やる気がしないというか気乗りしない嫌な仕事というのはある。
しかし、仕事を選り好みしていては事務所の経営が成り立たないのも事実。
これは、そんな仕事の話。
かがみがパソコンに向かって、とある訴訟案件の弁護主張の草稿を練ってたところに、来客があった。
「ハーイ、かがみ。お久しぶりデス」
「パトリシアさん」
パティは既に帰化しているので、ちゃんとした日本名もあるのだが、本人自身それを名乗ることがほとんどないため、旧名で呼ばれるのが常であった。
「今日は、弁護の依頼に来マシタ」
とりあえず、個室に案内した。
話を聞く。
案件は、パティが勤めているアニメ製作会社における労使紛争だった。
どこにでもありがちな話。サービス残業、つまりは残業代未払いだ。それに加えて、名ばかり管理職問題もあるようだった。
パティは、率先して職場の仲間を取りまとめて経営者側を訴えるべく準備中だという。
「ちょっと待って、パトリシアさん」
かがみは、パティの話をさえぎった。
かがみは、問題のアニメ製作会社の顧問弁護士である。
よって、パティの依頼を受けることには問題があった。
民法
(自己契約及び双方代理)
第百八条 同一の法律行為については、相手方の代理人となり、又は当事者双方の代理人となることはできない。ただし、債務の履行及び本人があらかじめ許諾した行為については、この限りでない。
弁護士法
(職務を行い得ない事件)
第二十五条 弁護士は、次に掲げる事件については、その職務を行つてはならない。ただし、第三号及び第九号に掲げる事件については、受任している事件の依頼者が同意した場合は、この限りでない。
(中略)
三 受任している事件の相手方からの依頼による他の事件
(以下略)
民法108条は、厳密な法律行為だけでなく広く類推適用されるのが判例であるし、弁護士法25条についても、厳密には抵触しないとしてもその趣旨に反するような行為は弁護士の職業倫理上問題がある。
よって、顧問弁護士をしている企業の労使紛争の労働者側から、当該労使紛争に関する依頼を受けることは、問題ありまくりだ。顧問弁護士は、経営者側の顧問という立場になるから。
また、顧問弁護士をしている以上、当該労使紛争につき、経営者側から依頼が来るのは時間の問題である。
パティの依頼を受諾したあとで、会社の経営者からの依頼も受諾すれば、これはもうどこからどう見ても言い訳しようのない弁護士法25条違反。バレれば、弁護士会から懲戒処分を受けるのは確実である。
「というわけで、パトリシアさんの依頼は受けられないわ。ごめんね」
「残念デスネ。分かりマシタ。別の弁護士さんにあたってミマス」
パティはあっさり納得して去っていった。
この割り切りのよさは、やはりアメリカ人なんだろうと思う。
それからほどなくして、問題のアニメ製作会社の社長さんから電話がかかってきた。
「……分かりました。今日の午後でしたら時間は空いておりますのでいつでもお越しください」
午後に社長さんがやってきた。
個室に案内して、依頼内容を聞く。
案件は、予想通り、パティたちとの間の労使紛争についてだった。
「いやはや、こんなことになるとは思ってもいませんでして」
残念ながら、業界によっては、労務管理の認識が甘い経営者は多いのは事実だった。
「で、実際にはどうなのですか? 一般従業員のサービス残業の実態はあるのでしょうか? 弁護士には守秘義務がありますので外部にもらすようなことはいたしません。正直にお話しください」
「まあ、あるというのが正直なところですが、でも、こんなのはどこの会社だって……」
「赤信号はみんなで渡っても違法です」
かがみがそういうと、社長は黙り込むしかなかった。
「もちろん、私も社長さんの弁護はいたしますが、この点については、労務管理の不徹底で把握しきれなかっただけで悪意があったわけではないというのが、せいぜいのところです」
「……」
「こんな私が顧問弁護士にふさわしくないというのであれば、解任していただいてもかまいませんが」
「いえいえ、とんでもありません」
社長はあわてて、かがみの言葉を否定した。
アニメ業界の人間にとって、アニメの原作小説・原作マンガについて実質的な力を握っている出版社を相手に堂々と論陣を張れる柊弁護士の存在は、宝石のごとく貴重なものである。彼女が顧問弁護士についているという事実自体が、重要な意味を持つのだ。
「一般従業員の未払い残業代については、時効にかかってない過去二年間分は払うしかないでしょう」
労働基準法
(時効)
第百十五条 この法律の規定による賃金(退職手当を除く。)、災害補償その他の請求権は二年間、この法律の規定による退職手当の請求権は五年間行わない場合においては、時効によつて消滅する。
「名ばかり管理職問題については、交渉はしてみます。相手側が労働法専門の弁護士をつけてきたら、正直きつい交渉にはなるでしょうけど」
「よろしくお願いします」
労働基準法
(労働時間等に関する規定の適用除外)
第四十一条 この章、第六章及び第六章の二で定める労働時間、休憩及び休日に関する規定は、次の各号の一に該当する労働者については適用しない。
(中略)
二 事業の種類にかかわらず監督若しくは管理の地位にある者又は機密の事務を取り扱う者
(以下略)
いわゆる名ばかり管理職問題とは、この「監督若しくは管理の地位にある者」の解釈に関わる問題である。
そして、「監督若しくは管理の地位にある者」に該当するか否かは、結局のところ個別の具体的な事案に応じて判断するしかない。
昨今は、裁判所も、このあたりの解釈は厳しくなっており、安易に「監督若しくは管理の地位にある者」とは認めない傾向がある。
正直にいえば、交渉がまとまらずに裁判になった場合に勝てる自信はかがみにはなかった。
とりあえず、社長から、会社が管理職として扱っている者の勤務実態などの詳細を聞き取った。
かがみは、最後に、パティからの依頼を断ったことについても正直に告げた。
「そうでしたか。ありがとうございます。柊先生には何といってお礼を申し上げたらよいのか」
「いえいえ、顧問弁護士として当然のことをしたまでです」
社長が帰っていったあと、かがみは、名ばかり管理職問題の判例や論文を徹底的に調べて勉強した。
数日後、会社の会議室で、双方の代表と弁護士をまじえての交渉となった。
労働者側は、パティと弁護士。経営者側は、社長とかがみだった。
相手の弁護士は、労働法を専門としている。当然、手ごわい相手だった。
そして、パティたちは労働組合を結成したそうだ。この件が無事に収まったあとも、経営者側と対等の立場を堅持するという意思表示なのだろう。
「まず、過去の未払い賃金全額の支払いを請求します」
相手の弁護士はそう口火を切った。
予想通りの先制パンチだったので、かがみも即答する。
「過去二年分についてはお支払いいたしましょう。それより前のものについては、時効により請求権は消滅してます」
「随分と誠意のない回答ですね。時効にかかってようとかかってまいと、未払い賃金であることはなんら変わりはありません。すべて払うのが筋というものでしょう」
消滅時効は、自動的に適用になるものではなく、当事者が適用の意思を示す(援用という)ことによって初めて適用になる。よって、消滅時効の要件に当てはまるものでも、払うことには問題はない。
かがみも個人的には同感であったし、タダ働きさせられた人がかわいそうだという気持ちもあったが、今の立場は社長の弁護士だ。私情は捨てて、法に反しない範囲内で、社長の意思の実現に努めなければならない。
だから、こう反論する。
「過去にさかのぼればさかのぼるほど、資料も少なくなりますし関係者の記憶もあいまいになって立証が難しくなります。そうなれば、立証できた人とできなかった人との間で差が生じてしまいます。そのような不公平は望ましくはないでしょう。過去二年分ならば、資料もそろってますし、関係者の記憶も鮮明です」
はっきりいって屁理屈だが、弁護士は理屈をこねるのが仕事だ。
「労働者の労働状況の把握は経営者の責任です。残業の事実がなかったというのであれば、それを立証する責任は経営者側にあります。それが立証できないのであれば、労働者が主張する残業の事実を認めて賃金を支払うべきです」
相手はあくまで正論で押してきた。
かがみは、ちらっと社長を見てから、
「その点については、検討させてください」
どのみち一回だけの交渉でまとまるわけもないのだから、再検討は必要である。
「いいでしょう。前向きな検討をお願いします。それはともかくとして、とりあえず、過去二年分の関係資料はすべて提出していただけると理解してよろしいですか?」
「はい。それについては了承いたします」
次に、名ばかり管理職問題に関する交渉に入った。
ここでは、かがみは終始押され気味であった。相手はさすがに労働法専門の弁護士だけあって、生半可な論理では対抗できない。
一回目の交渉は、数時間費やして、とりあえず終了。
その後で、社長と今後の交渉方針について詰める。
名ばかり管理職問題については、相手の主張をほぼ飲むしかないだろうということになった。過去の判例に照らしても、裁判になったらまず勝ち目はなさそうだったから。
従来、製作部門の部長と各アニメの総監督、事務部門の部長と各課長を管理職として扱っていたが、総監督については管理職から外すことになる。
総監督とはいっても、この会社における勤務実態は製作現場をかけずりまわる実務担当であり、「監督若しくは管理の地位にある者」はそのうえの部長とみるべきだった。
未払い残業代については、過去二年分のみ支払い、それより前の分は時効で消滅という主張で押し切ることになった。
過去の未払い残業代をすべて支払うと経営に響くという現実的な問題があるからだ。過去二年分だけなら、会社の内部留保を取り崩すことで何とかなる。
その後、日をおいて、数回の交渉があり、最終的には、次のような条件で和解することになった。
1.会社は、総監督を管理職とは扱わない。
2.会社は、労働者(当然、総監督を含む)の過去二年分の未払い残業代を支払うものとする。
3.労働者は、上記の支払いを受けたあとは、過去二年分より前の未払い残業代については一切請求しないものとする。
4.会社は、今後、労働者の労働状況を正確に把握する体制を確立し、労働時間管理を確実に行い、不払い残業をなくするものとする。
和解契約の調印を終えて、
「ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそたいしたこともできずにすみませんでした」
社長に頭を下げられたかがみは、そう応じた。
実際、たいしたことができたわけではない。
過去二年分よりも前の未払い残業代については消滅時効で切ることができたが、相手側もそれぐらいは織り込み済みだっただろう。和解の内容は、相手側の主張をほぼ丸呑みしたに等しい。
社長と報酬について打ち合わせたあと、かがみは会社を去ろうとした。
そのとき、
「かがみ。挨拶もなしとはつれないデスネ」
振り向くとそこには、パティがいた。
「今回は、私はパトリシアさんたちの敵方だったわけだし……」
「もう仕事は終わったんデスから、プライベートモードにスイッチを切り替えマショウ」
「いや、人間にそんなスイッチな……」
言い終わる前にパティは、ずるずるとかがみを引きずっていった。
「ちょ、ちょっと、パトリシアさん」
引きずられてきた先は、パティたちの仕事場だった。
「柊先輩、お久しぶりっス」
ひよりが、持っていたタブレットのタッチペンを置いて、挨拶してきた。
「いや、その……久しぶりね……」
「そうやって後までずるずる引きずるのはよくないっスよ、先輩。先輩も仕事だったんスから、割り切っていきましょうっス」
「ひよりんのいうとおりデス」
「なんていうか、その……ありがとう」
「礼には及びませんっス。私たちも別に社長を憎んでるわけでもないっスからね。社長も悪い人じゃないけど、いろいろと抜けてるところがあるから、柊先輩みたいな人がついてると会社も助かるっスよ」
気乗りしない嫌な仕事だったが、そう言われると少しは気持ちも楽になっていった。
その後、パティやひよりと数十分ほど雑談をしてから、かがみは帰路についた。
終わり
最終更新:2009年04月03日 00:54