ID:U4vbG5U0氏:成功者の失敗

「私も本当は全部分かってたのかもね……ひょっとしたら自分で自分に夢を見続けさせたのかもしれない。それとも、昔のままの私が、みんなにうらやましがられて、ほめられることを望み続けた結果かしら」

 長らく連絡のなかったかがみさんが、久しぶりに私の携帯に電話をかけてきたのは、今日の昼休みのことでした。

   成功者の失敗

「もしもし?」
「みゆき?私。かがみだけど」
「ええ、お久しぶりですかがみさん。わざわざおっしゃらずとも分かりますよ」
「そうだったわね……元気にしてる?」
「はい、おかげさまで。今日はどうされました?」
「いきなり本題ね……」
「すみません、昼休みがあと15分しかないもので」
「あ、ごめん。じゃあ単刀直入に言うけど、今日の夜空いてる?」
「夜、ですか?」
「うん。午後の診療終わってから」
「そうですね……今日はカンファレンスもありますので、9時頃になると思いますが」
「充分ね。久々に飲みに行きたいのよ」
「私とですか?」
「うん、みゆきと。今日金曜だから手術[オペ]日じゃないでしょ?」
「ええ。月曜日の回診のカルテをまとめるくらいですね」
「回診ねぇ……。ごめん、突然呼び出して」
「いえいえ、せっかくですから」
「じゃあ病院に、9時半くらいに迎えに行こうか?」
「ええ、お願いします」
「分かった。じゃあまた」
「はい、失礼します」

 かがみさんは私より先に電話を切りました。どうしましょうか。私は私で、帰ってからやりたいことがなかったわけではないのですが……。
 別段重要なことでもありません。やはり今夜は、久々にかがみさんと一緒にいるのが最善でしょう。


 カンファレンスも、それなりに円滑に進んではいます。取り立てて規模が大きい病院ではないですが、それゆえに意思疎通がしやすく、細かいところまで話し合える余裕があります。
 大学病院への就職を避けたのは正解でした。お金に興味がないと言えば嘘になりますが、ある程度の水準で生活していくため以上のお金には興味がありません。
 ではこの埼玉県立の病院が気に入っているかと言われれば、それはそれで疑問符を打つことになります。慣れに近い意味で愛着のような感情はありますが、かと言ってこの病院が最高かというと、現実的に見てそうではないのです。
 ただ、下手に人事異動に捕まって、次に行く病院が変わる可能性がある以上、常に今より労働環境が悪くなる(賃金的、設備的なことに限らず)可能性もまた、常に背負っていることになります。
 現状のままならまず問題はない、というのが正直なところです。それゆえに現状に甘んじてしまっている私は、幼い頃に夢見た私の理想像とは、ほんのわずかに違っていました。
 私は、かつての自分の記憶に思いを馳せつつカンファレンスを終えました。今ひとつ手元のメモを取りきれていませんでしたが。

「ごめん、お待たせ。ちょっと道が混んでて」
「いえ、それは構わないのですが……遠かったのではありませんか?」
「お世辞にも近くはないわよ……神奈川なんかに移り住むんじゃなかったわ」
「お疲れ様です」
「みゆきにはともかく田舎の神社の娘には、騒がしい横濱はツラいわよ」
「私もそれほど都会生活に慣れているわけではないです」
「そんなもんかしらね。出発するからベルト締めてよ」
 かがみさんは私にそう告げ、BMWのアクセルを踏み込んでいきます。今やここでしか造られていない直列6気筒が、私たちを夜の町へと連れ出してゆきました。


「おっちゃん、ビール2つお願い!」
「あいよっ!って、かがみちゃんじゃねぇか!」
「ずいぶんご無沙汰ね。たまには顔出させてもらうわよ」
「そりゃどうも。そちらさんは?」
「ええ、かがみさんの友人で高良と申します」
「聞いてよおっちゃん、この娘、このトシで名医なのよ?」
「いえいえ、私はまだまだ駆け出しで……」
「はぁ、敏腕弁護士の次はお医者さんかい?みんなよくやるよ」

 私はてっきり近場のバーに連れて行ってもらえるものだと勘違いをしていました。まさか鷹宮の居酒屋まで来ることになるとは夢にも思っていなかったのです。かがみさんらしくないような気もするのですが、どうやら昔から馴染みの店のようでした。

「昔はよくお父さんに連れられてこの居酒屋に来てたのよ、もちろんつかさも一緒にね。中学入ってからは滅多に来なくなったけど」
 私たちが生まれるよりもずっと前の歌謡曲を文字通りのBGMにしながら、ジョッキを片手にかがみさんは話します。
「小さいころからずいぶんアルコール飲んでたわよ?1回呑み比べをやらされたわね」
「呑み比べ?」
「小学生にして酒豪呼ばわりされてね、珍しくお母さんがカンカンだったのよ」
 おそらくお酒の違いを見るほうではなく、どれだけ飲めるかを競うほうでしょう。さすがに私はやらされたことはありません。医学部に入った時に、飲まされかかった経験はありますが。
「では今でもお酒は飲まれるんですか?」
「今は滅多に飲まないわね。子供の頃の方が飲んでたわ」
「それは……いろいろな意味でどうかと」
「そうね。もっといっぱい飲むようにするわ」
 かがみさんはそう言って、またジョッキに口をつけました。それでは本末転倒です。かの有名な医者のジョークが現実のものになってしまいます。
「冗談よ。酒は百薬の長だけど、過ぎたるは尚及ばざるが如し、ってことね」
「ええ、お願いしますね」
「分かってる、酒に飲まれちゃたまらないもの。おっちゃん、何か食べるものちょうだい!」
「何にするよ?」
「お任せするわ!二人前お願い!」
「あいよっ!ちょっと待っとけ!」

「……かがみさん、どうかされたんですか?いつもと少し様子が違うように思うんですが」
 この数時間、かがみさんの言動は明らかにおかしなものでしたから、私はこらえきれなくなった質問をかがみさんにぶつけてみることにしました。

「けっこう疲れてるのよ。面倒な裁判抱え込んでてね」
「面倒な裁判、ですか?」
「そう。だからちょっとイライラしてるのかもね」
「……大丈夫ですか?」
「正直大丈夫じゃないわね。裁判自体は大した話じゃなくて、ちょっとした個人の金銭トラブルの延長みたいなもんだから大したことじゃないけど」
「はぁ……ではどうして?」
「いや、普通に考えたら調停にした方が早く終わるのよ。私の持ってる原告側の人もそれでいいって言ってくれてるし」
「……なら、普通は解決しそうですが」
「いや、私にもよく理由は分からないんだけど、被告側の人がムキになったらしくて……何が何でも裁判で決着つけるんだー!って」
「被告側が??原告側ではなくて?」
「そう。何かのスイッチが外れたみたいに突然。たぶん意地でも自分は悪くないって証明したいんでしょうね。原告側をやりこめて」
 素人の私にも分かるほど、ずいぶんと的外れな話です。立場が逆ならまだ分かりますが。
「それとね……相手の被告側の代理人が、大学の時の先輩なのよ」
「お知り合いなんですね?」
「そう。金持ち専門の事務所なんかに入って……まぁ悪い先輩じゃないけど、だからこそ余計にね」
「争いたくないと?」
「八百長なんてできないけど勝ってもやりづらいし……向こうも私とは争いたくないみたいよ」
「……後輩に負けたくない、ですか」
「それは裁判になってしまった場合の話ね。それ以前に調停にしようと向こうも原告を説得してるわ。正直言って裁判になるとお互いに大変だから」
「完全に被告側の意地ですね」
「そう。だから迷惑かけてる自覚がない、っていうのが一番問題なのよ」
「お気持ちは分かりますが、実際続けるかどうかはまた別の話ではないでしょうか?裁判を受ける権利といいますか」
「そうなのよ。建て前はやっぱりそう。でもだから余計に腹立たしいというか何というか……」
「すみません、お力になれなくて」
「いいのよ。みゆきの専門分野じゃないもの」
 かがみさんは3分前に渡された煮物をつつきながら私を制するように言いました。私もそれを受けて茶碗蒸しに手をつけます。銀杏が2つ入っていましたが、私はそれをかがみさんには言いませんでした。話の腰を折らずに、今はかがみさんの愚痴の聞き手にまわったほうが円滑に会話が進むと思ったからです。
「でも、最近思うのよ。私が弁護士になったのは間違いだったのかなとか、他の学部に上がれば良かったかなとか」
「しかしかがみさん、それは」
「分かってるわ。こんな言い方じゃ語弊があるけど……弁護士になったことを後悔してるわけじゃないわよ」
「それなら、いったいどうされたんです?」
 私はつい、普段の診察のような口調で聞いてしまいました。私も立派に職業病にかかってしまったのかもしれません。
「弁護士になったのは良かったんだけど……イメージと違うっていうのかしら。もっと勧善懲悪の仕事ができると思ってたのよ。今で言えば弁護士のゲームみたいな」
「ええ、私も昔はそんな職業だと思っていました」
「でしょ?だけど実際事務所に入ってみたらこの有様よ。相手方の揚げ足取りがしたくてこの世界に入ったわけじゃないわ。もちろん社会的地位だけを追ったわけでもない」
「……そんなことをおっしゃらないでください。かがみさんはそこまで浅はかな考えで弁護士を志されたわけではないでしょう?」
 かがみさんが話し出してからというもの、その返答をちくいち相槌を打つに留めていた私は、とうとうかがみさんに言い返してしまいました。
「かがみさんは最初からある程度お分かりだったはずです。そこまで覚悟されて法学部に入られたのではないのですか?」
「……」
 かがみさんは黙り込んでしまいました。私が言い返したことに驚いているのでしょう。
「私にも、医師を志願したのは失敗だったのかと疑いを持つことはあります。大学病院を避けたのも、ある程度それを回避するためなんですが」
「みゆきが、後悔なんてするような選択を?」
「ええ。人の命を救ったり、或いは健康を保つお手伝いをするのが、私たち医師の仕事です。しかし、どうしてもそれだけではやっていけないんです」
「本業以外のことに手がかかるわけ?」
「ええ。職業柄、詳しくはお話しできませんが……非常にやっかいな問題なのは間違いありません」
「そう……あんたも大変なのねぇ」
 かがみさんは、はぁ、と小さく溜め息を吐くと、先ほどからちびちびと口をつけているジョッキに4割ほど残っていたビールを、一気に飲み干してしまいました。張りのある肌がかなり赤く染まっているのが分かります。
「私も本当は全部分かってたのかもね……ひょっとしたら自分で自分に夢を見続けさせたのかもしれない。それとも、昔のままの私が、みんなにうらやましがられて、ほめられることを望み続けた結果かしら」
 恐らく、わざと弁護士のカッコいいところだけに憧れ続けていたと、かがみさんはおっしゃりたいのでしょう。私は彼女の意図を問わずに、予想だけに留めておくことにしました
「でも、そうでもしなきゃ七面倒くさい法学部なんか目指してらんないわよ……24で司法試験受かったのもそうだしね。もう5年も前かぁ……何せ時間はかけてられなかったから」
「時間、ですか」
「そう。司法試験に時間取られるほど無駄な人生も知らないわね。気がつけば三十路でまだ受からないとか普通にあるわよ」
「それまでひたすら勉強ですか?」
「そうね。恋人もなく遊ぶことも出来ず、ひたすら勉強。大昔の科挙じゃあるまいし、もうちょっと何とかならないかと思うけどね。でも弁護士のレベルが下がったら世も末よ」
「まあ、かがみさんはちゃんと受かったんですから……」
「そうね。きっとそれは幸運だったって思わなきゃなんないのかもしれないわね。」
「得たが故の苦悩、ですか」
「まさにそうね。それに、本音では、こなたやつかさがうらやましいと思ってるのかも」
「こなたさんたちが?」
「うん。あまりこんな言い方したくないけど……正直言って私たちの方が社会的には成功してるじゃない?」
 否定はできません。実際の年収にせよその他の要素にせよ、おおよそ一般的な考え方で言えば、医師や弁護士は所謂『勝ち組』と言われても間違いではないでしょう。
「だから、というか……とにかくこなた達がうらやましいのよ」
「確かに、泉さんやつかささんもかなり今の職業に愛着を持っていらっしゃるようですしね……」
「そう。確かにつかさは客足が悪いってヒイヒイ言ってる時もあるし、こなただって仕事がなくて困ってる時期もあった。でもそんな時だって、こなた達はいつも楽しそうだったからね。うらやましくないわけがないじゃない」
「それは……私も時々思うことはあります。自分が持っていない他人のものというのは、無性に欲しくなるものですし……或いは私も、つかささん達をうらやんでいるのかもしれません」
 私がその言葉を言い終わるか言い終わらないかという時に、突然、誰かが引き戸を開く音がしました。
「おっちゃん!2人分、何か作ってくれよ」
「あいよっ!おお、今日は珍しい客ばっかり来るな!」
「珍しい客?先客がいるのかよ?」
「ああ、そっちの席だ!」
 店主はそう言って、私たちの方を軽く指差します。それに気付いた私は、すぐに目を疑いました。
「おお、高良じゃねぇか!それと、そこにいるのはひょっとして柊か?」
「日下部さん?」
「何、みゆき……日下部!?」振り向いて出入り口の方に視線を向けたかがみさんは、驚きを隠さずに言いました。
「お久しぶりです……」
そして、背丈がほぼ同じなので私は気付かなかったのですが、日下部さんに連れられていたもう1人の客人は、私の親友、みなみさんだったのです。

「また妙な取り合わせね。一体何があったわけ?」
「いや、今週たまたま街中で会ったんだよ。だから金曜日に飲みに行こうってさ」
「……私も、特に用事はないので」
「だから拉致してきたわけか」
「違うってば!ちゃんと約束して来てるんだって」
 自己主張をあまり美徳としないみなみさんにとって、私がいるということはある意味幸運だったかもしれません。日下部さんと2人、或いはかがみさんと3人で、となると、総じてみなみさんは遠慮してしまうでしょう。私たちのほうが年上ですからなおさら。
 とりあえず私は、皆が久闊を叙することができたことに対して、出来るだけ素直に喜ぼうと思いました。お酒の席はなるべく楽しい方がいいのかもしれません。或いは、本音をさらけ出せるのもまた、お酒が入った時なのかもしれませんが。

「だからさ、あやのがあまりに楽しそうだから、私もつい嫉妬しちまうんだよなー。頑張って今の仕事就いたはいいけど、あやののほうが幸せだったらそれはそれでつらいものがあるぜ?」
「応援したい反面、黒い感情も捨てられない、と」
「……お気持ちは、分かります」
「こんなこと考えちゃ駄目、って分かってはいるんだけどね。私も聖人君子じゃないから、つい、ね」
 みなみさんはまた自分の蕎麦をすすり、左手で日本酒をおちょこで一気に飲みほしました。みなみさんがお酒に強いことは知っていますが、どうやら今日はかなり紅潮気味です。
「私もゆたかがうらやましくなる時はたまに……家に帰れない日なんかは特に……ふぅ……でも……不謹慎だと思いながらも……私は自分の弱さを捨てられ……はぁ」
 みなみさんの息遣いが荒くなってきました。一方、私やかがみさんはむしろ冷静さを取り戻していました。酔いがさめてきたのでしょう。日下部さんはケロッとしています。いつもより若干穏やかにも見えます。
「だから、たまに私は何のためにこの仕事をやってるんだと……ゆたかの楽しそうな顔を見ると……恨めしいとは思いませんが……でも、」
「ああ分かるぜ、収入は自分の方が多いのに、ってか?あやのなんか直接の収入はゼロだぜ?一応、兄貴は私より貰ってるみたいだけどさ」
「ああ、つかさはまさにそうね。経営が火の車でもいっつも笑ってるから……単純に楽天的なのかもしれないけど」
「分かります……泉さんもたまに電話すると、仕事がないないと仰りますが、実のところ意外と危機感がなさそうですし」
「私たちが神経質なだけなのか……」
「そうだなー……たいていのことは何とでもなるしな……」
「命に関わることは、そうそうないかと思います」
「私たち、何か失敗したのかしら?」
「私たちが求めていたものはそれなりに手に入れられていると思いますが……でも、泉さんたちと比べると何か、私たちには欠けているのかもしれません」
「何なのかしらね」
「何だろうなー……」
「何でしょう……」
 4人はお互いを見合わせて、誰にともなく問い合います。きっと答えは出ないでしょうし、すでに明白だと言うこともできるでしょう。
 私たちは失敗のない人生を送ってきたかと言われれば、その質問にはYESと答える資格が、私たちにはあるのかもしれません。しかし私は時折思うのです。

 私たちはたったひとつだけ、心のパズルの小さなピースを、どこかに落っことしてきてしまったのではないか、と。
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