「うん――産むよ」
瞳を閉じ、私は静かにそう言った。
ベッドの脇で目を伏せる彼に対してだけじゃなくて。
たとえば、自分はこの選択を誇るぞと。すべての生きとし生けるものへの宣言のように。
私は間違ってない。
大好きな彼との間にできた子を産む。人間として、そして動物として当たり前の行為。
出生、結婚、そして出産。人生第三のスタートとも言われるその瞬間が、約一ヵ月後に迫っていた。
予定は予定だ。私のお腹の中で眠るこの子がどのくらい成長しているかだとか、そういうことは極力耳に入れないようにしていた。
もしかしたら早まるかもしれないし、もしかしたら遅れるかもしれない。それらも含めて妊娠期間の期待というヤツだと思っているから。
ただ、それでもひとつだけ医者に言われたことがあった。
昔。私が高校生の頃。
「彼氏を作ることは絶対に許さない」なんてことを、あの父親に叫ばれたことがあった。
どうせ冗談交じりのワガママでしょうと聞き流していたそのセリフは、しかし今になって心を刺すトゲへと姿を変えている。
私は、私の母親が亡くなった理由を知らない。
父親に訊いてみたことも何度かあったけれど、毎度毎度違う答えが飛び出してくるのだ。
ならば祖父母にと思っても、実家に連れて行ってもらった覚えさえない。そもそも正月やお盆さえ自宅で過ごすような家庭だ。
いつだって父親への疑問を抱き続けていた。だけど結局、そのあたりの謎は今日まで明確な答えを得られないままだった。
妊娠が発覚した日、私は告げられたのだ。
「おそらく、あなたの体は出産に耐えられないでしょう」
そう、告げられたのだ。
母親が亡くなったのは私を産んで間もない頃だった。
中学生までは意味がわからなかった。
高校生になって、きっと出産直後で体が弱っている時に病気を患ってしまったのだろうと予想した。
いま、私は母親がこの世にいない理由を悟っている。
あの時父親の口から出た言葉はたぶん、表面だけで捉えるべきではなかったのだ。
彼は、自責の念にかられているんだと思う。
私の体への配慮が足りなかったのだと、自分を悪としてしまっている。
私には自分の気持ちしかわからない。
わからないけれど、きっと彼は私の父親の轍を踏んでいる。
そして私も。
一寸の狂いもなく、私の母親がたどり着いた終着駅へとその車輪を回しているのだろう。
彼は真面目な人だ。
私のようにやや行き過ぎた趣味を持っているわけじゃない。
自分の仕事に誇りを持って打ち込むし、かと言って家庭をおろそかにするわけでもない。
難しいはずのそれらの両立をなんでもないようにやってのける、私には少々過ぎた夫だ。
「ねえ。男の子と女の子、どっちがいい?」
彼は男の子がいい、と答える。
残念。私は女の子がいい。
人間的に反対だからか、こういう二択では得てして意見が割れるのだ。
そのたびに彼は一歩引き、私の考えを尊重してくれる。
お前が女の子がいいって言うなら俺も女の子がいいな、なんて。そんなバカップルみたいな発言を素でやってしまう人なのだ。
私は彼の譲歩に甘える。
すなわち、女の子だったらという前提で話をする。
彼は私のひとことひとことに優しく頷いてくれる。
相変わらず自分を責めながらしかめっ面、今にも泣き出してしまいそうな顔で頷いてくれる。
性格は――彼に似てほしい。
正直、私みたいな趣味の女の子はダメだと今は思う。
こうして想い想われ結婚できたことが奇跡みたいなものだ。実際、高校時代からのオタク友達はまだ彼氏もいないのだから。
外見は――背が高く、少し顔がいかつい彼に似たらそれはそれでかわいそうだ。
自分自身、この小さい体は割と気に入っている。貧乳はステータスだーなんて言い張ってたこともあったし、それは今も変わらない。
だから外見は私に似てくれた方が嬉しい。
……私の母親はどういう気持ちでこの時を過ごしていたのだろう。
私が胸に留まる不安を彼と話をすることで内へと追いやっているように、私の父親と一緒にいることで恐怖を抑えていたのだろうか。
死ぬのは怖い。否定できないし、するつもりもない。
だけどこれは自分で決めたことだ。黄泉へと渡る船の切符を自分の意思で買ったようなもの。だから後悔はしていない。
もちろん、あわよくば私と彼と子供と三人でずっと仲良く暮らす未来なんていうのも期待してはいるけれど。
――でも、たぶん無理なんだろうな。
それならせめて、彼には家事を覚えてもらわないと。
まあ飲み込みは早いからすぐに一通りこなせるようになるだろうし、そんな人だから好きになったわけだし。
彼になら安心して生まれ来る子を任せられるだろう。
私の父親のような、親としてありえない育て方をしでかす心配もない。
「女の子だったら――こう育ってほしいよ」
……一応、念は押しておこうか。
「外見はあなたに、性格は私に似ませんように」
最終更新:2008年09月24日 16:42