ID:aGYc42Mo氏:進路

 夕暮れどき。台所の前に立ちつくしていた。
 明日はバレンタイン。何人分の量をつくるのかを指折って。
「おとうさんとおかあさん、お姉ちゃんたち三人、のぶんはつくるとして―――」
 どうしようかな。用意した材料をみつめながらつぶやいた。友人たちのぶんを、どうしよう。
 渡す機会がない。受験するひとたち進路が決まっているひとたちさまざまの、自由登校の三年生。
 どうしようかな。もういちどつぶやいた。フィクションの恋愛ストーリーの女の子のように、特にどうしても渡したい相手がいるわけでもなし、たいした思い入れはない。家族・友人への毎年の恒例行事。はっきりいってしまえば、「今年はそんな気分になれなかったからつくるのをやめた」で済ませることだって簡単にできる。
 簡単につくることができるから、簡単につくることをやめることができるから。ぜんぜん、たいした問題ではないから。
 だから、迷っている。

 落日の光が窓の外から部屋を染めている。微妙な時間帯だ。たいていは母がそろそろ夕食にとりかかる。迷っていれば迷っているぶんだけ、わたしが台所を占有できる時間が減っていく。

 ……そう、もう日暮れどきだ。減っていくもなにもない。台所を占有できる時間なんて、残っていない。
 そもそも朝でも昼でもつくるチャンスはあったのだ。時間はありあまっていた。自由登校の、三年生。専門学校への進路が決まっているわたしは、三月の卒業式まで、陵桜学園に用事はない。
 それに何人分をつくればいい、だなんて、そんなこと迷う意味もない。家族のぶん以外に、てきとうに多めの量を備えておけばいいだけなんだから。
 ため息をついた。顔をあげると、オレンジ色のひかりが目に映る。まぶしい夕方の色。薄暗い夕闇の色。気を抜くとなにか物思いにふけることを強制されるような、さびしいコントラスト。

 さびしい夕暮れ―――そう、わたしはさびしいのかもしれない。わたしの高校生活がもうすぐ終わることが。ほとんど終わってしまっていることが。
 さびしいから、一日中なにも手につかないままぼけっと過ごしてしまっている。わたしは卒業式で泣いてしまうタイプだろうか。ひとごとのように、そんなことをぼんやり思った。


「まいったなあ……」
「なにが?」
 苦笑するわたしのひとりごとに、横合いから疑問の声。おかあさん。
「あ、おかあさん、これから晩ご飯?」
 逆光の姿に、ごまかすように笑って尋ね返す。
「そのつもりだけど……」
 言いながら、おかあさんはキッチンに乗っているお菓子の材料に目をとめた。
「バレンタイン? 今年はなにをつくるの?」
「今年はクッキーだよ。チョコチップ」
 なめらかに返事が口をついて出てきた。内心でだけびっくりする。表情には出さない。驚きを隠す隠さない以前に、そもそも突然すぎて表情の驚きを認識していない。今年は正直、バレンタインの用意がめんどうだと思いはじめていたところを、長年つちかってきた毎年の慣習に抑えられてしまった感じ。―――柊つかさの、毎年。
「そう、楽しみだわ。でも、いまから?」
 いまからお菓子作りに入られるとさすがに困るな、と落ち着いた声。わたしは首を横に振る。
「ううん、いまは無理だなって考えてたところだから……」
 もう卒業だというのに、わたしのとろくてそそっかしいところはなおらない。夕方にようやくバレンタインの用意をする気になって。思い立ったら時間のことをなにも考えずに足りない材料を買いに行って。そして帰ってきたあとに意味のないことに悩み続けて。まったく、自分には呆れるしかない。
 そんなわたしだから―――

「……冷凍してある作り置きのおかず出せば、手早く済むといえば済むけれど」
 わたしに気をつかってなるべく早く台所を空けてやるとおかあさんは言う。
「いいよ、べつに。明日ゆっくりつくることにする」
 首を横に振ったわたしに、そう? とおかあさんは首をかしげる。
「わたしもう学校ないから、明日の朝からつくったっていいんだよ」
「そう、そうね……。あなたたちももう卒業か、時間の経つのは早いわね」
「うん。早い。すごく、早いね」
 嘆息するおかあさんにはっきりとうなずき、実感を込めてつぶやいた。

 ―――そんなわたしだから、時間の流れについていけていない。自分だけが、取り残されている。
 いつかお姉ちゃんに言われたことがあったっけ。あなたたちは似ているわね。それぞれがそれぞれに、独特のマイペースを持っている。
 たしかにわたしのマイペースなところはこなちゃんと、ドジなところやゆったりしたペースを好むところはゆきちゃんと共通していると言えるのかもしれない。クラスのなかで仲良くなれた要因もそこにあったのだろうか。
 ……ただ、同じマイペースという単語でも、こなちゃんを表すそれは我が道を行く個性の強さであり、ゆきちゃんのそれはいつも自分をやさしく冷静に保つ芯のまっすぐさだ。ひるがえってわたしの場合は、周りのペースに合わせられず置いていかれる、単なるとろさでしかないのだと思う。

 日常がおもいでになっていく。ちょっとさびしくてちょっとせつなくて。なんとなく胸にぽっかりと穴があいたような気分。
 入学して、進級して、受験を意識して、進路を決めて。その過程にあるたくさんの日常。こなちゃんとゆきちゃんとお姉ちゃんを中心とした、三年間のわたしのおもいで。
 いまのいままで気づけていなかった。あたりまえのことのはずなのに、それと向きあうことができていなかった。
 少しずつ日を重ねてかたちづくられていったおもいで。もう、巻き戻せない時間―――

「つかさ……?」
 実感のつぶやきは、思いのほか強い調子で発せられていたらしい。
 疑問の視線に、なんでもないとわたしは笑った。お菓子の材料をしまってくることにかこつけておかあさんから目を逸らす。

 ―――高校生でいられたわたしの季節は、ほんとうに終わってしまったんだね。
 手伝おうかと呼びかけたら、「部屋でぼうっとしていなさい」と突き放された。予想もしない返答に目を向けると、からかうような微笑。
 突き放すような返答だったけれど、そこに厳しい印象はまったくない。言葉の意図も表情の意味も読めなくて、ぼんやりとおかあさんをみつめながら首をかしげた。
「ご飯できたら、呼ぶわ」
「……あ、うん、待ってる」
 わたしの疑問の表情にはなにも答えてはくれなかった。わけもわからぬまま、言われるままにきびすを返す。おかあさんの見送りの視線を感じながら歩を進める。

「つかさ」
 鴨居のしたでふと呼びかけられた。振り向いて、なに? と表情だけで問いかける。おかあさんの言葉を、沈黙したまま待つ。
「あなた、大きくなったわね」
 なにかをなつかしんでいるような、おだやかないろをのせた声。
 急にそんなことを言われても、こちらとしてはどう返していいものかわからない。
「いきなり、なに?」
 困ったように、わたしは苦い笑みを浮かべる。おかあさんがくすりと笑う。
「―――走馬燈って、あるじゃない? 死ぬ間際にいろんなことが思い浮かぶっていうあれ」
「うん、わかるけど……」
「走馬燈ってね、死ぬ間際じゃなくてもよくまわるのよ」
 そう、おかあさんは言った。
 ―――たとえば、子の人生の節目ふしめに、親は子供のこれまでの全生涯をよく思い浮かべるのだと。
「卒業式なんか、その典型よね。もちろんなにかの行事じゃなくっても、ふとしたきっかけで子供の成長を感じるとことがよくあるの」
 娘の立場で聞く母の想いは、照れくさいような、むずがゆいような、居心地のわるい気分。大人と子供の差が、そのままこの余裕の差にあらわれているようにも感ぜられて落ち着かない。
 だからわたしは曖昧な生返事で相づちをうつだけしかできなかった。そんな不器用なわたしの様子におかあさんの目が細まる。わたしを透かして、遠い過去のおもいでをみつめながら、

「―――さっきあなたを見て、走馬燈がまわったの」

 おかあさんはそう、静かに微笑んだ。


 かがみお姉ちゃんの部屋の前で立ち止まる。ぼんやりと、戸をみつめる。進路の決まっているわたしと違って、これから大学の前期試験が待つお姉ちゃんはいそがしい。あまり足をひっぱるような真似はしたくない。

 なにか話をしたいなと思ったけれど、なにを話せばいいのかまとまってもいない。呼びかけることはためらわれた。
 ぶんぶんと頭を振って気分を切り替える。まあいいかと開き直る。あとでなら、バレンタインを口実にできるだろうし。
 そう考えて、結局、このままわたしはひとりで自室に戻った。
 ベッドのうえで、ご飯よという呼びかけを聞く。ずいぶん速くつくったなと思ったら、部屋は真っ暗。鮮やかな夕映のひかりはどこにいってしまったのだろう。
「あれ~……?」
 すっかり夜の帳が落ちている。ぼうっとしていたらどうやら眠ってしまったらしい。
 また、時間が過ぎた。ほんとう、なにをやっているのだろうかと思いながら床に足を降ろす。

 居間ではわたし以外の家族がすでにそろっていた。いのりお姉ちゃんとまつりお姉ちゃんがいつ帰宅したのかも覚えていない。
 ただいまの挨拶も聞こえないほど呆けていた自分に、内心、なんだか苦い思いがした。

 席に腰をおろす。わたしが座ったところで「いただきます」の唱和。

 晩ご飯を食べながら、対面のおかあさんに目が留まる。
 ―――さっきあなたを見て、走馬燈がまわったの。
 いま思えば、あれは、わたしが大人になっているとはげましてくれたのだろうかと思う。なにがあっても、だれも気にしていなくても、時間は過ぎていくこと。わたしも、どこかで変わっている。わたしたちの生涯をみつめてきたひとは、それを知っている。
 こっそり一同を見渡す。受験生のお姉ちゃんが居るからといって、家のなかで、それほど露骨に気をつかう雰囲気はあまりない。
 お姉ちゃんが受かればそれはそれでみんながうれしいし、仮に落ちたとしても、お姉ちゃんなら浪人生活の一年を有意義に過ごすだろうという安心があるように思う。信頼されているというのか、かがみお姉ちゃんの受験をおおごとだと思っていないというのか。信頼と無関心が、どちらも並列しているような空気。
 ちらりと隣のかがみお姉ちゃんを盗み見る。いつもと変わらない、なんでもない様子でご飯を口に運んでいる。
 まつりお姉ちゃんの受験のときはどうだったっけ。わたしたちはどんな態度をとっていたっけ。あまり覚えていなかった。そういうものなのかもしれない。
 
 ―――そう、そういうものなのだろう。


「片づけ、わたしがやるよ」
 食事が終わって、お皿が積まれた台所の前。おかあさんに声をかける。
「そのあとこのまま、わたしが台所使うから」
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えるわね」
「うん」
 おかあさんはわたしの申し出にうなずき、よろしくと言い残して居間に去った。
 そのうしろすがたを見送る。ずっと昔は母を見あげる目線だったのに、いまではこうして変わらない高さで母を見ている。かつて母の胎内にいた赤ちゃんたちは、みんな、この家で、おかあさんとほとんど変わらない高さまで育った。
 わたしは大きくなった。おかあさんの背中を見ながら、すなおにそう思った。
 日付が変わるころ。二月十四日の深夜零時ごろ。かがみお姉ちゃんの部屋の前に立つ。飲み物とお菓子を載せたお盆を持って。
「……お姉ちゃん、いま、いいかな? 飲み物とかいらない?」
「いるー、いま開けるわ」
 ふすまの向こうから、気負いのない声が返ってくる。

「あ、なんかすごい匂いが甘い」
 お盆を見ながら、お姉ちゃんはそう漏らした。
「うん、バレンタインだから、こんなものつくってみたんだけど……」
 湯気の立つカップ。ホットチョコレートを差しだす。
「あとこっちはチョコチップクッキー」
「あー、助かるわ。ちょうど甘いものがほしかったところ。ありがとう」
「ううん、これくらい」
 これくらいなんでもないと首を振って答える。
「ごめんね、勉強、おじゃまじゃなかった?」
「いいよ、すこし休もうと思っていたところだしね」
「……じゃあ、すこし、お話ししていっていいかな」
 差し入れ以外に、今日はすこし、あなたと話をしたい。
 もちろんいいよと、お姉ちゃんはうなずいた。

「なにげに、最近あまり会話してなかったかもね、わたしたち」
「そうだね、勉強、どう?」
「まあ、それなりに、としかいえないかな」
 困ったように笑って答えた。
 ホットチョコレートをすこし飲みこんで、ため息をついて。
「最近ね、けっこう進路のことについて真面目に考えてるんだ」
 どこを受験するとかを選ぶ意味ではなくてね、とお姉ちゃんは言った。
「……つかさはさ、将来これでお金を取るのよね」
 いま口にしているお菓子類をかかげて示す。
「どう、なのかな」
 そういう言いかたをされると、わたしも首をかしげるしかない。
 どこかの厨房で忙しく働く自分を、うまくイメージできなかったりする。
「たとえば、どこかのお料理教室の先生、っていうのはありえるかもしれないけど……」
 自信なく、そう答える。
「そっか、そういうのもあるのか」
 クッキーを口に運ぶ。
「いつから、つかさはこんなに美味しいお菓子をつくれるようになったんだろう」
 そんなことつぶやきをお姉ちゃんは漏らした。
「お姉ちゃんが勉強できるのは昔からだよね」
 姉妹の違い。同じ日に、同じ胎内から生まれた。同じ家で育ち、同じ学校に通った。
 ……その日々が、もうすぐ終わることの感慨が、わたしにもお姉ちゃんにもある。

 しんみりとした、沈黙。だれもいつまでも子供でもいられないことを、いつからか、だれに言われるまでもなく、わたしたちは知っているから。だから意外と、かなしい気もちはそれほど無い。
 この沈黙に、どこか連帯感のようなものがあった。

 つかさ、とお姉ちゃんは言った。
「あなた、大きくなったわね」
 苦笑いしながらわたしは答える。
「おないどしだよ、わたしたち」
「そうね、わたしたち、同い年なんだ」
 うなずいて、お姉ちゃんが微笑する。
「わたしたちだけでなくて、こなたやみゆきについてもそうなんだって思う。子供じみているとか大人びているとかそれぞれいろいろ思うところはあったけれど、わたしたちみんな、精神年齢は変わらないのよね」
 そうだね、と答えた。そうだね、とわたしたちは笑いあった。
 これからの道が分かれているとしても、わたしたちが歩んできた人生のおもいでは消えない。絆がこれからもつながっていることを、わたしたちは知っている―――


 桜の咲いた三月。お姉ちゃんたちにも、桜が咲いた。

 待ち合わせの駅。青空のしたで、やっほー、とこなちゃんがわたしたちに手を振っている。学校に着いたら、ゆきちゃんがわたしたちに笑いかけてくれるだろう。
 いつものやりとり。きっと、今日が最後のやりとり。泣かずに、笑顔ですませられたらいいなと思いながら、わたしはふたりに並んで歩いてゆく。

 今日、わたしたちは、陵桜学園を卒業する。

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最終更新:2008年07月21日 00:34
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