五.
私は家に帰らなかった。
お父さんには、今日はかがみの家に泊めてもらうと電話を入れたのだ。
携帯電話が便利だと言うのが、ようやく理解できてきた気がする。
私は今、病院の近くのマンガ喫茶にいる。時間はもうすぐ夜の九時。そろそろ良いだろう。
結局、マンガを読むのに集中できず、どんなストーリーだったのかまったく頭に入っていない。
マンガ喫茶の会計を終えると、私は病院へと再び足を向けた。
夜の病院と言うのは、意外にも不気味さなどは少なく、人の気配も感じられて安心感がある。
それもそのはず、灯りはぽつぽつと点いている。
そもそもこの施設の中には大勢の患者さんや、夜勤中のナースやお医者さんがまだいるのだから。
ホラーの中でも定番中の定番の場所設定だったが、あれは廃病院とか、そういった類だっただろうか?まあ、どうでも良いや。
私は堂々と、いっさいの不信感を感じさせずに、玄関にいる警備員をスルーして病院へと突入した。
ナースとすれ違ったが、軽くお辞儀をして(泊り込みで付き添いをしている者ですが、なにか?)という雰囲気をかもし出しながら闊歩した。
そして難なくつかさの部屋にたどり着くと、そうっと、スライドドアを開いた。
そこにはベッドで安心したように眠るつかさの姿があった。
だまって入院していれば、自分は必ず回復すると信じているつかさ。
その寝顔が、私には怖かった。夏だと言うのに、汗をかいているというのに、急に寒くなった気がした。
「つかさ、つかさ。起きて、つかさ」
私はつかさの肩を叩いた。
「う、うぅん?」
目をこすりながら、私の顔を見つめようとする。
そこで気がついたが、こんなに暗かったら私が誰かわからないのではないか。
「こなちゃんの声?どうしたの?」
「つかさ、私がわかる?」
「うん、こなちゃんだよね?どうしたの、まだ真っ暗だよ?」
「つかさ、だまって、聞いてほしいんだ」
私は、今日の夕方にかがみから聞いた、つかさの本当の現状をありのまま全てを、つかさにゆっくりと言い聞かせた。
ガンだと言う事、治らないということ、そしてつかさの命は、残り数週間で終わりを迎えるということを。
真実を伝えるというのが、こんなに簡単なものだとは思っていなかった。
一度口を開いたら、後から後から残酷な言葉を吐き出す自分の口が、自分のものではない様に思えた。
全てを語った。暗くてつかさの表情が分からない。
「こなちゃん、それは、私のためを思って、教えてくれたんだよね?」
「うん……」
「ありがとうこなちゃん。本当に辛かったのは、みんなだったんだね」
「違うよ!私たちの事なんて考えなくていいから。だからさ、自分の事を考えて良いんだよ。つかさが私に甘えてくれれば、それだけで良いんだよ」
「ありがとう……」
相変わらずつかさの表情は分からないが、言葉の端が震えているのが、つかさが泣いているのだとわかる、ただ一つの証だった。
何気なくベッドの手すりに手を添えると、手になじむやわらかい物に当たった。
今日の夕方に自分で結んだ、つかさの黄色いリボンだった。こんなに暗くても、鮮やかな黄色が闇を弾いている様に良く見えた。
このリボンを付けて、元気良く登校して、なんの不安もなく当たり前の日常を、当たり前に謳歌していた、あの頃のつかさが脳裏によぎった。
かがみは言っていた、いつもどおりには二度とならない、と。
「酷いよね、酷すぎるよね。つかさはまだ「待って」」
ハッとした。私の小さな同情は、ますますつかさを傷つける。今の言葉はただの毒だ。
つかさはまだやりたい事たくさんあるよね。そう言ってなんになる?出来る事は限られている。
「私、せめて一つだけやりたい事があるの。こなちゃんお願い、叶えて」
六.
金曜日。結局、その日は眠れなかった。
だから寝坊はしなかったものの、頭が働かずにボーっとする。
自分の席について、うつらうつらしていると、かがみが教室に入ってきて私の席の前にやって来た。
みゆきさんが不思議そうにこちらを見ているのがわかる。
ちょっと来なさいと、私の手を引いて人のいない会議室の中に連れ込まれた。何をするつもりなのかと、寝ぼけた頭で考えた。
バシンッ
強烈な衝撃が、寝ぼけた脳天を貫いた。大きな音が無人の会議室に響く。
訳が分からないまま、私は会議室の床にしりもちを着いた。
暫く呆然としていたが、頬がじんと痛くなって、初めてかがみに頬を叩かれたのだとわかった。
「な、なんのつもりさ!」
「昨日の夜、つかさから電話がかかって来たわ。あんた、つかさに言ったわね?秘密にするって約束したじゃない」
「それは……」
「なにをしたのか分かってるの?あんたのした事は、ただの逃避よ。つかさに対して黙って、嘘をついて、自分に罪を被せられるの嫌になったんでしょう?この約束を破った時に、一番苦しむのはつかさなの!あんただけ楽になろうなんて、許さない!」
「かがみ、私は……」
私は必死で言い訳を考えている。あぁ、かがみの言っている事は正しい。言い訳なんて出来る訳ない。
私はうつむいた。
「ごめん、ごめん、なさい……」
涙がこぼれた。私が泣いている。何年ぶりの事だろう?
「謝らなくていいわ。私にも、つかさにも、今さらその言葉はどうでもいいの。ただ、その気持ちは忘れないで。あんたにはやるべき事があるわ。私も、そしてみゆきにもお願いするから」
私はゆっくりと顔を上げた。かがみと目が合うと、ばつの悪そうな顔をして吐き捨てるように言った。
「つかさが、海に行きたいって言ってる」
七.
携帯が鳴った。かすむ目をごしごしとこすり、携帯を開くとかがみからだった。現在早朝の三時。モーニングコールだ。
夜九時に、前と同じくつかさの部屋に侵入。そのままベッドの隣にあった長椅子の下に潜り込み、一夜を過ごした。
きゅうくつな場所から体をひねり、ズルズルと這い出す。再び夜の病院。この光景を目のあたりにしたものは、ホラー映画も真っ青だ。
ベッドではつかさがまだ眠っていた。
「つかさ、起きろ~」
「あと五分……」
申し訳ないが、布団をひっぺ返してつかさをたたき起こした。
部屋の片隅には車椅子が置かれていた。
つかさがすでに自力では立てないほど脚力を失っていた事を知ったのは、つい昨日の事だった。
しかし今回、この車椅子を使う事はしない。私はつかさを背負い上げた。
都合のいい事に、今はつかさに点滴は投与されていない。
つかさと私の身長差はある。誰かがこの様子を見れば、きっと不恰好なのだろうが、そもそも誰にも見られないように病院を抜け出す事が今のミッションだ。
「こなちゃん、なんだか緊張するね」
「しーっ、静かに。敵はどこに潜んでいるか分からないからね」
ベッドに結わいであったつかさの黄色いリボンが、今日は久しぶりにつかさの髪を縛っている。
ナースも誰もいない廊下。つかさに負荷を掛けないように、走る事はしない。
ただ目立たないように、黒いジャージを上下に着込み、闇にまぎれて廊下を突き進む。
エレベーターは誰かが使用しているかもしれないため、非常階段を使って一階に降りる。
また少しの距離を廊下を進まなければならない。しかしすぐに出られる。そんな時に、背中のつかさがピクリと動いた。
「こなちゃん、後ろから足音が聞こえる」
「むむっ、トイレに隠れよう」
私たちは、二人で女子トイレの個室に隠れた。もちろん、鍵もかけて。
女子二人でトイレに篭る。一人は無防備。なんかエロい……。もちろん何もしないが。
足音が通過していき、しんといっさいの物音がしなくなった。
体力には自信があるが、さすがに体格差もあって、つかさを支える腕が限界に近づいている。
「よし、行こう」
トイレを出たなら、すぐにガラス張りの廊下が見える。ガラスの向こうは、病院の中庭だ。その廊下の一番すみっこに、非常用の扉があった。
鍵がかけられていて、外からは鍵がなければ開かないが、内側からなら誰でもサムターンを回せば開けられる構造だ。
私たちはそれを開いて、外へ出た。まだ太陽は顔を出していないが、空がすでに白んでいた。とびっきりの快晴だった。
「きれい……」
つかさが耳元でささやく。百パーセント同意だった。
中庭を抜けて、病院の駐車場に行くと、予定通りの場所にステーションワゴンが一台、駐車してあった。
車の隣には、みゆきさんとかがみが立っている。
「さあ、乗ってください。海へ行きましょう」