「忘れものは何ですか♪ 見つけにくいものですか♪」「じゃなくて探しものでしょ。しかも古いし」「名曲は色褪せないってことだよ!」「脈絡ゼロだし……」
夜の町並みを歩く影二つ。 片や陽気に、片や呆れ顔で少女たちは陵桜学園へと向かう。
「で、忘れ物って何なの?」「明日使う原稿、部室に置いてきちゃってさ」
永森やまとの親友、八坂こうはこの時初めて忘れ物の詳細について答えた。 一時間前にも同じ質問を投げかけたのだが、なぜかその時の彼女にはお茶を濁されてしまっていた。 その答えが、学園に程近いこの道路でいよいよ返ってきたのだ。
――おかしい。
こうは割と気分屋で、似たようなケースは過去に何度かあった。 だが今は家の門限が迫っている。通学に片道数十分を費やすはずの彼女には、こんな時間に妙な思いつきを実行する余裕などないはずなのだ。
「そんなの明日でいいじゃない。今日はもう時間遅いんだから――」「門限やばいのはわかってるよ! どうしても急ぎで必要なの!」
それでもこうは引き下がろうとしない。 掛け合いを続けながら歩くうち、二人はとうとう学園の裏門までたどり着いてしまった。
さすがにここまで来てしまっては彼女を引っ張って帰る気も失せる。 ならば――と、やまとは小さな意地悪をひとつ計画した。 今日は土曜。部活等で残っている生徒もいないらしく、校舎の窓は一箇所を残して真っ黒に塗りつぶされていた。廊下も当然消灯されているようだ。
「部室の鍵は?」「持ってるよ。部長だからってことで持ち出しも大目に見てもらってたりして」
シチュエーションが出来すぎじゃないか? 鍵があるのなら、こうが唯一明かりの灯る宿直室に立ち寄る理由がなくなるのだ。 この季節外れの肝試しを成功させようと企んでいる者が自分以外にもいるような気がして、やまとはにやりと口の端を歪めた。 こんなことに悪乗りしてくるなんて神様も茶目っ気があるじゃない。 おっと、平静を装わなければ。
「ねえ」「うん?」
振り向いたこうは警戒の色など当然見せていない。まさか隣に立つ親友が彼女を陥れんと心の中で薄ら笑っているとは思うまい。 いやいや、陥れるというのは語弊がある。本当に些細な意地悪でしかないのだから。
「ここで待ってるから、こう一人で行ってきてよ」
その頼みにこうは「おやおやぁ」と目を細めた。
「やまと、もしかして怖いの?」
この、弱みを見つけた時のにやけ顔がやまとは嫌いではなかった。
――でも残念。今回は私が笑う番。
この先に待つささやかな満足感のため、やまとは普段通りの反応を「演じる」。
「そんなんじゃないわよ。ほら、早くしないと家の人に怒られるわよ」「ん――」
校舎に目をやったこうの眉がぴくりと動くのを彼女は見逃さなかった。 いくら明朗快活向かうところ敵なしの八坂こうとて、夜の学校はさすがに抵抗があるというわけだ。
「わかった。行ってくるよ」
明るい表情で――まず間違いなく強がりだろうけれど――手を振り、彼女は学園の敷地内へと消えていく。 その姿が見えなくなってから、やまとは「よし」と小さく呟いた。
それから二十五分、彼女は裏門前でこうの帰りを待ち続けた。 彼女は時間にルーズで、待ち合わせに数十分遅れることもざらにある。 だけど今回は違う。部室に忘れた原稿を取りに行くだけ。それだけのはずなのに少し時間がかかりすぎやしないか。
「……何やってるのよ」
にゃもーの待ち受け画面の下部に表示された時刻は――19時29分。 やまとも何度か出入りしたことがあるからわかる。ゆっくり歩いても生徒玄関から数分とかからない距離だ。 ましてや今は夜。門限という名の時間的制約があるのだから彼女はできる限り行動を急がなければならないはず。 彼女の記憶が正しければ、タイムリミットは20時ちょうど。それに間に合う可能性は現時点においても限りなく低い。 それなのに――なぜこれだけ待っても戻ってこない?
予想その一。鍵のかかっていない侵入口が見つからない可能性。 休みの日の夜なのだから戸締りはしっかりしていて当然。 そうなると彼女は宿直の先生に事情を話して入れてもらっていることになる。やまとにとってはつまらない展開ではあるが。 予想その二。忘れ物が原稿だけではなかったという可能性。 例えば彼女が自分の教室にさらにまだ忘れ物をしていたならば、所要時間もそれだけ延びるわけだ。 そして仮にこの二つがどちらも事実だったとしたら、なるほどこれほどまでに戻るのが遅れている理由として成立はする。 だが――
――まさかとは思うけど。さすがに考えが飛躍しすぎかもしれないけれど。
彼女の頭の中でもうひとつの可能性が形作られていく。 校内は暗い。こうが忘れ物を取りに行ってからどこかの窓に光が灯ったということも今のところはない。 視界が悪いせいで転ぶなどして、怪我をしてしまっているとか……。 一度その心配に行き当たるともう駄目だった。いてもたってもいられず、やまとは早足で校舎へ向かって歩き出す。 肝試しだとか、そんな考えはとっくに吹き飛んでいた。
どこから入ったものか――その問題はすぐに解決した。 ぐるりと正門側まで回ってみたところ、生徒玄関のドアのひとつが開け放たれているのを発見したからだ。 こうがここから入ったことはまず間違いないだろう。閉め忘れなんていかにも彼女がやらかしそうなことだ。
「……しっかりしないと。こうを捜して忘れ物取って帰るだけなんだから」
暗闇を前にしてすくむ体に喝を入れ、やまとは夜の陵桜学園に足を踏み入れた。
緑色の非常灯が天井から下げられた玄関ホールは、これなら真っ暗な方がまだましだと思えるほどの不気味な明るさをたたえていた。 数歩進み、腕を組む。
――ドアを閉めるべきだろうか。
開け放ったままにしておいた方が安心できそうではあるが、万が一泥棒にでも入り込まれてしまったらそれもまた困る。 何かあった時に責任を問われるのは自分やこう、そして宿直の先生なのだ。
やまとは少しだけ考えたが、結局このままにしておこうと決めた。 夜の学校というものに対し少なからず恐怖を感じていることを認めざるを得なかった。 もしこのドアを閉めてしまったらきっと嫌な想像をしてしまう。最後に全て元通りにしてしまえば、その過程でいくら自分本位な行動をしてしまっても構うまい。 そう開き直ると、いくらか気分が軽くなったように感じた。 来客用のスリッパに履き替えて靴を適当な靴箱にしまい、やまとはホールの横に見える階段を上り始めた。
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
足音が耳障りなほどに響く。 踊り場まで来ると光源は曇り混じりの月明かりだけになり、そのため視界も辛うじて一寸先が見える程度まで狭くなってしまった。 これでは細心の注意を払ったとしても足を踏み外してしまいそうだ。 彼女は石橋を叩くかのような注意深さでゆっくりと残りの十数段を踏みしめていく。 二階まで上がれば階段の照明のスイッチがあるはず――いや、一階にももちろんあったのだろうが、そのことに気付くのが少々遅かったかもしれない。
不意に手すりが途切れた。つまり無事に二階まで上りきったということだ。 いつの間にか止めていた息をふうっと吐き出し、やまとは壁をまさぐる。すぐに固い突起のようなものが指に触れた。 そのスイッチの前まで移動し、足を止める。
ぺたん。
「――!?」
冷たいものが背筋をさあっと走る感覚。心臓の鼓動が速まっていく。
今、足音が余分に聞こえなかったか?
続けて感じる、背後に何かが立っているような威圧感。 それらを気のせいだと切り捨てるには彼女の判断は遅すぎた。 怖い。足が震える。振り向き、後ろに立つ存在を確かめるだけの勇気が湧いてくれない!
――いやっ、違う。確認する必要なんてないんだ。
今、自分の右手が触れているのは何だ? スイッチだ。階段を照らす電灯のスイッチ。 闇は人の冷静さを失わせる。明るくなりさえすれば大丈夫、大丈夫だ。この人差し指に力を込めれば電気は点くのだから――
ぱちん。
「な……なんでっ」
なぜ点かない? 蛍光灯が切れているとでも言うのか!? ありえない。そうだありえないんだ。足音も気配もありえない、気のせいなんだ。 落ち着いて首を回せ。何もないことを確認しろ。 これは錯覚だ錯覚だ錯覚なんだ錯覚錯覚錯覚錯覚錯覚錯覚っ!!
意を決して振り向いた彼女の目には――
おかしなものなど何ひとつ映っていない。
――ほらみろ。怖いと思うから駄目なんだ。
悪夢を払うようにふるふると首を振り、やまとは三階へ向けて再び階段を上り始める。 もう、照明が点かないことなどどうでもよかった。なぜ点かないのかなど考えたくもない。 さっさとこうを見つけて帰りたい。頭の中はそれで一杯だった。
彼女が部室にたどり着いたのはそれから三分も後のことだった。 いちいち見るもの全てを警戒していたせいで歩みが極端に遅くなってしまっていたのだ。
「……こう?」
多分に漏れず暗闇に支配された目の前の部屋に声を投げかける。 返事はない。もとより人の気配すら感じられない。
「いるんでしょ?」
それでも彼女は親友がここにいないと思いたくなかった。 いないのなら捜さなければならない。もう一分一秒も留まりたくないこの学園内を歩き回らなければならないのだ。 だが、その教室は沈黙を刻み続ける。無音ながら彼女に対し「ここには誰もいない」と高らかに宣言しているようにも思えた。
がらりとドアを引き開け、先ほどと同じように壁をぺたぺたと触る。 あった。スイッチを探り当てた右手に力を込め、やまとはそれを押した。
「……なんで? なんでさっきから点かないの!?」
ぱちんぱちんぱちん。何度かオンオフを繰り返してみてもやはり照明に光は灯らない。 点かないわけがない。なのに点かない。現実的に考えてありえない現状を否定しようとしているだけなのに手は震え、額には脂汗がにじむ。 否定できない。今この時も、階段でもそうだった。このスイッチが不安を否定させてくれない。 そして――
再び聞こえた、主のいない足音も。
ぺたん、ぺたん。
――近付いてくる。間違いなく私が立つこの場所へ向かって歩いてきている。 落ち着け。さっきの対処を思い出せ。否定しろ、この音は気のせいだと思い込め!
だん!
一喝のつもりで壁に右手を叩き付けるとやはり気配は霧散し、足音もそれ以上鳴ることはなくなった。 いつの間にか息は荒く、緊張のせいか少しだけ吐き気も催してきたように思う。
「あ――」
汗を拭くハンカチを取り出そうと腰のポーチに手を伸ばした瞬間、やまとははっとした。 何もここで立ち尽くすことはない。直接本人に居場所を聞けばいいのだ。 なぜこんな単純な方法に今まで気付かなかったのだろうと半ば自分に呆れながら彼女は取り出した携帯の待ち受け画面を開き――
「ッ!!」
そして、そこから目をそらした。
彼女はにゃもーの画像を待ち受けに設定していたはずだった。校舎に入る直前にも携帯を開いたし、それからずっと肌身離さず持ち歩いていた。 なのに、なぜこの液晶画面は何の特徴もない白地を写し出しているのだ? いや、それもさして重要な問題ではなかった。そんなことよりも――
99:99
時刻表示の部分で光るこの数字は何だ? 一日は二十四時間しかない。どう転んでもこんな時間など存在しない。
違う違う違う!
なんでこんな狂った数字が表示されているんだ!?
一連の行動を思い出す。裏門の前で携帯を取り出し、時刻を確認した。正確な時間をその目に焼き付けたし、待ち受けも白一色などでは決してなかった。 それからここへ来るまでずっとポーチの中に入れたままで取り出していない。誰かが細工できるわけもない!
秒数が変動している。
57秒。 58秒。 59秒。
……60秒。61秒。62秒、63秒、64秒――!
「うっ、うあああぁっ!!」
やまとはこの「何か」が狂っているとしか思えない陵桜学園の中で、生まれて初めて悲鳴を上げた。 十六年間生きてきて初めて、精神がおかしくなりそうな恐怖というものをその身で体感してしまった。 ……それでも、振り上げた携帯を床に叩き付けるという行動を抑制するだけの理性は残っていた。 その手を胸の前で重ね、彼女は細い声で祈るように呟く。
「こう……助けて……」
「圏外」の二文字が、画面の左上隅で毒々しい赤色を放っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。 望む助けが来ることはついになく、心臓は孤独と恐怖で今にも押し潰されてしまいそうだった。 それでも彼女は顔を上げる。我を忘れ叫んだことで逆に冷静さをいくらか取り戻すことができたのだ。
――逃げてやる。さっさとこうを見つけ出して、この狂った学園から出ていってやる。
誰もいない部室を一瞥し、やまとは歩き出す。 目指すは親友が毎日授業を受けている教室。当てはもうそこしかない。
暗闇に覆われた板張りを、彼女はしっかりとした足取りで踏みしめる。 この、廊下が無限に続くような錯覚もあくまで錯覚。果てがないわけもなく、程なくして二年F組と書かれたプレートが目に入った。 一見したところ中は暗く不気味。様子は他の教室とほとんど変わりない。 ただひとつ、小さな物音が聞こえてくる以外は。
教壇の横でうずくまる影があった。間違いなく物音の主だ。
狂ったように針をぐるぐると回す時計も窓ガラスに写る手形のような影も気に留めることなく――いや、正確には「それら」が極力視界に入らないよう努めながら。
「こう」
だん。
確信と願望を半々にやまとはその名を呼んだ。
「あ、やまと。結局来たんだ」「全然戻ってこないから。帰ろう、もう忘れ物回収したでしょ?」
「ちょい待って……落としたペンが教壇の下に入っちゃってさ」
こんな状況でもこの通りのマイペース。 彼女に対して抱いた呆れと安堵が思わず口から言葉となって飛び出す。
「……何やってるんだか。それこそ月曜日でいいじゃない」
「んー……ま、いっか」
不服そうではあるものの、こうは腰を上げる。 ようやく帰れる。これで薄気味悪いこの建物ともおさらばだ。
「ところで門限大丈夫なの?」
「あ、そうだった! えーっと――」
目の前に立つ親友が顔を斜め上に向ける。その視線の先にあるものは――
例の高速で回り続ける時計。それ以外には何もない。
得体の知れない悪寒が首筋を駆ける。
「やっば! もう8時過ぎてる!? こんな待たせちゃってホントごめん!!」
――ちょっと待ってよ、私の親友。
「ねえ、今……何時?」
「何時って、そこに時計あるじゃん」
訝しげに顔を覗き込まれ、やまとは見たくもない時計の方へ目をそらした。 黒板の上に掛けられたそれは相変わらず頭が痛くなるような速さで長針を動かし続けている。
彼女が何を見てそう言ったのか、やまとには理解できない。
「こう……」
――ああ、駄目だ。もう限界だ。
「さっきから、変な音聞こえない? 壁……違う、窓叩いてるような」
「ほら今も!」
「なっ……やまとさぁ、私を怖がらせようったってそうはいかないよ? 何も聞こえないじゃん」
――嘘だ。こんなにはっきり聞こえているのに。
「冗談はやめて……」
「冗談言ってるのはやまとの方じゃん」
飄々と浮かべるいつもの表情。 四年間の付き合いでとうに見慣れた彼女のこの顔に、やまとは初めて嫌悪感を抱いた。 あの時計を見たうえでいかにもそれらしい時刻を言ってみせたり、これだけ響いている音なのに「聞こえない」と白を切ったり。 いい加減にして――と口を開きかけた時、不意にバイブ音が耳に入った。
――携帯? 私のじゃない。圏外という単語とあの不気味な待ち受けをさっき見せられたばかりじゃないか。
やまとが首を傾げるのとほぼ同時に、こうが自分のバッグから携帯を取り出す。
「……繋がるの?」
そう言ってから、ばかばかしい質問だったなと思い直す。
「もしもし。……あぁ、母さん」
こうの自宅からかかってきた電話なのだ。こうして繋がっているのだから圏外であるわけがない。 通話口の向こうで小言をまくし立てられているらしい彼女を横目にやまとはほっと息をつき、自分も携帯を開く。 そして相変わらず異常な待ち受け画面が写し出されているのを目にし、再び顔をしかめるのだった。
「わかった、すぐ帰るから!」
半ば怒鳴るように母親の声を遮り、こうは通話を終える。
「門限過ぎてて怒られた?」「正解。帰ろ」
役立たずの携帯をしまい、やれやれと首を振りながら教室を出て行く彼女を追う。 気付けばあの音もいつの間にか聞こえなくなっている。 ようやくこの学園から解放されるのだ――と、やまとは今度こそ心の底から安堵するのだった。
否、安堵できるはずだった。
一階まで下りてきた時、やまとはかすかな違和感に気付いた。 何かはわからないけれど、数十分前と比べて決定的に違う部分がある。 だが、今ここで口に出すつもりはなかった。何も考えずにさっさとこの学園を後にして、帰り道で「怖かったね」と笑い合えばいいのだ。
陵桜学園は生徒総数が多いゆえに靴箱の数もまた尋常ではない。 こうたち二年生に割り当てられた靴棚は階段から最も遠い位置にあった。 やまとが靴をしまった棚はほぼその反対側――すなわち目の前。 親友と別れ、やまとはそそくさと靴を履き替える。 スリッパを元の位置に戻し顔を上げた瞬間、彼女は違和感の正体を悟った。
開けっ放しにしてあったはずのドアが閉まっている。
校舎に入った時にはあった風の流れが、これが閉まっているせいで今はない。 だがそれだけのことだ。「なぜ閉まっているのかを考える必要はない」のだ。 何も考えなくていい。無心でドアの取っ手に手をかけて横に引くだけでいい。 早く。早く、こうが来る前に――
がつん。
心の片隅で危惧していた通りに、ドアはその力を拒んだ。
開けっ放しのこのドアを宿直の先生が見つけ、閉めて鍵をかけた?
そんな現実逃避ができるほど甘くはない。錠は落とされていないのだ。
「……開け」
呟きと同時に、やまとはさらに力を込める。 それでもドアは開かない。施錠されたドアが開くはずがない。 違う! このドアは施錠されてなどいない。開かないはずがない! ならばなぜ開かない? 答えは簡単。だけど自分は全ての事象を理数的思考で説明できる世界に住む人間なのだ。 魔法だとか幽霊だとか、そんな説明の付けられないものに納得するわけにはいかない。 いや、納得してはいけない!
――そうさ、私は怖い。「怪奇現象」というワードで括られるこの一連の出来事が怖くてたまらない。 こんなオカルト、私は信じない。信じていないのに信じざるを得ない。 だって現にこのドアは開かないんだ!
「やまと!」
唐突に大声で名を呼ばれ、やまとはびくりと体を強張らせた。 彼女が近付いてくる。こちらへ向かって早足で。
「……いで」「何? 聞こえな――」
一度目はかすれた声で。二度目にはっきりと。
「来ないで!」
無二の親友に向かって、そう彼女は言い放った。
「な……何?」
予想だにしていなかった言葉に足を止め、立ち尽くす。八坂こうが取る当然の反応。 だが、やまとには確信があった。
「あんたの携帯も圏外だった。一瞬だったけどはっきり見えたわ」「……見てたんならなんで――」
こうの自宅からかかってきた電話。 その通話を終えて彼女が携帯を閉じる瞬間、やまとは見ていた。見てしまっていた。
自分だけではなく、彼女のそれもまた「狂って」いたのだ。 だのになぜ母親と話せていた?
違う。
あの時、八坂こうは圏外の携帯で外界の人間と話すふりをしていた。
いや、これも少し違う。やまとはバイブ音を確かに聞いた。闇の中ではあったが彼女の携帯が小刻みに震えているのも見えた。 それがいわゆる怪奇現象の類によるものなのかそうでないのかは今は問題ではない。
「残念だったわね……あと少しで騙しきれたのに」「え、ちょっ、何それ」
自分の親友が本気で怯えるであろう行動を彼女が起こすか? 答えは否だ。 つまり――考えるまでもない。
「――偽者」
目の前に立つ少女は八坂こうではないと、やまとはついにそう結論した。
「に……偽者って。冗談きついよ」
苦笑い。そう、彼女はこういう時にこういう表情を浮かべて誤魔化そうと試みる。
――あくまで演じ続けるつもりか。
苛立ちが募っていく。こんな無様でつまらない足掻きがやまとは嫌いだった。
「こうのふりをしないで」
「彼女」が目を見開いた。動揺している。超常の存在が人間ごときに追い詰められているのだ。
――こうの妄想癖がついに伝染したか? それでもいいさ、そのおかげでこうして優位に立てているのだから。
次に懸念すべきは相手の反撃。やまとは頭の中にポーチの中身を描いてざっと改めた。 財布に手帳、携帯、簡単な裁縫道具。駄目だ、まともに護身に使えそうな物はない。 次に周囲を見回すと、傘立てに傘が一本無造作に突っ込まれているのが目に入った。手元がヘアピンカーブを描いていない、珍しい型だった。
――これなら。
少女を見据えたままゆっくりと後退し、手探りで柄を探し当てぐっと引き抜く。 そして彼女はその傘を剣に見立て、油断なく身構えた。
「……やまと」「うるさい」
偽者の発言を一蹴し、やまとは見慣れた顔を睨みつける。 石突は避雷針のように細長い。ひとたび突きでも見舞えば「軽い怪我」などでは済まない可能性が高いだろう。 それでも彼女はその頂をためらいなく親友に向ける。
「私の前から消えて。もう二度と出てこないで」「っ……。やまと、おかしいよ……」
――このっ、白々しいにも程がある……!
「おかしいのはあんたの方よ。人の知り合いに化けて騙すなんて悪趣味もいいとこね」「は、話聞いて――」「私の親友のふりをするなって言ってるでしょ!?」
絶叫にも近い怒鳴り声、そしてすさまじい剣幕。 偽者は出しかけた言葉をはっと飲み込み、次の瞬間には廊下の奥へ向かって駆け出していた。
「あっ……待て! こうの居場所を――」
やまとは慌ててその背中に声をかけるが、引き止めることは叶わなかった。 結局こうは見つからないまま。唯一彼女の行方を知っているであろう「敵」も消えた。 今の状況をどう受け取ればいいのか――とため息をひとつつき、やまとは何となしに携帯を開いた。
「……嫌がらせは続けるってわけ」
――かまやしない。物陰からこそこそ観察していたいなら勝手にしろ。 私は意地でもこうを捜し出す。あんたはこの学園を去る私たちを見ながら悔し涙でも流せばいいさ。
再びスリッパに履き替え――「敵」を退けたことで気分も少し晴れたのだろう――これまでと比べて明らかに軽いとわかる足取りでやまとは歩き出す。 目的地はただひとつ、そこに行けば必ず彼女に会える。そんな根拠なき確信を胸に。
アニメーション研究部の部室。
数十分前から全く動かない月も、おそらくあの偽者の小細工のひとつなのだろう。 その違和感がかもし出す不気味さも、今のやまとにとってはさしたる問題にはなりえない。
時間は可能性を否定できない――なんて言葉をどこかで聞いた覚えがある。 もし自分と同じようにこの校舎から出られず、携帯で連絡を取ることもできないのであれば彼女はどうするだろう? そんな「可能性」はこの一室に行き着く。なぜなら――
“明日使う原稿、部室に置いてきちゃってさ”
学園の外で彼女はそう言った。そうとしか言わなかった。 だからやまとがこうを捜すために校舎へ入ることがあったとしても、部室以外の心当たりがない。部室に行くしかない。 そしてこうもまた、それをわかっている。何かあった時に部室で落ち合うのは暗黙の了解だったのだ。 「主のいない足音」はきっとそれを妨害したかったのだろう。
やまとはそれを忘れ、部室に誰もいないことを確認すると他を当たってしまった。
もっとも、彼女が悪いとは誰も言い切れないだろう。 灯りのない夜の学校、その中の真っ暗な教室ひとところに留まっていられるほど人間は肝の据わった動物ではない。 二人がこの広い校舎内で入れ違いの行動を繰り返してしまっても、それは仕方のないことだった。
ドアにはめ込まれたプラスチックガラスの向こうにうずくまる影が見えた。
この部屋からすすり泣くような声が聞こえてくる。かすかに、だけど確かに。
腕を組み、月を見上げながらやまとは思案する。 これもまた「彼女」の演出なのだろうか? そう考えるのが自然ではある。彼女の知る八坂こうはこんな風にめそめそと泣く少女ではないからだ。
――あれこれ考えても意味はないか。
深く考えるのをやめ、やまとは部室に向き直る。 そしてふうっと大きく息を吐き、一拍おいてがらりとドアを引き開けた。
果たして、そこに人の姿はなかった。
的中した予想に自然と笑みが漏れる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花……はちょっと違うか」
「夜の校舎は怖い」という先入観が疑心暗鬼を引き起こし、恐怖心を育んでいく。 そのタネにもっと早く気付きたかった――と、やまとは頭を振った。
「こう。いる?」
それでも念のため、真っ暗な部室に声をかける。 案の定返事はない。彼女はこれからここに来るのだ。
待とう。ここまで来れば三十分も一時間も同じだ。
もう一度強く頭を振り、やまとはこの日初めて部室に足を踏み入れた。
瞬間、世界が暗転した。
体重をかけた右足が空を切る。 何かに掴まれと脳が警鐘を鳴らす頃には時既に遅く、やまとの体は虚空に引き込まれ落下を始めてしまっていた。
だが彼女は咄嗟の機転を利かすことができた。 上半身をひねり腕を突き出したその判断が功を奏し、辛うじて「床の縁」に左手をかけたのだ。
その衝撃で右手から傘がするりと離れ、惹かれるように闇に溶けていく。 音は――ない。文字通り底なしの黒。
いま腕一本を残し、彼女は無に呑まれつつあるのだ。
長くは持ちこたえられそうになかった。 いかに運動が得意とはいえ、体全てを支えるには彼女の左腕は細すぎる。
――早く、上がらないと。ここに落ちたら……終わりだ。
やまとは、この状況でも馬鹿みたいに冷静で滅多に外れない自分の直感を初めて恨んだ。
壁が存在しないから足をかけて蹴り上がることすらできない。自分の筋力だけで何とかするしかないのだ。 左肩の悲鳴に耳を塞ぎ、右腕を伸ばす。両手なら大丈夫、懸垂の要領でいける――
「やまとっ!」
聞き慣れた声。同時に右手首が掴まれ、物凄い勢いで引き上げられた。 それに合わせて利き手にありったけの力を込め、体をかすかな光のある方へ押し上げる!
冷たい床の感触が膝から伝わってくる。 這い上がれた。助かったんだ――やまとは七回の深呼吸の後、ようやくそれを理解した。
「……ありがと」「いいって。困った時はお互い様じゃん」
そう言って、八坂こうはいつもの笑顔を彼女に向ける。
「手、もう離しても大丈夫よ」「やだよ、また落ちられたら困るもん。閉めるドアもないしさ」「……ざっくり切り取ってみせる割には几帳面なのね」
まるで中央をトリミングされた写真だな、とやまとは思った。 廊下とドアのレールを境界線に、部室の「中」がぽっかりと抜け落ちている。 実際に落下の恐怖を味わった今ですら、目の前の光景が見間違いか幻覚にしか思えない。
「ところでやまと、この学園にひとつ忘れ物してるんだけど。気付いてる?」
彼女の唐突な問いかけに、やまとはぱちりとまばたきをした。
「忘れ物? 私が?」
この学園に入ったのは桜藤祭の時が初めて、今日で二回目だ。こうに指摘されるような忘れ物などしていただろうか?
「気付いてないか。忘れられた方もかわいそうに」
忘れられた方もかわいそうに? その言葉のせいでますます心当たりは見つからない。 痺れを切らし、やまとは直球で尋ねた。
「もってまわるわね。何?」 こうはにやりと口の端を歪めてそれに答える。
『何度も怖い目に遭って、やっとトモダチを見つけたと思ったらニセモノ呼ばわり』
老婆と幼子を足して二で割ったような、聞くもおぞましい声で。
「え……」
頭がついていかない。 こんな声、出せるような子だったっけ? 今は忘れ物の話をしていたんじゃなかったか?
彼女は、何を言っているんだ?
『今頃泣いてるかもね? この学園のどこかで』
「いっ――は……離して! 痛い!」
掴まれたままだった右手首を異常な力でひねり上げられ、たまらずやまとは叫んだ。 だが、「八坂こう」はその声には聞く耳を持たず、彼女を無理やりに立ち上がらせて耳元で囁く。
『トモダチ――まぁ、あの子をトモダチって呼ぶ資格はキミにはなさそうだけど』
「なっ、何言って――」
『トモダチを裏切ったこと、反省するといいよ』
そう言うと不意に手を離し、満面の笑みを浮かべて――
「彼女」は、やまとの肩をトンと小突いた。
『永遠にね』
後ろのめりにバランスを崩したその先にあるのは例の闇。何の抵抗もできず、やまとは頭からその中に落ちていく。
「嘘――」
廊下からこちらを見下ろす顔を目に焼き付けながら、彼女は全てを悟った。
玄関ホールで自分が敵視した彼女こそが本当の八坂こうだったということを。
「本物」を罵り傷つけた罪を。
そして、この最悪な結末に至るまでその罪に気付けなかった愚かさを。
叫びは声になる前に、無に呑まれて消えた。
「で、忘れ物って何なの?」「明日使う原稿、部室に置いてきちゃってさ」「……それってどうしても明日必要?」「どうしても明日必要! いいじゃん、付き合ってよ。学園着いちゃったしさ」「わかったわよ……」
やまとは真実に気付けない。
気付けないまま、物語は始めに巻き戻る。
そう、永遠に。
終
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