「追憶」ID:0wIvXv60氏

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 目を開けると、そこには誰もいなかった。  一人きりの病室で、彼女は目だけを動かしてその事を確かめる。  点滴に繋がれた身体は動かない。  声を出そうとすると、喉に焼けるような痛みが走った。  かなたは激しく咳き込み、見舞いに来ていた夫は、自分が眠っている間に帰ってしまったのだと考えた。  入院をしている彼女とは違い、家族までもがここにずっと居座る事は許されない。  物心のつかない娘がいる家庭なのだから、夫も妻にばかり時間を割くわけにはいかないのだろう。  かなたもそれは理解していたが、音の無い病室が寂しくて、迷子になった子供のように泣きそうになった。 「そう……いえば……薬は……」  孤独を紛らわせるために、何かしなければ耐えられない。  衝動に動かされ、次の薬までの時間を確認しようと視線を動かしたとき、彼女はその紙に気がついた。  ベッドの横に置かれた来客者用の椅子の上に、見慣れない紙が置かれていた。  夫の忘れ物だろうか、直接届ける事は出来なくても誰かに電話をしてもらおうか。  そんなことを考えながら身体を起こし、痛みに耐えて手を伸ばす。  届かない、更に伸ばす、あと少し、そして届いた。  紙の薄い感触を感じながら表に返すと、他の項目よりも大きく書かれた、三つの文字が目に入った。 『離婚届』  それは、そうじろうが見舞いに来る途中、資料にするために役場で貰ってきた物だった。  荷物を置くスペースを節約しようと考えて、軽いビニール袋が上になるようにして椅子に置く。  そうして退屈であろう妻のために、気の紛れるような笑い話をおよそ二時間ほど続けた。  問題はその後だ。  幼稚園に娘を迎えに行く時間を過ぎていると気づいた彼は、慌ててビニール袋だけを掴んで帰ってしまった。  しかし、そんな事を推察するなど、かなたには出来るはずもなかった。  彼女は力を失ってその用紙を手放すと、声にならない言葉で、目の前にはいない相手に謝罪をした。  ごめんなさい。こんな身体でごめんなさい。  面倒をかけてばかりで辛かったよね。  私が産みたいと言ったのに、ちっともこなたの世話をできなくて、本当にごめんなさい。  涙を流すと、忘れていた痛みが蘇ってきた。  生きることをやめたいと考えてしまうほどの痛みだったが、まだ死ねないと、かなたは思った。  伝えたいことを残すまでは、まだ死ねない。  夫が用意してくれていたノートとボールペンは、声を出せないときに使うための物だった。  それをメッセージを残すために使う。  案外彼もこの使い方を想像していたのかもしれないと、かなたは考えた。  たった一行の文を震える手でなんとか書き終えると、かなたはうつ伏せの姿勢のまま、ベッドに倒れた。 『幸せだったよ』  その言葉が夫に嘘だと思われないことを祈り、かなたはゆっくりと目を閉じる。  彼女は苦しみに耐えながら、早く天使が迎えに来ることを祈った。  ナースコールのボタンは手を伸ばせば届く位置にあったのだけれど、心が折れて届かなかった。  そして、彼女の命の炎は消えた。 /  ……そこまで想像を進めたところで、心が砕けた。  俺は離婚届の紙を掴んだまま、絶望を抱えて死んでいった妻の顔を、何度も繰り返し想像した。  これは酷い。かなたにとって辛すぎる。  俺はベッドに座ると月明かりを頼りにして、テーブルに置かれた筆記用具から赤いボールペンを探し出した。  そして、暗い病室の中で明かりも点けず、離婚届と書かれた横に大きな文字で「資料用」と書き加えた。  これでいい。これで誤解は起きないはずだ。  そんな事をしても現実の過去が変わるはずもなかったが、自分の中の空想が塗り替えられていくのを感じた。 /  かなたはその用紙を見て一瞬驚くものの、ほっと胸をなでおろす。  自分は夫に嫌われたわけではなかった。  それがわかると、かなたは一瞬でも夫を疑ってしまった事を申し訳ないと思った。  少し思い返した中だけでも、彼はいつも愛していると言ってくれていた。  たとえば二人でテレビを見ているとき、CMに入った瞬間に、彼は唐突に「好きだぞ」と言った。  街中でも、知り合いが近くにいる時でさえも、くさい台詞と言われるような言葉を彼は平気で口にした。  一緒に買い物に行ったスーパーでは、「愛の力で値切ってみせる」と言われた。  いや、これは別の意味で恥ずかしい記憶だった。出来るのなら、なかった事にしたいほどの。  とにかく彼は、こなたの目の前であっても、愛情表現を控えることはしなかった。  離婚届のような致命的なきっかけでもない限り、彼の心を疑うことは出来なかったに違いない。  しかし、そうして安心するのも僅かな時間だけだった。  たとえ彼の愛が尽きなくても、自分はあと何日生きていられるのだろう。  運命の日まで、残り何日、あるいは何時間、それとも何分。何秒後に死ぬのだろう。  一人きりでいる時間が勿体無い。どんなに無理な願いだとわかっていても、寂しさは消えてくれなかった。  規則的に響く時計の音が、命を少しずつ削り取っていく。 /  ……俺は時計から電池を抜くと、針の動きが止まったことを確認して机に置いた。  息遣いの荒くなっている自分にはわからないが、この音はきっと彼女の希望を削っていた。  夜のしじまに聞こえてくる唯一の音が自分の死を刻む音だというのは、精神を磨耗させるに充分だ。  明るい思考を阻害しないためにも、マイナスの要因は無くさなければいけない。  俺は呼吸を整えてから最後に一度、大きく息を吸うとゆっくりと吐き出した。  さて、回想を続けよう。機械仕掛けの死神は排除された。 /  運命は決まってなどいない。定められた死に向かって一歩ずつ進んでいるなんてことは、ない。  そう考えると、かなたの気分は少しだけ軽くなった。  軽くなっている間に、答えの出ない問いについて考える。  日常生活に関する、これからのこと。  そして、自分が残すことの出来る「何か」について。  だが、再び椅子の上に置いた離婚届の紙は、視界に入らなくても何かを囁いているようだった。  こんな生活を続けていて、夫や娘はどうなるのか。  仕事の邪魔にもなるのだから、離婚をして新しいパートナーを見つけてもらうべきではないのか?  そう。それこそが愛情というものだ。  あなたは、どうする? /  ……ぐしゃりという音を立てて、離婚届の紙はでこぼこした丸い塊になった。  やはり、少しでも暗いことをイメージさせる物は存在してはいけない。  妻の心配の種であった娘もどうにかするべきだろうかと、数瞬考え込む。  いや、違う。かなたはそんなことは望まない。  眠ることを拒否してまで痛みに耐えた理由がこなただ。  こなたが遊びに来てくれた時に、薬で目が覚めないのは嫌だから。  たしか、そんな事を言っていた。言っていなくても、言っていた。  彼女のためにもこなたを守ろうと、決意を固める。  それを放棄するようでは、看取れなかった妻に許されるはずがない。 「許される?」  何気なく口にした言葉だったが、声は個人用の病室に予想外の大きさで響いた。  自分は許されたいのか?  悪者になりたくなくて、罪を軽くしたかったのか。  思えば、記憶を捏造しようとしたのは他でもない、自分のためだった。  頭の中で何度やり直しを続けても、死者の心が変わるわけではない。  そんな事は初めからわかっている。  小さな娘がいるのに妻を亡くした男なんて、何もしなくても同情されるというのに。  妻の温もりの残滓すらないベッドに座り込んだまま、俺は右の拳で自分の頭を殴りつけた。  勢いでベッドの足側へと体が傾くが、シーツの敷かれたマットレスにゆっくりと倒れこむだけで終わった。  鈍い痛みは感じていたが、罪に見合うだけの罰だとは、到底思えない程度のものだ。  無意識に加減をした自分が憎らしくて、痛みを感じる前よりも大きな自己嫌悪に襲われた。  可哀想なのはかなたであって、最後に苦しめる原因を作った俺には涙を流す資格さえ無い。  あるいはその罪が嫌で、都合の悪いことを忘れようとしているのか。  記憶を改竄しようというのか。  そんな男は、死んでしまえばいいとは考えないのか。 わからない。  心が凍ったまま時間が過ぎた。  既に手の中にあるゴミがなんだったのかは思い出せなくて、罪悪感だけが残っていた。  この感情もいずれは消える。  あるいは、かなたの死に目に会えなかったのを心苦しく思っていた、という事になるのだろう。  俺はベッドから身体を起こすと、机に紙クズを置いて立ち上がった。  心は大きく掻き乱されていたが、時間の経過のおかげか、やるべきことの優先順位ははっきりしていた。  俺は拙い足取りで病室を出ると、不気味な雰囲気の暗い廊下を歩き、公衆電話から妹に電話をかけた。  掛けた先は自分の家。  かなたが入院して以来、妹はたびたび家事の手伝いに来てくれていた。 「こなたを数日だけ預かってくれないか。かなたが……死んでしまったんだ」  相手は頼んだ内容には返事もせずに、電話を切った。  今から行く。そんな言葉を最後に言っていたはずだ。  車で病院に来るとして、どれだけ時間がかかるだろう。  まだ風呂にも入っておらず、疲労はかなり溜まっていたはずなのだが意識を失う事は出来なかった。  俺は仕方がなく病室に戻ると、再びベッドに腰を下ろし、妻との最後の思い出を振り返った。  特別なことは何もない。  こちらが一方的に冗談を言っていただけで、かなたはずっと無言だった。  ……だが、思い出は改竄される。 /  かなたと最後の会話をしたのは、まだ昼に近い時間帯だった。  病室にはブラインドの隙間から日光が差し込んでいて、電灯は無駄に点いていると感じた。  俺が娘についての話をしていると、かなたは唐突に「旅行に行きたい」と言った。  出来るはずがない。そんな説明をするのが馬鹿らしいほどに、二人は彼女の病状について知っていた。  俺が相槌を打つことさえ出来ずにいると、かなたは笑いながら諭すように言った。 「現実には無理だから、頭の中で。あなたの仕事と同じ。空想の中で旅をするの」  そう言ってかなたは目を閉じると、ゆっくりと語り始めた。  私達が病院を出ると太陽が出ていて、セミの声に耳を傾けながら、眩しさに目を細めるの。 「夏なのか。ちゃんと帽子を被れよ」  わかってる。暑いけれど手を繋いで、通りがかった人の視線を気にして、私は顔を赤くする。  きっとそうなる。  そう君はいつも自分勝手だよね。私が言う事なんて気にしないで、大丈夫、気にするなって。 「だって、勿体無いだろ。せっかく二人で出かけるのに、他人にどう思われるのか気にして自重するなんて」  二人か。そういえば、こなたを連れて行かないとね。ほら。お父さん、手を繋いであげて。 「……お父さん、か。自分が子供を持つ親になるなんて、昔は想像もしなかったな」  私もだよ。ねえ、こなたと手を繋いでくれた? 「ああ。それとお前の手も握るぞ。大人が迷子になってたら恥ずかしいからな」  もうっ。迷子になんてならないわよ。大体、両親が子供を挟んで歩くほうが普通でしょ。 「いや、俺にとっては両手に花だから」  ……ところで、どこに行こうかしら? 「決めていないのか。夏と言ったら山とか海とか、たくさんあるだろ」  そうだけど、わからないから。泳ぐのとか、山登りとか、誰かに説明できるほど詳しくないもの。  あなたが私を連れ出した時だって、そんな無理のかかる場所は選ばなかったでしょう? 「……そうだったかもな」  あ、でもね。一つだけ決めている事があるの。汽車に乗ろう、って。 「SLに乗った経験はあるのか?」  ないよ。だけど基本は電車と同じだと思うし……。  そうだ、トンネルでは窓を閉めるんだって。車内が煤だらけにならないように。 「曖昧だなあ。ちゃんと出発できるのかすら、不安になってきたぞ」  大丈夫よ。それに、こうして歩いているだけでも楽しいから。 「そうだな。暑いけれど風が吹くと気持ちがいい。木があると、枝葉が揺れて視覚的にも涼しいよな」  もしかすると、涼しいからというより、暑いから気持ちいいのかな?  快適な温度がずっと続いて欲しいわけじゃなくて、変化が楽しいというか。 「ああ、冬もそうだよな。寒い外から暖房の効いた家に戻ったときって、かなり幸せな瞬間だよ」  そう思うのなら、朝になったらすぐに布団から出てもらいたいわね。  寒くなるほうの変化も、楽しむための条件でしょう? 「冬の布団は麻薬みたいな物なんだよ。自分の意思とは関係無しに、身体が要求をして脳を屈服させるんだ」  だめじゃない。  こなたのほうが、よっぽどお利口さんね。 「いや、こなたもそう思うよな?」  思わないって。 「思うって言ってるよ。あー、こなたは素直で良い子だなあ」  そんなに可愛がっていると、こなたがお嫁に行くときが大変ね。  娘は渡さん。みたいなことを言って、相手の人を殴りそうな気がするわ。 「手放すわけがないだろう。こなたならきっと『大きくなったらパパと結婚する』って、言ってくれるさ」  馬鹿なこと言わないの。  そもそも、いつもはお父さんって呼ばせてるじゃない。 「いや、そういう呼ばれ方にも憧れないか? 父上、お父様とか、普段と違う呼び方にさ。わからないか?」  わかりません。こなたも大変よね。こんな、漫画やゲームみたいなことばっかり言う父親がいて。  もしも趣味まで似たらと思うと、こなたに女の子の友達ができるか心配よ。 「本人が幸せならいいんだよ」  そういう台詞は、こなたが自分のやりたい事を見つけた時の言葉だと思うけど。  もちろん、私達の教育とは関係なく選んだ道、という意味でね。 「影響をまったく与えないなんて、ありえないだろ?」  程度の問題です。 「そんな呆れた顔をするなよ。だって、寂しいじゃないか。親から何も受け継がずに育つ事を考えるなんて」  うん……。そうよね。  子供に伝えたいものは、たくさんあるわよね。 「こなたの外見なら、お前そっくりの美人になるよ。小さな頃から見てきた俺が言うんだから、間違いない」  顔はともかく、身長はそう君に似て欲しいな。趣味は似ないでもらいたいけど。 「きっついなー。俺の趣味が原因で、何か迷惑をかけたか?」  うん。リストにして欲しい? 「おっとそうだ。言うタイミングを逃したせいで話が戻って悪いんだが、親の愛情は伝わると思うぞ」  過去の世代から連綿と続く、親から子供への愛情……ね。  誤魔化すように言われなければ、もっと心に響いたのにな。 「まあ、感動して泣かれても困るからな。ところで、もう病院の敷地は出たんだよな?」  そうなのかな? うん。そうかもしれない。  ずっと外に出られなかったから、本当の距離よりも遠く思えていたのかも。  とっくに外に出ていても、おかしくないわよね 「試したら予想外に簡単だったって事は意外と多いよな。悪い方にばかり考えていると気がつけないだけで」  治らないと思っていた病気も、本当は治るのに――とか? 「    」  冗談だから、笑ってくれればいいのに。 「……そういう事もあると、俺は信じている。それより、出かける前の準備が長すぎるから短縮をしよう」  だめ。  暑い日差しの中を歩いた三人は、日除けのある駅のホームにようやく辿り着いた。  だめだって言ったのに。 「それじゃあ、やり直すか?」  ううん、もういいよ。こなたを歩かせてばかりでも可哀想だから。許してあげる。  それとね、この駅から目的の汽車に乗れるということで。  でも、あと十五分くらいは待たないと、汽車は来ない。 「なんだ。ホームに着くと同時に汽車が来るとか、そんな都合のいい展開にはしないんだな」  待っている時間も旅行だと思うから。  移動時間とかも全部含めて、ひとつの旅行。  人の一生と同じように、省略するべきところなんて無いと思うの。  まだ小さいこなたには、無駄な時間に思えるかも知れないけどね。 「その……。あんまり言われると、急かしている俺が子供っぽいと言われているように思えてくるんだが」  昔から今日までずっと変わることなく、子供っぽいじゃない。  良い意味でも、悪い意味でもね。  そうだ、駅のホームでは危ないから走ったりしないように、こなたに教えないと。 「随分とこなたを気にするんだな。二人きりの旅行のほうが良かったんじゃないのか?」  そんなことないよ。三人のほうがいい。  こなたは、私が残せるたった一つの絆だから。  どんなに思い出が色褪せても消えない、私達の家族だから。 「そうだな。俺もこなたと一緒のほうがいい」  たとえ、あなたが私のことを忘れてしまっても、あなたの傍にはこなたがいる。  私の代わりにそう君の面倒を見させるようで、少し可哀想だけどね。  色んな意味で大切な子だから、仲間外れにはしたくないの。 「忘れないぞ。何を忘れたとしても、お前と一緒に過ごした幸せな思い出だけは、絶対に忘れない」  嬉しいな。嬉しくて涙が出そう。  でも、泣いたりしちゃだめだよね。  周りの人に、変に思われるから。 「そうだな。二人で泣いているのを見られたら、俺たちが幸せだって事はきっと理解されないよな」  じゃあ、笑おう。  そう君が私の笑顔を好きだと言うように、私も、そう君にはいつまでも笑っていて欲しいから。 「言われなくても笑うさ。俺は世界一幸せな男だからな。笑わないほうがおかしい」  私も、笑えているかな。 「ああ。俺が一番好きな表情をしているよ」  よかった。  ねえ、そう君。  私ね。ほんとうに、幸せだったよ。 「俺も幸せだった」  廊下にまで届く大きな声を出したが、かなたは何も答えてくれなかった。  きっと、疲れて眠ってしまったのだと思った。  だから眠りを妨げないようにと、今度は声を抑えて囁く事にした。 「かなた、目が覚めたら旅の続きをしような」  俺はそう言うと、汽車を待ち続けていた旅行の時間を止めるために、時計から電池を外した。 /  ……時計を止めた?  突然発生した矛盾に驚いて、俺は目を開くとベッドに座ったまま考え込んだ。  時計が止まったのは、つい先ほどのはずだった。  自分の罪から逃避する行動のひとつとして、俺は記憶を捏造する過程で時計を止めた。  もちろん、所詮は妄想なのだから、本当の記憶と齟齬が出てもおかしくはない。  しかし、この食い違いは何かが違うような気がした。  現実に行動をした記憶よりも、今は何故か、創りあげた空想のほうにリアリティを感じている。  時計の電池を外したのは、かなたを看取った時の事だったとしか考えられなくなっている。  夢想した内容は過去に実際にあった事なのだろうかと考えたが、思い出せなかった。  俺は記憶を確かめる物が欲しくて、小さな机に置かれている丸まった紙クズを手に取った。  これも少し前にこうなった。俺がこうした。  記憶を捻じ曲げるために。 「そのはずなんだがな……」  そもそも、思い出を改竄したという記憶が残っているのはおかしい。  いくら妄想の記憶を追加したところで、本当の記憶が残っているのでは意味がない。  都合が悪いことを無かった事にする自分に、腹が立つだけだ。  罪の意識を軽くするどころか、死ぬほど重たく感じるだけでしかない。  これほど無駄な作業を、どうして疑問に思わなかったのか。  忘却を求めたところで、願いどおりに記憶を書き換えられるはずがないのに。  偽りのほうが心地よいから、気がつかないふりをしていたのか?  考えても答えは出ない。  とにかく問題なのは、現実にかなたの最後を看取ったかのように錯覚し始めている事だ。  自分に都合のいい妄想が真実として認識されつつある。  孤独な死ではなく、それどころか最後に幸せな思い出を作ってやり、俺にまったく罪がない。  罪がない。後悔がない。絶望がない。  生きる理由が見えなくなって、後追い自殺をするほどの衝動を生む、大きな罪の意識がない。  なんだこれは?  どうして偽りの記憶が正しいと感じる?  かなたが俺に生きろと言っているのか? 「ははは……」  混乱している自分がおかしくて、俺は無理に声を出して笑った。  現実から逃げるのも、いい加減にしなければいけない。  これらは全て創られた思い出で、死亡診断書に書かれた時刻がすべてを証明しているはずだ。  俺は大きく息を吐いてから枕元にあるライトを点けると、机に投げ出されていた診断書に目を通した。  間違いなかった。  深夜ではもらえない場合があるというこの紙には、止まった時計とほとんど同じ時刻が記されていた。 「つまり俺は、後追い自殺をするための理由が欲しくて、嘘の記憶を捏造していたのか?」  その考えを言葉にすると、世界が終わってしまったかのような、変化のない静寂が訪れた。  一瞬で思考を停止した頭は筋肉を弛緩させ、手からは紙を丸めた物が滑り落ち、床に転がった。  音に合わせて視線は動き、俺は震える手で足元に転がるそれを拾い上げた。  開いた紙は皺だらけで、何が書いてあるのか読み取り難い状態になっていた。  時間をかけて丁寧に紙を伸ばして、ようやく解読できた。  そこには、普通に書いたとは考えられないようなひどく歪んだ字と、破れかけた跡があった。  まるで、丸めた後で書き加えたかのように。  ――そうだった。思い出は改竄されていた。 /  いつもどおりに病院へと向かう、その前に、この日の俺は役所に寄り道をしていた。  資料として使う離婚届を手に入れるためだった。  紙の感触、手にした感覚、使用できる本物を持っているという事で生まれる感情。  小説を書く上で、登場させるからにはそれらを知っておくべきだと考えたからだ。  しかし、そこで時間をかけてしまったせいか、病室に入ったのは普段よりも数十分遅れになった。  「無理をしてまで来なくていい」と言ってくれるが、かなたの本心は逆のはずだと、俺は思っていた。  これは思い込みではなくて、俺にとって、かなたの気持ちで理解できないことなど何一つない。  音を立てないように扉を開けると、ベッドの上のかなたは想像通り、寂しそうに天井を見つめていた。  俺にとっては数十分でも、かなたにとってはその数十倍に近い、退屈な時間だったに違いない。  声をかけて俺に気づかせてからも、彼女の顔は暗いままだった。  俺はかなたの悲しげな表情を見るのが嫌で、雰囲気を変えるために、離婚届の紙を鞄から取り出した。  当然かなたは驚いて、それを突然乱暴に丸める俺の姿に、もう一度驚いた。  俺は彼女が目を丸くするのに構わず、遠くを見るようにして窓へと顔を向け、口を開いた。 「こんな物は必要ないんだ。俺たちの愛は、永遠だからな」  完璧だった。 「それ、資料としてもらってきた物じゃないの?」  俺が最高に格好良く決めた直後、かなたはそれを完全に無視してそう呟いた 「ああ。そのとおりだ……」  俺は肩を落とすと、紙くずを元どおりにしようと苦心をした。  その様子がおかしかったのか、かなたは笑いながら言った。 「仕事に使う資料をそんな風にしちゃうなんて、相変わらずよね……」  予定とは違ってしまったが、呆れながらも楽しそうにしているかなたを見ていると安心する。  俺はかなたの反応に満足して、皺だらけの紙を机に置くとベッドの傍にある椅子に座った。 「遅くなってしまった分、今日は何でもするぞ。裸踊りだろうと、変顔百連発だろうと、お前の望むままだ」 「そんなのは見たくないけど……一緒にしたい事はあるよ。でも、時間がかかりそうだから」  希望を伝える前に勝手に諦めようとするかなたに、俺は心配ないと伝えた。 「今日はゆきが手伝いに来てくれているからな。こなたを迎えに行かなくても大丈夫なんだ」 「本当?」 「こんなところで嘘をついてどうするんだよ」 「そうよね。じゃあ――」  かなたの顔から表情が消え、ぽつりと呟くように言った。 「旅行に行きたいな」 / 「……こっちに居たんだ」  突然の声に反応して顔を上げると、妹のゆきが部屋の入り口に立っていた。  彼女はこちらに近づきながら部屋の灯りを点け、俺はその明るさに目が眩む。 「悪いな。迷惑をかけてばかりで」  まばたきを繰り返しながらそう言うと、妹は首を横に振った。  ふと、俺は電話で話した内容を思い出した。 「そうだ。さっき、こなたを預かってくれって言ったよな?」  ゆきは「問題ないよ」と言ったが、俺は考え直したことを伝えた。 「やっぱり、自分で世話をしたいんだ」  妹が何か言おうとするのを制して、俺は立ち上がった。  そろそろ、部屋に残った荷物をすべて片付ける必要があるだろう。  そちらを手伝ってくれるだけで十分だと言うと、ゆきは文句を言いながらも承諾してくれた。  荷物を詰め込むためのカバンをベッドに載せると、その動作によって視界の隅に何かが入ってきた。  光の加護を取り戻した室内の床には、暗いときには気がつかなかったが一冊のノートが落ちていた。  捏造された記憶と真実の記憶の両方にあった『幸せだったよ』という言葉を思い出す。  それを目にしたら、俺は泣いてしまうだろうか?  俺は腰を屈めてノートを拾うと、手の震えを必死に押さえ込んでページを開いた。 「…………かなた」 「なに? どうかしたの?」 「ああ、いや。なんでもない」  不思議そうにこちらを見ている妹に作り笑顔で答えて、俺は再びノートに目をやった。  ノートにはたった一言だけが書かれているはずで、そこには俺達の会話の全てがあった。  そうだった。忘れている事はまだ一つあった。  空想の旅行をしたときに、俺達は実際には声に出さずにやり取りをしていた。  声を出すのも辛いかなたは、紙に言葉を書いて会話を進めていった。  そして俺もまた、かなたが聞き逃しても大丈夫なように、返答をすべて書き込んでいった。  二人の文字で綴られたこのノートは、最初で最後になる家族三人での旅行の記録だ。  いつか、成長したこなたに見せる日が来るかもしれない。  その日まで、このノートは大切に保管しておこうと思った。  俺は勝手に溢れ出した涙を袖で拭った後、静かにノートを閉じた。  俺たちの最後の触れ合いは、どんなハッピーエンドの物語にも勝るほどの幸せな時間だった。  ずっと覚えていたくて、二度と忘れないでいたいと想うけれど、それが不可能であることは知っていた。  思い出すたびに、思い出は生まれ変わる。  このノートに会話が記録されているようには、記憶を残す事が出来ない。  だから、この思い出は一度きりのものだ。  こなたが成長していくように、生きている限り現在には留まれない。  同じ本を読んでも読むたびに感想が変わるように、記憶の細部は変化する。  思い出は改竄され、記憶は捏造される。  それでも、この思い出は祝福されていた。  時間がどれだけ記憶を風化させていこうとも、かなたの笑顔は色褪せない。  かなたが残してくれた、たった一人の存在があるからだ。  こなたの笑顔を呼び水にして、俺はかなたの笑顔を思い出し、本当の記憶にたどり着く。 「俺は死なないよ。自殺をしようなんて事も考えない」  俺が前触れも無く発した言葉を聞いて、妹は訝しげな目でこちらを見た。  彼女が不思議そうな顔をするのも無理はない。  俺だって、知人が突然「自殺しない」なんて言い出したら、絶対に怪しいと考えるだろう。  だが、この決意は言葉にしなければいけないと思ったのだ。 「こなたを一人前に育てるからな。絶対に守って、幸せにするからな」  妹にではなく、自分に言い聞かせるため。そして愛する人に届くことを祈って、そう言った。  天国に行ってしまった彼女も、聞いていてくれただろうか。  死後の世界などというものを本気で信じていたわけではないが、声は届いたような気がした。 完

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