ID:WUQO0cYo氏:粉雪

 全てを読み終えた直後、みゆきは呆然と立ち尽くすほかなかった。

 呼吸すら忘れていたかもしれない。
 やがてふつふつと湧き上がってくる黒い感情。他の誰でもない、無力すぎた自分への憤怒。
 左手に持った大学ノートを床に叩きつけようと腕を振り上げ――勢いはそこで止まった。
 偽りはないのだ。主観ゆえの勘違いが入り混じっているとしてもそれが彼女にとっての真実。
 この日記を無下に扱うのは、彼女を否定することに等しい。

 そう、事実だ。
 自分は彼女に救いの手を差し伸べていなかった。差し伸べたつもりになって、そこで完結していた。

 ――私は馬鹿だ。

 あの時、「力になる」などと軽々しく口にした自分を殴りつけ、黙らせたい。
 私は何をした? 何ができた? 何もしていない。何だってできたのに何も行動を起こさなかった!

 こんな人間を誰が信頼するのか。
 彼女の勘違いですらない。「高良みゆきは何もしてくれない」、紛れもない事実じゃないか。
 それでも彼女は絶対の信頼を寄せてくれていた。自分は彼女を支える柱でなければならなかった。
 なのに結果はこうだ。結局、自分は彼女のそばにいるふりをしていただけだった。


 ベッドの横、小さな円卓に置かれた時計は午後四時十七分を指している。
 今から学園に戻ったとして、急いでも五時には間に合うまい。彼女と入れ違いになる可能性は決して低くない。

 だが、それでも。
 今のみゆきに「学園へ行く」以外の選択肢など見えていなかった。
 他の全ての行動が彼女への裏切りに繋がると、半ば確信していた。

 そうだ、いつか彼女は言っていた。

 正義の味方はヒロインがピンチに陥らなければ現れない。タイミングを誤れば興醒めしてしまうのだと。
 自分がその正義の味方なのだと驕るつもりは毛頭ない。
 だけどそれに準ずる存在でありたいと願った。いや、今も願っている。ならば考えるまでもなく取るべき行動はひとつ。

「みゆきちゃん?」
「失礼しますおじさま。私の方からこなたさんを迎えに行きます」


 この瞬間、高良みゆきは誓った。

 たとえ全てを投げ打ってでも、泉こなたの盾とならんことを。

 


 11月8日

 朝、教室に入ったら私の机の上に花びんが置いてあった。
 いつも窓際に置かれてるやつ。
 つかさとみゆきさんが色々フォローしてくれて私も気にしないことにしたけど、こうして1人で考えてるとやっぱり気になる。
 何このギャグみたいないじめの典型。
 かがみには話してない。つまらないし。

 もしものために日記を書くことにした。
 被害妄想でも別にいい。冗談なら冗談でよかったねで終わるし。


 11月10日

 机の中にノートを破った紙切れが何枚か入ってた。
 新聞の文字の切り抜きで死ねとか消えろとか書いてある。つかさたちには話してない。
 やっぱりいじめかもしれない。
 今度何かあったら先生に相談する。


 11月13日

 放課後に大滝さんと吉田さんに呼び出された。
 悪口みたいなこと色々言われたけどあんまり覚えてない。
 誰かにチクったらただじゃおかないみたいなことも言われた。
 暴力でおどしてくるならこっちもどうにかできるんだけどそのつもりはないらしい。
 誰かに相談したいけど何かあったらいやだ…つかさたちは巻き込みたくない。
 お父さんもスランプみたいだから余計に気疲れさせたくないし。


 11月15日

 ネトゲで先生に話そうと思ったけどやめた。相手にしてもらえるような証拠がない。
 とにかく明日、2人と話し合ってみようと思う。


 11月16日

 また机の中に紙切れ。相変わらず死ねだのウザいだのばっかり。
 あの2人はしらばっくれてる。知らないわけないのに今さら何?
 だんだんイラついてきた。


 11月17日

 ジャージがなくなった。たしかに朝持ってきたのに。
 盗まれたって書いたほうが正しいか。
 またしらを切られたけど。私だってしまいには怒るよ。


 11月18日

 ジャージが戻ってきた。生ゴミくさい…
 放課後あいつらに文句言いに行ったら見たことない男子に取り囲まれた。3年かもしれない。

 2人だけじゃなかった。


 11月19日

 調理実習で佐々木に熱湯かけられて腕をやけどした。
 事故かもしれない。でもわざとやられた可能性のほうが高い気がする。
 私が知らないところで味方を増やしてたりしたらどうしよう…

 保健室に行って戻ってくるまでずっとつかさが付きそってくれた。


 11月20日

 今日は何もなかった。飽きてくれたのかな。
 そういえばつかさとかがみがそろって休んだ。最近のカゼは怖いね。


 11月21日

 みゆきさんと一緒につかさたちのお見舞いに行ったけど、カゼがうつるからってすぐ帰ることになっちゃった。
 2人ともすごく顔色が悪かった…
 早く治るといいんだけど。


 11月24日

 

 

    うそだ

 


 11月25日

 つかさとかがみに避けられてる。
 2人がいやいややらされてることはわかってる。
 だって昨日


 11月26日

 みゆきさんに相談した。今まであったこと全部。
 力になるって言ってくれた。みゆきさんがまだ無事でよかった。
 あいつらを止めないと。つかさとかがみに手を出すのだけは許さない。
 でも表立った証拠がないとトカゲのしっぽ切りらしい。それはわかってる。
 あの時逃げないで写メとっとけばすぐ2人を助けられたのに最低だ私。


 11月27日

  くつ箱に子猫の死体が入ってた

 思い出すのもいやだ…

 学校全体で大さわぎになった
 もうやだ   黒井先生が怖い

 助けて みゆきさん


 11月28日

 やっと土曜だ。1週間が長く感じる。
 休みたいけど休んだらつかさたちがまたいやな目にあわされると思う。

 さっき先生から電話があった。
 ウチが絶対に犯人捕まえたるって。犯人の名前教えられなくてごめんなさい。


 みゆきさんが泊まりにくる!
 きっと何かつかさたちを助ける方法を考えてくれたんだと思う。よかった。


 11月29日

 みゆきさんに聞いてみたけどまだどうすることもできないって。
 でも私のことを心配してくれてる。泊まりにきた理由も私が心配だったかららしい。
 ありがとうみゆきさん。少し元気でたよ。


 11月30日

 廊下を警察の人が歩いてる。ゆい姉さんはいない。交通課だから当たり前か。
 午後からは警察も帰っていつもどおりの学校だった。

 昼休みにつかさが泣いてた。
 寝てるふりだったけどわかる。つかさは演技とかへただから。
 どうしたのって聞いても答えてくれなかった。わかってたけどさ。
 あいつらに泣かされたに決まってる。


 12月1日

 かがみからメールがきた。
 今日の放課後にプールの更衣室に1人で来てくれって。
 あいつらも絶対いる。
 もうガマンできない。全員はり倒してでもつかさたちを助ける。


 重い灰色が空を覆っている。
 じき冷たい雨が降るな、と窓の外を見上げながらみゆきは思った。
 近年まれに見る大寒波。その影響で関東圏は十一月末から十二月中旬にかけて非常に寒い日が続くだろうと予報されていた。
 中でも今日は、早くもこの冬一番の冷え込みになるらしい。事実、学園指定のコートだけでは着足りないと身を震わせるほどの寒さだった。

 間もなく、タクシーは陵桜学園の正門前に到着した。
 ぐるりと周りを見渡しても生徒の影すら見当たらない。
 二十七日の事件以来、学園側は生徒の安全のため放課後の部活動等を全面的に禁止している。
 あれが異常者の手によるものである可能性は決して低くはないと考えられ、その末に導き出された対処だった。
 その決断に異論を唱える者はいない。真実を隠す霧の向こう側に立っているのはごく一部の生徒だけだから。
 みゆきもその「一部」に含まれるところだろう。いや、先ほどようやく含まれたと言う方が正しいかもしれない。

 果たして――自分とこなたの立ち位置が逆だったら自分はどうしていただろうか。
 いじめを受け、つかさとかがみを人質に取られ、表立って抵抗することもできず、そんな状況で何ができるのだろう。
 きっと彼女と同じで何もできない。つかさたちに今以上の危害が加えられることを恐れてだんまりを貫いてしまう。
 こなたを責める権利など誰にもない。彼女を平然と非難できるのは心無い部外者だけだ。

 ――もうやめよう。終わってしまったことを嘆くなんて時間の無駄。今は目の前だけを見るべきだ。


 一陣の木枯らしを合図に、みゆきは静かすぎる構内へと足を踏み入れた。


 *


「いじめ、ですか?」

 こなたの口からそんな言葉が出てくるとは思わず、みゆきは面食らっていた。

「うん……あの時の花瓶、イタズラじゃなかった」
「……そうだと断定できるようなことがあったんですね?」

 青い髪が揺れる。
 彼女はポケットから何枚かの紙切れをわしづかみにして取り出し、みゆきの目の前に置いてみせた。
 死ね。ウザい。気持ち悪い。消えろ。ゴミクズ。
 新聞や雑誌の見出し文字を切り貼りしたらしいそれらの単語がくしゃくしゃになった紙の中で潰れていた。

「机の中に入ってた」

 それだけじゃない、とこなたはこの二週間にあったこと全てを語った。
 首謀者らしき二人に呼び出され直接罵倒されたこと、ジャージ紛失の真相、調理実習での事故。

「あと。……あとね、っ。つかさと……かがみが、あいつらに――っ!」

 目元に溜まった涙と、手のひらに爪が食い込むほど固く握り締められた拳。
 その先を彼女に言わせる必要などない。つかさたちの身に何が起きたのか、痛いほどに伝わったから。

「泉さん」

 立ち上がり、そっとこなたの手を取る。
 そして翠色の瞳を見つめ、みゆきは言った。

「……今まで独りにさせてしまってごめんなさい」
「みゆきさん――」
「協力させてください。私にも、つかささんとかがみさんを助けるお手伝いをさせていただきたいんです」


 *


 瞬間、みゆきは足を止めた。

 二人を助ける手伝いを。
 もちろんその言葉に嘘偽りはない。少なくともあの日、自分はそれを心から願っていた。

 だけど、待て。
 何か大切なことを忘れていないか?

 体の震えが止まらないのは寒さのせいか。
 頭を軽く振り、みゆきは再び歩き出した。


 第一体育館の裏手、あまり人目に付きやすいとは言えない場所にプール更衣室は建てられている。
 とりわけ寒さが厳しくなる秋から冬にかけては水泳部員すら滅多に近寄らない。
 立地、季節、そして事件直後というタイミング。三拍子揃ったそこは陸の孤島と称しても過言ではなかった。

 嫌な予感がする。
 状況が出来すぎだ。まるで誰もいない空間を故意に作り出したかのような。

 作り出したかのような?
 違う、作ったのだ。あの事件によって放課活動が制限されることを見越して。
 なぜ? そんなこと考えるまでもない。何らかの、決して小さくない規模の行動を起こすためだ。

 歩みが次第に速まり、同じように心臓の鼓動も脈を増していく。
 無事でいてほしいけれど、おそらくそれは叶わない願いなのだろうとみゆきは半ば諦めていた。
 あの日記を見る限り、こなたは暴力に訴えてでもつかさたちを助けようと考えている。
 あの日記を見る限り、首謀者の周辺に男たちが数人集まっているのは間違いない。
 あの日記と彼女の話から察する限り、今日あの場には首謀者が男たちを連れて待ち構えているとしか思えない。

 いくらこなたに格闘技の心得があると言え、多勢に無勢となるのは目に見えている。
 それでも彼女は立ち向かうだろう。自分のことよりも、親友に手を出したことが許せなくて。


 悪い方へと想像を広げていたおかげだろうか。

 体育館の横を抜けて彼女の姿が視界に入った時も、みゆきはそれほど動揺することはなかった。


 *


「みゆきさん、今日ヒマ?」

 飲み物を買おうと一緒に自動販売機の前まで来たところで、こなたは周りを警戒しながら尋ねてきた。
 その動作を見て、いじめの件についての話だとみゆきはすぐに悟った。

「ええ、特に予定はありませんよ」
「話あるんだけどさ、うちに寄ってくれないかな」

 みゆきの自宅は東京にある。こなたとは帰り道が正反対だ。
 それなのにわざわざ家に呼びたいということはそれだけ重要な話なのだろう。

「わかりました」
「ありがと。それでね、今日は少しだけ残らなきゃならないから先に行っててほしいんだけど」
「……え? あの、用事がおありでしたら私も残ってお待ちしますよ?」
「ううん、一人でやらなきゃならないことだから」

 変だ、と直感した。会話が微妙に噛み合わない。
 覗き込んだ彼女の瞳に浮かぶのはある種の決意のような光。
 一体何をするつもりなのか――その問いはこなたの口から続けて出た言葉によって塞がれた。


「つかさとかがみも連れていくから。待ってて」


 *


 泉こなたはそこにいた。

 更衣室の外壁に片手を付いてへたり込んでいる。
 その背中がいつもよりもさらに小さく見えたのは、おそらくみゆきの気のせいだろう。

 頭をよぎった最悪の予想は、どうやら現実にはならずに済んだようだった。
 制服はそれほど乱れておらず、「それらしい」痕跡も見当たらない。
 ただ――最悪とまではいかずとも酷い暴行を受けたであろうことはすぐに判断できてしまった。
 赤の混じった嘔吐物や汚い足跡を付けられた鞄がその痛々しさを物語っていたからだ。

「――泉さん」

 ぴくりと彼女の肩が上下に揺れる。

「……みゆきさん。来ちゃったんだ」

 こちらに背を向けたまま、枯れた声でこなたは応えた。

「泉さんのお部屋で……その、日記を」

 ごめんなさい、とみゆきは頭を下げた。状況が状況とは言え、プライバシーを侵すことに抵抗がないわけではなかった。
 その言葉に対して、こなたはううんと一言だけ呟き返す。
 しばしの沈黙の後、彼女は左腕を震わせながら絞り出すように口を開いた。

「ごめん……つかさたち、助けられなく、っ……」

 嗚咽と咳でその先を聞き取ることはできなかった。
 涙は既に一度枯れていたのだろう。こなたは深く俯き、声を出さずに泣いていた。


 強い人だと、思った。

 いじめを受けているのは自分なのに、保身など微塵も考えずただ親友を助けることだけを望む。
 そのためにはたとえ敵わないとわかっていても立ち向かう。
 傍から見れば確かに蛮勇かもしれない。
 それでも、何も行動を起こさなかったみゆきにとって彼女の姿はあまりに気高く、眩しかった。

 彼女に友と呼んでもらえるに足る人間でありたい。


 傍観者だった自分を恥じ、みゆきはゆっくりとこなたに近付いていく。


「遅かったね、委員長」

 はっとして振り返った先に彼女はいた。
 同じE組のクラスメイト、吉田。こなたをいじめていた首謀者の片割れ。
 間もなく仲間らしき男子生徒たちが数名現れた。なるほど、確かに顔に見覚えはない。

「……つかささんとかがみさんはどちらにいらっしゃるんですか」

 つとめて冷静にみゆきは尋ねた。
 怖くないわけがない。客観的に考えればいち早くこの場を離れて校舎内に残っているであろう教師を頼るのが大正解だろう。
 だけど逃げるわけにはいかない。逃げてはいけない。
 こなたを守ると誓った。盾が一人で逃げ出したら誰が彼女を守る?

「知らない。もう帰ったんじゃない?」

 にやけた口元が癪に障ったが、嘘をついている雰囲気ではない。
 この場にいないのならひとまず二人については保留だ。みゆきは次の質問に移った。

「では、大滝さんはどちらに?」

 ふんと鼻を鳴らし、吉田は答える。

「どっか遊びに行ってんでしょ。私だけこの寒い日に外で待たされるとかマジ最悪」

 やはり嘘には思えない。今さら隠すことでもない、と余裕を見せているのか。

「どうして泉さんをいじめられたんですか?」

 みゆきの表情は相変わらず無を保っている。
 だが、全身からにじみ出る怒りは彼女たちにも容易く感じ取れたのだろう。吉田は苛立たしげに顔をしかめた。

「ムカつくのよ。やることなすこといちいちウザいしKYだし、チビの癖に態度はデカいし」

 予想通りだった。
 大した理由などない。いじめとはひとえにそういうものだ。
 もちろんどれだけご大層な動機があったとしても許される行為ではないが。

 ちらりと周りを確認するが、完全に包囲されており逃げ場はない。
 背後には壁があるだけだし、もとよりこなたにこの場から逃げ出すだけの体力は残されていないだろう。

 詰みだ。
 この後みゆきを待ち構えているのは、良くてこなたと、悪ければつかさやかがみと同じ苦しみ。
 告げ口をするなという言いつけを破った彼女も、今までとは比べ物にならない苦痛を味わわされるに違いない。
 ――自分の行動は間違っていたのだろうか。
 自分がこの場所に現れなければ少なくともこなたはこの日をなんとか乗り切れていたのではないか。

「……げて」

 マイナス思考に飲まれそうになった瞬間、みゆきのコートの裾が弱々しい力に引っぱられた。
 見下ろした先には血が出るほどに唇を噛み締めたこなたの顔。

「逃げてぇ……っ」

 それはあまりに悲痛な声だった。
 直後に彼女に浴びせられた嘲笑に、みゆきはくっと手を握り締める。

「そうだよ委員長。逃げた方がいいよ? 何されるかわかんないよ~?」

 再び、嘲笑。
 これまで装っていたポーカーフェイスは、もう限界に達していた。

「……最低です」
「ん?」
「最低です、あなたたちは」

 この瞬間、みゆきは生まれて初めて他人を貶めた。
 学級委員長としての責任だとか、親友を守るためだとか、そんな綺麗事でなく。
 彼女はただ個人的に、目の前の人間を嫌った。

「へえ。高良さんがそんなこと言うなんて思いもしなかった」
「私もです。こんな感情を抱くことがあるなんて今まで思いもしませんでした」

 もはや敵意を隠すつもりもなく、みゆきは言い放つ。

「あなたたちは絶対に許しません」

 気圧されたのか、吉田は眉をひそめた。
 それもそのはずだ。あの温厚な委員長がここまで怒りをあらわにするなど誰が予想できたことか。
 だが彼女もここで尻尾を巻くつもりなど毛頭ない。そもそも優位なのは彼女たちなのだから。

「そいつ黙らせて。目立つとこに傷付けないでよ」

 その一声で男たちが動き出した。じりじりと狭まる包囲網に、みゆきは内心絶望を隠しきれない。
 だけど守ると誓った。誓ったからには守り通すのが盾の役目。
 自らは決して暴力になど訴えず、ただひたすらに矛先を受け止め続けるだけ。


 そうだ、やっと気付けた。
 つかさとかがみを助けるだけじゃない。

 彼女を。

 心に深い傷を負ったこなた自身を守ること。それがあの時、みゆきが交わすべきだった約束。


「やだああああああっ!!!」

 すぐ後ろから響いたこなたの悲鳴。それを皮切りに、目前に迫った男が右腕を振りかぶる――


 *


 例の事件の影響か、ここ数日は授業が一、二時限短い日が続いていた。
 もちろんこの日も例外ではなく、十五時過ぎには早くも放課となった。

「それじゃみゆきさん、また後でね」

 ほうきを小脇に手を振るこなたに一時の別れを告げ、みゆきは学園を後にした。
 大局的に見れば彼女を無視してでも待ち続けるのが正解だったのだろう。
 それでも、あの瞳の輝きを思い出すと彼女の頼みを切り捨てる気にはなれなかった。


 作務衣が印象的なこなたの父親に出迎えられ、彼女の部屋へと通される。
 控えめに見ても散らかっていると言わざるを得ない。実にこなたらしい――と、みゆきは苦笑した。

 それでも、やはり家でも普段と様子が違うらしいということは感じ取れた。
 父親の前では気丈を装っているのかもしれない。
 土曜日に来た時には気が付かなかったが、枕には涙に濡れた跡がありありと見て取れるのだ。
 きっとつかさやかがみの苦しみを想い、連日ひとり泣いていたのだろう。


 そして、みゆきは机の上に置かれた一冊の大学ノートを目にする。
 勉強に関わるものでないことは確かだろう。宿題でも出されない限り、彼女は教科書やノートを持って帰るようなことはしない。
 ――この考察を聞かせたら口を尖らせるだろうか。
 いや、彼女のことだから飄々と「その通り」なんて答えを返してくるのではないか。
 そんな他愛のない考えを巡らせながらも、目はなぜかそのノートから離れなかった。

 抵抗はあったが、やがてみゆきはそれを手に取った。
 なぜ読んでみようという気になったのかはわからない。
 明らかなプライバシーの侵害であることはもちろんわかっているし、人間としてやってはいけないことだというのも理解している。

 ただ、これを読まなければならないという直感だけがその時の彼女を支配していた。


 *


「先生、あそこです!」

 不意に聞こえたその声に、男たちはぴたりと手を止めた。

「現行犯だ! 逃げても構わんぞ。お前らの顔と名前は一致している」

 続けて響いたのは、確か教師の声だ。物理だったか生物だったか、よくは覚えていない。
 ほんの数秒前までみゆきに拳や蹴りを見舞っていた彼らは明らかに動揺していた。
 当然だ。現場を教師に見られ、あまつさえ逃げようが関係ないと挑発までされているのだから。

「っ……は、早く逃げなさいよグズッ!!」

 吉田の叫びでようやく男たちは動いた。見事なまでに散り散りになって逃げていく。
 彼女自身も逃げ去り、あっという間にこの場は静寂を取り戻した。

「大丈夫――ではないな。八坂、二人を保健室へ連れて行け。私は他の教師を呼んでくる」
「は……はい」
「早くしろ。あいつらがすぐに戻ってこないとも限らないぞ」


 八坂と呼ばれた女子生徒の肩を借り、二人は保健室という名の聖域へと導かれた。
 到着してすぐに養護教諭、天原ふゆきの診察を受け、ベッドに寝かされる。
 幸いにもみゆきの容態はそれほど深刻ではないそうだったが、こなたに関してはお世辞にも大丈夫とは言えないようだった。
 最悪の場合、内臓裂傷。嘔吐物に混じっていた血を確かに見たみゆきにとって、それは笑って済ませられる話ではなかった。

「先生……」
「すぐに救急車を呼びます。大丈夫ですよ」

 それがみゆきを安心させるための彼女なりの優しさだということはすぐにわかった。
 だが――極限の緊張状態から解放されたせいか、その言葉を聞いた瞬間にみゆきは強い睡魔に襲われていた。


「みゆきさん――」

 意識が途切れる直前。

「ありがと……」

 こなたの声が、聞こえたような気がした。

 

 冷たい雨が降るというみゆきの予想は外れ。

 

 灰色の空に、粉雪がひとつ舞った。

 

 

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。