ID:oH6wpqQ0氏:カモメの飛んだ空

※みなみ母の名前が判明したので訂正しておきました。2009/10/28


一羽のカモメが空に向かって昇っている。
背中には一人の少女が乗っている。
空には暗い灰色の絨毯がある。
嵐が吹いている。
雨が降りしきっている。

雨が少女の髪を濡らす。
薄緑の髪が重みに垂れる。
少女の目は雲を見据え、そこに隠る国の母を偲ぶ。

雨がカモメの翼を濡らす。
純白の翼が重みに垂れる。
カモメの目は雲を見据え、そこに隠る日の光を望む。



……



三月三十日。昼下がり。
岩崎ほのかは、三歳の娘みなみを連れて向かいの邸宅へやってきた。
その庭にはたくさんの大きな桜の木。今が咲き盛りの時期だ。

そのうち一本の木の下に、高良ゆかりと五歳の娘みゆきが隣り合って座っている。
地面には綺麗な模様の描かれたシートが敷いてある。
岩崎家の母娘(おやこ)に気付くと、二人そろって立ち上がり、その母娘に向かって手を振る。
ほのかが手を振り返し、その木の下に向かってゆっくりと歩き出す。
この日は高良家で花見が企画されていたのだ。

天気は快晴。
だが天気予報によると、夜には嵐になるという。

母娘二組が桜の木の下に座り込む。
ゆかりとほのかが隣。
みゆきとみなみが隣。
娘らは都合三度目の対面だ。

弁当を済ませると、みなみはよたよたした足取りで庭を歩き回り始めた。
みゆきも続いて立ち上がろうとする。その時、ある物が目に留まった。

みなみが持ってきていた手提げ鞄。
弁当なら母から渡された物を食べていたから、食べ物が入っているわけはない。
それなら何が入っているというのだろう。

みなみは遠くを走り回っている。
母たちは会話に夢中。誰も見ていない。

みゆきはこっそり鞄に手を伸ばす。
鞄にはチャックもボタン留めもなく、いたって無防備だ。中の物を取り出すのは容易だった。
手に触れると、ふわりと柔らかい感触がした。

小さなカモメのぬいぐるみ。
丸っこくて純白の胴体と、その両脇に付いた平たい羽。
額にはチャームポイントと言うべき、円くてやや大きめの、黒い斑点がある。

多分、みなみちゃんが見せびらかすために持ってきたんだろう。
みゆきは掌に載せたその愛くるしいぬいぐるみを見て、漠然とそう思った。

不意に悪戯を思いついた。

みゆきはそろりと立ち上がり、シートから少し離れた桜の木へと向かい、その陰に隠れた。
木の根に目を下ろす。太く張った根と根の間に、丁度いい大きさの窪みがある。
手にはカモメ。
みゆきはうっすら微笑むと、ゆっくり屈み、その窪みに手を預けた。



その夜。高良家の電話が鳴り響く。
ゆかりが左手で受話器を持つ。

「もしもしー」
『もしもし、ゆかりさん……』

受話器の向こうは岩崎ほのか。声は不安な調子である。
ほのかの用件を注意深く聞き入れると、ゆかりは受話器を下ろした。
ゆかりはすぐさまみゆきの部屋へと向かう。

「みゆき、ちょっといいかしら」

ゆかりがみゆきに問いかける。
みゆきは閉じた窓から外を眺めていた。

「なんですか?」
「みなみちゃんがね、みぃこちゃんがいなくなったって。
 カモメのぬいぐるみさんね。
 今日の花見に持ってきたんだって。
 何か知らない?」

みゆきはうーん、と考える仕草をする。一時の間を置き、

「わかりません」

そう答えた。

「そっかあ、ごめんね」
「いえ」

ゆかりは優しく笑顔を撒きつつ部屋を出て行く。
その姿が見えなくなったところで、みゆきは俯くように床に目を落とした。

本当は知っている。あのぬいぐるみがどこにあるか。
そしてその犯人は誰か。

「はあ……」

思わずため息が出る。

再び外を眺めてみた。

予報どおりの大嵐。
木の枝をへし折らんほどの強風。
雨が家の壁を叩きつける、耳を貫くほどの音。

胸が不安と罪悪感に重くなる。
あのぬいぐるみは無事か。
みなみは今どうしているだろうか。

「……あしたかえしにいかなきゃ」

庭を眺めつつ、みゆきは一人ポツリと呟いた。



……



カモメは既に上空に達し、地面と平行な角度で空を滑る。
嵐は未だ勢いを保つ。
荒れ狂う猛風雨に、カモメの羽ばたく力が削がれていく。
少女は身を強張らせて耐える。

身震いするほどの寒気。
雨に混じって霰が飛び、カモメの疲弊した身体を襲う。
額の黒い斑点が鋭く切り裂かれた。



……



嵐の収まった翌日、みゆきは一人庭に出た。
まだ五歳のみゆきには一人での外出が許されていない。
母に見つからぬよう、仕事は速やかに済ませる必要がある。

庭を見渡すと、一面の花びらの上に悲しげに聳え立つ、幹を露にした桜の木々。
不安に顔を歪めつつ、件の木の陰に回り、根元の窪みを覗き込んだ。

無い。

「とんでったのかな……」

今度は木の周辺を歩き回り、周囲を見回す。やはり無い。

「……どうしよう」

庭中を探し回ってみようか。といっても庭は広い。
きっと探索している途中で母に自分の不在を気付かれてしまうだろう。
そんな時間はないのだ……

何か暗暗とした物が胸を締め付ける感覚がする。
みゆきは目に湧き出す涙の圧力に耐えられず、ついに大声で泣き出した。
わが子の泣き声を聞きつけたゆかりは、階段を急ぎ降り家を飛び出す。

「みゆきー!」

木の下で泣き喚くみゆきの元へ駆けつける。

「どうしたの?」
「うっううっうっ……」

みゆきは息が胸に閊え言葉が出ない。
どうした、の言葉に突き出た失望感と後悔とが、涙をさらに強くした。



……



遥か向こう、視界の天辺に雲の絨毯の縁(へり)が見える。
縮れ毛のように目の粗い、フラクタルな境界線から、一列の日射が零れる。

カモメの身体は既に泥水に汚れ褐色を纏っている。
羽はぼろぼろに爛れている。

少女は光を拝み、鳥の命の尽きぬようにと、旅の終着を祈った。



……



三月三十日。昼下がり。
高良みゆきは、五歳の娘ちはやを連れて向かいの邸宅へやってきた。
その庭にはたくさんの大きな桜の木。今が咲き盛りの時期だ。

そのうち一本の木の下に、岩崎みなみと三歳の娘みなほが隣り合って座っている。
地面には綺麗な模様の描かれたシートが敷いてある。
高良家の母娘に気付くと、二人そろって立ち上がり、その母娘に向かって手を振る。
みゆきが手を振り返し、その木の下に向かってゆっくりと歩き出す。
この日は岩崎家で花見が企画されていたのだ。

天気は快晴。
天気予報によると、今日は一日中快晴になるという。

母娘二組が桜の木の下に座り込む。
みゆきとみなみが隣。
ちはやとみなほが隣。
娘らは都合三度目の対面だ。

弁当を済ませると、みなほはよたよたした足取りで庭を歩き回り始めた。

みなほは邸宅の陰に回り、そこに伸びる草むらを奥へと分け入っていく。
十歩か二十歩進んだその時、ある物が目に留まった。
みなほはそろりとそれに手を伸ばす。
手に触れると、ふわりと柔らかい感触がした。

小さなカモメのぬいぐるみ。
純白だったと思われるその丸っこい胴体は、泥水に汚れて褐色を帯びている。
その両脇に付いた平たい羽は、あわれにもぼろぼろに破けている。
額の黒い斑点には、鋭く切り込んだような裂け目が付いている。

みなほは物珍しげな表情を浮かべながら母の元へとことこ戻ってくると、
その古びたぬいぐるみを差し出した。

「これなあに?」

娘の声に振り返り、差し出された物を見る。
その途端、みなみは思わず目を見開いた。

そのカモメの名前はみぃこ。
三十年前の今日を境目に忽然と姿を消した初めての友達。
みぃこという名前を付けたのは、今は亡き母ほのか。

「?」

みなほが怪訝そうな顔つきでこちらを窺ってくる。
みなみはふと我に返り、綻んだ笑顔をすると、

「よく見つけたね」

いつもと同じように褒めて頭を撫でる。

「へへっ」

みなほはお決まりのようにニッと笑った。



その夜。岩崎家の電話が鳴り響く。
みなみが左手で受話器を持つ。

「もしもし……」
『夜分遅くに申し訳ありません。私ですが……』

受話器の向こうは高良みゆき。声は不安な調子である。
みなみはその声を聞いて何となくその用件を推測できた。
返答を受けて少しの間を置き、みゆきは静かに口を開いた。

『三十年前ですか、うちの庭でお花見をしたことがありましたよね』

みゆきは自らの罪をその起こりから語り始める。
それはほんの悪戯心だったこと、後になって強い後悔を感じたこと、
そしてそれが今の今まで罪悪の記憶として残っていたこと。

みなみは穏やかに微笑みながら、しかし真剣にその話を耳に残していた。

『今更ながら、本当にごめんなさい』
「いえ、大丈夫ですから」

こくりと頭を下げるみなみ。恐らく、電話の向こうの相手も同じ仕草をしていることだろうと思った。

ふと右手を見下ろす。

相変わらず朽ち果てた、かつての友達。
つい先ほど風呂場に連れて石鹸で洗い流してやったが、
三十年の間蓄積した汚れには焼け石に水という感じだった。

この三十年間、草の茂みの中に寝転がり、雨水に打たれていたのを想像すると、少し胸が締め付けられる。
それにしても、なぜ自分の家の庭から見つかったのだろうか。
高良家の庭に取り残されたのなら、そのままその庭で見つかりそうなものなのに。

『そういえば、空、見られましたか?』

みゆきが話を振ってきた。

「いえ、何故?」
『天気予報で快晴と言ってましたから』
「……そうでしたね」
『六等星がよく見えますね』
「なるほど……」

空。
そういえば、カモメは空を飛ぶ。
今のみぃこの弱弱しい翼でも、その空を飛べるだろうか。

「みぃこって、空を飛ぶと思いますか」

それとなく浮かんだ疑問をそのまま口にしてみる。
それが何を意図した物かは、自分でもわからない。
暫くの時間を置いて、みゆきの声が返ってきた。

『……そうですね。飛べると思います』
「やっぱりそう思いますか。そしたら……三十年間でも、飛べたでしょうか」
『飛べたのでしょうね。それでずっと地上には見つからなかった、と』
「そうだといいな、と思って」
『夢のような話ですね』
「夢ですね」

二人はお互いにクスリと笑った。

やがて電話を終えると、みなみは寝室に向かった。
みなほは既にベッドの上、目を瞑って寝ている。そのベッドから視線を右に移せば、
立て掛けられた母の遺影がある。

みなみはその穏やかな笑顔を一瞥すると、愛娘と友達を抱きかかえて眠り込んだ。



……



漸く日の光が当たり始めた。
カモメは徐々に高度を下げていく。
その降り行く先には一軒の邸宅がある。

門をくぐり、庭の真ん中に着地する。
庭中に咲いた満開の桜が、二人の帰還を祝う。

少女はカモメの背中を降り、玄関へと向かった。
すると、その扉の前に一人の女性が立っている。
その女性は綻んだ笑顔で少女を迎えた。

「おかえりなさい」
「ただいま」

いつものように挨拶を交わす二人。
流石に何十年と慣れ親しんだ仲だ。

「随分長かったわね」
「うん」
「何年になるのかしら」
「三十年くらい」
「そんなにかあ。みぃこちゃんも疲れてるんじゃない?」
「そうだね。汚れも酷いし羽もぼろぼろ」
「ふふ」
「お母さんは大丈夫だった?」
「うん。チェリーちゃんも居たしね」

女性は穏やかな笑顔を見せる。

「それにしても、漸く晴れたわね」
「そうだね」
「今の今までずうっと嵐だったもの。こんなに気持ちよく晴れちゃって」

少女は空を見上げる。
その空は、地上の全てを純白に染め上げるほどの、鮮やかな快晴だった。



fin
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