ID:ID9qmcs0氏:月見酒

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深く蒼い海のような夜空中に光の欠片が限りを知らず散らばっている。田舎と都会の違いというのはそこかしこで感じることができるが、この夜空ほど違いが明確に表れるものはないだろう。もちろんこれだけでも自然の芸術と呼ぶには充分だ。だがこの作品にはもう一つ見所がある。言わずともわかるはずだ。 広い海の中心にぽっかりと純白の月。 完璧としかいいようのない小さな円は朧気な光で群青の夜空に白さを足し込む。自然の芸術はこの主役をもって完成させられるのだ。こいつを見るとどうしても思い出してしまう。昔寄り添った唯一無二の相方を。だから、こんな夜は少し苦い思いをしたくなる。素面でいるとどうにもいたたまれなくなるんだ。   こんな夜は酒に限る。 『月見酒』 「隣、よろしいですか?」 一人の男が私に話し掛けてくる。……おお、まだ若いじゃないかお主。まあ私ももう少しここにいるつもりだ、話を聞こうじゃないか。 「失礼します」  私の快諾に男は笑顔を浮かべ、足先から湯船に浸かる。白濁の湯に全身を浸すと男は小さく息を吐いた。はっはっは、若いお主にとっちゃ少し熱いかもしれんな。しかし慣れてしまうと、これくらいが丁度よくなるんだよ。 「そんなもんですか?」 おいおい、疑っちゃいかんな。年寄りのいうことは例え全くの嘘でも黙って聞いてやるのが礼儀ってもんだ。そこは覚えとくといい。変り者の年寄りと風呂に入った土産としてな。 「わかりました」 わかればよろしい。まあこんなこと、こんな経験でもしないと若いうちに教わったりしないだろう。実は私も似た経験をしていてな。同じように言われたものだ。 「なるほど……ところで、こんなものは如何ですか?湯に浸かるだけっていうのでは…面白くないと思うんですけど、ね」 ………あっはっはっは!これは一本捕られた。丁度私も一杯いきたかったところだ。まさかお主始めから… 「はい。月見酒って言ってもやっぱり話に華を咲かせる相手がいないとつまらなくてですね」 お主、わかってるじゃないか。私も賛成だよ。しかし若いのに情緒というのを知っているんだな。珍しい奴もいたもんだ。 「職業柄、でしょうかね?」 ほほう、職業柄。 「これでも僕、小説家なんです。といってもまだ卵なんですけど。で、少なからずこういったようなことを小説に書くものですから……」 …なるほど。小説家、か。ならばお主もこの月に誘われてこんなちんけな宿の風呂にきたのか? 「詩的に言ってしまえば、そんなとこだと」 お主とはどこまでも気が合いそうだな。私も今日の月があんまりに綺麗だから、これを見ながら風呂にでもと思ってだな。これで酒でも、と思ってたところにお主が来たわけだ。珍しいこともあるものだな。 「なんだか不思議な話ですね。これで同い年の男と女なら小説のネタにでもなりそうなんですけどねぇ」 はっはっは、違いない。しかし残念だったなぁ、相手がこんな老いぼれで。お主のような若い衆はやはり皆、色恋沙汰が好きだからなぁ。 「いやいや本当に小説のネタに、って意味ですよ。それに僕、もう心に決めた相手もいますし」 ……心に決めた相手、か。なんじゃお主、若いのに随分やるじゃないか。 「はい……あ、まだ付き合ってるだけなんでそんな大事でもないんですけどね。そいつが僕のことをどう思ってるかも知りませんし、僕がそいつと釣りあうかと聞かれると…」 だが、お主はもうそいつと心に決めているのだろう? 「ええ、まあ」 ……青春を謳歌している小説家の卵さんよ、酒の肴にちょっとこの老いぼれの長話を聞いていかないか?きっとお主にはぴったりな話だと思うんだが。 「……はい、是非聞かせてください」 よろしい。 私も実は小説家でなぁ。といってもとっくの昔にやめてしまったが。私が君くらい若い時、君と同じように小説家の卵だった時、私にも生涯共に歩んでいこうと決めた相手がいたんだ。昔からの友達でなぁ、何かあれば一緒に遊んでいたよ。 きちんとした収入を得られるようになって、私はそいつに結婚を申し込んだ。相手は快諾してくれたよ。泣いて喜んでくれた。その時に結婚指輪を渡したんだがなぁ、サイズが合わなくってせっかくのプロポーズが台無しになってしまったよ。どこまでもそいつと一緒にいこう。いつまでもいつまでもこいつと共に生きていこう。そう決めたんだ。そう…決めていたんだ。 「決めていた?」  ……ああ。そいつ、私をおいてとうの昔に先に逝っちまった。そいつ、生まれながらに病弱なやつでな。子どもを産んだ時に…その…身体が耐えられなかったんだ。言い方は悪いが娘と引き換えに、私は妻を失ったんだ。 「そんな…」  もちろん悲しくて悲しくて仕方がなかった。一時は私も妻の後を追おうと考えたこともあったよ。ただなあ…そいつの残した娘を見たら、そんなことも言ってられなくてなぁ。私は男手一つで娘を育て上げた。私に似て大の変わり者だったが、今では…いや昔からずっと私の誇りだと思ってるよ。 「………」  いいか、別れってものはいつ訪れるかわからない。だから、自分の追い求めているもの、自分のそばに置いておきたいものは早くつかんでおくにこしたことはない。自分がどんなに強く願ってもどうにもならないものってのが世の中には存在するんだ。 「どうにもならないもの…ですか」  若い者にはわからんだろうな。だがなぁ…月と太陽が出会うことなんてない、と言ったら当たり前だと思うだろう? 「…そうですね」  私はな、あの月を見ると思いだすんだ。……あいつのことをな。白くて小さくて、おぼろげな雰囲気なんか、そっくりなんだ。でもなあ、私は今は太陽。決して月の姿を見ることなんてできない。あいつはもう…そういう存在になっちまったわけさ。 「月と太陽…」  まあ、あいつは遠くにいっちまったが、私は今でも世界一、そいつのことを愛していると言えるよ。君も…その子のことを世界一愛してると言えるのかい? 「言えます」  なら、やることは一つだ。わかるだろ? 「でも…」  おいおい言っただろう。年寄りの言うことには黙って頷くもんだと。……それにな、お主はどうにも私に似ているんだ。私がそれぐらいの年の時も同じように年寄りからのアドバイスで決意したものだ。お主の恋、必ず成功すると私の妙な勘が働いてるんだ。ちょいと信じてみてくれないかね? 「…どうしてでしょうかね」  ん?どうしたんだ? 「なんだか、貴方は他人の様に思えないんです。それに貴方のアドバイスは…私の心に妙に響きました。…はい、決めました。今度あった時、彼女にプロポーズを決行しようと思います」  うむうむ、若い者はそうでなくちゃいけない。そして私のような老いぼれもお主みたいな若いもんを見習わなくちゃいけないな。 「いえいえ、そんなことは…」  謙遜するでない。お主、なかなかやる男だと私は見込んでいる。そうでなきゃ、知らない老いぼれに月見酒の誘いなんてしないだろうよ。……頑張るんじゃぞ? 「はい」  月見酒に酔わされた老いぼれの戯言、最後まで聞いてくれて本当に嬉しかったぞ。私もなんとなく、すっきりした。今夜は久しぶりに娘に電話の一つでもしてみるよ。…あいつも一体何をしているんだろうなぁ。 「…それでは先に行かせてもらいます。僕も、何だか酔っぱらってしまったみたいなので」  ふふふ、私の肴がなかなか働かなかったみたいだな。あいや申し訳ない。 「いえいえ…そんなことは…」  私はもう少しこの月に酔ってから出ようかと思う。じゃあな、また会いたいものだ。……ところでお主、最後にお主の名前だけでも聞かせてもらえないか? 「名前ですか?もちろんです。僕の名前は…」 泉そうじろうです。  ……ははぁ、通りで私の若いころに似ているわけだ。こんな経験、まさか老いぼれになってするとは思いもしなかった。……かなたよ、私はどうやらお前に酔わされていたみたいだな。もしかしたら、私ももうすぐそちらに向かうかもしれない。 **コメント・感想フォーム #comment(below,size=50,nsize=50,vsize=3)
深く蒼い海のような夜空中に光の欠片が限りを知らず散らばっている。田舎と都会の違いというのはそこかしこで感じることができるが、この夜空ほど違いが明確に表れるものはないだろう。もちろんこれだけでも自然の芸術と呼ぶには充分だ。だがこの作品にはもう一つ見所がある。言わずともわかるはずだ。 広い海の中心にぽっかりと純白の月。 完璧としかいいようのない小さな円は朧気な光で群青の夜空に白さを足し込む。自然の芸術はこの主役をもって完成させられるのだ。こいつを見るとどうしても思い出してしまう。昔寄り添った唯一無二の相方を。だから、こんな夜は少し苦い思いをしたくなる。素面でいるとどうにもいたたまれなくなるんだ。   こんな夜は酒に限る。 『月見酒』 「隣、よろしいですか?」 一人の男が私に話し掛けてくる。……おお、まだ若いじゃないかお主。まあ私ももう少しここにいるつもりだ、話を聞こうじゃないか。 「失礼します」  私の快諾に男は笑顔を浮かべ、足先から湯船に浸かる。白濁の湯に全身を浸すと男は小さく息を吐いた。はっはっは、若いお主にとっちゃ少し熱いかもしれんな。しかし慣れてしまうと、これくらいが丁度よくなるんだよ。 「そんなもんですか?」 おいおい、疑っちゃいかんな。年寄りのいうことは例え全くの嘘でも黙って聞いてやるのが礼儀ってもんだ。そこは覚えとくといい。変り者の年寄りと風呂に入った土産としてな。 「わかりました」 わかればよろしい。まあこんなこと、こんな経験でもしないと若いうちに教わったりしないだろう。実は私も似た経験をしていてな。同じように言われたものだ。 「なるほど……ところで、こんなものは如何ですか?湯に浸かるだけっていうのでは…面白くないと思うんですけど、ね」 ………あっはっはっは!これは一本捕られた。丁度私も一杯いきたかったところだ。まさかお主始めから… 「はい。月見酒って言ってもやっぱり話に華を咲かせる相手がいないとつまらなくてですね」 お主、わかってるじゃないか。私も賛成だよ。しかし若いのに情緒というのを知っているんだな。珍しい奴もいたもんだ。 「職業柄、でしょうかね?」 ほほう、職業柄。 「これでも僕、小説家なんです。といってもまだ卵なんですけど。で、少なからずこういったようなことを小説に書くものですから……」 …なるほど。小説家、か。ならばお主もこの月に誘われてこんなちんけな宿の風呂にきたのか? 「詩的に言ってしまえば、そんなとこだと」 お主とはどこまでも気が合いそうだな。私も今日の月があんまりに綺麗だから、これを見ながら風呂にでもと思ってだな。これで酒でも、と思ってたところにお主が来たわけだ。珍しいこともあるものだな。 「なんだか不思議な話ですね。これで同い年の男と女なら小説のネタにでもなりそうなんですけどねぇ」 はっはっは、違いない。しかし残念だったなぁ、相手がこんな老いぼれで。お主のような若い衆はやはり皆、色恋沙汰が好きだからなぁ。 「いやいや本当に小説のネタに、って意味ですよ。それに僕、もう心に決めた相手もいますし」 ……心に決めた相手、か。なんじゃお主、若いのに随分やるじゃないか。 「はい……あ、まだ付き合ってるだけなんでそんな大事でもないんですけどね。そいつが僕のことをどう思ってるかも知りませんし、僕がそいつと釣りあうかと聞かれると…」 だが、お主はもうそいつと心に決めているのだろう? 「ええ、まあ」 ……青春を謳歌している小説家の卵さんよ、酒の肴にちょっとこの老いぼれの長話を聞いていかないか?きっとお主にはぴったりな話だと思うんだが。 「……はい、是非聞かせてください」 よろしい。 私も実は小説家でなぁ。といってもとっくの昔にやめてしまったが。私が君くらい若い時、君と同じように小説家の卵だった時、私にも生涯共に歩んでいこうと決めた相手がいたんだ。昔からの友達でなぁ、何かあれば一緒に遊んでいたよ。 きちんとした収入を得られるようになって、私はそいつに結婚を申し込んだ。相手は快諾してくれたよ。泣いて喜んでくれた。その時に結婚指輪を渡したんだがなぁ、サイズが合わなくってせっかくのプロポーズが台無しになってしまったよ。どこまでもそいつと一緒にいこう。いつまでもいつまでもこいつと共に生きていこう。そう決めたんだ。そう…決めていたんだ。 「決めていた?」  ……ああ。そいつ、私をおいてとうの昔に先に逝っちまった。そいつ、生まれながらに病弱なやつでな。子どもを産んだ時に…その…身体が耐えられなかったんだ。言い方は悪いが娘と引き換えに、私は妻を失ったんだ。 「そんな…」  もちろん悲しくて悲しくて仕方がなかった。一時は私も妻の後を追おうと考えたこともあったよ。ただなあ…そいつの残した娘を見たら、そんなことも言ってられなくてなぁ。私は男手一つで娘を育て上げた。私に似て大の変わり者だったが、今では…いや昔からずっと私の誇りだと思ってるよ。 「………」  いいか、別れってものはいつ訪れるかわからない。だから、自分の追い求めているもの、自分のそばに置いておきたいものは早くつかんでおくにこしたことはない。自分がどんなに強く願ってもどうにもならないものってのが世の中には存在するんだ。 「どうにもならないもの…ですか」  若い者にはわからんだろうな。だがなぁ…月と太陽が出会うことなんてない、と言ったら当たり前だと思うだろう? 「…そうですね」  私はな、あの月を見ると思いだすんだ。……あいつのことをな。白くて小さくて、おぼろげな雰囲気なんか、そっくりなんだ。でもなあ、私は今は太陽。決して月の姿を見ることなんてできない。あいつはもう…そういう存在になっちまったわけさ。 「月と太陽…」  まあ、あいつは遠くにいっちまったが、私は今でも世界一、そいつのことを愛していると言えるよ。君も…その子のことを世界一愛してると言えるのかい? 「言えます」  なら、やることは一つだ。わかるだろ? 「でも…」  おいおい言っただろう。年寄りの言うことには黙って頷くもんだと。……それにな、お主はどうにも私に似ているんだ。私がそれぐらいの年の時も同じように年寄りからのアドバイスで決意したものだ。お主の恋、必ず成功すると私の妙な勘が働いてるんだ。ちょいと信じてみてくれないかね? 「…どうしてでしょうかね」  ん?どうしたんだ? 「なんだか、貴方は他人の様に思えないんです。それに貴方のアドバイスは…私の心に妙に響きました。…はい、決めました。今度あった時、彼女にプロポーズを決行しようと思います」  うむうむ、若い者はそうでなくちゃいけない。そして私のような老いぼれもお主みたいな若いもんを見習わなくちゃいけないな。 「いえいえ、そんなことは…」  謙遜するでない。お主、なかなかやる男だと私は見込んでいる。そうでなきゃ、知らない老いぼれに月見酒の誘いなんてしないだろうよ。……頑張るんじゃぞ? 「はい」  月見酒に酔わされた老いぼれの戯言、最後まで聞いてくれて本当に嬉しかったぞ。私もなんとなく、すっきりした。今夜は久しぶりに娘に電話の一つでもしてみるよ。…あいつも一体何をしているんだろうなぁ。 「…それでは先に行かせてもらいます。僕も、何だか酔っぱらってしまったみたいなので」  ふふふ、私の肴がなかなか働かなかったみたいだな。あいや申し訳ない。 「いえいえ…そんなことは…」  私はもう少しこの月に酔ってから出ようかと思う。じゃあな、また会いたいものだ。……ところでお主、最後にお主の名前だけでも聞かせてもらえないか? 「名前ですか?もちろんです。僕の名前は…」 泉そうじろうです。  ……ははぁ、通りで私の若いころに似ているわけだ。こんな経験、まさか老いぼれになってするとは思いもしなかった。……かなたよ、私はどうやらお前に酔わされていたみたいだな。もしかしたら、私ももうすぐそちらに向かうかもしれない。 **コメント・感想フォーム #comment(below,size=50,nsize=50,vsize=3) - 時間が間に合ったらコンクール結果も違っていたかもしれない。 &br()惜しかったです。 -- 名無しさん (2010-07-27 01:05:42)

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