ID:pMh > jE.0氏:『高良みゆきの自伝』

 こんにちは。ご紹介にあずかりました、高良みゆきです。
 今日はみなさんに、今までの私の人生――何年か、は秘密ですが――の中でも特に、幼少の私が医師を志した理由についてお話しようと思います。
 決して私も話し上手ではありませんので、お聞き苦しい点はございますが、精一杯お話させていただきますので、どうか最後までご清聴のほどをよろしくお願い致します。

 

 高良みゆきの自伝 
 ~2038年度陵桜学園進路学習講演会記録より~

 

 私の両親は、医者ではありませんでした。父は海外赴任で不在でしたし、母に至っては職業に就いた経験がまったくないという今時珍しい女性でした。
 しかし夫婦仲は円満、会えない時間は長くても、2人の間には変わらない愛があります。そんな2人のもとに、私は生を受けました。

 2月上旬の出産予定日よりも3ヶ月も早く、未熟児として。

 私は逆子だったらしく母は帝王切開でした。私も辛うじて五体満足ではありましたが、しかしこれはこれから始まる私の人生の、文字通り序章でしかなかったのです。

私は、“美しく、幸[さち]有る女性になるように”という願いをこめて、『みゆき』という名を付けられました。しかし、その名前にはもうひとつ、“雪のように美しく”という、冬に生まれる予定だったはずの私への願いも同時に、込められていたのです。


 まずは、未熟児網膜症にかかっていると診断されました。軽度なものではありましたが、普通の人よりも視力が低下しやすいのです。
 日本人は元々近視気味の傾向があるので、将来的に視力が落ちるかどうかは遺伝的な要因が意外と大きいのですが、それでも視力が普通より低下しやすいことに変わりはありません。私は生まれながらにして、将来における視力低下を約束されてしまったのです。

 しかし出産時に見つかった異常はそれだけで、その後は普通の赤ん坊と同じように私は育ってゆきました。言葉の習得も平均よりやや早かったですし――まあ、この辺りはかなり個人差によるバラつきがあるので、他と比較することに大きな意味はありませんが――、健康面での異常も特に見られませんでした。
 ただ、1歳を過ぎても掴まり立ちを始める様子はなく、また1歳半を過ぎてもその現状に変化はありませんでした。2歳を過ぎても一向に立とうともしない私に対して、楽観的な両親もとうとう心配し、私を小児科へ連れてゆきました。
 そこで小児科医は私の足首や膝や股関節の動き方を調べたあと、こう言いました。

 ――この子は恐らく、脳性小児麻痺[マヒ]でしょう。』

「日常生活に支障が出るかどうかは、もう少し成長しないと分かりません。言語の習得に今のところ異常はないですが、ひょっとすると軽度の知能障害を抱え込んでしまう可能性もあります。それも成長してみないことにはまだ分かりません。とにかく、何か様子がおかしいと思うことがあったら遠慮なく相談してください」

 小児科医は、脳性小児麻痺の原因はほぼ間違いなく未熟児出産による後遺症だろう、と両親に言いました。むしろこのケースにしてみればまだ病状は極めて軽い方だ、とも言いました。
 また、レントゲン写真を撮影したことで、臼蓋形成不全――骨盤と大腿骨をつなぐ股関節の発達が出来ていないということも判明したのです。これも未熟児として生まれたことが原因でした。
 実際、私はこと歩くこと以外においては、他の子どもたちに対して著しく劣っているなどということは一度もなかったのです。しかし、私の左足の内転・内反(足の裏、及び股関節が必要以上に内側を向いていること)は一向に治りませんでしたし、脳障害のせいで私の左足首は直角まで曲がりませんでした。
 つまり、常に左右のバランスが崩れた状態のままで歩かなければならなかったわけです。3歳を過ぎると少しずつひとりで歩けるようにはなりましたが、しかし1日に1回は必ずどこかで転んでしまい、膝小僧に傷を作って帰ってくるのが日課になっていました。


 私が4歳――年中組になった時、母は私を一般の私立幼稚園に入れました。そこは大学までのエスカレーターが完備されているところでした。
 私は障害がなまじ軽かったがために、障害者のための養護学校に入ることはしなかったのです。それが私の両親の方針であり、また決断でもありました。
 私は障害を持ちながらも、一般人に混ざりながら生きてゆくという道を歩くことになったのです。

 先に言っておきますが、私はこの両親の決断を恨んでいるわけではありません。むしろ私はこの決断に対して感謝しています。
 人によって幸せは様々ですから、必ずしも普通学級に入れとは言いません。それは医師の観点からみた私の考え方であると同時に、一個人としての私の持論でもあります。また、障害を持って生まれてきた人間としての意見でもあります。
 しかし、こと私個人という範囲にこの決断を狭めれば、私はこの決断は間違っていなかったと自信を持って言い切れます。それは、今ここにいる私自信が証明している、と言ってしまっては言い過ぎでしょうか。少し大げさだったかもしれませんね。


 幼稚園の頃の私は、室内遊びが好きな子供でした。本を読んでいたり、ブロックや人形で遊んでいたりすることが多く、自分から外で遊んだりすることはありませんでした。
 この頃の私は、自分の足が他の人と同じように動かないことを既に自覚していました。だから、外遊びがどんどん嫌いになっていったのです。

 娘が読書好きになること自体には、母は反対しませんでした。むしろ喜んでくれました。
 私が頑張って調べたことを母に懸命に話すと、母は喜び、私を褒めてくれました。私はそれが嬉しくて、どんどん知識を得ていったのです。ちょうど乾ききったスポンジのように、知識を吸収することが幼い私のアイデンティティのひとつだったのです。

 しかし母はそんな私のことが嬉しい反面それを見かねて、私にピアノを習わせてくれました。これは小学4年生まで続きましたが……最低限の音楽の素養を叩き込んでおくことで、大人になっても趣味として音楽を続けられる、というのが母の考えだったのです。母は私をピアニストに仕立て上げたかったわけではなく、一般教養と娯楽趣味としての音楽というものを得させようとしてくれたのです。
 それには、実家の方針で音楽教育を受けられなかった母の期待もこもっているように思えました。当時の私にはそこまで母の意図を汲み取ることは出来ませんでしたが、元々の性格が極端に凝り性だったので――この性格は今も変わっていませんが――、私はピアノにのめり込みました。


 私が幼稚園の年長組に上がった年の夏休み、私は生まれて初めての入院をしました。キリスト教の私立病院で、私はそこでアキレス腱の延長手術を受けました。
 脳に抱えている障害そのものを治すことは出来ません。むやみに脳を触ることが危険であることは、深く説明せずとも恐らくみなさんのお考え通りだと思います。
 そのリスクに比べれば、アキレス腱の延長はずいぶんと手軽なものでした。もちろん医師が手術の種類によって手を抜いたりするようなことはありませんし、あってはならないことなのですが。
 しかし、いかんせん生まれて初めての手術ですし、私はまだ5歳の子供にすぎません。その私にとっては、全身麻酔による手術と3ヶ月間の入院というのは、まったく未知の世界だったのです。
 10年に一度の暑い夏でした。私の左足は膝から下をギプスで覆われました。異様に暑かったことは今でも覚えています。入院先の保育所の子供がビニール製のプールに入って遊んでいるのが、私にはうらやましくてたまりませんでした。
 ギプスが取れると、リハビリ漬けの生活が始まりました。毎日毎日、動かない左足を相手に悪戦苦闘しました。私はリハビリにさえ、のめり込めように毎日時間を割いていたのです。それはひとえに、いつかはこの足が他の人と同じくらい動くようになるという希望があったからこそ続けられるものでした。

 3ヶ月経つと、私の足はほぼ元通りに動くようになっていました。足首は以前よりもよく動くようになり、私は人並みの形で歩けるようになりました。
 幼稚園は休園していましたから、11月に入ると同時に、私は復帰しました。これが私にとっての初めての入院生活でした。


 しばらくして、私は小学校に上がりました。外遊びも好きになり、本を読むことも続け、日頃の細かなリハビリも出来るだけ怠らないようにしました。まだまだ人並みに動く身体ではありませんでしたが、それでも私は幸せでした。

 しかし、小学校3年生の終わり頃から、徐々に足首の動きが悪くなっていったのです。
 最初はリハビリが足りないのだと思って、少し念を入れて足をケアするようにしました。しかしそれでも、私の足はどんどん悪くなっていきました。いえ、元通りになってしまったのです。

 異常を感じてから1年近く経ち、小学校4年生のクリスマス前に、私は東京女子医科大学の脳神経科に入院することになりました。当時はそこでしか受けられなかった、膝の裏の末梢神経の縮小手術を受けるためです。神経を物理的に削ることで、足首の筋肉の緊張を少しでも和らげるのが目的でした。
 入院期間自体は2週間ほどで、長くはありませんでした。
 その時のクリスマスに初めて外出許可をもらい、車椅子に乗って東京都庁に遊びに行ったことがありました。車椅子から見る街は、いつもとは全く違う街だったことを覚えています。


 東京女子医大を退院する時に、私はとある都立病院への紹介状をもらいました。年末に退院した私は、年が明けてすぐにその病院へと行きました。
後に知ったのですが、そこは子供の外科手術で全国的に有名な病院で、その高い医療技術を求めて日本のあちらこちらから子供たちが集まっていました。幸いにして私の家からは遠くなかったので、私は比較的容易にそこに入院することができたのです。
 そこで私が受けることになった手術もまた、今までのものとは大きく異なるものでした。
 今までの手術はすべて、左足首が曲がらないという点においての治療のみをしていたのですが、次の手術は左足全体の内転・内反を矯正するという目的がありました。
 骨盤の一部を切り取って股関節部分の外側にあてがいボルトで固定する。それによって、大きさの足りなかった関節の接合部を限りなく正常に近くする、というのが手術の方法でした。
 口頭では簡単なように思えますが、、骨をボルトで固定して自然にくっつくのを待つわけですから、その間はまったく体重をかけることが出来ません。またそれだけでなく、腰から左足の先まで全てをまたギプスで覆わなくてはなりませんでした。すなわち、その間はまったく歩けないということであり、それどころか起き上がることさえも出来ないということです。
 そう、私は寝たきりの生活というものを、この時初めて体験することになったのです。

 学年が変わって、小学5年のゴールデンウイークに、私はまた入院しました。寝たきりの生活での夏が私を待ち構えていました。
 自分の小学校には籍を残したままで、私は入院先の養護学校に編入されました。養護学校とは言っても、一般的な養護学校とはかなり違います。長期間の入院によって学習に遅れが生じないように設けられた学校でしたから、教育課程そのものは一般の小学校と変わりません。それどころか、ほぼマンツーマンに近い状態での授業でしたから、教育内容はかなり深く、また進度もかなり早いものでした。
 何人かの生徒がさまざまな都道府県から集まり、その教科書の種類も多岐にわたったため、国語教材などには全く困りませんでした。読書好きな私には幸運なことに、授業でもたくさんの物語や評論を読むことができたのです。

 私はその病院で、たくさん友達ができました。関西、四国、東北から来ている人もいました。
 私が最初に仲良くなったのは、福岡県から来ていた同い年の女の子でした。彼女は軟骨無形成症という染色体異常の病気で、身長が伸びないという症状を示していました。そのため、いったん下腿骨を切断してから、毎日少しずつ間隔を開けながら回復を待ち背を伸ばすイリザロフ法という難治療を受けていたのです。
 長期間痛みに耐えながら歩行器で歩く練習をするという、厳しいリハビリが彼女に課せられていました。私が入院してくるより前、彼女が手術をした次の日から、彼女は少しずつ、しかも激痛に耐えながらの歩行訓練を始めたのです。
 最初は1メートル、次は2メートル。慣れてくれば廊下の端から端まで。最後はリハビリ室から病棟まで。20分、30分、時には1時間以上もかかって、彼女は歩き続けました。

 彼女には夢がありました。それは地元の中学校の部活に入ってテニスをするということでした。そのためには、イリザロフ法によって身長を伸ばしたうえで、可能な限り今までと同じように身体が動かせるほどにまで回復しておく必要があったのです。彼女には時間がありませんでした。だからこそ彼女は彼女でまた、高い志を持ってリハビリに励んでいたのです。
 みなさんからみれば、中学校の運動部に入って競技に身を投じるというのは、至極当たり前のことかもしれません。しかし、それが夢であって、今頑張るための原動力であるという人もいるのだということを、みなさんの心の片隅に留めておいて頂きたいと思います。
 私より先に退院した彼女は、一度手紙をくれました。テニスがしたいと思った最大の理由である彼女のお姉さんに、少しずつテニスを教えてもらっているそうでした。お姉さんも彼女がテニスをすることに賛成し、また応援してくれている。手紙にはそう記されていました。

 私がゴールデンウイークに手術を受けて1ヶ月と少しが経ち、毎日毎日雨が降る中で、私のギプスは外されました。やっと起き上がることが許されたのです。
 ギプスに覆われていた私の左足は完全に筋肉を失っていました。その太さが正常な右足とは明らかに異なっていました。人間の足は、たった1ヶ月使わなかっただけで、ここまで退化してしまうのです。
 しかし、座れるようになった私の生活は、かなり元のそれに近いものになりました。今までは寝たきりで、しかも手術をした左足を下にして寝ることは許されなかったので、必然的に右手が使えませんでした。常に右側が下になっていたからです。左手で箸を使うことができず、スプーンとフォークで食事をとる生活が続いていましたから、それに比べればずいぶんと楽になりました。同時に、私の愛車はストレッチャー(移動式ベッド)から車椅子へと変わりました。

 ちょうどその頃、私に新しい友達ができました。1歳上で、神戸から来ている男の子でした。彼もまた私とほぼ同じ手術を受けていました。脳性麻痺ではなく、小児ペルテスという病気でしたが。
 彼はサッカーと囲碁が好きな少年でした。彼の病室の壁には、大好きなサッカー選手のポスターが飾ってありました。真っ白なユニフォームを着て躍動する選手の名前を私が問うと、ラウールというスペイン人の選手なのだと教えてくれました。
 ちょうどその頃に日韓ワールドカップが開幕し、私と彼は毎日、学校から帰るとすぐに食堂のテレビに向かいました。
 6月18日に日本がトルコに敗れた時は私も落胆しました。それまではまったくサッカーを見ることのなかった私でしたが、その時は奇跡が起こることを祈っていました。
 そして彼は、自分もスペイン人であるかのように当然に、スペイン代表を応援していました。1回戦を勝ち抜いた時はまるで自分のことのように喜びましたし、2回戦でPK戦の末に敗退した時は、ラウールさえ負傷欠場していなければ勝てたのだと言って悔しがっていました。
 彼自身もまた、ペルテス病を可能な限り克服して再びサッカーをやり直すことが目標でした。私はそれほどまでに高いモチベーションを保てる彼に影響され、惹かれました。
 私はなぜ毎日頑張れるのか。私は自分が分かりませんでした。しかし、私の出会った友人たちの高い目標意識につられるように私もまた、毎日毎日を出来る限り有意義なものにしようと思いました。

 将来の目標を持つことが、他の何よりも大きな原動力になるということ。それが彼らが私に教えてくれたことでした。


 その次の7月の半ば、私は退院しました。

 

 先ほども話しましたが、目標を持てば頑張れるというのが、私が入院した間に実感したことでした。
 しかし目標があっても、やる気があっても、頑張ろうにも頑張れないという人も日本にはまだたくさんいるのです。そういう身体に生まれてこられなかった人がたくさんいるのです。努力も希望もあるし覚悟もできている。でも肝心の身体がついてこられない。
 私は、自分の目標が見えないというのなら、せめて他の人たちが夢を叶えるための力になりたいと考えるようになりました。そしてそれを実行するためには、私は何になるべきなのかを考えました。
 確かに、看護師や医療メーカーという形でそれに関わることも可能なのですが、今の私が目指すべきものは医師なのだと、私は強く感じました。それは恐らく、私がずっとお世話になってきた小児科・外科のドクター達に対して、人並みの身体を与えてくれた恩義があったからでしょう。
 直接的な恩返しというのもなかなかできることではありませんが、私が医師になることが彼らへの間接的な恩返しなのだと、私は思いました。そして私は、医師を目指すことを決意したのです。

 1年後の小学6年生の夏休みには4回目の入院をしました。さすがにここまで来ると手術も慣れたものです。最初の手術では怖さのあまり泣き出し、強引に酸素マスクをはめられた瞬間に意識を失ったという記憶が未だに鮮明に残っていました。しかし今度の手術は、前回の手術で体内に入れたボルトの除去と、2回目のアキレス腱の延長でした。だいたい何をするのかも分かっていましたから、不安感はありませんでした。
 この入院の間、私は主治医をはじめとする医師たちの動きを注意深く観察するようにしました。これから医師を志すにあたって少しでも距離を近づけておこうと思ったからです。分からない言葉はメモを取っておきました。後に退院したときに、医学書で調べようと思ったのです。

 しかしいざ図書館で調べてみると、解説そのものが分かりませんでした。分からない言葉は芋づる式に増えてゆきます。3時間ほど書物と格闘した時点で、私は調べ事をあきらめました。後にも先にも、調べることを断念したのはこの時だけです。
 たいていのことは、時間はかかっても何らかの答えを導き出すことが出来ました。しかし、この時の私はまだ年端もゆかぬ子供でした。とても医学書を読み込めるような知識はなかったのです。
 今から思えば、それは当然のことだったのでしょう。しかし当時の私は、それが悔しくてたまりませんでした。

 つまり――至極当然ではありますが、医師になるには勉強しなくてはならないということです。大病院の御曹司であれ貧しい家の子供であれ、勉強しなければ医者になれないということに変わりはないのです。
 内部進学で中学に上がった私は、1年生の頃から勉強に没頭しました。久しぶりに凝り性の癖が出たように思いました。足は元通り以上に動くようになり、やや落ち込んでいた体力も次第に回復しましたから、体育の授業でも初めて5を取ることができたのです。
 昔の私なら考えられないことでした。足を病んだ私でも努力次第でここまでできるのだということを私は実感しました。そして、ここまで来るために今までの人生があったのだと思うと、生きていて良かったと思いました。外に出すことこそありませんでしたが、かつては他の同級生に対して、強い劣等感を抱いて――秘めていたのです。

 あまりいい言い方ではないかもしれませんが、私の通っていた中学校は、正直に言えばただのお嬢様学校でした。というのも、かなりの生徒が少なくとも内部の高校まで進学し、その後は系列の大学に上がるか或いは適当な私立大学に進学する、というのが現状だったのです。
 ですから、私はこのまま内部進学で高校に行くわけにはいきませんでした。医大に進学するためには、よりレベルの高い高校に進学する必要がありました。
 中学3年になってすぐ、私は担任にその旨を告げたのです。しかし学校側は、私に可能な限り一貫教育から抜けないようにプレッシャーをかけ、なおかつ特待生制度をちらつかせて自分たちに注意を向けようとしました。私と学校側は、決定的に対立しました。

 医師になりたいから陵桜に行かせてくれと私が両親に頭を下げたとき、両親は賛成してくれました。
 ただの見栄なら話は違うが、お前にしっかりとした目標があるというなら支援は惜しまない。だから手は抜かないで、というのが両親の――特に父からの言葉でした。
 陵桜に決めたのは母の母校だったからという理由もありましたが、それだけではありませんでした。
 当時の陵桜は、学園始まって以来の水準まで進学実績が上がっていました。今の陵桜がちょうど3回目のピークになりますが――私の世代までの4年間と後の3年間がちょうど始めの最盛期でした。
 私は両親の精神的な支えもあって、学校からのプレッシャーをはねのけて陵桜学園を受験しました。
 内申書などはあまり芳しくなかったはずでした。それを差し引いても合格できるようになるために、私はずっと勉学に励んでいたのです。

 3月。私は晴れて陵桜学園に合格しました。新天地糟日部で迎える新しい春に私が出会ったのが、今の教頭である黒井先生と友人たちでした。
 高校での生活は今までと全く違いました。勉学漬けの3年間になる覚悟もしていたのですが、親しい友人と常に一緒にいるようになったおかげで、精神的にはすごく余裕を持った生き方ができるようになりました。息抜きのしかたを知ったといったら分かりやすいと思います。
 頑張らなくてはならない時は頑張りますし、肩の力を抜いてもいい時は出来るだけ休むようにしました。そして、その息を抜く時間を作るための努力だけは惜しまないようにしようと決めました。
 いちばん親しい友人は3人いて、みんなそれぞれ別の道に進んだのですが、やはり私はまた、みんなが頑張っている姿に影響されました。

 この人となら頑張れるという友人と出会うことは、高校生活において必ず必要なことです。私はその3人、特に法学部に進んだ人に強く影響されました。彼女もまた夢を持つきっかけがあって、その夢を叶えるために陵桜学園にやってきていました。ちょうど、私と同じようにです。

 彼女と出会ったのは1年生の頃でしたが、初めて出会った時は衝撃的でした。彼女のリーダーシップに私は惹かれました。私は自分のことで手一杯だったのに、彼女は手際良く同級生たちを統率していたのです。同じことを私がするのは不可能でした。だから私は彼女から少しでも多くのことを学ぼうとしました。
 彼女は、人に教えるだけではなく自分の行動をもって規範を示さなければならないというストイックな考えを持っていました。私が今まで出会ったことのないタイプの人だったので最初は戸惑いもありましたが、打ち解けてゆくにつれ彼女の真意が分かるようになりました。彼女は自分のことだけを考えていただけではないのです。困っている人を見ると放っておけない性格だったのでした。

 高校3年生になっても、私は特別な勉強をしたわけではありませんでした。むしろ普段の習慣に多少念を押すような形での勉強に専念しました。授業をしっかり聞いて、予習復習を入念にやり、それから過去の復習にかかるか赤本と向き合う。先生方から耳にタコができるほど言われているとは思いますが、それはやはり効果があるからなのです。

 むしろ私が伝えたいのは、勉強のやり方そのものではなく、その心構えについてです。先生の言うことを理由もなく聞くというのは、やはり無茶です。それはかえってよくないことだと思います。

 まずは目標を持つことから始めてください。必ずしもそれが何らかの職業に就くということでなければならないということはありません。他の人から見れば些細なこと、だって構わないのです。とにかく自分自身が納得できる目標であるということが大事なのですから。

 そして、質の高い友達を作ってください。友達にも質の良し悪しというものがあります。それは学校の成績とは必ずしも一致しません。お互いを高め合っていける友人との付き合いは一生続きます。私は幸福にして素晴らしい友人に恵まれました。だからこそ今の私がここにあります。
 自分が友人に恵まれていないと思うのなら話は簡単です。自分自身がしっかり者になればいいのです。そうすれば他の友達もきっとみなさんについて来ると思います。お互いに努力すれば、それは質の高い友情を手に入れるというのと同じなのです。
 ですから、友人に求められる人になってください。尊敬されるようになってください。同じ陵桜の生徒からも、他の高校の生徒からも。弟や妹や、近所の子供たちから尊敬され、感謝される人になってください。感謝されるために頑張ってください。
 それは別にやましいことではないのです。求めるものが何であれ、その目的を達成するための努力そのものを非難することは誰にもできません。

 そして3つ目に、みなさんは賢くなってください。効率のよい努力をするべきです。何も考えずに努力するだけで、気合いだけで望む未来が手に入るわけではありません。
 どうすればいちばん早く解けるか、どうすればいちばん確実に覚えられるか。常にそれを考えてください。トライ&エラーが続くかもしれませんが、常に改善策を考えてください。そういうラクのしかたは、むしろ必要なことです。
 時間を決めて休んでください。その間は羽根を思い切り伸ばして、次のステップに備えて英気を養ってください。小さな趣味を持って、1日5分でも10分でもいいからそれに興じてください。ピアノでもいいですし、ひとつ番組を決めて毎週欠かさず見るというものでも構いません。少しずつ読書するのもいいでしょう。
 睡眠時間を削ればいいなどというわけがありません。むしろしっかり寝てください。

 みなさんが必要なことは3つ。目標・友人・効率です。必ず手に入れてください。そのうえで努力すれば、おのずと大事な宝物が手に入るはずです。
 それは、ナンバーワンになったとか、お金をたくさんもらえたとか、そういった類の結果に限ったことではありません。
 その宝物は、あきらめなかった自分の心と、かけがえのない友人なのです。

 みなさんにはまだ時間があります。大学受験までの時間というよりも、人生の結論を出す時間です。
 今の人生に満足できていなくても、まだまだあきらめるのは早すぎます。これからの人生は自分次第でいくらでも変わります。変えられます。だから、人生の結論を出す時などというのは、老いて死期が迫った時であってもまだ早すぎるくらいなのです。

 長くなってしまいましたが、私の話はこれで終わります。あとはみなさんが考えるべきことです。今回の私のお話から少しでも得られるものがあったなら幸いです。
 本当に、ありがとうございました。

(2038年11月3日 陵桜学園進路学習講演会記録)

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