか時期が早過ぎたかもしれない。みなみは呆れたように小さな溜め息をついて、相変わらず何も知らないまま気持ち良さそうに眠るゆたかの額に小さくキスをした。が、すぐに恥ずかしくなって少し赤面した。

 ゆたかがそのまぶたをゆっくりと開いて目を覚ます。
「ん、みなみ、ちゃん?」
「ゆたか……起こした?」
「いや、ごめんね寝ちゃってて……今何時?え!?」
 ゆたかは教室の時計に目をやった瞬間、それまでの眠気が嘘のように脳に血液が回り始めるのが分かった。
「6時!?え、まさかみなみちゃん、ずっと私を……」
「気にしないで……」
「ごめんなさい、私思いっきり爆睡してたんだよね……帰るの遅くなっちゃって、大丈夫?」
「うん、ゆたかの寝顔かわいかったから……」
「……もうっ、みなみちゃん!」
 みなみの頬が少し赤いのに気付くと同時に、ゆたかもまた朱色に染まっていった。2人とも、今まで感じたことのない恥ずかしさに笑った。


 笑いが落ち着くと、みなみはいつもよりも少し大きな声で、帰ろ、とゆたかに告げる。ゆたかもいつもより活気のある声で、うん、と明るく返事をした。


 ああ、この1時間半ほどの間、自分のそばで眠っていたのは、私の愛そのものだったのだな。みなみを何よりも元気付けて、優しい気持ちにしてくれる極上の笑顔を目にして、みなみはそんなことを思う。
 五月雨は止んでいた。辺りは昼間より少し薄暗いけれど、明日の空は五月晴れだというように、西の空には雲ひとつない。


 五月雨も五月晴れも、なぜか同じ月の名前が付いている。だからそれらがたとえ対極にあるものであっても、生き死にや出会いと別れのように、きっと切り離して考えることは出来ないものなのだろう。人生も楽しいことばかりではない。
 でも、五月雨も五月晴れも、違った楽しみ方がある。雨だからといって悲観的になるのはもうやめよう、とみなみは思った。


 こんな寝顔が見られる雨の日だって、たまにはあるかもしれないのだから。
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