自転車通学ではいよいよ風の冷たさが身に染みるようになってきたな、と永森やまとは季節の移ろいを実感していた。
そろそろ手袋やマフラーを用意しようか。寒さを我慢して風邪を引くほど馬鹿らしいこともない。
学校指定のコートはどこにしまってあっただろうか……などと考えながら、彼女は自宅の門をくぐる。
「ただいま」
返事は返ってこない。
家族を養っている父親は当然のこと、今日は母親も買い物かなにかで出かけているらしい。
居間に入るなりそそくさとこたつの電源に手を伸ばし、キッチンで熱いお茶を淹れる。
こうして心身の両方から暖を取るのが彼女にとっての日課でありささやかな贅沢だった。
やまとは、寒い季節が苦手なのだ。
みかんを食べながらテレビ番組をぼんやりと眺めていた時、不意に白い何かが目の前を舞った。
――雪? まさか。
室温は二十℃、そんなものが存在できるわけがない。
うとうとしていたせいで幻でも見たのだろう。やまとは最後のひと房を口に放り込み、天板に突っ伏す。
と。
今度こそ、白い何かがはっきりと視界に入った。
制服のセーターの袖に止まった、虫。
「……虫?」
左手の人差し指を近づけるとやがて登ってきたので、まじまじと観察を始めてみる。
本当に小さな羽虫で、きっと下校中に制服に引っ付いてしまったのだと予想できる。
腹には真っ白い綿のようなものが付いており、先ほどはこれを雪と勘違いしてしまったのだろう。
いつだったか、何かの本で見た記憶があった。
「ワタムシ……なんとかワタムシ、だっけ」
北国では初雪の直前に現れることから雪虫と呼ばれているとか。
実際に見間違えてしまったし、その呼称には納得がいく。
こうしてじっくり見てみると、蝶のようないわゆる「かわいい虫」に分類できそうだった。
「あ、思い出した」
雪虫を指に乗せたまま、やまとは自室へ向かう。
本棚に並べられた漫画のうちの一冊――先日、八坂こうに貸してもらったものだ――を手に取り、パラパラとページをめくっていく。
「これで見たんだ」
人に懐く雪虫のエピソード。
正確にはトドノネオオワタムシという名らしい。さらに生態まで詳しく書かれていたため記憶に残っていたのだ。
「……おまえもそうなの?」
雪虫はもちろん答えない。ただ彼女の指の上を歩いたり、止まったり、歩いたりするだけ。
さっぱり羽虫らしく飛び回ってくれないものだから、実のところ本当に懐かれているのかもしれないなどという気分にさせられる。
「なんて、ね」
やまとはふっと微笑み、右手で部屋の窓を開けた。
「もう行きな。うちにいてもどうしようもないんだから」
促してみるが、雪虫は相変わらず指の上を行ったりきたりしている。
綿のせいだろうか、秋の終わりの虫だというのに外の寒さを嘆いているようにも見えてしまった。
「寒いのは私も嫌だけど。そういう季節なんだからしょうがないわよね」
軽く息を吹きかけるとようやく翅を広げる。……が、また何事もなかったかのようにしまいこむ。
何度かその流れを繰り返した後で雪虫は唐突にぱっと飛び立ち、灰色の空へと消えていった。
好きなだけその場に居座ってはいつの間にやら立ち去る、まるで冬のつむじ風のような虫だった。
「……飄々としてるあたり、どっかの誰かさんみたいね」
もうすぐ雪が降るんだな、と。
窓を閉める直前、やまとは空を仰ぎながらそう呟いた。
「お母さん」
「うん?」
「今日雪虫見た」
「本当? 関東じゃ滅多に見かけないのに。あれって害虫なのよね」
「え゙」
最終更新:2008年10月27日 22:21