東京地方裁判所。 第一回の公判は、原告・被告双方の弁護人が互いに準備書面のとおり陳述する旨を述べ、裁判官が次回公判の期日を告げるだけの形式的なものだった。損害賠償をめぐる本格的な論戦は、第二回以降の公判になる。 原告側弁護人である柊かがみは、その形式的なセレモニーを終えると、足早に裁判所をあとにした。 裁判所前の路上に駐車してある車が一台。その運転席に見知った顔を見つける。 埼玉県警交通安全課長の成美ゆいであった。 車に近づき、ドアを開ける。「すみません、成美さん。待たせてしまったようで」「全然構わないよ。かがみちゃんだって仕事なんだしね」 かがみは、後部座席につくと、シートベルトを締めた。「じゃあ、かっとばしていくよ」 ゆいの宣言に、かがみは高校一年生の夏休みのことを思い出した。「お手柔らかにお願いします」 車は埼玉県に向かって、法定速度を遵守しつつ軽快に飛ばしていた。「こういうのは失礼ですけど、こんな日でも成美さんは変わりませんね」「ゆたかのために泣いてくれる人はたくさんいるからね。だから、泣くのは私の役目じゃない。私はゆたかの分まで強いお姉さんでなくてはならないんだよ」 もうお姉さんという年齢ではないが、突っ込むのは野暮というものだった。「そうですか」 しばらく、沈黙が車内を支配した。 その沈黙を破ったのは、ゆいの方だった。「かがみちゃん。交通事故直後の現場って見たことある?」「いいえ」「私は何度もあるよ。それが仕事だしね。救急車が到着する前に、警察が先につくことだって珍しくない。悲惨な死体を見たことだって何度もある。体が上下真っ二つに分かれてたり、頭が押しつぶされて原型をとどめてないのとかね……」 「……」「そんな死に方に比べれば、ゆたかは幸せさ。望みを果たして、病院のベッドの上で家族に見守られながら逝けたんだから」 ゆいの言いたいことは分かる。
かがみも、世の中が綺麗事だけで成り立っているわけではないことを否応なく思い知らされる仕事につく身である。 数々を仕事を振り返る中でも、理不尽な死に見舞われた故人の無念を少しでも晴らそうと歯を食いしばる遺族の姿は脳裏にこびりついて離れないものの一つだ。 そんな人々に比べれば、ゆたかは確かに幸福な方だといえた。 それでも、やりきれない想いは拭い去れない。それは、ゆいも同様だろう。 その死は、充分に予測されていたものだった。 体調の急激な悪化。その中で判明した妊娠。 そのまま子供を生めばどうなるかは、充分すぎるほど予測されていたことだったのだ。 それでも、彼女は生むことを選んだ。彼女にとっては、それは当然すぎる選択だった。 そして、子供を生んだ一ヵ月後に、予測されていたとおりの結末を迎えることになった。
通夜の会場。 かがみは、喪主であるゆたかの夫に、型どおりの悔やみの言葉を述べた。 それしかできない自分がもどかしい。でも、それが自分の人間としての限界なのだ。「やあ、かがみん。忙しいとこわざわざ来てくれてありがとさん」 振り返れば、そこには、喪服を着ていること以外はいつもと変わらぬ親友の姿があった。「あんたって、こんなときでも相変わらずなのね」「まあね。悲しいのは当然なんだから泣きたい人は泣けばいいよ。でも、私は泣かない。ゆーちゃんが望んでるのは、残された人たちの笑顔だと思うから、私は元気を振りまくんだ」 こなたの考えは、ゆいと似たようなものだった。「ゆい姉さん。今日は夜通し頑張ろう」 こなたとゆいは、両手をパチンと合わせた。 二人の考えを否定することは、かがみにはできなかった。この場に唯一の正解なんてない。それが理解できるほどには、彼女も大人になったつもりではある。 会場を見回す。 親戚を除けば、故人の親しい知人しかいない。それが遺族の意向であり、おそらく故人の意思でもあっただろう。
その中に、みゆき、みさお、あやのの姿を見つけた。目が合うと、彼女たちは軽く目礼してきた。 既にぐだぐだに泣きぬれている姿も多い。 ゆたかの夫や母はその筆頭だったし、ゆたかと親しかったみなみやひより、パトリシアもそうだった。 涙もろいつかさも、その仲間に入っていた。 そして、こなたの父親であるそうじろうも、ゆたかの夫に負けないほどに泣きぬれていた。「ゆーちゃんの死に方がお母さんとあまりにも似てたからね。ゆーちゃんの旦那と涙を共有できる唯一の人間だよ」 こなたがそう解説してくれた。「そう」 かがみには、そうとしかいいようがなかった。かけられる言葉などありはしない。 こなたは、ゆたかの父親のもとに近づいていった。その腕には、彼の孫、すなわち、ゆたかの娘が抱かれている。 彼女はこんな中でも無邪気に笑っていた。「さすが、ゆーちゃんの娘だ。笑顔が可愛いねぇ」 彼女は、こなたに向けて小さな手を伸ばした。こなたによくなついているのだ。 こなたは、彼女を抱き上げた。「よぉし、泣き虫なお父さんを慰めに行こう」 ゆたかの夫の前にたつ。 彼女は父に向かって小さな手を伸ばした。「やっぱり、お父さんの方がいいんだね」 彼女を父親に手渡す。 そして、こう語りかけた。「私もこの子と同じ境遇だから、この子に教えられることはいろいろとあると思うよ。だから、何かあったら遠慮なく来てくれたまえ」「ありがとうございます」 こなたは、そうじろうの方に振り向き、「お父さんも、今日は、ゆーちゃんの旦那に片親としての心構えを伝授するのだよ」 そうじろうは、何度も首を縦に振った。「じゃあ、お坊さんも来たことだし、はじめるよ~」 ゆいの言葉に振り向くと、そこにはどうにもタイミングを計りかねていたお坊さんが突っ立っていた。
みんなあわてて畳の上に正座した。「ちびっ子はすげぇよな。私じゃ、ああはできねぇよ」 みさおは関心したようにそうつぶやく。「そうですね」 みゆきが相槌を打った。 それは、かがみも同感だった。 お坊さんのお経と説話が終われば、その後はひたすら夜を明かすだけだ。 泣いたり笑ったり語ったり寝込んだり……人それぞれ。そこには唯一の正解などない。 かがみも夜明けまで付き合いたかったが、明日も仕事がある。依頼人の人生がかかっているといっても過言ではない裁判の最終弁論があるのだ。「こなた。私はここらで抜けるわ。明日のお葬式にも出れなくてごめん」「いいよ。かがみんの仕事はとても大事なものだからね。サボったら、ゆーちゃんがカンカンに怒って化けて出てくるよ」「そうかもね。ゆたかちゃんに怒られないように、しっかり仕事してくるわ」「体を壊さない程度に頑張ってくれたまえ」「ありがと」 かがみは、少しの未練を残しつつその場を後にした。終わり
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