一塊の雲すら浮かんでいない晴天の日のお昼時のことだった。 休日の午前中を峰岸家で過ごし、そのまま昼食を食べていくことになったみさおは、料理が出来上がるのをはしゃぎながら待っていた。「ハンバーグ。ハンバーグ!」「みさちゃん。もうすぐできるから、もうちょっと静かに……」 あやのは困った顔をしたが、そんな忠告を聞いて静かになるみさおではなかった。 料理の得意な友人が自分の好物を作ってくれるという事に歓喜して、どんな言葉も彼女の耳には届かなかった。「完成……っと。お皿を出してもらえる?」「おっけー。さあさあ、盛り付けをどうぞ。あやの様」 名前に様付けまでしてしまう友達に呆れつつ、あやのは二枚の白皿の上にハンバーグを一つずつ載せた。「なんか、白っぽいな。このハンバーグ」「そうかな。普通だと思うけど」 あやのは疑問の声にあっさりと答えると今度はサラダの入ったボウルに手をかけたが、そこで動きを止めることになったのは、みさおが皿を覗き込んだまま唸っているためだった。 「これ、本当にハンバーグか……?」 みさおは不審げにあやのに訊ねる。「そうよ。豆腐ハンバーグ」 材料の中に牛肉は入っておらず、代わりに鶏肉が使われているという説明をあやのが終えるより先に、みさおは堪えきれずに叫びだした。 話が違う。詐欺だ、陰謀だという喚き声が部屋に響き、次にあやのが言葉を発したのはその嘆きの暴風が収まった後だった。「何度も言ったよ。だけど、みさちゃんが『ハンバーグ』っていう部分しか聞いてないから」「ハンバーグって聞いたら、普通のハンバーグを思い浮かべるだろ!?」 皿に載せられた紛い物を指差しながら、みさおは涙を携えた瞳で友人を睨んだ。 半泣きの友人に呆れつつ、あやのは席に着いて言った。「これもおいしいよ。騙されたと思って食べてみて」「いやだ」 宥めようとするあやのの声は、意固地になっているみさおにとってむしろ反発を生むだけのものでしかなかった。 あやのが豆腐を好きであることは彼女も知っていたが、期待が裏切られた反動で妥協を考えられなくなっていた。「そんな偽物なんて食べないからな。ほかで食べてくる!」 背後からの引きとめる声を無視して、みさおは一度も振り返ることなく駆け足で家の外へと出た。「――そういや、今日は家に帰っても誰もいないんだよな」 勢いに任せて飛び出したものの、それから先の展開はまるで考えていなかった事に気づいたみさおは足を止めた。 一度動きを止めてしまうと空腹がより強く感じられ、走るだけの気力は無くなってしまう。 みさおは仕方が無く歩き出した。 それから十数分かけて飲食店の看板を見つけた時、みさおは道の反対側から近づいてくる少女が顔見知りであるらしいとわかり、声をかけた。「おっす。確か柊の友達の、高良みゆきだったよな。この辺りに住んでるのか?」「いえ、自宅は東京です。今日はこのレストランで家族と食事をする予定なんですよ」 彼女が振り向いた先をみさおも見ると、そこにはみゆきとよく似た顔をした、雰囲気がわずかに異なる女性が立っていた。 みゆきの姉か何かだろうと判断をつけて、みさおは軽く会釈をして会話に戻る。「私は入ったこと無いんだけどさ、この店ってハンバーグはあるのかな?」 店の外にはメニューや料理のサンプルなどは置かれておらず、ただ見せの名前を記した看板があるだけだった。「どうでしょう……。あるとは保証できませんが、一緒に入りますか?」 本当は三人で予約していたのだが、突然父の都合が悪くなったのだみゆきは言った。「ふーん。どれくらいの値段で食べられるかにもよるな」「えっと、確か昼食は七千円からあったと思います」 聞こえない。何も聞こえない。 え?七百円?「いいえ、七千円です」 あはは、高良って意外とバカだな。たかが昼飯なのに、そんなに高いわけないだろ。 ……嘘じゃないの?「金持ちは敵だー!!」 口を開けて驚くみゆき達に背を向けて、みさおは空腹のまま叫び声をあげて走り出した。
すれ違う人とぶつかりそうになりながら、交差点では信号が青であるほうに曲がって足を止めず、全力で走り回り、とうとう体力の限界に達したみさおはしゃがみこんだ。 もう動けないとみさおは思ったが、ふと、自分を追い越して歩いていった子供が知り合いであるような気がして、残った力を振り絞って追いかけた。「おーい。ちびっこ」 間違いない。声に反応して背後のみさおを見たのは、泉こなただった。「スーパーの袋なんか持って、買い物か?」「うん。そうだよ。今日は私が昼ごはんを作る事になったから、足りなかった材料を買い足しにね」「へえ、そっか。昨日の夜にテレビで特集をやっていたし、もしかしてハンバーグだったりしてな」「あれ、よくわかったね?」 ハンバーグ。その奇跡の合致に、みさおの目が輝いた。「ま、まじかよ。……なあ、こんなことを頼むのは気が引けるんだけど、私が食べに行ったら迷惑かな?」 ずうずうしいとは思いながらも、一縷の望みにかけてみさおは言った。 こなたは顎に手を当てて考え込むような仕草をすると、にやりと笑った。「悪いなのび太。この材料は三人用なんだよ。なんて――」「ちくしょー!!」 こなたが最後まで言い終える前に、みさおは涙を流しながら走り出した。 その勢いには「冗談だよ」というこなたの呟きが届くはずも無かった。 限界を超えて走り続けたみさおは、何かにつまづいたわけでもなく転倒した。 陸上部で努力を続けてきた彼女であっても、過度に連続した足への負荷には耐えられなかったのだ。 周囲に人がいたのであれば羞恥で顔を赤らめるところだったが、幸運にも車が一台通り過ぎて行っただけだった。 だが、恥ずかしさを感じなかった事で、地面と接触した膝部分にみさおの意識は集中してしまい、悔しさと痛みで涙が溢れた。 立ち上がることさえ出来ない。 涙が頬を伝い、服に染みが作られようとしたとき、みさおの持っていた携帯電話から着信を知らせる軽快な音楽が流れ出した。『着信―柊かがみ』 それを見たみさおは袖で涙を拭いながら、通話ボタンを押した。「もしもし、柊か」「そうよ。って、あんた涙声じゃない。泣くくらいなら、喧嘩しなければいいのに」「やっ、これは……」 みさおは泣いていたのは喧嘩が原因ではないと反論しようとしたが、先に気がついたことを訊ねることにした。「喧嘩をしたって、あやのから聞いたのか」「うん。私が怒らせてしまった、飛び出していったけど、そっちに行ってないか……ってね」「あやの……。柊、違うんだぜ。私が勝手に勘違いをして怒っていただけで、あやのは悪くないんだ」 かがみに説明をしようとして、とっくに怒りが収まっていることにみさおは気づいた。 自分がどうして怒り出したのかさえわからなかった。「柊、心配かけたみたいで悪いな。今から謝りに行ってくるよ」「うん。頑張りなさい。あっ、ハンバーグは私のです。……料理が来たから切るわね。ちゃんと仲直りするのよ?」 かがみが一方的にそう言って電話は終わった。 折りたたみ式の電話を閉じながら、みさおは立ち上がる。「くそう……柊の奴、自分だけハンバーグを食いやがって」 涙の跡は乾ききってはいなかったが、みさおの表情は明るかった。「いいさ。私にだって、豆腐のやつだけど、あやのが作ってくれたハンバーグがあるんだからな!」 帰ろう、とみさおは思った。 みさおは微かに痛む右足を庇いながら、ゆっくりと歩き出した。 彼女のために、一所懸命に料理を作ってくれる人がいる場所へと。
「……ただいま」 服の汚れが残っていないかを玄関前で再確認した後、みさおは躊躇いがちにそう言って扉を開いた。 鍵がかかっていて入れてもらえないのではという不安もあったが、当たり前のように扉は開き、そこからすぐの廊下にはあやのが立っていた。「おかえりなさい。みさちゃん」 優しい表情の友人を見て、みさおは訊ねた。「ずっと待っていたのか?」「ううん。探しに外に出ていたんだけど、柊ちゃんから『もうすぐ戻ってくると思う』ってメールが来たから」「そっか。なあ、あやの。ごめん。本当にごめん。興奮しすぎた」 みさおは手を合わせて謝った後、深々と頭を下げた。「そんなに申し訳なさそうにしないでよ。こっちこそ、誤解させちゃってごめんね」「いやいや、自分が悪かったのは間違いなんだってば。ごめんなさい」「ごめん」「私こそ」「ごめんなさい」「ごめん」 二人が交互に謝り続けるのを遮ったのは、みさおのお腹から鳴った大きな音だった。 音に掻き消されて暗い雰囲気は無くなり、かすかな笑いが二人に芽生える。「うん、お腹空いたよね。温め直すから、ちょっとだけ待ってね」「待てよ。私も手伝うってば」 みさおがあやのを追いかけると、彼女はすでにラップのかかった皿を電子レンジに入れていた。 温める間に食器を準備する手伝いをして、みさおは席に着いた。 本来の予定よりも一時間近くは遅れてしまったが、昼食は無事に始まった。 二人は仲良く白いハンバーグを食べる。「この不思議なハンバーグもうめーな」「ふふっ、みさちゃんったら。もう少し落ち着いて食べればいいのに」 この日を境にして、みさおの好物は一つ増えた。 好きな食べ物は何かと彼女に問いかけると、こんな答えが返ってくるだろう。「ハンバーグって名前の付く物なら、普通の奴でも豆腐の奴でもどっちも好きだぜ」終
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