空いていた席のひとつに座って、一同にむかってマイクの前で一礼する新婦を見ている。
みなさま、今日はわたしたちのために時間を割いてこの披露宴に出席していただきまして、本当にありがとうございました。最後に、わたしから父への感謝の言葉を伝えるにあたり、ひとつのエピソードを、みなさまにも聞いていただきたいと存じます。 いつか、父から「おかあさんがいなくてさびしいか」と尋ねられたことがあります。お盆の時期でした。その当時は従姉妹のゆたかさんが高校通学のために同居していましたし、そしてゆたかさんが家に来る以前からも「父がいるだけでふたりぶん賑やかだから」さびしいと感じたことは全くない、と本心から答えました。 片親の家庭でのありきたりな会話と言ってしまえばそれまでですが、その会話の後に、変わったできごとがあったのです。湿っぽくなった空気を払うように、父はことさら明るく、「写真を撮ろう」とデジタルカメラを持ち出してきました。しかしそれでシャッターを切ったのち、一枚の心霊写真ができあがっていたのです。現像された写真ではなく、当時買ったばかりの新品のデジタルカメラの映像の中の話です。 雑誌の記事など以外で、わたしが心霊写真などというものに触れた機会は、後にも先にもこの時だけです。当時のわたしたちはその映像に驚いて、慌ててしまいましたが、いま冷静に、あれはなんだったのだろうとふりかえってみると、それは別に、怖いものでもなんでもなかったのではないかなあと思うのです。 お盆の時期に、父娘ふたりで母の話をした。父娘ふたりで写真を撮った。ふたりのまんなかに、奇妙な影が映っていた。そのことに不思議な縁が感ぜられてなりません。きっと母のいたずらだったのではないかな。あのできごとはそんなおもいでとなって、母の年齢を超えた現在のわたしのなかに残っています。 おとうさん。 おかあさんに酷似した容姿で、こうして衣装を着ているわたしに対して、いま、おとうさんは言葉ではつくせない感慨があると思う。娘の自惚れではなく、泉かなたを愛した夫であり、泉こなたを育てた父である、そんなおとうさんをわたしは知っているから、そう思う。 わたしはいつまでもあなたの娘だけれど。今日を境に、わたしはあなたの家の子ではなくなってしまう。列席してくれている方の前ではとても失礼な言い方になってしまうけれど、それはとてもさびしいことだよね。 だけれど、あなたに嫁いだお母さんが歩んだ道を、こうして再現できるまでに私は育つことができた。これはとてもうれしいことだよね。 ありがとう、おとうさん。 おかあさんがいなくてさびしいか。その答えをあらためて、もういちど言うよ。 さびしくはなかった。おかあさんには悪いけれど、まったく、これぽっちも、さびしくなんてなかったよ。むしろそんな片親の環境の中で、おとうさんがわたしに尽くしてくれたことがかえってわたしを健やかに、伸びやかにしてくれたのだと思っている。わたしのともだちが、それを保証してくれる。 いまある限りの、おとうさんとおかあさんの娘でしかないわたしの、最後の感謝です。 ありがとう、おとうさん。
熱心な拍手が会場を包んだ。新婦が最後に一礼。そう君は顔をくしゃくしゃに歪めて、ぽろぽろ涙を流している。そっとそのほおに触れて、涙を拭いてあげた。 おめでとう、そう君。娘の門出を祝福する席は、父が、娘をしあわせにすることができていたという証明の席となって。 終わらない拍手のなかで、こなたは、頭をあげてそう君をみつめていた。頭をあげて、わたしをみつめていた。いたずらっぽい微笑で、わたしたちをみつめていた。
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