とある土曜日、日下部みさお(26歳)はブラブラと歩き回っていた。
その隣には、会社の陸上部の後輩男子。まあ、社会通念上デートといわれる行為の最中であることは確かだった。
「夕食はどっかで食べますか、先輩」
みさおは、彼の質問には答えずに、唐突に彼の首に腕を回してヘッドロックした。
彼の耳元に口を寄せて、
「なぁ、いい加減、その『先輩』ってのはやめねぇか? 名前で呼んでくれてもいいじゃんか、彼氏さんよぉ?」
「あっ、いや、そのですね……。中学、高校、大学、会社まで、同じ部活の先輩だったんすから、すっかり染み付いてしまったというかですね……」
「もしかして、私を追っかけてきたってやつか?」
いまさらそんなことに気づくことが、みさおの鈍さを証明している。
実際、会社の同僚たちの後押しがなければ、この二人はずっと先輩後輩のままだっただろう。
「ええ、まあ、そうっすね」
「可愛いやつめ」
みさおは、人差し指で彼のほおをつつく。
その光景は、どこからどう見ても、いちゃつくカップルにほかならなかった。
みさおの高校時代からの友人たちがこの光景を見れば、その9割が「意外だ!」と叫ぶことだろう。
「放してくださいよ、先輩」
「名前で呼んでくれなきゃ、放さね」
「うう……あー、そのう、放してください、みさおさん」
みさおは、パッと腕を放した。
そして、
沈黙……。
「ああ、そのう……やっぱ、変な感じっすかね?」
「いや、変なというか……呼ばれてるみると、なんか恥ずいな……」
「とにかく、こちらも名前で呼んだんですから、先輩も名前で呼んでくださいよ」
今度は、彼の方が攻勢に転じた。
「うっ、いや……なんだ、あ~……」
みさおは、しばらく言葉に詰まっていたかと思うと、突然、脱兎のごとく走り出した。
「ちょっと、待ってくださいよ、先輩!」
二人は、かなり長い時間、走り続けた。
いくら陸上部所属とはいえ、デートでマラソンするカップルなんてのは、天然記念物なみに珍しい存在だろう。
そして、みさおは目についたとある宿泊施設に駆け込んだ。
追いかけてる彼も、当然、同じところに入る。
気分は高揚していた。長らく陸上競技にいそしんでいる彼には、それがランナーズハイと呼ばれる現象であるという知識はあった。
おそらく、みさおも同じ状態であるに違いない。というか、彼よりもみさおの方が、よりハイな状態なのかもしれなかった。
なぜなら、その宿泊施設は、間違いなく風営法とか県の青少年なんたら条例とかで規制されてそうな類のもの、いわゆる親密な男女が同じ部屋に泊まって、一晩の間にいろいろなことが起きるのだろうというような宿泊施設だったからだ。
「帰るのもめんどいから、今日はここに泊まるべ」
みさおは、まるで近所の商店にお使いにでも行くような感じでそう言い放った。
通常状態の彼ならばとりあえずはなんらかの制止の言葉を述べただろうが、そのときは「まっいっか」と思ってしまい、みさおに引っ張られるままになっていた。
これもまた、脳から分泌されるエンドルフィンの効果だとすれば、ランナーズハイ恐るべしだ。
翌日、二人は仲良く某宿泊施設から出てきた。
「運動したあとぐっすり眠ったから、気分がいいぜ」
昨晩、二人がどんな「運動」をしてたかについては、あえて触れないでおこう。
「そうっすね、先輩」
そういいつつも、彼の方は何だか疲れた顔をしていた。
「どうした? あんぐらいで疲れきっちまったか?」
みさおは、言葉をかざることもなく、あけすけにそう言い放った。
「まあ、そんなところっすね、はい」
「情けねぇぞ、彼氏さんよぉ」
二人は、この日も仲良くデートであった。
この出来事以来、名前で呼び合うのは夜の二人きりのときだけというのが、二人の間の暗黙のルールになった。
終わり
最終更新:2009年02月14日 12:14