注)作品中にはいくつかの医療雑学を入れてありますが、ほとんどがインターネットで調べて書かれたものです。私本人には医療知識は全くなく、素人が書いたものであるため、内容は全くと言って良いほど信用できません。ですのでここに書かれたことを実際に当てはめて診断しないでください。何かあれば、専門の医師に診ていただくことをお勧めします。将来、自分がどのような人生を歩んでいるのか、到底考えられるものではない。みゆきも“それ”が起こるまでは、また別の人生を進んでいくはずだった。“それ”が起きなければ、もしかしたら歩んでいたかもしれないもう一つの生き方。今では闇の中に消滅してしまっていて、覗き見ることもできないIfの生き方。どちらが幸せだったのかと考えた所で、答えにたどり着くことは永遠にないけれど、今ある現状を主観的に評価しようとするなら、少なくとも今の生き方は不幸なんかではないはずだ。客観的に見ようとするなら、何かと比べなくてはならないのに、その比べる相手が闇の中に沈んでしまったのだから、もうどうしようもない。他人が、あなたは不幸だ、と言ったところで、それが本当に客観的な見方とは言い難い。みゆきにとって出来ることは、現状を受け入れる事。みゆきに見渡せることは、過去に起こった自らと、そしてみなみのストーリー、ただそれだけ。“それ”が起こったのはみゆきが高校三年生の秋を迎え、いよいよ進路が定まっていくと言う頃だ。その日は朝からいかにも秋晴れと言った感じに空が澄んだ青色になり、悲しげな羊雲の群れがぽつんと、申し訳なさそうに高高度を横切っていく。みゆきの隣では、みなみがそんな空模様をあおいでいた。いつも朝は早めに家を出ているので、こういうちょっとした心のゆとりが出来るのは、有意義なことかも知れない。いつもどおりの登校が、今日もいつもどおりに行われている。物心が付くか付かないかと言う程も昔から、みゆきとみなみはいつもこうやって一緒にいた。血が繋がっているわけでも、同じ家で暮らしているわけでもないけれど、みゆきとみなみは、それぞれ姉と妹と変わらない関係になっていた。「みゆきさん……?どうしましたか?」だからみゆきは、他の誰かでは絶対に見過ごされるような、本人すらも気づいていないような、みなみのほんのちょっとした動作の違和感すらも見抜く事も出来た。違和感自体に気がついていたのは、この日よりももう少し前からだった訳だけれど、たった今、その違和感の原因が何なのかをやっと分かることができた。なんと言うのか、物を見るときに首をしきりにねじろうとするのだ。例えば今、みなみはみゆきを見ている。それは別に当然のことかもしれない。みゆきが気がついたのは、やっぱり、みなみが首をねじり、がんばって自分を見ていると言う事。さらに最近の体育の時間では、特に球技がうまくいっていないらしい事を、本人から聞いていた。それらを総合して考えられることは、みなみの視界が狭くなっているのかもしれない、という、ちょっと心配な症状だった。「みなみさん、ちょっとお尋ねしたいのですが、みなみさんが私の横に立っていて、視点をまっすぐ前を向けたまま私の顔が少しでも見えますか?」人間の視野角には個人差があるものの、健康な体なら両目でおよそ200度程度。だからたとえ正面を向いていても、真横にあるものがかろうじて見ることが出来るはずだった。「い、いえ……、見えません……。何かあるんですか?」やっぱり……。みゆきの予想は的中した。視野狭窄。どうやら、なんらかの原因で視野が狭くなっているらしい。普段、人間は自分の正面にある物にしか意識しない。だからこの様な症状はなかなか自覚できず、発見が遅れる事が多いので、ある意味ここで気がつけたのは良かったのかもしれない。「みなみさん、ちょっと言いにくいのですが……、もしかしたらみなみさんの目が、病気になっているかもしれません」「私の目が……、ですか?」「はい……、最近、視界が狭くなったと感じたことはありませんか?」「……っ」みなみの表情を察するに、心当たりはあるようだった。「早めの治療がいいと思います。今日、眼科に行ってみるのはどうでしょうか」「……。はい……、そうします」やっぱり、目が悪い、だなんて言われたら、誰だってショックを受けるかもしれない。そうかと言って後悔などする筈はなかった。みゆきにとってこれは他人事とは言っていられない。なにせ妹の体に異変が起こっているのだから、黙ってなどいられる筈もなかった。その日の授業が終わり、みなみは急いで家に帰っていったらしい。帰り際、こなたと共に帰るゆたかからそう聞いた。脳内に送り込まれる情報量のおよそ80パーセントは、目から取り入れられた色や、形、距離感などだ。こうして読んでいる文字も視力なしでは意味をなさないし、自分が何処にいるのかと言う方向感覚、更に姿勢感覚までが視力で補われている。生きていく上で必要不可欠な感覚が犯されてしまう恐ろしさは、眼鏡をすでにかけているみゆきにとってもよく理解できることだった。みなみは家に到着するや否や、今日の朝、みゆきから聞いた内容を、母親にほとんどそのまま話した。みなみの母親にとって、みゆきは歩く辞書であり、一目置いていたわけだ。みゆきの言葉は全て正しいと信じていて、疑うような事はまずあり得ない。そんなみゆきが娘の体調について告げたのだから、それはもう慌てふためきパニック状態になってしまった。すぐに電話で眼科に連絡をとると、今からでも診察してくれると言う近場の大学病院へと連れて行った。平日だからと言う事もあってか、病院内は随分とすいている。とても静かで、母親が看護師に事情を話している声だけが聞こえてくる。診察室の方からは、時々ステンレスに硬いものが当たったような音がして、表情には出さないがみなみの心は怯え始めていた。患者が少ないせいか、待ち時間はないと言うくらいのスムーズさで診察室へと案内された。医師に診断される前に、いくつかの検査を受けることとなった。その中には視野検査もあり、みゆきのしたように、どのくらいの範囲が見渡せるのかを計る。やはり、みゆきの言うように視野は正常の人と比べて狭くなっているようなのだった。それらの試験を終え、みなみは医師の前に座っていた。この医師は髪をワックスでしっかり固めているのか、テカテカと光る髪をオールバックにしいた。みなみにはそのテカテカが、むかしチェリーが捕まえてきたゴキブリに見えてしまってしょうがなかった。出来るだけこの先生には会いたくない、と失礼だとは感じながらも、そう思ってしまわずにはいられない。「あ~緑内障が疑われますね。ほら、眼圧が正常値よりも高くなっています」「眼圧ですか?」「はい、簡単に言うと、目の中の圧力です。今のみなみちゃんの目の中がパンパンになっていて、中にある視神経が苦しんでるんですね。このまま気づかずに放置していたら、目が見えなくなってしまう所でしたよ」椅子に深く腰掛け、カルテを読みながらふんぞり返っている医師を見ながら、みなみは更に不安になっていった。 「治るんでしょうか……?」「大丈夫ですよ。眼圧を下げると言う治療をすれば、少なくともこれ以上悪化する事はありません。ただ、視神経が傷ついていて、一度失われた視力を回復させるのは難しいですがね」「あ……、そうですか……」「あなたはいい友達を持ちましたねえ。あんまり初期の段階では見つけられないんですよ。まだ自覚症状すら出ていないほどの症状ですから、なあに、生活には全く問題ありません」次の日、今日は昨日のような青い空はなく、代わりに灰色のくすんだ空が一面を覆っていた。みゆきはいつもの通学路を歩いていた。その隣には、みなみの姿はなかった。ふう、と一つ、深呼吸をする。いつも待ち合わせをして通学をしている訳でもなく、ちょうどいい時刻のバスに乗ろうとすると自然とみなみと会えるから、一緒に通学をする言う流れが出来ていた。だからたまたま今日は時間が合わなかった。普段ならそう思って割り切れるのだけれども、今日だけはそうも言っていられなかった。結局なにもせずに、みゆき一人で登校する事になってしまったが、内心ではみなみが心配でならなかった。なぜだか、朝から心臓がドクドクと強く脈打っていて、もう何度目だろうか、深呼吸をして心を落ち着かせないと息が苦しくて仕方がない。いやな予感と言うものが、こうも分かりやすいものだとは知らなかった。結局みなみは、とうとう午前中に学校へ来る事はなかった。みゆきの不安はますます膨れ上がり、昼食を完食することが出来なかった。もう直ぐ午後の授業が始まる。かがみは隣のクラスに戻り、今日はみなみが登校する事はないのだろうと、みゆきは諦めかけていた。そんな時、みなみが登校したという内容のメールが、ゆたかからこなたに届いた。それを聞いたみゆきは、バネみたいに立ち上がった。「みゆきさん、今からゆーちゃんの所へ行こう!」「はい、直ぐに!」昼休みがもう直ぐ終わろうと言う頃、実際には次の授業に絶対に間に合わないような時間だった。しかしみゆきにはそんなの、知った事ではない。医者はみなみの顔を見つめると、一言告げた。「手術をすると言う手があります」「え……」誰であろうと手術と言う言葉に対して、少なからずの抵抗を感じずにはいられないだろう。みなみもその通りだった。「いえ、怖がらなくても良いですよ。難しい事ではないですし、とても安全ですから」怖い、ということよりもそれ以上に、みなみには思いとどまらせるものがあった。ゆたかやチェリーの顔が浮かぶ……。こなた、つかさ、そしてみゆきの三人は駆け出した。みなみはゆたかに手をつながれて、教室へと向かう階段を登っているところだった。みなみは何か、ぎこちない様な歩き方をしながら、ゆたかに引かれてゆっくりと進んでいる。「あ、みなみちゃん。高良先輩が来たよ」「……」みなみはいつも以上に無表情で、更に顔を強張らせていて、誰が見ても何かに怯えているとしか思えないような表情をしていた。「みなみさん!どうしたんですか?先日から連絡が取れず、心配していたんですよ」みゆきの問いかけに対し、誰も返事をしようとしない。授業が始まってしまったのか、廊下はしんと静まり返って緊迫感は増すばかりだ。「みなみちゃんは……」この雰囲気に長く浸ってはいられなかったゆたかは、兎に角何かしらの動作をしたかったらしい。しかしここまで言って、もう何も言えなくなってしまった。ゆたかの言葉を受け継ぐように、騒動の中心人物が重い口を開いた。「昨日の夕方、眼科へ行ってきました」「はい……、どうだったのですか?」「医療ミスで……」また、言葉が途切れてしまった。「まさか……、みなみさん……っ」みゆきは先ほどから、ある事が気になっていた。視線がずっと、つかさにも、こなたにも、みゆきにも、誰の目にも向けられる事はなく、三人を完全に無視したままだったのだ。だらだらと虚空を横切り、何かを集中して見つめる事はしなかった。もう一つ、気になる事がある。正常な視覚系が、何かを観察するときに見られる黒目の小刻みな運動。サッケード運動。人間は制止した物体を長時間観察する事は出来ない。だから無意識のうちに眼球を細かく動かして、視界に微妙な変化をもたらして、常に同じ視線に物体が存在しない様な仕組みが作られている。この運動をサッケード運動と呼ぶのだが、みなみの視線にはそういったものが全く見られない。みなみの目は、何も観察していない!「まさか……、何も見えていないのでは……」沈黙は長く続いた。それは、肯定のしるしとなった。みなみの、もう光を感じる事のなくなった目からは、一粒の光が落ちた。更に医者は続けた。「昔なら、一度失われた視神経を再生させる事は出来ませんでした。ところが医療技術の進歩は続いていて、今なら視神経を再生させる事も可能です」「治るんですか……?」「そうです。みなみさん、私はこの手術を受けてもらう事を薦めます。」「……」外ではチェリーが待っているはずだった。流石に医療施設の中に犬を連れてくることは出来なかったので、看護師の方に面倒を見てもらっているのだろう。「もちろん、手術をするのか、しないのかは……、みなみさんに最終的には決断してもらう事になります」「……」みなみは直ぐには返事が出来なかった。数日開けて、みなみがもう少しだけ落ち着いて来た時に、みゆきが改めて詳しい事情を尋ねた。それによると、麻酔として本来投与される筈の薬品の、約千倍もの濃度で投与されてしまったのだと言う。医師のちょっとした失敗で視神経が焼けただれ、全盲と言う、最悪の事態を導いてしまった。テレビのニュースなどでよく見かける医療ミス。目の前の、身近な人間が被害にあってしまったのだ。みなみの親は医者を相手取り、裁判を起こした。ミスを犯した医者は、損害賠償として一億円以上を支払ったと言う。 将来、医者になろうと励むみゆきにとって、この事件はあまりにも衝撃が大きかった。今まで見えかけていた未来が、突然霧の中に隠されてしったのだ。何をするにも気力が湧いてこない。今まで気にしていた雑学も、もう興味がなくなってしまったし、友達との会話にも、いまいち弾む事が出来なかった。ただそれでも、みなみを支えていこうと言う熱意だけは、激しく燃え盛っていた。他の友人たちから見れば、この熱意こそが今のみゆきを留めていられる、唯一の灯火と思えたに違いない。みゆきは通学時、ずっとみなみの手を放さなかった。冷たいみなみの手のひらが、少しずつ温まっていくのが実感できて、なんだかとても嬉しかった。みなみには力強い味方がいてくれた。今まではみなみから助けてもらう事の方が多かったゆたかにとって、借りを返す時が来たわけだ。とても熱心に世話をしていった。そうした仲間から離れたがらないみなみは、母親や先生に盲学校への転校を薦められていたにも関わらず、かたくなに拒んだ。初めはみなみの甘えだったのかも知れない。しかし、みなみは皆の期待に応える様に成長した。白杖を使った歩行や、点字の読み方など、リハビリテーションで直ぐに習得していった。とてもたくましいみなみの生き様に共感したのか、クラス全体が、そしていつしか全校が生徒が、みなみの味方となった。そんななか、みゆきはある一つの決意を心に刻もうとしていた。「みなみさん、私は……」「はい……、どうしましたか?」「私は、眼科医になろうと思います。患者さんの人生を狂わせたりしないような、信頼される医者に」みなみは目をつむり、考えていた。手術を受ければ、きっと失われた視力が回復する。でも……。「やっぱり私は……、手術を受けません」「みなみさん……」「すみません、せっかくこんなチャンスをくれたのに……」目の前の医者は、それを聞いて立ち上がった。長い桃色の髪を棚引かせながら、みなみに近づくと、大きな胸でギュッと強く抱きしめた。「きっとみなみさんならそう言うと思っていました」「本当にすみません、みゆきさん。でも、私はこのままが良いんです」「分かっていますよ。昔、みなみさんがレーザー治療の失敗で失明した時から、もう長い時間がたちましたから。私は、眼科医になってから、沢山の患者を治療してきました。難しい手術も成功させて、本当に沢山の患者さんを救ってきました。でも、みなみさんだけは、最後まで救えなかったんですね」みなみには今のみゆきがどのような表情をしているのか、直接見る事は出来かったけれど、みゆきの鼓動や声の震え方から目の見える人なんかよりもずっと、みゆきの心の中が見えていた。「みゆきさん、私はみゆきさんから勇気をもらいましたよ。だから……、みゆきさんには治療を受けなくても、もう、私は救われたんです。とても……、感謝しています。目が見えなくたって、あまり不便ではないですし」「ふふ……、そうかもしれないですね」みなみはみゆきに感謝をすると、白杖を振りながら診療室から一人で歩いて出て行った。今までみなみが向いていた方向の正反対に向かって、五歩と半歩だけ歩けば廊下に出られるのだ。その後姿は、とてもたくましいものだった。チェリーはみなみの帰りを、尻尾を振って歓迎した。「お待たせ、チェリー」チェリーにハーネスをつけてやると、振っていた尻尾を止めてとても凛々しくなる。彼女はみなみの新しいパートナー、盲導犬チェリー。なんと、彼女のパピーウォーカーはひよりだったのだ。将来盲導犬となるために生まれてきた子犬(パピー)はまず、人間の世界になれることや社会のルールを学ぶことから始まる。その基本的な学習を一般のボランティアであるパピーウォーカーにしてもらう事で、人間に愛される喜びを覚え人間社会の習慣や規則を身につけることができるのだ。パピーウォーカーには、自分が育てる盲導犬候補生に命名できる特権があった。ひよりはみなみのペットだったチェリーが、もし盲導犬だったら、と思いをはせて、彼女をチェリーと名づけたのだそうだ。盲導犬ユーザーは盲導犬を選ぶ事が出来ない。たまたまみなみの所へやって来た盲導犬が、このチェリーだった。偶然というか運命と言うか、とにかくチェリーとみなみはお互いに、とても大切なパートナーだった。「さあ、帰ろうかチェリー」ゆたかが点字の絵本を書いているので、早く手伝ってあげなくてはいけない。と言っても、ゆたかは覚えるのが早かったために、今ではみなみに出来る事はほとんど無いのだけれど。みなみのストーリーはまだまだ続く。町の喧騒の中に、一人と一匹が消えていった。
みゆきは窓から見える秋の青い空を見つめていた。さわら雲が東の方から空をまたぐ様に横切っている。明日は雨かもしれない。たった今、みゆきのストーリーが、終わりを告げたらしい。みなみの治療をしたい、そう思って眼科医になったはずだった。今ここにいる事の目的が、果たされたのだ。さて、どうしようか。看護師から渡された今日の診察者のリストを見ていくと、次の名前が泉、と書かれていた。これはもしかすると……。「どうも~、みゆきさん……」「泉さん。お久しぶりです」こなたの目を見ると、黒目の周りがドーナツ状に茶色に見える。虹彩炎の特徴だ。大抵が原因不明だが、細菌の侵入やアレルギーなどが考えられる。白目がピンク色に充血している事から、急性のものである可能性が高い。おそらく目に痛みがあるはずだ。早めの治療をしなければ、更に他の病気へと発展してしまう可能性がある。みゆきはすばやく、こなたの診断を始めた。みゆきの新しいストーリーが今から始まる。
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