我が家にパンを焼くための専用の機械がやって来た。
つかさが雑誌を見ながら私に話していたのを、お父さんが聞いていたらしい。
家の電話すらダイヤル式の黒電話だというのに、どうしてそちらを優先して買ったのかは謎だった。
忘れられないのは、電器屋から帰ってきた父が嬉しそうにパン焼き機を見せたときの顔だ。
「これで毎日、焼きたてのパンが食べられるぞ」
父が笑顔でそう言ったとき、笑っていたのはつかさだけだった。
かがみとまつりと私、そしてお母さんはこの機械が数週間で使われなくなる事を正確に予測していた。
購入後、初日は説明書と格闘する親子二人の姿があった。
「よくわからない」と言って、私も借り出された。
私の説明を理解してもらえたのか、二日目の朝食には機械で作られた食パンが出た。
スーパーで売っているパンとは明らかに違う暖かさと柔らかさに、作ったつかさ自身も驚いていた。
全員に絶賛されて、その日の朝食は終わる。
おいしかった。また食べたい。
私達が口にした望みどおり、翌日も同じパンが出た。
つかさが言うには材料を微妙に変えてあるらしい。
私にはその微細な味の違いはわからなかったが、おいしかった事にはかわりない。
四日目、五日目、六日目、七日目。
このまま一週間連続でパンが朝食に出るかと思われたが、八日目には味噌汁がテーブルに並んでいた。
「良かった。さすがにこうも連続でパンだと、ご飯が食べたくなるのよね」
私の喜びの声に、何故かお母さんは目を逸らした。
なんだろう、そう思っているとパン焼き機から完成を知らせる音が鳴った。
「えっ、ちょっと。味噌汁を作ったのにパンなの?」
「いのり姉さん、今日はお雑煮だから。食べたい人だけがパンを食べるって事で……」
「お餅が入ってるのなら尚更よ。パンを食べるわけないでしょ!?」
ためらいがちに言うかがみに向かって、私は強い口調で迫った。
「つかさに言っておいてよ。新しい機械が楽しいのはわかるけどちょっとは控えなさい、って」
「…………いのり」
「ん?」
私が振り返ると、そこにはお父さんが立っていた。
「その、すまなかったね。一度試してみたかったんだ」
謝罪の言葉は続いていたが、私はそれを聴くことが出来なかった。
まさかお父さんがやった事だなんて、考えもしなかった。
背を丸めて娘に謝るお父さんを見ているうちに、私は泣きたくなってきた。
「もういいよ」
たぶん、まだ涙は流れていない。
感情の臨界点を超える前に、私はすべてを言葉にしようとした。
「私だって試してみたかった。だけど、つかさが毎日楽しみにしているみたいだから、言えなくって」
お父さんは頷きながら、私の頭に手をのせた。
暖かくて、大きな、昔からよく知っている優しい手。
「八つ当たりなの。姉という立場を気にして遠慮をしてしまう、何も言えない自分が悪いのに」
「そうか……。ごめんな。気づいてやれなくて」
頭を撫でられながら、私はお父さんの腕の中で、とうとう流れ出した涙がおさまるのを待っていた。
社会人になったというのに、こんな些細な事で子供のようになってしまう自分が恥ずかしい。
でも、いいよね。親子だもん。
どれだけ時間が経ったとしても、私がこの人の娘だという事実は変わらない。
私が泣き止んでお父さんから離れようとした頃、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
「おはよう、お姉ちゃん。パン焼けてる?」
台所にやってきたのは、一番最後に起きたつかさだった。
「えへへ。今日はね、ぶどうパンにしてみたんだよ」
その瞬間、部屋の空気が凍った。
そして、私の感情という炎がそれを溶かした。
「お父さん。つかさを庇っていたの?」
「いや、その……。葡萄パンなら新鮮な感じがして、食べられそうじゃないか。なあ、みんな?」
「誤魔化さないで!」
私は服の袖を掴んで、逃げられないようにする。
悲しさを全て吐き出した後の私に同情の気持ちは残っておらず、手加減をする余裕はなかった。
「つかさもよ。逃げようとしないで、ここに座りなさい」
「お姉ちゃん。目が怖いよ……」
そう言いながらも、つかさは大人しく私の傍にある椅子に座った。
「お母さん。お父さんとつかさは、味噌汁にパンを入れて食べたいんだって」
お母さんは私の味方であるらしく、溜息を吐きながらも二つのお椀にパンと味噌汁を入れてくれた。
「二人とも、食べ物を残したりしないようにね」
それから数日が経ち、やはりパン焼き機は物置に封印されることになった。
私も一度は作ってみたが、二度目をやってみたいとは思わなかったためだ。
つかさも反省をしてくれたのだろう。あれからは暴走をすることもなかった。
それどころか「今日の献立はどうする?」と、毎日私に訊いてくれるほどだ。
土曜になり、一家が揃って朝食をとるゆったりとした時間が再び訪れる。
朝の食卓にパンの出ない柊家は今日も平和だった。
終
最終更新:2008年08月02日 21:53