ある日の土曜日、冬の晴れた朝のことだった。窓の外を見つめながらゆたかたちは感嘆の息をついている。雪が降り積もり、風景は一面の銀化粧。 彼女たちの住む地域は比較的雪が少ない。真っ白な世界を目にすることはめったにない体験だった。「積もったねえ」 ゆたかの右隣に、こなた。単純にこの風景を珍しがっているだけの声だった。 降雪そのものにはあまり興味を持たない様子で、外出の予定が無くてよかったよと笑う。「積もったなあ」 ゆたかの左隣に、そうじろう。喜びの色を含んだ声だった。 降雪をうれしがっている様子で雪合戦、雪だるま、何をして遊ぼうかと笑う。「わたしはやんないよ? 寒いしめんどくさい」「なんだこなた、こんな機会めったにないのに」「わたしも、遊びたいな~…」 寒い日に外に出たくないのは同感だったけれど、しかしこの雪はすごく魅力的だともゆたかは思う。「ゆーちゃんもそう思うよなあ」「いやー、おとうさんがいつまでも少年の心を忘れないのはけっこうだけどさ、わたしはこんな寒い日こそひきこもりたいよ……」「……我が娘ながら夢がないなぁ」 淡泊なこなたに、ゆたかとそうじろうは苦笑を漏らす。「じゃあゆーちゃん、あとでおじさんとふたりで……」 「あ、はい」と返事を返して、「でも、やっぱりお姉ちゃんも一緒がいいな」とゆたかは続けた。「雪だるまひとつつくるくらいは……、だめ?」 むぅ、とこなたは顔をしかめる。ゆーちゃんに頼まれちゃ断れない。「あ……、ご、ごめんねお姉ちゃん」 そんなこなたに、ゆたかは謝らずにおれなかった。 こなたが自分を気にかけてくれていることは、ゆたか自身、自覚している。それはとてもうれしい反面、たとえ自分からの頼みごとであっても、イヤであればつっぱねるくらい気兼ねなく振る舞ってほしいという抵抗が心の片隅にちらつくことがあった。 そのたびに、いつもゆたかは思う。ここまでかわいがってもらっておいて不満を感じるなんて、わたしはこんなに浅ましい人間だったんだろうか。「いやいや、おやすいご用だよ」 ゆたかを気づかう、強い否定でこなたが笑う。自己嫌悪もあいまって、ゆたかの表情は彼女自身が思う以上に沈んでいた。「それにおとうさんとふたりきりで外に出したら犯罪が発生するかもしれないし」 それを意識してか、こなたはちらりとそうじろうに視線を向けて、場をちゃかす。「おいおい」「あはは……」 娘は父にほんとうに遠慮がない。そんな仲の良い父娘のやりとりは、傍から見ているゆたかの気分をいつも和ませてくれる。 なんだか、いいなあ、と思うのだ。 幼少の頃から、身体の弱いゆたかには、身内の誰もが甘かった。そしてゆたかのほうも、気づかってくれるひとたちへ、感謝と、そして申し訳なさを以て接することが日常だった。 だから、この父娘のような垣根の無いふるまいに、なんの引け目をもたない普通のやりとりに、顔がほころぶ。
それはコンプレックスというほど強いものではない、とゆたかは思う。 こんな弱い身体だからこそ、人並み以上に周囲に優しくされてもらってきた。ゆいお姉ちゃんのように、わたしの身体に関係なくわたしを愛してくれているひとだっている。 だからゆたかは、いまの自分自身に、じゅうぶん満足している。だからゆたかは、自分に言い聞かせる。 いいな、と思いはするけれども、あこがれとか、うらやむとかの感情は、ぜったいにないはずなんだ。
父娘をみつめながらそんなことを考えているとこなたと目があった。ん? と首をかしげる彼女に、ゆたかはなんでもないと首を振った。
―――自分がそんなことを感じるような心根を持ってるだなんて、認めたくはなかった。
玄関で楽しそうに靴をはくゆたかとそうじろうに、こなたが続く。こなたも、一度外に出ることを承諾してしまえば外出への抵抗はさっぱりと消えていた。 外に出るて積雪を間近にすれば、ほう、とまた三人の口からため息が漏れる。「ようし、さっそく雪だるまつくろうか」「はいっ」 そうじろうの朗らかな声に、ゆたかが明るく応える。こなたはひとり無反応ではあったけれど、こなたにも異議はない。彼女らしい、いつもののんきな笑顔を崩さないことで肯定を示す。 「ところで雪だるま作るのはいいんだけどさ、ひとり一体ずつ作るの?」「ああ、それはちょっと疲れるかな。どうするかなぁ」「あ、わたしのことなら気にしなくてもだいじょうぶですよ」 思案するそうじろうにゆたかは言う。疲れる、というのは明らかに自分を気づかっての言葉だった。こういうときばかりは楽しい気分に水を差してしまう自分の身体が恨めしい。 「わたしはちっちゃいのを作ってますから、ふたりで大きいのを作ってください。見てるだけでも、わたしは楽しいです」 ふたりの雰囲気の中に身を置くだけで、それだけでゆたかは楽しい。見ているだけでも楽しいというのは、まったくの本音だった。「うーん……」 しかしそうじろうは渋る。ひとりだけを疎外した形になってしまうのはやはり抵抗がある。「三人いるんだから西洋風の作ればいいんじゃん? 球を三つ重ねたヤツ」「あ、そうか」 こなたからの助け船に、ぽんと手を打つ。なにも球がふたつじゃないとダメなわけではない。簡単なことだったとそうじろうがうなずく。「じゃあそれでいこうか?」とゆたかを見た。ゆたかはうなずいた。これもまた、自分のために発案された解決策。もちろん、異を唱える理由などどこにもないことだった。 「……意外に、疲れるねコレ」 すねの高さにまで大きくなった雪玉を押しながらこなたがつぶやく。もとは小さく握った雪のかたまり。コロコロ容易く転がすことができたはずのそれは、既に重くて抵抗のあるものになっていた。 腰を曲げた体勢で力を入れれば、腰と背中が痛くなり、手袋をしているとはいえ雪に直接さわれば当然手は冷たくなる。 ゆたかのほうをみれば、彼女の雪玉も自分と同じくらいの大きさになっている。自分と同様、雪玉を押すことがかなりの重労働になっているようだった。 それでも、ゆたかの表情につらそうな色はみじんもない。白い息を乱しているけれど、頬は身体を動かした熱で赤くなっているけれど、しかし手におさまる程度の雪玉を自分の力だけでこんなに大きくできたという、喜びの色だけがそこにある。 「ゆーちゃん、それくらいでいいんじゃない?」 あまり大きく作りすぎても、雪玉を重ねることが困難になる。「……あ、そうだね、つい夢中になっちゃった」 えへへ、と照れ笑いをするゆたかをみて、こなたはこころのなかでだけ、うむ、と首肯する。こういうのも悪くないじゃん? 童心に帰れる雪だるまは、子供でなくてもおもしろい。―――いや、ゆたかには、雪の寒空の下で身体を動かすことなど許されてはいなかったのではないだろうか。 ゆたかが父娘の遠慮のないやりとりを見て和むのと同じように、こなたにとっては彼女の純真な笑顔が顔をほころばせるものだった。それはこなただけではなく、自分の身の回りにいる友人たちもそうだし、なにより彼女の友人であるみなみたちが、いちばん感じていることだろう。 せっかく雪が降ったんだから、とこなたは思う。なにか、楽しいことをしたい。ゆたかが、楽しくなるようなことをしてあげたい―――
ほどほどに大きさを抑えた雪玉は、三つともちゃんと重ねることができた。三つも重なれば、それはゆたかやこなたの背丈を追い越してしまう。 大きいのを作ることができたという達成感に、ゆたかのこころは浮き立っていた。運動直後の熱を持った身体とあいまって、これからももっとはしゃぎまわりたい気分ですらある。 「あー、久しぶりにずいぶん身体を動かしたなぁ」「そだね、無事完成したわけだし、そろそろ戻ろっか」 こなたとそうじろうが、そんなゆたかのこころにブレーキをかける。ゆたかも素直にうなずいた。まだまだはしゃぐことができそうだ、なんていうのはただの錯覚だと自覚していたから。 落ち着いてみれば、自分の身体はひどく重い。手足に力が入らないほど、疲れている。「ゆーちゃん、だいじょうぶ?」「うん、だいじょうぶ。冷えないうちに、戻ろうよ。……きゃっ」 言いながら踏み出した一歩は、しかし雪に足をとられて転んでしまった。両手を地面につく。「わっと、だいじょうぶ? ゆーちゃん」「う、うん、ごめんね、だいじょうぶ。雪つもってるから、全然痛くはないよ」 助け起こすこなたに、そう応じた。「痛くない……? そっか。うん、それだ……、それなら……」「お姉ちゃん……?」 自分の言葉の、なにが引っかかったのだろうとこなたをみつめる。こなたも、ゆたかをじっとみつめる。しかしこなたが自分をみつめる理由がゆたかにはさっぱりわからない。自分が無理をしているんじゃないかという気づかいならばわかるのだけれど、いまのこなたは明らかにそうではなかった。 「いや、なんでもない、さっさともどろう?」「う、うん……」 考え込む様子を解いたこなたに促されるまま、ゆたかは玄関をまたいだ。 ゆたかの後ろで、ふむ、ふむ、と一歩一歩考え込むように、こなたは雪を踏みしめていた。雪の感触を、確かめているようだった。
広場に、10人の影。「こんなカタチでこのメンバーが集まるなんて思いもしませんでしタ」 パティが居並ぶ面々を眺めて言う。それはいつかの文化祭、自分の呼びかけがきっかけで集まったチアのメンバーたちだった。 今回のみんなの衣装はチアガール姿ではなく、上下のウインドブレーカーである。「ほんとになあ」 みさおがうなずく。部活をしていたこともあって、外で運動することになんら抵抗が無い自分はともかく、他はこんなところに縁があるような面子ではない。 みさお以外にも、みゆきやみなみなど、運動神経に優れている者はいるけれど、好きこのんで外に運動に繰り出すタイプではなかった。 雪に覆われた広場を見渡せば、一面真っ白。普段はサッカーやキャッチボール、あるいは動物の散歩などで賑わいをみせているこの広場も、現在は自分たち以外の人影はない。だれかが雪合戦でもしに来そうなものだけれど、雪玉を投げるだけなら道ばたでもできる。今の時代、大勢でわざわざ広場まで出向いてくるというのがむしろ珍しいのかもしれない。 「さて、さっそくチーム分けしよっか」 声の主に、視線を移す。声を発したのは、今回、このメンバーを集めた当人であるこなただった。
サッカーをしよう。電話口で唐突に放たれたのはそのひとことだった。「なに言ってんのアンタ」「いや、だから明日遊ぼうよってこと」 はぁ、とかがみはため息をついた。こなたの思考について行けないのはいつものことではあり、自分はすっかり慣れてはいるけれど。いい加減そっちも、ついてこれないわたしに慣れてくれとかがみは思う。 「今度はなんのマンガの影響? いきなり言われてもついていけないって」 順序を正してちゃんとわかるように言い直せと聞き返す。「んー、マンガは関係ないよ、今回は。せっかく雪が降ったんだから遊びたいって思うのは当然でしょ」「……なんでサッカーなわけ?」 サッカーをするなど、女子である自分たちにはほとんど馴染みのないことだ。だから、こなたの言動がなおさら脈絡無いものに感じる。「わたしも単なる思いつきで言ってるわけじゃないよ。ちゃんと考えて、これだって思ったんだから」 こなたが言う。ぶーたれる、という表現がぴったりな声色だった。「ん……、わかった、ちゃんと聞くわよ」 その声を受けて、かがみが居住まいを正した。かがみが聞く姿勢を変えてくれたことで、こなたもまた一呼吸。説明のために、言うべきことを整理する。 語り始めた。かがみの耳に、こなたの第一声が届く。さっき、ゆーちゃんと雪だるまつくったんだけど――― かがみは、眉をひそめた。
五人ずつ、チームをふたつに分けた。
・こなた、あやの、パティ、ひより、みなみ ・つかさ、かがみ、みゆき、みさお、ゆたか
「こなちゃんだけ、別れちゃったね」 つかさは困ったように苦笑した。「そだね、まあ、敵がつかさたちだからこそ気兼ねなく思いっきりやれるっていうのもあるし、いいんじゃない?」「そうですね、気兼ねなく、思いっきり」 こなたの言葉に、みゆきも同意する。ともだちだからこそ、親しい友人に対してこそ、敵意無く、遠慮無く振る舞うことができる。「そ、そうだよね、遊びなんだから」 そんなふたりの様子に、つかさも肯定を示した。遊びだからこそ、敵側に親友がいてくれた方が気兼ねがない。 そう、このメンバーなら、思いっきり振る舞うことができれば、それだけで楽しくなるはずだ。
「敵に回ったからには容赦しないぞ、あやのー」「うーん、みんなの足を引っ張ることにならなければいいんだけど、お手柔らかにね、みさちゃん。」 みさおとあやのもまた、敵味方に分かれたことへのこだわりは、こなたたちと同様にない。
「あー……」 しかしそんな彼女たちとは逆に、ゆたかは頼りなく声をこぼした。みなみちゃんとも田村さんとも別れちゃったな。―――こなたお姉ちゃんとも。「ゆたか」 沈んだ表情のゆたかに、みなみが声をかける。「みなみちゃん、どうしよう~」 正直、こなた、みなみ、ひよりの三人ともが自分と同チームにならなかったのは、ゆたかにとっては頼る当てが外れた気分だった。「……敵がわたしたちだからこそ、いっぱい、楽しんでほしい」 そんなゆたかに、思いがけないひとことがみなみから送られる。ゆたかの目は点になった。「え?」 みなみは答えず、ゆたかの疑問の視線を振り払うように、自分の陣地へときびすを返した。「え? え?」 わけがわからず、ひよりに助けを求めても、「そうそう、どんなチーム分けだろうと関係ないと思うよ」 回答にならない回答を突き出されてしまう。「じゃ、お手柔らかにね~」 ひよりもまた、自分の陣地へ戻っていく。ゆたかは、ふたりの言葉の意味を咀嚼しきれず、黙って立ちつくすしかなかった。
そんな彼女らをみながら、かがみはこなたに耳に口を寄せる。ささやき声で、問いかけた。「いいの? ゆたかちゃんと別チームで」「んー、とくにこだわることじゃないよ。別に敵でも味方でも、あまり変わらないんじゃないかな」 むしろ敵のほうがやりやすいかも、とこなたは言う。「そう? なら、いいんだけど……」「フォローは頼むよ」「まあ、気にかけるくらいは当然するけどさ……」 フォローとはいってもなあ、と、かがみはゆたかにちらりと視線を送りながら首をかしげた。
「ゆーちゃん、すっごく楽しそうだったんだよね、雪遊び」「うん、想像できるわ。なんていうか、童心に帰る遊びはゆたかちゃんに似合うわね」「でしょ、だから頼りにされてるお姉さんとしては、もっと楽しいことしてあげたいって思うわけよ」「そりゃわかるけど、なんでサッカーなのよ、雪合戦じゃダメなの?」「ゆーちゃんがそもそも他人に雪玉ぶつけられる性格じゃないからさ、雪合戦は却下なんだ」 なるほど、とかがみはうなずく。ちゃんと考えている、というのはまんざらでまかせでもないらしい。「サッカーなら集団で遊べる上に、パスとか、ある程度のチームプレイができるから、ゆーちゃんを助けることも簡単。 身体能力のハンデも、雪の上ならそんなに大きなものじゃなくなる。わたしとしてはそんな風に考えたんだ」「……おどろいた、ほんとに考えてサッカー選んだのね」「そゆこと、どう?」「わかったわよ……、協力するわ。ゆたかちゃんのためにね」「おーけい、じゃ、みさきちたちに声かけておいてよ、他の人はわたしが声かけるから」「わかった、……ゆたかちゃんのため、っていうのは教えた方がいいのかしら?」「……変にゆーちゃんを意識しないで振る舞えるんならいいと思うけどー……」「だったら、それは全員大丈夫ね」 みんなで集まったときのはしゃぎ方を知らないのは、ゆたかだけなのだから。「……みんなが明日予定があるかどうかっていうのが一番の問題だなあ」「雪積もってる今しかないんだよ」「わかってる、じゃあね、急いで聞いてみるわよ」
こなたがこのメンバーを集めた真意、わざわざ遊ぶ手段に雪上サッカーを選んだ真意。 ―――それは、こんな状況での楽しみ方を知らないゆたかのために。
全員が集まったのは幸運ではなく、みんなが自分の予定よりもゆたかを優先してくれた結果に他ならない。 しかし、内と外から他人がどうこういっても、みなみが言ったように、これはゆたか自身が自分から楽しむようにならなければいけない問題だ。 ゆたか個人の精神的な問題だからこそ、しばらくははしゃぐみんなを見ていてもらうしかない。「ま、なんとかなるかな」 みんながいるから、なんとか、できそうだと楽観する。「がんばろうね、ゆたかちゃん」「は、はいっ」 ゆたかに声をかけて、ポジションなどをどうするかをみんなに問いかけた。
「みゆきっ」 ぽーん、とボールが宙を飛ぶ。雪片の尾が放物線を描く。 あぶなげなくかがみのパスをトラップし、みゆきはゴールへ向かってドリブルを開始。 立ちふさがるのはこなた。運動神経に優れたふたりの対峙に、それとなく全員が注目する。「とぉぉおおりゃああぁぁっ!」 瞬間、こなたはみゆきに身構える隙をあたえず、一直線にスライディングタックルを慣行。小柄な体格と着用しているウインドブレーカーの滑らかな生地もあいまって、とんでもない滑走をみせた。 「きゃっ」 たまらず、転倒するみゆき、ボールを奪ったこなたがみゆきをちらりと振り返る。(どう?)(なるほど、たしかに、あまり痛くないですね)(でしょ?) 雪の上。たとえ踏み固められたものだとしても、転んでもそうは痛くない。これならある程度ゆたかに強くあたることもできる。 踏ん張りのとれないこの地面ならば、ゆたかが力勝負でみゆきを転ばすことすら可能だ。 そう、ゆたかが思い切って、みんなに向かってきてくれるのならば。
プレイは続く、コーナーまで駆け上がったこなたのセンタリングにパティがあわせる。つかさが競り合うも、身長に優れるパティにはかなわない。キーパーであるみさおが身構えていたが、ヘディングシュートを止められず、一点を奪われる。 「ちくしょー……飛び出せば良かったなぁ」 みさおがぼやく。キーパーだからといって、ゴールに引っ付いている必要はなかった。ましてや遊びだ。「ダイジョウブですか、ツカサ?」「うん、案外、痛くないもんだね」「雪の上だからなあ」 パティに助け起こされたつかさの言葉に、みさおは同意する。
再開。自然とみゆきにボールが集まる。「つかさ、あんたも前に来て」 何点取られようと、勝ち負けは問題じゃないのだ。「う、うん」 表情を引き締めて、つかさが走る。 またもこなたがみゆきにつっかけていた。 こなたを引きつけ、みゆきがつかさにパスを出す。「つかささん、わたしの前に蹴ってください!」「うん!」 ワンツーリターンでこなたをかわし、前方へと走る。 みゆきが前方に顔を向けた先、相手陣営のキーパーはみなみだった。ディフェンダーはあやのとひより。こなたは中盤に、パティは前線に待ちの体勢。 ひよりがみゆきに迫る。併走するつかさをちらりと見ながら、みゆきはボールをどうすべきなのか判断に迷った。運動が不得手ではないとしても、サッカーに詳しいわけでもない。 そんな迷いをついたように、ひよりのスライディングが衝突する。後輩の遠慮のないプレイに目を丸くするも、しかし、これが正解だとも思った。 ただ、思い切った全力のプレイをみんながすることこそ、ゆたかの解放につながるのだから。
こぼれた球はつかさのもとへ。つかさもまた、転がり込んできたボールをどうすればいいのか迷う。 助けを求めるようにみゆきに視線を向けると、みゆきもまた自分をみていた。「走ってください」と彼女は笑っていた。
「大丈夫ですか?」「もちろんですよ」 差し出されたひよりの手をつかみ、立ち上がる。「わたしのほうこそ、気を抜いてしまって申し訳ありません」「いやー、謝ることじゃないですよ。こんどは高良先輩も遠慮しないできてください。楽しいですよ、スライディング」 素直な言葉に、くすっ、とみゆきは微笑んだ。
「わっ、わっ、どうしよう」 近づいてくるあやのを見て、つかさはあわてる。 ひとりで前線にドリブルをするなんて、未経験の素人にしてみれば大きな抵抗を伴うものである。 あやのもつかさの気もちはよく理解できたが、敵である以上、慰めてやることはできない。「いくよ、妹ちゃん」 あまり要領よく動けていないゆたかにちらりと視線を動かす。彼女のために、思いっきり身体を動かしてみせる必要がある。 自分の柄じゃないなと思いつつ、あやのもまた、スライディングでつかさに身体をぶつけにいく。
「ナイスパス」「あっ」 あやのがつかさからカットした球はしかし、追走していたかがみのもとへとちょうどよくおさまった。 敵への嫌味を置きみやげに、かがみが走りだし――― ―――そこにみなみが突っ込む。「どわぁっ」 普段のみなみからは想像もつかない、大胆な飛び出し。「油断したー……」 キーパーがもう自分に迫っていたことを愚痴りながらみなみを視線で追う。 その先のみなみは、既に大きくボールを蹴り出していた。 「泉先輩っ」。寡黙なみなみの大声。 パスを受けたこなたに、みゆきが肩からあたる。穏やかなみゆきのショルダーチャージ。「むっ」 滑る地面のせいで抵抗できないことを感じ取り、瞬時に後ろに下がる。みゆきのバランスを崩す。こなたが前へ抜ける。みゆきは反転して追いすがるも、雪に足を取られてタイムロス。 やられた、と思ったそのとき、「げっ」というこなたのうめきを聞く。つかさの思いがけないスライディングだった。「やるね、つかさ……」「えへへ、……楽しいね、こういうのも」「でしょ?」
めまぐるしい攻防。みんなの、普段では見られない、珍しい一面。 それをゆたかはただ、見ているだけだった。ちょこちょこボールを追いかけて、フィールドを動き回る程度しかできない。「すごいな、みんな……」 まぶしいな、とゆたかは思った。おもいっきり、身体を動かしているみんなが。「なーに泣きそうな顔してるの」 ぽん、頭に手を乗せられた。かがみがゆたかの顔をのぞき込む。「だって、みんな……。わたしだけが……」「みんなを見ていて、わからないの?」「え?」「痛くないんだよ。スライディングしても、ジャンピングボレーの着地に失敗しても、チャージで転ばされても」「それ、は……」「みんなをけがさせる心配なんて無い、自分が痛い思いする心配もない、ただの遊びなのよ。あとは、ゆたかちゃんが、思い切るだけ」 かがみの言葉を、受け止める。「わたしが、思い切るだけ……」
「おぉーい柊ぃ、パスいったぞー!」
みさおの声に振り向く。「お、ボール来たわよ、ゆたかちゃん、まかせた」
かがみが退く。ボールはゆたかの足もとへ。 直後、「ゆーちゃん、ぱぁぁすっ!」「え、あ、うん!」 こなたの大声に、思わずパスを送ってしまう。「ないすぱーすっ」 パスを受けたこなたはそのままゴールに走っていく。「ああっ、お姉ちゃん、ずるいよ!」 ゆたかの文句にこなたは反応する様子もない、憤慨するゆたかの肩を叩いて、かがみは、こなたを指さした。 ―――取り返して来い。 無言であったけど、そこにはいたずらっぽい眼差し。あなたにも、できる。 うなずいて、駆けだした。
こなたに追いつくことは、存外に容易だった。 パスも出さず、みゆきに足止めされている。本当にみゆきにてこずっているのか、それとも自分を待っていてくれたのかはわからない。 だけど、そんなことはどちらでもいい話だった。問題は、自分が、思い切ること。 一歩を、大きく踏み込む。踏み込んだ足に力を込めて、全力で、踏み出した。
渾身の、特攻。どんなに足に力を込めても、地面への反動をうまく生かせないと動きに反映されない。 こなたのようには上手くはできなかったけど。 小柄な体躯のスライディングは、ウインドブレーカーの生地を利用して行う滑走は。 はじめて味わう歓びだった。思いっきり、自分の身体を振り回す解放感。ただ、快感だった。
激突する。こなたと絡み合って地面に倒れる。 こなたの顔は見えなかったけれど。なのにこなたは、微笑んでいるようにゆたかには思えた。「ナイスカット」 誰かが、自分を褒める声を聞いた。
立ち上がる。みゆきが大きく蹴り出したボールを追うのはみさお。 自分も前に向かって走りながら、キーパーである彼女があんなところにいていいのかと思った。 振り返れば、ゴールはがら空き。かがみが、やれやれといった様子でゴール脇に駆け寄っていく。 勝敗にこだわるつもりはないが、守りを放棄するのもそれはそれでいささか問題だろう。 戻り際、かがみがちらりとゆたかに目を向けた。後ろは気にしないで行ってこい。とその目は言っていた。
「よ、っと」 スライディングをしながら、みさおは器用に足先でボールを受け止める。 雪のせいで、立ち上がることに少しもたついた。 ひよりが詰める。「いただきっ」 みさおの立ち上がった直後の隙をついて、スライディング。雪の上を滑る快感に、ひよりもとりつかれている。 素早く、カウンターを狙う。「させるか」 大きく蹴りだそうとしたそこに、みさおが負けじと立ちふさがる。 お互いの表情には、微笑みが浮かんでいた。
「田村ちゃんっ」 そこに横合いから差し出される声。ボールを蹴った。あやのがパスを受け取る。左斜前方に、こなたの姿をみとめる。 こなたへとパスを蹴りだそうとしたそこに、ゆたかが追いついた。 追いつかれる前にパスを出す。あやのがそう判断してボールを蹴りだしたと同時、ゆたかは真横に足を伸ばしていた。
「読まれてたなぁ」 自分のミスを悔いるその声には、しかし嬉しそうな色があったようにゆたかは感じた。 ゆたかの足にぶつかったこぼれ球を追ってあやのが足を踏み出す。しかしあやのより先に、つかさがボールをかっさらった。「いくよ、みなみちゃんっ」 キーパーのみなみに向かって、つかさが笑う。みなみも笑って、うなずいた。 足を振りかぶるつかさを見つめる。お互い素人同士、つかさにゴール隅を狙うような力量はないし、自分にも、ダイビングキャッチなんてやれる腕はない。 だからみなみは、つかさのシュートは一直線に自分に向かってくるものだと思った。 しかしここは雪上。ちょっとした思いつきで、トリッキーなことをいくらでもやれる場所。 つま先を、ボールのした、雪の中に打ち込むように振り下ろす。雪をえぐり、ボールを足の甲に乗せる。 そこからつかさは、ふわりと、ボールを浮かせ上げた。
「あ」 シュートを受け止める体勢を固定していたため、力んでいたみなみには、自分の頭上を越えていくボールを目で追うことしかできない。 しかし、つかさのループシュートもそうはうまくはいかず、惜しくもバーにはじかれる。また、ボールがこぼれる。 こぼれ球の行く先を見て、みなみは目を丸くした。 そこに一番に走り込んでいたのは、ゆたかだった。
息を乱しながら、ゆたかは迷う。走っている内はひたむきだったが、ボールを前にして、そこからどうしようかというためらいが湧いてきた。 足を止めてシュート体勢に入っても、自分では落ちてくるボールを正確に足に当てられない。ただでさえ、足は疲れている。「ゆーちゃん、そのままダイブっ!」 そんなためらいを吹き飛ばす声が、後ろから。 はっ、と息を吸い込み、前方へ身体を投げ出す。思いっきり。雪の上、倒れることは、もう怖くない。 傾けた頭に、ボールが当たる。ダイビングヘッド。ネットが、揺れる。
―――広場中に、みんなの歓声が湧いた。
「ゆたか」 顔を上げると、みなみが腕を差し出していた。その手をつかんで、立ち上がる。「……まだ、走れる?」 気づかうような問いかけに、はっきりとうなずいた。 走り続けることは厳しいけれど、いちど倒れてから走り直すことは、まだまだできる。
「じゃあ、こっちの攻撃から再開だね」 ボールを拾って、こなたはゆたかを見つめる。「今度は取られないからね、ゆーちゃん」「―――わたしも、負けないよっ」 気兼ねなく、対等に。自分の返事に、こなたが満足げにうなずくのを、ゆたかは見た。
―――雪色の輝きの中にいる。 ボールを追いかけながら、こぼれる笑み。 笑顔ではしゃいでいるみんなの輪。まぶしく輝いているみんなの中に、わたしも入りたいとずっと思っていた。 そんな願いが、いま、叶っている。輝きの中に、たしかにわたしの姿も在る。 望んでいたものが、自分の手の中にある歓び。 息を乱しながら、髪を振り乱しながら、汗をかきながら、みんなと一緒に、ゆたかは笑っていた。
「疲れた……」「ほんとにね……」 重い身体を引きずり、みんなで帰路をたどりながら、自分の疲労度を愚痴りあう。 帰って休みたい、というのが全員の共通意見だった。しかしみんなの表情から、笑みは消えない。「……でも、文化祭のダンスとはまた別の、珍しい体験をさせていただきました」 それもまた、全員の共通意見だった。 ―――みんなの表情から、笑みは消えない。
「じゃあ、わたしらはこっちだ」「ワタシはコッチでス」「わたしたちはこの先ね」 ほどなく、それぞれの別れ道にさしかかる。 そこで、ゆたかが、みんなに向かって口を開く。
「あの、みなさん」 視線が集まる。「今日は、ありがとうございました」 全部、自分のためのことだった。自分がゴールを決めたときのあの歓声で、それがわかった。 今日はみんな、自分のために集まってくれたのだ。どれだけ感謝を尽くしても足りない。 だから、涙がぽろぽろこぼれてくる。
「いいよ、わたしの方こそ、ありがとね」 なぐさめるように、あやのはゆたかの頭をなでた。「わたしもそんなに身体を動かす方じゃなかったけど、あなたをきっかけに、たくさんはしゃぐことができたよ」「そうだね、ゆたかちゃんをきっかけにっていうのはあるよね」 つかさの肯定。「女子が集まってサッカーやるなんてなあ。体育の授業でもないのに、めったにないよなこんなこと」「だから、小早川さんだけが得をしたとか、思わないでよ」「……みんながゆたかのおかげで、楽しかったよ」 そんなみんなの言葉に、ゆたかの涙は止まらなくなった。
かがみは、こなたに目を移す。その視線を受けて、こなたもかがみと目を合わせた。「大成功じゃない? こなた”お姉ちゃん”?」「……やめてよ、ほら、その、みんなの助けがあったからさあ……」 いたずらっぽいかがみの笑みに、こなたは明後日の方向を向いてごまかし笑いを浮かべた。「あんたが照れるのも珍しいわね、正直気味悪いわ」「うわひどっ」 こなたが自分のペースを保てないなんて、それこそ珍しいことだった。 ほんとうに、大成功でよかったねと、かがみは笑った。
「はいゆたかー、ホットミルクできたよー」「ありがとう、お姉ちゃん」 帰宅したちょうどそのタイミングで、ゆいが遊びに来た。きっと今日のことは、ゆいも知っていたのだろうとゆたかは思う。 自分を冬の寒空の下ではしゃがせるなんてこと、それをゆいに告げずに行うことを、こなたは良しとしなかったのだろう。 どんなにこころが昂ぶっていても、慣れない運動でさすがに身体はへとへとだった。汗を流すだけの手早いシャワーのあとは、晩ご飯も食べずに即、寝ておくことをゆいとこなたに厳命された。 「たぶん、お腹がすいて目が覚めるだろうからさ、そのときは遠慮無く声かけてよ、わたしは起きてるからさ」「うん、こなたお姉ちゃん、ほんとうに今日はありがとうね」「……どういたしまして」「いやー、ゆたかもそうだけどこなたもほんといい子に育ったなー、お姉ちゃんうれしいよ」「やめてよもー、ゆーちゃんのじゃまだからさっさと出るよねえさん」「はいはい、照れること無いのにねえ?」 ゆたかに視線を向けて、ゆいは言う。ゆたかとしても同意を示してあげたいところだったけれど、こなたをからかう材料をゆいに与えてしまうのもなんだか悪い気がしたので、ただ苦笑いを返すだけしかできなかった。 おやすみ、ゆーちゃん。おやすみ、ゆたか。 ありふれた挨拶。家族の挨拶を残して、ふたりはゆたかの部屋を後にした。
「……眠るなんて、無理だよ~」 十分と立たずに、ゆたかは愚痴をこぼした。身体は凄く重いのに、頭はさえてしまっている。 もぞもぞと布団の中で寝返りを繰り返すも、眠れそうな気配はなかった。かといって身体を起こそうにも、重い。 もう一杯ミルクをもらおう、と起きることにする。身体を起こすだけで疲れた。 床に足をついて立ち上がるだけでも、緩慢な動作でしか行えなかった。 リビングにつくまで何分かかることやらと嘆きながら、ゆたかはゆっくりと身体を運びはじめた。
「ねえさん、今日はどうする? ゆーちゃんが起きてくるまで待つの?」「んー、ゆたかが起きてくる保証もないしね、少ししたら今日は帰るよ」「そっか」 テーブルで向かい合いながら、こなたはゆたかに作ったホットミルクの余りを口に含んだ。 会話がとぎれた。ゆいはほおづえをついて、ミルクを飲むこなたを眺めている。 こなたにとって、それは正直気まずい。ある意味では、ゆたかに無理をさせてしまったこと。ゆいには本当はどう映っているのか、計りかねていた。「あのさ、ねーさん」 耐えきれず、こなたが口を開く。「んー?」「……わたしのこと、怒ってる?」「えー? なんでー? そんなことあるわけないよ」「なら、いいんだけど、さ……」 ならばなぜ、沈んだ表情をしているのだろう。「んー、ごめんね、別にこなたがどうこうってわけじゃないんだ、いまの気分は」 自分の気もちが既に表情に出てしまっていたことを察して、ゆいはそれを明かした。 「はじめてだったんだ」。とゆいは言った。「ゆたかのあんな顔みるのが」。 どういうことなのか、首をかしげるこなたに付け加えて言う。
―――あんな元気に、疲れた顔。
「なんだろうね、こう、うれしいんだか切ないんだかお姉ちゃんわかんないんだよいまー」 おどけるように、笑うゆい。こなたにも、なんとなくわかる気がした。 いままでゆたかを見守ってきた中で、自分の何も関与していないところで、こなたがゆたかに新しい体験をさせてくれた。 有り体に言ってしまえば、いま湧き出ている妹への独占欲が恥ずかしいのだ。
そんな彼女だから、こなたは思う。「……ゆいねえさんは、ほんとにいい姉さんだと思うよ」「なーにさいきなり、恥ずかしいなあもう! さっきからかった仕返しだなあ?」「いや、ゆーちゃんを独り占めできなかった嫉妬とわたしへの複雑な感情に悶えてるねえさんへの率直な感想」「いやーやめてー! ああほんと恥ずかしいぃ」「だからだって。恥ずかしく思うことができるねえさんだからこそ、ってことだよ」「そんな面白い動物を眺めるような眼差しで言われてもなあ」「うわひどっ。こっちだってそれなりに恥ずかしいんだよ」 ゆたかに感謝されたこと、ゆいがこなたを認めてくれたこと。自分では、そんなたいしたことをしたとは思っていないから。「……わかったよ。褒め言葉は素直に受け取っておくさー」「うん、そーして」 お互い見つめ合う。そうして、何を恥ずかしい話題で盛り上がっているのかおかしくなって、ふたり、笑い合った。
リビングへの入り口の脇、壁に背をもたれて床に腰を降ろして。そんな会話を、聞いていた。 暖房の通っていない廊下は冷たい。風邪のきっかけになってしまうんじゃないかと、部屋から出たことをゆたかはすぐに後悔して。だけれどやっぱり、いま廊下に出て良かったと思う。 胸に、あたたかな灯がともるよう。みんながわたしに向けてくれた歓声。自分を思ってくれる姉たちの声。染みこむようにここに残っている。
唇から、小さな吐息を零して。ゆたかは自分の身体を抱きしめた。 胸のあたたかいものを、抱きしめた―――
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