大学を卒業し、何とか無事に就職が出来てしばらく経った頃だった。
「出来ちゃったみたい…」
何やら深刻っぽい声色で、こなたがそう言ってきた。
「…何が?」
何のことかさっぱりなので、俺はそう返しておいた。
「そ、その…あの…あ…赤ちゃん…」
俺は返事をするのも忘れて、ぽかんと口を開けたまま固まった。
「…誰の?」
何とか絞り出した言葉は、我ながら実に間抜けな質問だった。
「もちろん、わたしとダーリンのだよ」
こなたが照れくさそうに答えた。
俺は混乱が収まらず、いつの種で出来たんだとか、どうでもいいことばかりが頭を回っていた。
「…産んでいいよね?」
「え?な、なにを?」
こなたの問いに、またしても間抜けな答えを返してしまう。
なにって決まってるだろうに、何を言ってるんだ俺は。
「赤ちゃん…産んでいいよね?」
それでもこなたは、辛抱強く聞いてきた。
俺は平静さを戻すために、自分の頬を二度ほど叩いた。
「…産んで悪い理由が無いだろ?」
ある程度正気に戻った俺は、そうこなたに言った。
「だよね…えへへ、良かった。産むなって言われたらどうしようかと思ったよ」
「俺がそんなこと言うわけ無いだろ?」
俺は余程の理不尽で無い限り、こなたの言う事は聞いてやろうと決めていた。
多少大変なことでも、俺が支えてやればいい。
「俺たちの子供か…嬉しいな」
それに、冷静になって考えれば、それは俺にとっても喜ばしいことだ。
「うん、嬉しいよ…とても、ね…」
こなたが、自分のお腹を撫でながら目を細めた。
高校を卒業する頃には、とても想像できなかった幸せな時間。
「…あんたら…わたしの前でこういうシーン展開するのはわざとか?嫌味なのか?…」
その中でかがみさんがふてくされていた。
- 命の輪に喜びを -
こなたの妊娠が分かってから、数ヶ月が過ぎた。
この事は、彼女の友人達にもそれなりに大きな出来事だったらしく、知れ渡ってからはみんなが家に顔を出すことが多くなった。
「こなちゃんのお腹、ホントに大きくなってきてるよ…」
「知識として知ってはいても、実際に見ると不思議な感じがしますね…」
今日は、つかささんとみゆきさんの二人が、こなたの様子を見に来ていた。
「名前は決めたの?」
つかささんが、こなたにそう聞いた。
「いや、まだなんだよ…そうだね、そろそろ決めないとねー」
こなたが答えながら、俺の方をチラッと見てきた。
「そうだな。やっぱ、こなたの名前からなんか考えたいな」
俺がそう言うと、何かツボッたらしくこなたの顔が見る見る赤くなっていった。
「わ、わたしの名前から?」
「うん、こなたみたいに可愛らしい子に育って欲しいからな」
俺に似るとかゾッとしないしな。
「そ、そんな…まだ女の子とか分からないのに…」
そういやそうだ。
「女の子に決まってるさ」
言い切ってみた。何の根拠も無いが。
「…う…あ…わ、わたし、お茶のおかわり淹れてくる!」
急に立ち上がって、居間を出て行くこなた。許容量を超えたのだろうが、お腹に赤ん坊がいるため、今まで見たいに転げまわることが出来ないのだろう。
「わたし、手伝ってくるね」
つかささんがそう言って、こなたの後を追いかけた。こなたの身体を気遣ってくれてるのだろう。
俺はカップに残っていた紅茶を飲み干し、ため息を一つ吐いた。
「…今のご気分はどうですか?」
唐突にみゆきさんがそう聞いて来た。
「不思議な気分だよ」
俺は正直な気持ちを答えていた。
「実感が湧かないって言うか…いや、こなたと出会ってからそんなことばかりなんだけど…なんつーか、ね」
自分でも曖昧な返事だと思う。しかし、今の気分はかなり言葉にしづらい。
なんとか的確な言葉を探そうと四苦八苦してる俺を見て、みゆきさんはクスクス笑っていた。
「な、なんだよ…」
「ふふ、すいません…なんだか、幸せそうですね。少し、羨ましいです」
「そう…かな」
そう見えるのなら、そうなのだろう。
本当に、こなたと合えたことを嬉しく思う。俺は今まで信じたことも無い神様というものを、少しばかり信じていいような気さえしていた。
「…こなちゃん?…こなちゃん!」
その時、キッチンの方から只事じゃなさそうなつかささんの声が聞こえた。
俺は居間を飛び出し、キッチンに飛び込んだ。
目に入ったのは、床に倒れているこなたと、抱き起こそうとしているつかささん。
「こなた!どうした!?…つかささん、なにが!?」
俺はそう聞きながら、つかささんにぐったりと身体を預けているこなたの傍に座り込んで、その手を握った。
「わ、わからないよ…こなちゃん、急に倒れて…」
つかささんが泣きそうな顔で、俺に答えた。
「…大丈夫…大丈夫だから…」
こなたの呟きが聞こえる。顔色も真っ青で、どう見たって大丈夫じゃない。
「救急車を呼びました…泉さん、少しご辛抱を」
いつの間にかキッチンに来ていたみゆきさんがそう言った。
「すいません、独断で…」
そして、俺に向かってそう謝る。
「いや、助かるよ。ありがとう」
正直、そこまで頭が回っていなかった。
「…大丈夫…大丈夫…」
まるで、自分に言い聞かせるかのようにこなたが呟き続けている。
救急車が来るまでの間、俺はこなたの手をずっと握り締めていた。
「…このまま出産を迎えれば、非常に危険であると言わざるをえません」
医者のその一言は、俺を打ちのめすのに十分だった。
「危険って、どういう…」
分かってはいるのに、聞かずにはいられなかった。
「赤ん坊の方は問題は無いでしょう…しかし、母体の方は最悪の事態もありうると…」
俺は、それ以上は何も言えなかった。
「奥さんから聞いておられなかったのですね」
「え?」
「妊娠が分かった際に、奥さんには出産は危険であることは伝えておいたのですが…」
俺は、後ろに立っているそうじろう養父さんの方を見る。養父さんは黙って首を横に振った。
「…なんで誰にも話さなかったんだよ…」
静かになった部屋に、俺の呟きだけが響いた。
「ごめんね」
病室にいたこなたが、最初に言ったのは謝罪の言葉だった。
「それは、何に対してのごめんねだ?」
俺がそう聞くと、こなたは困ったように眉根を寄せた。
「色々だよ…黙ってたこととか、色々…怒ってる?」
こなたが、俺の顔を覗き込みながらそう聞いてきた。
「正直、怒鳴りつけたい…なんで、誰にも言わなかったんだ?」
「反対されると思ったから…それだけだよ」
これまでの中でも、最大の我儘だと思った。俺はどう答えていいか分からなくなり、こなたの大きくなったお腹をただ見つめていた。
「…ごめんね…ほんとに…」
黙っている俺に、こなたが優しい声で謝ってきた。
「…何か、俺に出来ることはあるか?」
そのこなたに、俺はそう聞いていた。こなたのこのとんでもない我儘でさえ、俺は許そうとしている。つくづく甘い夫だ。
「そうだね…じゃあさ、普通でいてよ」
「…え?」
「わたしが良いって言うまでさ、いつも通りに、普通にしててよ」
「それは、俺にしか出来ないことか?」
「多分、ダーリンにしか出来ないよ」
こなたが確信を持ったように言い切った。どこからそんな自信が来るのかわからない。
俺は、正直自信が無かった。今のこなたを前に、普通でなんていられるだろうか。
でも、それがこなたの望みなら、こなたの支えになるのなら、俺に選択の余地はないだろう。
「分かった…約束するよ」
本当なら、大変だけれども心踊るような日々だったに違いない。実際、出産が危険だと分かるまではそうだったんだ。
今は、大変なだけだ。辛いと言ってもいい。
追い討ちをかけるように、俺の仕事が忙しくなり、こなたの見舞いに行くことが困難になってきた。
こなたは気にしていないと…むしろ仕事の方を優先して欲しいと言ってくれてはいるが、こなたのことが気になり仕事に身が入らない。ミスも多くなり、仕事がますます増えていく。
悪循環だ。
こなたの病室に顔を出せた時も、傍目に普通に出来てるかわからない。
俺は、こなたとの約束を守れるのだろうか。
悪い感情ばかりが増えていく。
本当に、最悪だ。
その日、仕事から帰った俺は、洗面所で今日の昼飯を戻していた。
ここ数日は何を食べても戻すことが多い。ストレスが溜まりきってるのだろうか。
こなたの容態があまり良くなく、養父さんが病院に詰めて、家を空けがちなのは幸いだった。
こなたを託されておいてこんな様だ。正直、見られたくない。
「…あの、大丈夫ですか?」
「…え?」
誰もいないはずなのに声をかけられた。俺は驚いてそっちの方を見た。
「どうしてここに?」
そこにいたのは、高校を卒業した後、実家に戻っていたはずのゆたかちゃんだった。
「ごめんなさい。勝手に入っちゃって…インターホン鳴らしても反応が無かったから、心配になって…戻してたみたいだけど、大丈夫ですか?」
「ちょっと、仕事がきつかっただけだよ。心配ない」
正直、大丈夫じゃないけど、俺は無理矢理笑顔を作って見せた。
普通に見せないと。そう思って。
「いや、しっかし酷い有様だねー」
居間の方からまた違う声が聞こえた。あの声は、成美さんか。
「叔父さんもあんまり家にいてないんでしょ?疲れてるのは分かるけど、片づけくらいはちゃんとしたほうがいいよー」
居間に入ると、成美さんに説教じみたことを言われた。確かに家のあちこちが散らかっている。
「…しょうがないですよ。俺は整理とか苦手なんです」
それでよくこなたに怒られていた。その事を思い出すと胸が痛み、思わず顔をしかめた。
「まーそうだろうねー。こなたからそう言う事聞いてたし。だからね…ほら、ゆたか」
成美さんが、ゆたかちゃんの背中をポンと叩いた。
「え、えと…こなたお姉ちゃんが退院するまで、わたしが住み込みで家事をしますね」
ゆたかちゃんがそう言った。
「それは…大変じゃないのか?」
ゆたかちゃんだって、暇じゃないはずだ。
「そうかしれません…でも、些細なことです」
「いや、でも…」
「何を心配してるか知らないけど。こういう好意は素直にうけとりなよ」
成美さんが、今度は俺の背中を軽く叩いた。
「こなたを支えなきゃいけないんでしょ?…だったら、そのキミをわたし達が支える。そう言う事だよ」
いつもと変わらない調子で、成美さんはそう言った。
「…どうして?」
その成美さんに、俺はそう聞いていた。本当にどうしてか分からなかった。
「家族だもの。当たり前じゃん」
俺は、胸の奥がキュッと締まるような感覚を覚えた。
当たり前。この人たちは、当たり前の事を当たり前のようにしてるだけ。家族だからという、その一事だけで。
俺は、こなたのことばかり考えていて、全く周りが見えていなかった。
頑張ろう。そう、強く思った。
支えてくれる人がいるなら、俺はこなたを支えていける。悪循環が、断ち切れるような気がした。
「ありがとう…ゆい姉さん。ゆーちゃん」
俺は、無意識に二人をそう呼んでいた。
「おや、やーっとそう呼んでくれたねー」
ゆい姉さんが嬉しそうに頷く。その様子を見ていたゆーちゃんが、クスクスと笑ってるのが見えた。
「まあ、がんばんなよ、ゆたかも旦那さんも。わたしも暇出来たらこっちに顔出すから」
「…お姉ちゃん。来るのはいいけどあまり散らかさないでね?」
ゆーちゃんが困ったようにそう言った。
「う、何てこと言うかねこの子は…まるでわたしが何時も散らかしっぱなしみたいな…」
その姉妹の会話を、俺は笑って聞いていた。久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
もし彼女達が支えを必要とした時は、今度は俺がしっかりと支えてあげよう。
一人の家族として。
俺が病室に入ると、こなたは上体を起こして本を読んでいた。
「調子良さそうだな」
俺がそう聞くと、こなたは頷いて見せてくれた。
「ダーリンも、調子良さそうだね…最初の頃はちょっと心配だったけど」
ベッドの隣にある椅子に座った俺に、こなたがそう言ってきた。
「俺の心配なんかしてないで、自分の心配しろよ」
そう言えるくらい、俺の調子は良くなっていた。それに釣られるように、こなたの調子も良くなっていく。
いい傾向だ。こなたが俺に求めてたのは、こういう事だったんじゃないかとすら、思えてきた。
ふと気がつくと、こなたは読んでいた本を置いて、俺の顔をじっと見ていた。
「な、なんだ?」
「ねえ、ダーリンはさ、かがみの事は好き?」
こなたらしい、なんの脈絡も無い質問だ。
「それは、どういう意味での『好き』なんだ?」
その辺りはハッキリしておかないとな。
「そりゃもちろん、異性としてだよ」
「…浮気オーケーと受け取っていいのか、それは?」
「いや、そうじゃないけど…あー、いやそうなのかな…うー」
今度は、いきなり悩み始めた。
俺は、いつもの調子の会話に少し嬉しくなっていた。
「ま、まあ、そこは置いといて、どうなの?」
こなたが重ねて聞いてくる。こうやってしつこく聞いてくるときは、何らかの意図があってのことだ。それが、いい事か悪いことかは置いといて。
「まあ、魅力的ではあるな…」
変な勘ぐりされても困るので、少し控え目な表現をしておいた。
控え目に言わなければ、かがみさんはかなり魅力的だと思う。怒ると怖いけど。
「ふーん…まあ、好意はある、と」
なんだか、拡大解釈されてるような気がする。
「んじゃさ、一つだけお願いしていい?」
「ん、なんだ?」
こなたがお願いって表現を使うのは、珍しい気がする。
「わたしにもしものことがあったらさ、かがみと再婚して欲しいんだ」
俺は、頭の奥が一気に冷えていくのを感じた。
「…ふざけてるのか?」
冷えた感覚そのままに声を出す。
「ふ、ふざけてるわけじゃないよ…」
思ったより冷たい声が出たのだろう。こなたが少し怯えているのがわかった。
「冗談じゃないなら、なおさら止めてくれ。そんなもしもの話なんて…」
最悪の事態なんて、考えたくもない。
「…絶対なんて無いんだよ…そうなる確率は無くならないんだよ…」
「こなた…」
「だから、そうなった時のために、なんかしておきたいんだ…この子には、母親ってのを感じさせてあげたいなって」
理解はできる。でも、納得は出来ない。
「…なんで、かがみさんなんだ?」
俺は答えが出せずに、話を逸らした。
こなたと付き合い始めた時から気にはなっていた。こなたはどうしてか、友達の中でもかがみさんには特別な思い入れというか、こだわりのようなものを持っている気がしていた。
「あー…それは、その…んー…まあ、いいか。こんな事話す機会なんてもうないだろうしね…」
こなたは、何故か頬を赤らめて頭をかいた。
「えっとね、驚かないで聞いてね…かがみと知り合ったのは高校の時なんだけど…その…その時にね、わたしはかがみの事好きだったんだ…えと…せ、性的な意味で」
「…同性愛…か?」
それは、驚くなと言うほうが無茶だ。
「うん、まあそんな感じ…あ、でもね、わたしが完全に同性愛者だってことじゃないと思うんだ。現にこうやってあなたと結婚して、子供も作ってるし、女の子にそう言う気持ち持ったの、かがみだけだったし…」
なんと言うか、微妙な気分だ。
「…浮気を見つけたときって、こんな気分なんかな」
俺がそう言うと、こなたはわたわたと手を動かして、言い訳を始めた。
「ああああ、違うよ。浮気とかじゃないよ。昔のことだよ。今はそんな気持ち薄れてるし、かがみはそんな気持ち全然無かっただろうし…」
もし、かがみさんがそんな気持ちを持ってたら、壮絶な三角関係になってたかもな…。
「だからその…かがみなら、いいかなって…わたしの全部、託してもいいかなって思って…」
最後の方は、呟くような声になっていた。
高校の時に好きだったという気持ち。こなたは今でも、その気持ちを持っているんじゃないだろうか。だからこそ、ここまでかがみさんを信頼することが出来るんじゃないだろうか。そう思うと、少しばかり嫉妬のような想いが湧き上がってきた。
「…飲み物でも、買ってくるよ」
「え?…あ、うん…」
その気持ちをこなたに悟られるのが嫌で、俺は適当な理由で部屋を出ることにした。
廊下に出ようとすると、ドアの前にいたかがみさんにぶつかりそうになった。
「あれ?かがみさん、今日は早いんだね」
いつもは、もう少し遅い時間に来るはずだ。
かがみさんからの返事は無い。思いつめたような表情が、少し気になった。
「こなた、今日は身体の調子が良いみたいなんだ。俺は少し買出ししてくるから」
俺はそう言って、廊下を歩き出した。
「…なんであんなに普通なのよ…」
後ろからかがみさんの呟きが聞こえた。
自販機で俺とこなた、それにかがみさんの分のお茶を買って、病室へ引き返す。
その途中で俺は、かがみさんのことを思っていた。
彼女はこなたが入院してから、ほぼ毎日見舞いに来ている。自分も仕事があるというのに、無理に時間を割いて顔を出していた。
かなり無理をしているらしく、日に日に弱っているように見えて、こなたも大分心配をしていた。
ふと俺は、どうしてかがみさんはそこまでしてこなたの見舞いに来るのだろうと、疑問に思った。
こなたへの思い入れと言うか、こだわりが少し普通じゃないような気がした。
さっきのこなたの話を思い出す。高校時代に、かがみさんのことが好きだったという話を。
「…まさかな」
俺は声に出して呟いて、足を速めた。
「ふざけないでよ!あんた何言ってるか分かってるの!?」
病室の前まで来たところで、中からかがみさんの怒鳴り声が聞こえた。俺は、持っていたお茶の缶をその場に放り出して、病室に飛び込んだ。
「そんなこと出来るわけ無いじゃない!あんた、わたしをからかってるの!?」
中では、かがみさんがこなたの胸倉を掴んで怒鳴りつけていた。
「お、落ち着いてよかがみ…そんな大きな声出したら、隣の部屋の人とかに迷惑だよ」
「あんたが変な事言うからでしょうが!」
俺はこなたとかがみさんの間に身体をねじ入れ、二人を引き離した。
「かがみさん、ホントに少し落ち着こう。それで、良かったらわけを聞かせてくれないか?」
「わけも何も、こいつが…」
かがみさんは、そこで言葉を切った。視線はこなたの方を見ている。俺もこなたの方に視線を向けた。
「………」
こなたが顔色を真っ青にして、ベッドの上でうずくまっていた。
「…な、なに?…どうしたの、こなた?」
「…い、いたい…」
かがみさんの問いに、こなたがかろうじてそれだけ答える。俺はベッドの横にあるナースコールのボタンを押して、こなたの傍にいき、その身体を抱きしめた。
「…こなた、大丈夫か?」
「…大丈夫…大丈夫…だよ…」
こなたの耳に囁きかけるように俺が聞くと、ほとんど聞き取れない声で答えが返ってきた。これは、かなり不味いかもしれない。
「陣痛だよ。始まったのかもしれない」
何が起こっているのか分かっていないのか、その場に突っ立ったままのかがみさんに、俺はそう言った。
「な、何が…?」
かがみさんがそう聞いて来たところで、何人かの看護士が部屋に入ってきた。苦しむこなたを担架に乗せて運び出す。俺はそれについて部屋を出た。
結果を簡単に言うと、こなたも赤ん坊も無事だった。その事が分かったときには、心の底からほっとした。
「あれ?こなた達は?」
病室に入ってくるなり、かがみさんが挨拶もなしにそう言った。
「母娘揃って検査だよ」
俺は読みかけの本をベッドの上に置いて、かがみさんに椅子を譲るために立ち上がろうとした。その俺を手で制して、かがみさんはベッドの上に腰掛けた。
「今日はあんまり時間無いから、こっちで良いわ。こなたの顔見たら帰るつもりだったし」
「そっか…」
しばらく会話が途切れる。こなたを間に挟まないと、意外と喋れる事が無いんだな。
「…あの時は、ごめんね」
唐突に、かがみさんがそう言った。
「何が?」
「子供が生まれた時の…こなたに怒鳴ったの。あんたも嫌な気分だっただろうし…」
「ああ、あの時の…」
どうして怒鳴ってたかは見当がつく。こなたはかがみさんに、『もしものとき』のことを話したのだろう。
「あの後、かなり自己嫌悪したわ…あれが原因でって事になったら、落ち込むくらいじゃすまなかっただろうけど」
「まあ、大丈夫だったから問題ないよ」
俺がそう言うと、かがみさんは呆れた表情をした後、盛大にため息を吐いた。
「なんだか深刻なわたしが馬鹿みたいね…」
いや、多分深刻じゃないほうが問題だと思うけど。
「…唐突だし脈絡もないし、かなりアレなんだけどさ…変な事言っていい?」
「そう言う事は、こなたでだいぶ慣れたよ」
「そう…あのね、高校の時にわたしがこなたの事好きだったって言ったら、驚くかな」
それは驚く。多分、かがみさんが考えてるのとは少々違う意味で。
「…どういう意味での好きなのかな?」
念のために、聞いてみた。
「どうって…えーっと…ラブ的な意味、かな?」
なんと言うか…俺は驚きを通り越して、呆れた気分になっていた。
「…そういうのもあったから、あの時こなたに本気で怒っちゃったのかもね…あー…やっぱ変よね。こういうの」
「いや、そうでもないんじゃないかな…こなたも同じ事言ってたし」
思わず言ってしまった俺の言葉に、かがみさんが目を丸くする。
「こなたが?…えっとそれってもしかして、こなたが高校の時にわたしをって事?」
俺は頷いた。
「…なんだ、そうだったんだ。相思相愛だったんだ…勿体ないことしちゃったかな?もし、告白とかしてたら上手くいってたかも」
「それは困るな」
「どうして?」
「俺がこなたと出会えなくなる」
俺の言葉に、かがみさんがクスッと笑った。
「そうね、それは困るわね…じゃ、お邪魔な私は帰るとするわ」
かがみさんがベッドから立ち上がり、ドアの方へと向かう。
「こなたに会っていかなくて良いのかい?」
俺がどの背中に向かってそう言うと、かがみさんは振り向きもせずにひらひらと手を振った。
「今日はいいわ。じゃね」
そう言って、ドアから出て行くかがみさん。
「あれ、かがみ?帰るの?」
その直後に、ドアの向こうからこなたの声が聞こえた。丁度戻ってきたところらしい。
「あ、うん。今日は時間内から。またね、こなた」
ドアを開けてこなたが入ってきた。
「かがみ、機嫌よさそうだったけど何かあったの?」
こなたはそう言いながら、ベッドに腰掛けた。
「ん、ああ、ちょっとな…お前だけか?」
赤ん坊も一緒に検査に行ったはずなのに、戻ってきたのはこなただけだった。
「うん。あの子の方は、もうちょっと時間かかるって」
「そうか」
しばらく、沈黙が続く。
「…もう、良いんだよ」
唐突にこなたがそう言った。
「何がだ?」
本当に何のことか分からず、俺はそう聞いていた。
「ほら、言ったじゃない『わたしが良いって言うまで、普通でいて』って」
「ああ、そう言えばそうだっけ」
正直、忘れてた。
「だからさ、もう良いんだよ…色々溜め込まなくてもさ」
あの時の俺なら、その言葉に甘えていたかもしれない。でも、今はもうそんな事は何一つ無い。
俺からのリアクションが全く無いからか、こなたがムッとしていた。
「なんだよー。ここは溜め込んだものを吐き出したりとか、泣き出したりとかするところじゃないのー?」
実に不満そうだった。
「普通なら、そうかもな」
「普通にしなくていいから、ノーリアクション?…なにが普通なのか分からなくなってきた…」
俺もだ。
「お前は、どうなんだ?」
「ふえ?」
こなたは振られたことが予想外だったのか、キョトンとした表情でこっちを見た。
「こなただって、色々溜め込んでたんじゃないか?」
本当にそうなのかは知らない。こなたは達観したところがあるから、そう言う心配は無いかもしれないけど、溜め込んでるものがあるなら、吐き出させてやりたかった。
「…怖かったよ…すごく怖かった…」
こなたは俯いて、それだけを呟いた。
「…そうか」
俺はこなたの横に座って、その身体を抱き寄せた。
こなたがほんの少しだけ見せた弱さ。俺はその意味を大切にしたいと思い、こなたを抱く手に力を込めた。二人の顔が自然と近づいていく。
「こなちゃーん!お見舞いに来たよ!調子どう!?」
その瞬間、時間が止まった。俺達は唇を合わせたままの格好で。つかささんはドアを開けたままの格好で。
「…つ、つかささん…だからノックはしたほうが良いと…」
つかささんの後ろから、みゆきさんがそう言いながら顔を覗かせていた。
「え、えっと…わたし達のことは気にしないで続きを…」
「つかさ…怒ってないから、ちょっと表でようか?」
「えええ!?」
「やめい、やめい」
つかささんの手を掴んで、病室から連れ出そうとするこなたの手を、俺が掴んで止める。
「折角、いいシーンだったのにー」
こなたは、ベッドに上がって不貞寝してしまった。
なんとも締まらないが、それくらいが丁度良いような気がした。
モノクロだった世界は、いつしか憧れていた色に満ちていた。
そのきっかけをくれた一つの出会い。
そこから、幾重にも繋がり続ける命の輪。
その中にいる喜びを、何よりも大事にしていきたい。
誰よりも大事な人と、分かち合いたい。
ゆるゆると、曖昧な答えで、俺たちらしく。
- 終わり -
最終更新:2009年05月10日 21:26