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私は、いつも動けずにいた。
こんなにも広い世界の、こんなにも小さな部屋の中で。
みんながどんどん離れていく。私なんてまるで路傍に植わっている枯れ花のように、誰一人として気付かない。
このままじゃ置いて行かれる。そう思って部屋から飛び出した。
全力で走った。
寂しいのは嫌だから。一人ぼっちは嫌だから。
でも30秒もたたないうちに胸が苦しくなって、踏み出す足の代わりにぜぇぜぇと荒い息が聞こえて、立っていることさえ困難になってくる。
とうとう膝をついて地面にへたり込む。みんなの姿はもう見えない。
最後に残った手段は声。遠く高く、離れている人にも聞こえるように。
「待って」と。震える小さな身体を振り絞って叫ぶ。
叫んだはずだった。
思い切り走って追いかけた代償だろうか。
声を出そうと思っても、吐き出す空気はひゅうひゅうと喉を鳴らすだけで。
息をするのが精一杯。
意味もなく手を伸ばすしかない。
視界がぼやけた。何で私だけ。
溢れてくるものを止めることが出来ない。
拭うことなく、雫はアスファルトを染めていく。
自分自身を呪うことしか出来ない。
いつの間にか、背後に影。
ぽん、と私の肩を優しく叩いて。
ほら、部屋で寝てなきゃ。身体を支えられながら、ぐいっと手を引かれる。
そうしてまた、小さな部屋の中に逆戻り。
籠の中の鳥。そんな言葉が頭の中に思い浮かんだ。
*
その日は快晴。
友達と四人で登山旅行に来ていた。
もちろん私の身体のことを知ってる人たちは皆そろって反対したけど、それを押し切って旅行に出掛けた。
私はと言うと、他の三人が根を上げるくらいに絶好調。
見るもの触れるもの、踏みしめていく足元にさえ見知らぬ何かで満ち満ちている。
嬉しかった。「身体が弱い」というレッテルを貼られて、行動的なお姉ちゃんでさえ私をこんなところに連れてきたりはしなかった。
でも今は違う。
高校に入って、私は変わった。
風邪を引く回数もずいぶんと減ったし、みんなと一緒に体育の授業だってきちんと受けてる。それが誇らしくて仕方がない。
「田村さーん、パティさーん、ホラホラ早くぅ~!」
「ぜぇ、ぜぇ‥‥な、なして小早川さんはあんなに元気っすか・・・?」
「お、Oh‥‥これガ“ズットゆたかのターン”ってやつですかネェ・・・?」
まるで好奇心さえあれば体力なんてどうとでもなるんじゃないかとばかりに、サクサクと歩みをすすめていく。
体力のあるみなみちゃんは私と同じペースで山を登っているけど、田村さんとパティさんは私達についてこれないみたいだった。
前の自分なら、田村さんたちよりももっともっと後ろにいたに違いない。そう思うと何だかおかしくなってくる。後ろの二人が少しだけ滑稽に見えた。
周りを見渡す。
「あはっ‥‥」
うっそうと生い茂る木々、太陽を多い隠さんとばかりに揺れる葉っぱ達。時々聞こえてくる小鳥のさえずりと、風が通り抜ける音。
こんな世界、知らなかった。いつも遠足みたいな行事には欠席していて、こんな大自然に触れたことなんてなかったから。
ちょっと荒くなっている呼吸。でもそれは何かのスポーツでファインプレーを決めた時のような、そんな爽快感にも似たものだった。
ジャングルの探検隊になった気分で、川を越えて、吊り橋を渡って、草むらを踏み越えた。
今の自分なら何だって出来る。そんな気分。
いつの間にか後ろの二人の姿が見えなくなっている。でも行き着く先は同じなのだから、それならばこのままみなみちゃんと一緒に行こう。そう思った。
「みなみちゃん、行こうっ!」
あまり快い顔はしてくれなかったけれど。
もうどれだけの時間歩いただろうか。
それでもまだ続く斜面。でも全然気が滅入ったりはしなかった。
息は荒い。でも苦しいとは思わない。楽しくて楽しくて仕方が無い子供みたいだった。
木陰に入ると、背負っているリュックから水を取り出して一息ついた。気づけばみなみちゃんの姿も消えている。
でも行く先は同じ。そう思ったら勝手に足が前へ出た。
もっと、もっと、みんなが知らないようなところまで。
ふと、足が止まった。
前を見る。本当ならば、この橋を渡ればゴールである山頂へと辿り着けるはずだった。
しかし、その橋はぷっつりと切れていた。下を見ると、何十メートルあろうかという断崖絶壁。落ちたらまず助からない。
ここから先に進むことは不可能だった。
‥‥‥普通なら。
でも今の私は違う。
このまま飛び越えよう。
私は後ろに数歩下がると、ぐっ、と目の前の崖を睨んだ。
当然、人が渡り歩ける距離じゃないから橋が作られているわけで、実際本当にジャンプで渡ろうと思ったら、三十メートルは飛ばないといけない。そんなことが出来る生き物はもう人間じゃない。
けど。
今なら、何をやっても出来る気がした。
そもそも、生まれつき身体が弱くて体力の無い私が、何時間も何時間も険しい山道を歩いても今なお疲れずにほとんど登る前の状態をキープしている。
このこと自体がまず現実にありえないことで、奇跡だった。
今ならどんなことをしても、絶対に上手くいく。そう思った。
足を踏み出す。
その先は断崖絶壁。
もうみなみちゃんのことすら頭になかった。ただ先を目指すだけ。行けるところまで。
がしっ。
勢いをつけようと振った左手が、何かに握り締められた感触。
あたたかい。そしてやわらかかった。まるではやる自分の気持ちを包み込んでくれるかのように。
その主の髪色は薄緑。全力疾走でもしてきたみたいに息を荒くして。
「どうしたの、みなみちゃん?」
「‥‥‥ゆたか」
手を強く握られて、進むことが出来ない。もちろん振りほどくつもりもなかったけど。
「‥‥わたしは、ゆたかといっしょにいきたい」
「うん、じゃあ行こう!」
握られた手を握り返して、再び助走をつける。
でもみなみちゃんは、その場から一向に動こうとしなかった。
「・・・ゆたか」
「みなみちゃん‥‥?」
「私は・・・行けない」
「えっ…?」
みなみちゃんの真剣な目が、必死に何かを訴えていることに気づく。
「ゆたかは・・・一人でも、行くの?」
「‥‥うん、大丈夫だよ。何となくだけど、わかるの。今の私なら・・・」
「また・・・一人ぼっちになるよ?それでも行くの?」
「一人‥‥ぼっち」
その言葉にひっかかりを覚えて思考をめぐらせた。
やがて思い出す。身体が弱くていつも部屋の布団の中にいた時の自分を。
あの時の私は、どう思ったっけ?
寂しくて心細くて、いつも泣きそうな気持ちだった。学校も休みがちで、友達も少なくて、一人にしないで、置いて行かないでって、それを思うとまた寂しくなって涙が出て、枕に顔をうずめて泣いていた。
でも、今の私は───
「ゆたか・・・わたしは、さみしい・・・さみしいよ・・・・」
「・・・!」
強く強く、手が握られる。みなみちゃんの白くて綺麗な頬に涙が伝っていた。
「わたしは、ゆたかと行きたい・・・ゆたかと、生きたい・・・」
ここにきて、私はいつの間にか思い上がっていたことに気付く。
せっかく四人で来たのに、来るのが遅いからといって後ろの二人を置いてけぼりにして。
挙句の果てには親友のみなみちゃんまでも置き去りにしようとして。
「いかないで・・・!」
何故かは分からないけど、涙が出た。
こんなにも強く、赤の他人から“私”という存在を求めてくれたことがあっただろうか。
強く手を握り返す。さっきまで飛び越えようと思っていた崖からはもうとっくに背を向けて、ただひたすら手を握っていた。
迸(ほとばし)る光。
眩しくて目を凝らした。
「ゆたかっ・・・!!!」
頬に何かが落ちてくる感触。
眩しいのをこらえて、薄く目を開けた。
仰向けになって寝転んでいる私と、上から覗き込んでぽたぽたと涙を零しているみなみちゃんがいた。
独特の臭いが鼻をつく。過去に何度も嗅いだことのあるものだった。
この臭いは、そう───
病院の臭いだ。
*
みなみちゃんの話によると、私は三日間も眠りっぱなしだったらしい。
田村さん、パティさん、みなみちゃん、私の四人で遠くの山までハイキングに行ったんだけど、私が足を踏み外して、みなみちゃんが必死に手を伸ばしてくれたんだけど、それも届かなくて。
5メートルくらいの小さな崖だったけど、落ちた時に頭を強く打って、そのまま昏睡状態になったらしい。
左手があたたかい。
そこにはみなみちゃんの両手があった。まるでか弱い命を守るようにして、私の小さな手を包んでいた。
その手にも涙がぽたぽたと落ちていく。みなみちゃんの口からはひたすらに謝罪の言葉が述べられていた。
私のせいで、私のせいで、ごめんなさい、ごめんなさい、と。
ハイキングに多少の危険を伴うことは分かっていて、絶対に手は離さないと決めていたのに。
お互い握り合っていた手の汗で滑って、強く握っていた手が離れた反動で私の身体が後ろに後退し、あの事故が起こってしまったのだと。
優しくて、責任感の強いみなみちゃんのことだから、きっと三日間、片時も忘れることなく後悔し続けていたに違いない。
しばらくすると看護士さんやお医者さんがきて、色々と検査を受けさせられた。みなみちゃんがナースコールで呼んだらしい。
29 心の行方 sage 2007/11/16(金) 00:46:17.82 ID:fdjJdiUk0
話によると、ちょうど三日目が峠だったみたいで、三日以内に目覚めなければこのまま植物人間になってしまう可能性もあった、と言われた。
植物人間。その言葉を聞いた時、私の背筋に寒気が走った。
食べることも、動くことも、感情すらも封印された、ただ惰性に任せて呼吸をするだけの存在。怖くて怖くて手が震えて、涙が出そうになった。
みなみちゃんはそんな私を見て、また強く手を握ってくれた。
病室の隅にいたお母さんも涙をもう滝のように流しながら、もう片方の、私の空いた手を握ってくれた。
ちょうど買出しに行っていたお姉ちゃんも、帰ってくるなり私が意識を取り戻したと聞いて、買い物袋を落として電光石火の勢いで私に抱きつこうとしてくれた。
頭に響くから、と看護婦さん二人がかりで止められていたけれど。
二時間ほど、色んな検査を受けている途中にお医者さんが笑って話してくれた。
貴方のお母さんと、そして一番近くにいたみなみさんという女の子。あの二人が貴方につきっきりで見守っていた、と。
特にみなみさんは、食べる時とトイレの時以外はずっと私の貴方の手を握っていて、眠る時すらも貴方の手を握ったままで、貴方のお母さんが辟易するほどだったんだ、と。
あんなお友達がいて羨ましいですね、と。
・・・やっぱりみなみちゃんは、ずっと後悔していたんだ。
そして私の手を握って、話しかけてくれていたんだ。
慣れない車椅子で部屋に戻ると、私の病室は呆気に取られるくらいの過密状態になっていた。
お母さん、お姉ちゃん、みなみちゃんに加えて、こなたお姉ちゃん、おじさん、パティさん、田村さん、そして無理やり抜け出してきたんだろう、仕事から帰ってきたお父さんまで。
みんなで一斉に駆け寄ってくるものだから、私は思わず条件反射で逃げ出してしまいそうになった。
でもさっきのお姉ちゃんのこともあってか、みんな無理に私にべたべた触るんじゃなく、ただ話をしながら握手して回るだけだった。
私と握手するためにみんなが列を作って、なんだかスター俳優の握手会をしてるみたいでおかしかった。
意識さえ回復してしまえばあとはどうというものでもなかったみたいで、検査にも全く異常のなかった私は1ヶ月程度で完治してしまった。
完治祝いをしてくれたみんなの前で、私は告げていた。
今度こそ、みんなで成し遂げたかったこと。
私だけで突っ走るんじゃない、私一人が置いてけぼりになるんでもない。
「次の休みの日に、みんなで一緒に旅行に行きませんか‥‥?」
“みんな”で。
*
「はぁ、はぁ‥‥」
「ゆたか、大丈夫・・・?」
「う、うん、えへへ……」
私が旅行先に指定したのは、夢に出てきたのと同じような山。
要するに、山登り。
やっぱり夢の中みたいに上手くはいかなくて、私はみんなを足を引っ張ってばかりだった。
それでも、今の私は一人じゃない。
私のためにここまでしてくれる友達もいる。
みなみちゃんがいる。田村さんがいる。パティさんがいる。
そして私を心配してくれる、たくさんの人たち。
そんな人たちみんなで山頂(ゴール)を目指す。
「みなみちゃん」
「何‥‥?」
「みんなに迷惑かけてばっかりだけど・・・何でなのかな、私いま、すっごくすっごく幸せだよっ」
迷惑をかけるということは、人と繋がっているということだから。
それだけ、私の側にいてくれる人がいるということだから。
その代わり私にだって、何か出来ることがあるということだから。
優しい微笑み。
後ろを振り向くと、こなたお姉ちゃんも同じように笑っていた。
遥か前を行くお姉ちゃんの、「ゆたか、ゆっくりねー!」という声が響く。
「はーいっ!」
少し苦しい息を我慢して、私は大声で叫び返した。
私は、いつも動けずにいた。
世界はこんなに広いのに、私は動くことが出来なかった。
怖かったから。一人ぼっちで、誰もいなくて、気付けばもう追いつこうという意思すらなくしていたから。
それでも、応援してくれる人たちのことを思うとくじけることは出来なかった。
顔で笑いながら、心では泣いていた。
笑っていないと、家族すらも私のことを見捨ててしまうんじゃないかと思ったから。
追いつこうなんて気はないのに、気づけばまた走り出していた。
自分の身体に無理なことをして、また注意されて、ベッドの中に舞い戻る。
そんな私が叫んででも誰か引き止めようなんて滑稽だと思った。
いつの間にか、叫ぶことすらやめていた。
でも。
そんな私に、一人の女の子がきっかけをくれた。
最初は二人だけだったけど、それでも優しく私の手を引いて、外の世界に連れ出してくれた。
そこには、見たことの無い景色ばかりが広がっていた。
何もかもが真新しくて、まるで封じ込められていた気持ちが解き放たれたみたいだった。
私だけが特別じゃない。普通の人たちと同じように元気に振舞えることを知った。
あんなに憂鬱に思えた学校が、途端に楽園のような存在になった。
楽しくて、楽しくて、無理して笑うことが無くなった。
自分自身を認めてもらうことが出来た。
気付けば、色んな人たちが私の側にいた。
落ち込んだ時は支えてくれる存在。背中を押してくれる存在。
支えられるだけじゃない。支えてあげることも出来る存在。
いつの間にか出来ていた人との繋がり。人と人との輪。
みんなといれば、私はなんだって出来る。
左手にみなみちゃんの手、右手にこなたお姉ちゃんの手。
少し汗のにじんだその手を、強く強く握り締める。
たくさんの仲間と一緒に掴んだ山頂(ゴール)の味は、格別だった。
了
私は、いつも動けずにいた。
こんなにも広い世界の、こんなにも小さな部屋の中で。
みんながどんどん離れていく。私なんてまるで路傍に植わっている枯れ花のように、誰一人として気付かない。
このままじゃ置いて行かれる。そう思って部屋から飛び出した。
全力で走った。
寂しいのは嫌だから。一人ぼっちは嫌だから。
でも30秒もたたないうちに胸が苦しくなって、踏み出す足の代わりにぜぇぜぇと荒い息が聞こえて、立っていることさえ困難になってくる。
とうとう膝をついて地面にへたり込む。みんなの姿はもう見えない。
最後に残った手段は声。遠く高く、離れている人にも聞こえるように。
「待って」と。震える小さな身体を振り絞って叫ぶ。
叫んだはずだった。
思い切り走って追いかけた代償だろうか。
声を出そうと思っても、吐き出す空気はひゅうひゅうと喉を鳴らすだけで。
息をするのが精一杯。
意味もなく手を伸ばすしかない。
視界がぼやけた。何で私だけ。
溢れてくるものを止めることが出来ない。
拭うことなく、雫はアスファルトを染めていく。
自分自身を呪うことしか出来ない。
いつの間にか、背後に影。
ぽん、と私の肩を優しく叩いて。
ほら、部屋で寝てなきゃ。身体を支えられながら、ぐいっと手を引かれる。
そうしてまた、小さな部屋の中に逆戻り。
籠の中の鳥。そんな言葉が頭の中に思い浮かんだ。
*
その日は快晴。
友達と四人で登山旅行に来ていた。
もちろん私の身体のことを知ってる人たちは皆そろって反対したけど、それを押し切って旅行に出掛けた。
私はと言うと、他の三人が根を上げるくらいに絶好調。
見るもの触れるもの、踏みしめていく足元にさえ見知らぬ何かで満ち満ちている。
嬉しかった。「身体が弱い」というレッテルを貼られて、行動的なお姉ちゃんでさえ私をこんなところに連れてきたりはしなかった。
でも今は違う。
高校に入って、私は変わった。
風邪を引く回数もずいぶんと減ったし、みんなと一緒に体育の授業だってきちんと受けてる。それが誇らしくて仕方がない。
「田村さーん、パティさーん、ホラホラ早くぅ~!」
「ぜぇ、ぜぇ‥‥な、なして小早川さんはあんなに元気っすか・・・?」
「お、Oh‥‥これガ“ズットゆたかのターン”ってやつですかネェ・・・?」
まるで好奇心さえあれば体力なんてどうとでもなるんじゃないかとばかりに、サクサクと歩みをすすめていく。
体力のあるみなみちゃんは私と同じペースで山を登っているけど、田村さんとパティさんは私達についてこれないみたいだった。
前の自分なら、田村さんたちよりももっともっと後ろにいたに違いない。そう思うと何だかおかしくなってくる。後ろの二人が少しだけ滑稽に見えた。
周りを見渡す。
「あはっ‥‥」
うっそうと生い茂る木々、太陽を多い隠さんとばかりに揺れる葉っぱ達。時々聞こえてくる小鳥のさえずりと、風が通り抜ける音。
こんな世界、知らなかった。いつも遠足みたいな行事には欠席していて、こんな大自然に触れたことなんてなかったから。
ちょっと荒くなっている呼吸。でもそれは何かのスポーツでファインプレーを決めた時のような、そんな爽快感にも似たものだった。
ジャングルの探検隊になった気分で、川を越えて、吊り橋を渡って、草むらを踏み越えた。
今の自分なら何だって出来る。そんな気分。
いつの間にか後ろの二人の姿が見えなくなっている。でも行き着く先は同じなのだから、それならばこのままみなみちゃんと一緒に行こう。そう思った。
「みなみちゃん、行こうっ!」
あまり快い顔はしてくれなかったけれど。
もうどれだけの時間歩いただろうか。
それでもまだ続く斜面。でも全然気が滅入ったりはしなかった。
息は荒い。でも苦しいとは思わない。楽しくて楽しくて仕方が無い子供みたいだった。
木陰に入ると、背負っているリュックから水を取り出して一息ついた。気づけばみなみちゃんの姿も消えている。
でも行く先は同じ。そう思ったら勝手に足が前へ出た。
もっと、もっと、みんなが知らないようなところまで。
ふと、足が止まった。
前を見る。本当ならば、この橋を渡ればゴールである山頂へと辿り着けるはずだった。
しかし、その橋はぷっつりと切れていた。下を見ると、何十メートルあろうかという断崖絶壁。落ちたらまず助からない。
ここから先に進むことは不可能だった。
‥‥‥普通なら。
でも今の私は違う。
このまま飛び越えよう。
私は後ろに数歩下がると、ぐっ、と目の前の崖を睨んだ。
当然、人が渡り歩ける距離じゃないから橋が作られているわけで、実際本当にジャンプで渡ろうと思ったら、三十メートルは飛ばないといけない。そんなことが出来る生き物はもう人間じゃない。
けど。
今なら、何をやっても出来る気がした。
そもそも、生まれつき身体が弱くて体力の無い私が、何時間も何時間も険しい山道を歩いても今なお疲れずにほとんど登る前の状態をキープしている。
このこと自体がまず現実にありえないことで、奇跡だった。
今ならどんなことをしても、絶対に上手くいく。そう思った。
足を踏み出す。
その先は断崖絶壁。
もうみなみちゃんのことすら頭になかった。ただ先を目指すだけ。行けるところまで。
がしっ。
勢いをつけようと振った左手が、何かに握り締められた感触。
あたたかい。そしてやわらかかった。まるではやる自分の気持ちを包み込んでくれるかのように。
その主の髪色は薄緑。全力疾走でもしてきたみたいに息を荒くして。
「どうしたの、みなみちゃん?」
「‥‥‥ゆたか」
手を強く握られて、進むことが出来ない。もちろん振りほどくつもりもなかったけど。
「‥‥わたしは、ゆたかといっしょにいきたい」
「うん、じゃあ行こう!」
握られた手を握り返して、再び助走をつける。
でもみなみちゃんは、その場から一向に動こうとしなかった。
「・・・ゆたか」
「みなみちゃん‥‥?」
「私は・・・行けない」
「えっ…?」
みなみちゃんの真剣な目が、必死に何かを訴えていることに気づく。
「ゆたかは・・・一人でも、行くの?」
「‥‥うん、大丈夫だよ。何となくだけど、わかるの。今の私なら・・・」
「また・・・一人ぼっちになるよ?それでも行くの?」
「一人‥‥ぼっち」
その言葉にひっかかりを覚えて思考をめぐらせた。
やがて思い出す。身体が弱くていつも部屋の布団の中にいた時の自分を。
あの時の私は、どう思ったっけ?
寂しくて心細くて、いつも泣きそうな気持ちだった。学校も休みがちで、友達も少なくて、一人にしないで、置いて行かないでって、それを思うとまた寂しくなって涙が出て、枕に顔をうずめて泣いていた。
でも、今の私は───
「ゆたか・・・わたしは、さみしい・・・さみしいよ・・・・」
「・・・!」
強く強く、手が握られる。みなみちゃんの白くて綺麗な頬に涙が伝っていた。
「わたしは、ゆたかと行きたい・・・ゆたかと、生きたい・・・」
ここにきて、私はいつの間にか思い上がっていたことに気付く。
せっかく四人で来たのに、来るのが遅いからといって後ろの二人を置いてけぼりにして。
挙句の果てには親友のみなみちゃんまでも置き去りにしようとして。
「いかないで・・・!」
何故かは分からないけど、涙が出た。
こんなにも強く、赤の他人から“私”という存在を求めてくれたことがあっただろうか。
強く手を握り返す。さっきまで飛び越えようと思っていた崖からはもうとっくに背を向けて、ただひたすら手を握っていた。
迸(ほとばし)る光。
眩しくて目を凝らした。
「ゆたかっ・・・!!!」
頬に何かが落ちてくる感触。
眩しいのをこらえて、薄く目を開けた。
仰向けになって寝転んでいる私と、上から覗き込んでぽたぽたと涙を零しているみなみちゃんがいた。
独特の臭いが鼻をつく。過去に何度も嗅いだことのあるものだった。
この臭いは、そう───
病院の臭いだ。
*
みなみちゃんの話によると、私は三日間も眠りっぱなしだったらしい。
田村さん、パティさん、みなみちゃん、私の四人で遠くの山までハイキングに行ったんだけど、私が足を踏み外して、みなみちゃんが必死に手を伸ばしてくれたんだけど、それも届かなくて。
5メートルくらいの小さな崖だったけど、落ちた時に頭を強く打って、そのまま昏睡状態になったらしい。
左手があたたかい。
そこにはみなみちゃんの両手があった。まるでか弱い命を守るようにして、私の小さな手を包んでいた。
その手にも涙がぽたぽたと落ちていく。みなみちゃんの口からはひたすらに謝罪の言葉が述べられていた。
私のせいで、私のせいで、ごめんなさい、ごめんなさい、と。
ハイキングに多少の危険を伴うことは分かっていて、絶対に手は離さないと決めていたのに。
お互い握り合っていた手の汗で滑って、強く握っていた手が離れた反動で私の身体が後ろに後退し、あの事故が起こってしまったのだと。
優しくて、責任感の強いみなみちゃんのことだから、きっと三日間、片時も忘れることなく後悔し続けていたに違いない。
しばらくすると看護士さんやお医者さんがきて、色々と検査を受けさせられた。みなみちゃんがナースコールで呼んだらしい。
話によると、ちょうど三日目が峠だったみたいで、三日以内に目覚めなければこのまま植物人間になってしまう可能性もあった、と言われた。
植物人間。その言葉を聞いた時、私の背筋に寒気が走った。
食べることも、動くことも、感情すらも封印された、ただ惰性に任せて呼吸をするだけの存在。怖くて怖くて手が震えて、涙が出そうになった。
みなみちゃんはそんな私を見て、また強く手を握ってくれた。
病室の隅にいたお母さんも涙をもう滝のように流しながら、もう片方の、私の空いた手を握ってくれた。
ちょうど買出しに行っていたお姉ちゃんも、帰ってくるなり私が意識を取り戻したと聞いて、買い物袋を落として電光石火の勢いで私に抱きつこうとしてくれた。
頭に響くから、と看護婦さん二人がかりで止められていたけれど。
二時間ほど、色んな検査を受けている途中にお医者さんが笑って話してくれた。
貴方のお母さんと、そして一番近くにいたみなみさんという女の子。あの二人が貴方につきっきりで見守っていた、と。
特にみなみさんは、食べる時とトイレの時以外はずっと私の貴方の手を握っていて、眠る時すらも貴方の手を握ったままで、貴方のお母さんが辟易するほどだったんだ、と。
あんなお友達がいて羨ましいですね、と。
・・・やっぱりみなみちゃんは、ずっと後悔していたんだ。
そして私の手を握って、話しかけてくれていたんだ。
慣れない車椅子で部屋に戻ると、私の病室は呆気に取られるくらいの過密状態になっていた。
お母さん、お姉ちゃん、みなみちゃんに加えて、こなたお姉ちゃん、おじさん、パティさん、田村さん、そして無理やり抜け出してきたんだろう、仕事から帰ってきたお父さんまで。
みんなで一斉に駆け寄ってくるものだから、私は思わず条件反射で逃げ出してしまいそうになった。
でもさっきのお姉ちゃんのこともあってか、みんな無理に私にべたべた触るんじゃなく、ただ話をしながら握手して回るだけだった。
私と握手するためにみんなが列を作って、なんだかスター俳優の握手会をしてるみたいでおかしかった。
意識さえ回復してしまえばあとはどうというものでもなかったみたいで、検査にも全く異常のなかった私は1ヶ月程度で完治してしまった。
完治祝いをしてくれたみんなの前で、私は告げていた。
今度こそ、みんなで成し遂げたかったこと。
私だけで突っ走るんじゃない、私一人が置いてけぼりになるんでもない。
「次の休みの日に、みんなで一緒に旅行に行きませんか‥‥?」
“みんな”で。
*
「はぁ、はぁ‥‥」
「ゆたか、大丈夫・・・?」
「う、うん、えへへ……」
私が旅行先に指定したのは、夢に出てきたのと同じような山。
要するに、山登り。
やっぱり夢の中みたいに上手くはいかなくて、私はみんなを足を引っ張ってばかりだった。
それでも、今の私は一人じゃない。
私のためにここまでしてくれる友達もいる。
みなみちゃんがいる。田村さんがいる。パティさんがいる。
そして私を心配してくれる、たくさんの人たち。
そんな人たちみんなで山頂(ゴール)を目指す。
「みなみちゃん」
「何‥‥?」
「みんなに迷惑かけてばっかりだけど・・・何でなのかな、私いま、すっごくすっごく幸せだよっ」
迷惑をかけるということは、人と繋がっているということだから。
それだけ、私の側にいてくれる人がいるということだから。
その代わり私にだって、何か出来ることがあるということだから。
優しい微笑み。
後ろを振り向くと、こなたお姉ちゃんも同じように笑っていた。
遥か前を行くお姉ちゃんの、「ゆたか、ゆっくりねー!」という声が響く。
「はーいっ!」
少し苦しい息を我慢して、私は大声で叫び返した。
私は、いつも動けずにいた。
世界はこんなに広いのに、私は動くことが出来なかった。
怖かったから。一人ぼっちで、誰もいなくて、気付けばもう追いつこうという意思すらなくしていたから。
それでも、応援してくれる人たちのことを思うとくじけることは出来なかった。
顔で笑いながら、心では泣いていた。
笑っていないと、家族すらも私のことを見捨ててしまうんじゃないかと思ったから。
追いつこうなんて気はないのに、気づけばまた走り出していた。
自分の身体に無理なことをして、また注意されて、ベッドの中に舞い戻る。
そんな私が叫んででも誰か引き止めようなんて滑稽だと思った。
いつの間にか、叫ぶことすらやめていた。
でも。
そんな私に、一人の女の子がきっかけをくれた。
最初は二人だけだったけど、それでも優しく私の手を引いて、外の世界に連れ出してくれた。
そこには、見たことの無い景色ばかりが広がっていた。
何もかもが真新しくて、まるで封じ込められていた気持ちが解き放たれたみたいだった。
私だけが特別じゃない。普通の人たちと同じように元気に振舞えることを知った。
あんなに憂鬱に思えた学校が、途端に楽園のような存在になった。
楽しくて、楽しくて、無理して笑うことが無くなった。
自分自身を認めてもらうことが出来た。
気付けば、色んな人たちが私の側にいた。
落ち込んだ時は支えてくれる存在。背中を押してくれる存在。
支えられるだけじゃない。支えてあげることも出来る存在。
いつの間にか出来ていた人との繋がり。人と人との輪。
みんなといれば、私はなんだって出来る。
左手にみなみちゃんの手、右手にこなたお姉ちゃんの手。
少し汗のにじんだその手を、強く強く握り締める。
たくさんの仲間と一緒に掴んだ山頂(ゴール)の味は、格別だった。
了