夏のコミケ会場。
柊かがみは、人ごみを避けながら、ゆっくりと歩いていた。
彼女は、同人誌を買いあさりに来たわけでもなく、もちろん売り手側の人間でもない。
あえていえば、市場調査という言い方がかろうじて当てはまるだろうか。
柊かがみ法律事務所の顧客は、この界隈の人間またはその関係者がほとんどだから。
弁護士の仕事は、顧客の抱えている現実と主張を法律用語をもって構成する作業であり、まず顧客と意思疎通ができないと話にならない。そういう意味で、一般的な情報収集は日常的に行なっておく必要がある。
そういう意味では、この界隈の最大のイベントであるコミケは外せない情報源であった。
それに加えて今回の場合は、仕事の成果の確認という意味合いもあった。
今回のコミケ、実はひと悶着あったのである。
とある出版社が、著作権を盾にして、コミケ運営主体に、同人誌販売の全面禁止を要求してきたのだ。
この出版社が著作権を有している作品の中にはアニメ化して人気が沸騰しているものがあり、それの同人誌を禁止するとなれば、参加サークルからの反発は必至。
運営主体は困り果てて、柊かがみ法律事務所に駆け込んできたというわけである。
かがみは、コミケ開催まで時間がないこと、現行法制上では裁判になったらまず勝ち目がないことを考慮して、和解交渉でケリをつける方針を固めると、出版社に乗り込んでいった。
ここの法務部門はとんでもない石頭で同じセリフを繰り返すのみ。話にならないと判断したかがみは、営業部門の責任者を呼んで、同人誌をはじめとする二次創作の広告効果、書籍その他の売り上げへの貢献について具体的なデータを示して説明し(このあたりは、日頃の地道な情報収集の成果が出た場面でもある)、口説き落としたのだった。
その後、具体的な内容・文言をめぐって法務部門と激しいやりとりはあったものの、結果として、和解契約に出版社と運営側双方のハンコを押させることができた。
その内容は、出版社は著作権を有する作品の同人誌等の二次創作の販売を容認すること、当該同人誌等には同社の広告紙等を折り込むこと、著作権使用料は広告料と相殺されたものとみなすこと、性的描写・同性愛表現がある同人誌等については18歳未満への販売禁止を徹底すること、企業ブースに同社のスペースを確保することなどである。
こうして、コミケは無事開催の運びとなったのである。
「やふー、かがみん」
呼びかける声に振り向くと、そこには泉こなたがいた。
手押し台車の上にダンボール箱が重なっている。中には同人誌がびっしり詰まっているに違いない。
「あんたも相変わらずね。今回はいくら使ったのよ?」
「50万円くらい?」
「呆れて物もいえないわね」
「今回も収穫はばっちりなのだよ」
「さいですか」
かがみが呆れた顔をしていると、
「今回のかがみんの活躍は聞いてるよ。某巨大掲示板でもその話題で持ちきりだったしね」
「そんな裏方のことなんて黙っておけばいいのに。その手の情報ってどこから伝わるのかしらね?」
「どこの世界にも事情通はいるものだよ。それはともかく、これはちょっと興ざめだね」
こなたは、手にした同人誌からぽろっと冊子を取り出した。例の出版社のものだ。
「仕方なかったのよ。あちらさん、著作権使用料の徴収に最後までこだわってたから。でも、それ認めちゃったら、他の出版社も著作権使用料とるって話になっちゃうでしょ。影響が大きすぎるもの。それで、運営側とも話し合って何とかひねり出した妥協案がそれだったわけ」
「妥協の産物ですか」
「今回は時間がなかったからそんなだけど、次回からコミケ専用のを用意してくるでしょ。そうなれば、プレミア物ってことで、あんたたちにとっても悪い話じゃないと思うけど」
「うーん、確かにそうともいえないこともないか。まあ、なにはともあれ、コミケも無事開催できたし、かがみ様様だよ」
「私は仕事をしただけよ」
「謙虚だねぇ。でも、賞賛は素直に受け取るべきだよ、かがみん」
二人連れ立って歩く。
こなたは、いったん会場を出ると近くのコンビニでダンボール箱を宅配する手配をして、再び戻ってきた。
「かがみん、お昼にしようや」
「そうね」
二人は、朝のうちにコンピニで調達しておいたおにぎりとペットボトルの飲料で昼食をとった。
「しかし、あんたも毎年飽きもせずによく来るものよね」
「コミケは私のオタク人生の原点なのだよ。五歳のときから通ってるしね。欠かすわけにはいかないのだよ」
「原点ね。まあ、そうやって誇ることのできるものがあるってこと自体は否定するつもりはないけどさ。で、午後からはどうするの?」
「ひよりんとパティのとこにいくつもりだよ。ひよりんとこの会社は、今年も企業ブースにスペースもってるからね」
田村ひよりとパトリシア・マーティンは、アニメ製作会社に勤めてる。ひよりは作画、パティは脚本を担当していた。
こなたが書いたライトノベルのアニメ化も手がけているので、関わりは深い。
どこの世界でもいえることだが、世間というのは案外狭いものだ。
午後。
「やふー、ひよりん」
「こんちわッス、泉先輩、柊先輩」
「調子はどうだね?」
「絶好調ッスよ。限定イラストも1時間で売れ切れたッス」
「それは結構なことだね」
ひよりは、一枚のイラストを取り出した。
売り切れたというのは厳密にいえば嘘で、一枚だけ取り置いてたのだ。
「これは泉先輩の分ッス」
「いつも悪いね」
「とんでもないッス。うちの会社が儲かってるのも、泉先輩のおかげッスから」
こなたは、イラストを受け取り、財布からお金を取り出す。
ひよりは慌てて両手を振った。
「泉先輩からお金を受け取るなんてとんでもないッス」
「いやいや、こういうのはきちんとしとかないとね。少なくても、ひよりんが腕によりをかけたこのイラストは、お金を払うだけの価値は充分にあるよ」
「恐縮ッス」
ひよりは、本当に恐縮そうにお金を受け取った。
こなたは、イラストをしげしげと眺めた。
「今回も気合入ってるね、ひよりんは」
「コミケは私の原点ッスからね。下手なものは出せないッスよ」
ここで、ひよりが改まったようにかがみの方を向いた。
「ところで、柊先輩。先日はどうもありがとうございましたッス。社長からもくれぐれも感謝しておくようにって言われてるッス」
ひよりは、深々と頭を下げた。
「たいしたことじゃないわよ。そんな大げさなことしてくれなくても……」
先日、ひよりのアニメ会社でちょっとした事件があった。でも、かがみが相手方との交渉をこなしてくれたおかげで、大事にならずに収まっていたのだ。
「いえいえ。私は法律のことは詳しく分からないッスけど、あのままだったらやばかったって社長も言ってたッス」
「まあ、よくあることだから今後も気をつけるように社長さんには伝えておいて」
「はい。伝えておくッス」
「やっぱり、かがみんは尊敬されてるね。ところで、パティは巡回中かな?」
「そうッス。そろそろ戻ってく……」
ひよりがいいかけたとき、
「ハロー。みなさん、お久しぶりデース」
振り向けば、パティがたくさんの紙袋を両手に持って立っていた。
「こんちわ、パティ。戦利品はばっちりのようだね」
「当然デース」
「あんた、仕事で来てるのに、それでいいのか?」
かがみがツッコミを入れる。
「お祭りは楽しまないと損なのデース」
「うちの会社は、こういうのには寛容ッスから。売り子が一人待機してれば、あとはうるさいことは言いっこなしッス」
ひよりがフォローを入れた。
「完全に同人サークルのノリだな」
「そうッスね。社員もほとんどがオタクですから」
その後も四人の会話は続いた。
ノリも昔と全く変わらない。
帰り。
こなたと別れたかがみは、電車に揺られていた。
原点。
こなたとひよりが口にしたその言葉がふと思い出される。
彼女たちには、原点だと明言できるものがある。
では、自分にとって、原点といえるものはなんだろうか?
脳裏によぎったのは、親友のこなたの姿だった。
ああ、そうか。
自分にとっての原点は、こなたなんだ。
もし、こなたに出会ってなかったら、弁護士になっても、オタク関連業界の問題に深入りすることはなかっただろう。
これからも、原点であるこなたから離れることはできそうにもない。
そして、それが嫌なわけでもなかった。
「すっかりこなたに染められたわね、私も……」
声に出さなかったつぶやきは、誰にも聞かれることはなかった。