泉こなたの消失 第五章

「……どうかしたの? 私の顔、何かついてるかしら」

私の目の前の青い髪を持つ女性は、自らの顔を手で払うような動作をした。
確かに生きている。泉かなた。こなたの、実の母親。

「な、なんで」

ようやく口に出来た言葉が、これだった。
心臓が8ビートを陽気に刻み、私の体を徐々に暖めていく。呼吸が落ち着かなくなっている。
口の中が乾燥して、つばきを飲み込むことさえ難しい。

「なんであなたが、ここに」

落ち着け私。なんでこんなに声を震えさせているんだ。
自らに暗示を掛けても、心臓は徐々にビートを荒げるだけであった。

「あら、どういうこと? 私がここに居ちゃ……おかしいかしら?」

相手の顔に、僅かに不快の色が見えた。
いや、確かに微笑んではいるのだが、その笑顔を取り巻く気配が変化したのを感じ取ったのだ。
別に私を襲おうとか、呪ってやろうとか、そういう意思は彼女に全くないのだろうが、何故か恐怖を感じた。
蛇に睨まれた蛙――とでも言うのだろうか。身動きが全く取れない。

そのとき、彼女の背後に、また新たな影が一つ見えた。

「先輩ー、何やってんスか?」

田村さんだった。顔だけを覗かせて、目を細めていた。
私が水を汲みに行ってから10分も姿を見せないので、様子を見に来たのだろう。

「あ、かなたさん。お邪魔してますー。いつお帰りになられたんスか?」
「丁度5分前ぐらいにね。買い物してたのよ」
「それはご苦労様ッス。あ、お水いただきますね」
「いいわよ、後で麦茶持っていくから。ちょっと待っててね」
「あ、本当ですか? ありがとうございますー」

私をそっちのけで話すものだから、蛇に睨まれた蛙、すなわち私もようやく身動きが取れるようになった。
足は勝手に部屋の外へと向かっていた。今この場所に居たら、頭が変になりそうだったからだろう。
亡くなったはずなのに、生きている人間がこの世に居るわけがない。
私は田村さんについて、部屋に戻った。

震えが何故か止まらない。さっきのかなたさんの表情からは、私に対する敵意は微塵も感じられなかった。
だが、どうしてか、彼女を恐れている自分が居た。
彼女の中に、何か特別な、それこそ恐れるべき感情が隠れている――そんな気がしたのだった。







「――え? かなたさんと知り合ったのはいつか、ですか?」

ゆたかちゃんの部屋に戻ってから、私は田村さんに質問した。質問内容は、今の田村さんの返事から察してもらいたい。
パトリシアさんは、持ち込んだゲーム機と格闘していた。

「確かゆーちゃんと話すようになって、初めて家にお邪魔したときだから……6月ぐらいッスかねぇ?」
「その時、何をしたの?」
「いや別に、普通に会話しただけッスよ。他愛もない会話ッス。私たち、まだオタク入ってるってこと知られてなかったですし」
「っていうか、何で“かなたさん”なのよ」
「いやぁ、“おばさん”と呼ぶには若すぎるような気がしまして。というか、柊先輩だってそう呼んでるじゃないッスか」
「確かにそうね。同意するわ」

何でこんなこと質問してるんだろ。

「何でこんなこと質問してくるんスか?」

私が考えるのと同時に田村さんが聞き返してきたので、少し焦った。
こなたがいなくなって、かなたさんがいる。私は、その理由を知りたかったんだろう。
でも、それを聞いたところで、返事をしてくれる人はいない。
こなたが現実にいないのだから、答えられる人間など世界のどこを探してもいないのだ。

しかし、だ。
かなたさんがいる理由を知ったところで、現状を打破することが出来るのか。
答えは限りなくノーに近いと思う。根拠はないが。
でも、私は知りたい。かなたさんがいて、こなたがいない理由を。

窓から外に目をやる。おじさんが、玄関に立っているのが見えた。
手には紙袋。またオタクなグッズを買ってきたのだろうか。
しかし、今はそんなことどうでも良いんだ。

かなたさんの夫である彼に、直接尋ねるのが一番早いのは間違いない。

「Oh~、ヤラレました」

パトリシアさんがゆたかちゃんのベッドに仰向けに寝転がった。
スプリングが彼女の体を僅かに弾ませる。

「mm~、ヒヨリ、このゲーム難しくないデスか?」
「操作難しいからねぇ。慣れたら上手くいくよ」

パトリシアさんが顔だけを私たちに向けた。目を細めている。よほど難しいんだろうな、そのゲームは。
こなたにやらせたらどうなるんだろう。アイツほどのゲーマーは居ないからな。

「カガミ……死相が出てマスね……気をつけるがヨロシイ」
「え……?」

直接的な表現で申し訳ないが、ドキッとした。
死相なんて言葉よく知ってるな、とも思ったが、パトリシアさんの表情がやけに真剣だったので、戸惑った。

「またパティ、そーやってゲームに出てくる言葉使わないの。冗談でも死相が出てるなんて言っちゃ駄目だって」
「ダッテぇ~、このゲーム難しいんデスもん」
「それとこれとは関係なし。すいません柊先輩」
「あ、あはは、冗談、だったのね……」

冗談だとわかっていても、心のどこかで心配に思っている自分がいた。
もし真実を知ったら、死ぬ……?

――んなバカな。何で私が死ななきゃいけないんだ。
声や態度には出さないように、心の中でそっと溜め息をついた。







部屋を出るときに理由を聞かれたが、また「トイレに行く」と言ったらきっと疑われると思い、
今度はちゃんと事実を言って、つまり、おじさんと話がしたいと言って部屋を出た。
そのために、自分の将来や進路を捏造しなければならなかった。

「ちょっとおじさんと話がしたいの」
「ははーん、さては柊先輩、将来は作家希望ッスか?」
「あ、ええ、そんなところよ」

――こんな具合に。

それはさておき、私は今おじさんの部屋の前にいる。
耳を澄ませると、中からはPCのキーボードの音が聞こえる。そのリズムから、仕事がはかどっていることが感じ取れた。
邪魔しちゃ悪いだろうかという感情が芽生える。
人間、上手くいっているときに横槍を入れられると調子を崩すものなのだ。そんな経験、私だって何度もある。

散々悩んだ挙句――まぁ時間にして3分程度だったが――私は襖を軽く手の甲で叩いた。
キーボードを叩く音が止まり、畳を歩く音がした。その足取りも、何となく軽く感じる。
5秒も経たないないうちに、襖は、静かに開かれた。

「誰だい? ――あ、君はゆーちゃんの」
「はい。柊って言います。おじさんとちょっとお話がしたくて」
「あぁ、そうかい。じゃあ入って待っててくれるかな。仕事に区切りをつけるから」

私が思ったよりもすんなりと、おじさんは部屋に招きいれてくれた。
デリケートな人だと思っていたから、後にしてくれと一蹴されるかと思っていた。
こういう大らかなところは、こなたにも受け継がれたんだろう。

おじさんの仕事場には、あまり物が置かれていなかった。いわゆる“殺風景”というやつだ。
ちゃぶ台の上に仕事用のパソコン。麦茶の入ったコップ。棚が部屋の隅に一つ。
かなたさんが、定期的に片付けをしてくれているのだと思う。仕事に集中してもらうために。
偏見かもしれないが、どこかにフィギュアの一つでも置いてあるものだと思っていた。
仕事には真面目な人なんだな。こなたにもこういう所があるのだろうか。

かたかた、とキーボードを叩く音が止む。おじさんが、ふっと息をついた。

「待たせちゃったね。で、何の用?」

笑顔で私に振り向く。どこか、笑ったときの雰囲気がこなたに似ているような気がした。

――さて、本題だ。

「単刀直入に訊きます。奥さん――かなたさんは、出産をしなかったんですか?」

おじさんの顔が、突然強張る。さっきまで顔全体に笑みを浮かべていたが、その顔の全てのパーツから笑みは消えうせた。

「どういうことだい? なぜ、君がそれを」
「私が、かなたさんが産んだ子供と友達だったから……。信じてもらえないかもしれませんけど」
「言っていることがさっぱりわからないな」

おじさんの目が怖い。部屋の空気が怖い。全てが、私を敵対視しているように感じた。

「“こなた”という子を、かなたさんは産むはずだったんです。出産後、かなたさんは亡くなってしまうけど。こなたは、陵桜に入学して、私と出会う」

おじさんの肩から力が抜けていくのが見て取れた。

「それなのに、今、かなたさんが生きている。そして、こなたがいない」
「……かなたは、死ぬのが怖くなったんだ」

私が喋るのを遮るように、おじさんが口を開いた。低い声で、呟くように。

「子供を授かったときに、医者に言われた。かなたは、子供を産んだら死んでしまうかもしれないということを。
 でも、かなたは、それでも産むといって聞かなかった。俺はかなたに死なれるのが嫌だったけど、かなたの意見を尊重することにしたんだ」

おじさんが、俯く。その口は、微かにほころんでいた。

「出産予定日が近付いたある日に、かなたが突然叫んだ。死ぬのは嫌、死ぬのは嫌……ってね。誰の顔も見ようとしない、一人で頭を抱えて。
 その都度、医者や看護士たちが抑制してくれたけど、その後、俺は医者に呼び出されたんだ。このままいくと、ストレスで中の子供にも影響があるって」
「……だから、出産を中止したんですか?」
「苦渋の決断だった。かなたは、1週間は立ち直れなかった。ずっと部屋に閉じこもった。ドアの前で耳を済ませる度に、中からかなたの泣く声が聞こえるんだ」

おじさんが歯を食い縛った。拳がぶるぶると震えている。

「今でもたまに、かなたがパニックを起こす時があるんだ……。 何であの時、私は自分の身を優先させてしまったんだろう……。
 何であの子に幸せな暮らしをさせてあげられなかったんだろう、って……」

おじさんが、ちゃぶ台を拳で殴った。上に乗っていた空っぽのガラスのコップが、その拍子に倒れた。

「俺は何も出来なかった。かなたが苦しんでいるのに、夫として何も出来なかった。ただ、見守ることしか出来なかった」

そこまで言って、おじさんはとうとう黙ってしまった。この静寂が、息苦しく感じる。



こなたは、この世に生を与えられることが出来なかった。
そして、かなたさんは、この世から生を奪われることを恐れた。
かなたさんを責めることは出来ない。死ぬことなんて、誰でも怖い。考える事も、恐ろしい。
おじさんも、最愛の妻を奪われることが怖かったのだろう。

誰も責められない。責めることもできない。
人の生死に関わる判断は、どんな判断であろうとも、誤りなどないのだから。



「……今日は帰ってくれないか。一人にさせてくれ」

時間にしたらほんの数分の静寂だったが、私には2時間にも、3時間にも感じた。
よくこんな表現を小説で見かけたりするが、まさにこのことなのか、と実感した。

私は、黙って部屋を出ることしか出来なかった。



私は……こなたに会いたい。
でも、私がこなたに会えば、おじさんが悲しむことになる。かなたさんが死んでしまうから。
おじさんは、こなたにかなたさんの姿を写して、愛している。
でも、本当は、かなたさんに会いたいのだ。心の隙間を、こなたで完全に埋めることが、できないのだ。

私の心の中では、複雑な感情の糸が絡まってしまっていた。

襖の向こうで、すすり泣く声が聞こえた。
私は、昔おじさんがかなたさんが嘆き悲しむ声を聞いていたときのように、ただ襖の前に立ち、拳を強く握り締めることしか出来なかった。
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