Go steady Go!

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Go steady Go!」(2007/06/03 (日) 22:34:52) の最新版変更点

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かがみは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。 かがみには政治がわからぬ。かがみは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。 けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明かがみは村を出発し、野を越え山越え、 十里はなれた此の秋葉原の市にやって来た。かがみには父も、母も無い。 女房も無い。十六の、内気な妹つかさと二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人みゆきを、近々、 花嫁として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。かがみは、それゆえ、 花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、 それから都の大路をぶらぶら歩いた。かがみには竹馬の友があった。こなたである。 今は此の秋葉原の市で、ニートをしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。 久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにかがみは、 まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、 けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなかがみも、 だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、 二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、 と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺(そうじろう)に逢い、こんどはもっと、 語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。かがみは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。 老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人をネタにします。」 「なぜネタにするのだ。」 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」 「たくさんの人をネタにしたのか。」 「はい、はじめはゆいさまを。それから、ゆたかとみなみを。それから、ななこさまを。 それから、みさおさまを。それから、あやのさまを。それから、賢臣のこう様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、 臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。 御命令を拒めば原稿に入れられて、同人誌のネタにされます。きょうは、六人同人にされました。」 聞いて、かがみは激怒した。 「呆れた王だ。生かして置けぬ。」 かがみは、単純な男であった。 買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏のみのるに捕縛された。 調べられて、かがみの懐中からはミラーシールドが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。 かがみは、王の前に引き出された。 「このミラーシールドで何をするつもりであったか。言え!」 暴君ひよりは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。 その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」 とかがみは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」 王は、憫笑した。 「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」 「言うな!」 とかがみは、いきり立って反駁した。 「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。 人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」 暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。 「わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」 こんどはかがみが嘲笑した。 「罪の無い人を同人のネタにして、何が平和だ。」 「だまれ、下賤の者。」 王は、さっと顔を挙げて報いた。 「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、百合同人になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」 「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、 ちゃんと漬けられる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」 と言いかけて、かがみは足もとに視線を落し瞬時ためらい、 「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。 たった一人の妹に、嫁を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は村で結婚式を挙げさせ、必ずここへ帰って来ます。」 「ばかな。」 と暴君は、嗄れた声で低く笑った。 「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」 かがみは必死で言い張った。 「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。 そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にこなたというニートがいます。 私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、 ここに帰って来なかったら、あの友人を同人誌のネタにして下さい。たのむ、そうして下さい。」 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。 この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目にネタにするのも気味がいい。 人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を同人刑に処してやるのだ。世の中の、 正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、 その身代りを、きっとネタにするぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」 かがみは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。 竹馬の友、こなたは、深夜、王城に召された。暴君ひよりの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。 かがみは、友に一切の事情を語った。こなたは無言で首肯き、かがみをひしと抱きしめた。 友と友の間は、それでよかった。こなたは、縄打たれた。こなたは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。 かがみはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。 かがみの十六の妹も、きょうは姉の代りに羊群の番をしていた。 よろめいて歩いて来る兄姉の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく姉に質問を浴びせた。 「なんでも無い。」 かがみは無理に笑おうと努めた。 「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」 つかさは頬をあからめた。 「うれしいか。綺麗(きれい)な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」 かがみは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、 呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。 眼が覚めたのは夜だった。かがみは起きてすぐ、みゆきの家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。 嫁のみゆきは驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、ポンジュースの季節まで待ってくれ、と答えた。 かがみは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。嫁のみゆきも頑強であった。なかなか承諾してくれない。 夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか嫁をなだめ、すかして、説き伏せた。 結婚式は、真昼に行われた。新婦新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、 ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。 祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、 むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。 かがみも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。 祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。 かがみは、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。 ままならぬ事である。かがみは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。 その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。 かがみほどの女にも、やはり未練の情というものは在る。 今宵呆然、歓喜に酔っているらしいつかさに近寄り、 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。 私がいなくても、もうおまえには優しい妻があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの姉の 、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。 妻との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの姉は、たぶん偉い女なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」 つかさは、夢見心地で首肯いた。 かがみは、それからみゆきの肩をたたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。 全部あげよう。もう一つ、かがみの妹になったことを誇ってくれ。」 みゆきは揉み手して、てれていた。 かがみは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。 かがみは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、 これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。 きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。 そうして笑って磔の台に上ってやる。 かがみは、悠々と身仕度をはじめた。 雨も、いくぶん小降りになっている様子である。 身仕度は出来た。 さて、かがみは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。 私は、今宵、殺される。 殺される為に走るのだ。 身代りの友を救う為に走るのだ。 王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。 走らなければならぬ。 そうして、私は殺される。 若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。 若いかがみは、つらかった。 幾度か、立ちどまりそうになった。 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。 村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、 日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。 かがみは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。 妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。 私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。 そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。 ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、 かがみの足は、はたと、とまった。 見よ、前方の川を。 きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、 猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。 彼女は茫然と、立ちすくんだ。 あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、 繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。 流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。 かがみは川岸にうずくまり、女泣きに泣きながら美水かがみに手を挙げて哀願した。 「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。 あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」 濁流は、かがみの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。 浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。 今はかがみも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ!  濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。 かがみは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。 満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、 めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。 押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。 ありがたい。かがみは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。 一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。 ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、 ほっとした時、突然、目の前に一隊のあきら小隊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」 あきら小隊たちは、ものも言わず一斉にクレイモアを振り挙げた。 かがみはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、そのクレイモアを奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」 と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。 一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、 かがみは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、 ついに、がくりと膝を折った。 立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。 ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、あきら小隊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たかがみよ。 真の勇者、かがみよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。 愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。 おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、 全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。 路傍の草原にごろりと寝ころがった。 身体疲労すれば、精神も共にやられる。 もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。 私は、これほど努力したのだ。 約束を破る心は、みじんも無かった。 神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。 私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。 けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な女だ。 私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。 私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。 ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。こなたよ、ゆるしてくれ。 君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。 いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。 いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、こなた。 よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。 友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。こなた、私は走ったのだ。 君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。 濁流を突破した。あきら小隊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。 私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。 おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。 けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。 私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。 そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。 こなたよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。 いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。 村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。 正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。 人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。 私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。 ――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。 すぐ足もとで、水が流れているらしい。 よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。 その泉に吸い込まれるようにかがみは身をかがめた。 水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。 歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。 わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。 私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。 私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!かがみ。 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。 五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。かがみ、おまえの恥ではない。 やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、美水かがみよ。 私は生れた時から正直な女であった。正直な女のままにして死なせて下さい。 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、かがみは黒き風のように走った。 野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、 小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。 一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。 「いまごろは、あの女も、磔にかかっているよ。」 ああ、その女、その女のために私は、いまこんなに走っているのだ。 その女を死なせてはならない。急げ、かがみ。 おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。 かがみは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。 見える。はるか向うに小さく、秋葉原の市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。 「ああ、かがみ様。」 うめくような声が、風と共に聞えた。 「誰だ。」 かがみは走りながら尋ねた。 「パトリシアでございます。貴方のお友達こなた様の弟子でございます。」 その若いニートも、かがみの後について走りながら叫んだ。 「もう、駄目でございます。無駄無駄無駄ァ!でございます。走るのは、やめて下さい。 もう、あの方をお助けになることは出来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が同人刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。 ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 かがみは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。 あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。 王様が、さんざんあの方をからかっても、かがみは来ます、とだけ答え、 強い信念を持ちつづけている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。 人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。 ついて来い!パトリシア。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。 ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、かがみは走った。かがみの頭は、からっぽだ。 何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。 陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、 かがみは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。かがみが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」 と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、 喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。 すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたこなたは、徐々に釣り上げられてゆく。 メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。かがみだ。彼女を人質にした私は、ここにいる!」 と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。こなたの縄は、ほどかれたのである。 「こなた。」 かがみは眼に涙を浮べて言った。 「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。 君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」 こなたは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くかがみの右頬を殴った。 殴ってから優しく微笑み、 「かがみ、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。 生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」 かがみは腕に唸りをつけてこなたの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ひよりは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、 やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。 どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをかがみに捧げた。かがみは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「かがみ、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、 かがみの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。

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