「ID:qLOyR2o0氏:柊かがみ法律事務所──独立開業編」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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1.きっかけ
かがみがまだとある先輩女性弁護士の事務所のイソ弁(居候弁護士の略。法律事務所に雇われる立場の弁護士)だったころの話。
東京高裁の特別支部の位置づけになっている知的財産高等裁判所。
その法廷で、被告弁護人柊かがみは、判決を聞いていた。
結果は、原告勝訴。
予想されていたこととはいえ、やはり落胆せざるをえない。
それでも、かがみは裁判官が読み上げる判決文を聞いていた。
依頼人たる被告は秋葉原にある同人関連中小企業の社長で、原告は著作権をにぎっている大企業。
となれば、係争の内容はおおかた想像がつくと思う。
東京地裁では原告が勝訴し、被告側が知財高裁に控訴。その控訴審の判決が今日だった。
著作権を侵害する出版物等の販売差止めと、それまで販売していた分にかかる著作権使用料相当の損害賠償。それが、原告が勝ち得た判決であった。
判決の読み上げが終われば、手続は終了。最高裁に通る上告理由は見当たらないので、裁判はこれで終わりだ。
依頼人とともに、事務所に戻る。
所長たるボス弁(ボス弁護士の略。法律事務所を経営する側の弁護士のトップ)とともに、依頼人と報酬について話し合った。敗訴でもそれなりの報酬はもらわねば事務所の経営が維持できないとはいえ、心苦しいのも事実であった。
「いやぁ、今回はお世話になりました」
「いえ、たいしたこともできずにすみません。結局、敗訴でしたし」
依頼人の謝意に、かがみは恐縮しながらそう答える。
「いやいや。法律のことはあまり詳しくないですけど、大企業の尊大な顧問弁護士相手にあそこまで堂々と論陣をはってくれただけでも、溜飲がさがりましたよ」
かがみは、相手方の論理の矛盾点や論拠不充分なところに即座に鋭く切り込む能力が非常に高い。今回の裁判でも、かがみの鋭い指摘に相手方の弁護士がややたじろぐといった場面も少なからずあった。
その能力は親友こなたとの交友の中で磨かれたものであるが、かがみはそう指摘されても素直に認めることはないだろう。
「いえ、そんなことは……」
「それに、一部のオタクたちの間での柊先生の評判も知ってますよ。まだまだ蔑まされてるオタクたちに随分と親身だそうじゃないですか。そうだ! どうです? 秋葉原に来ませんか?」
「えっ?」
「店舗を移転して空き物件ができたんですよ。不動産屋に売り払うつもりでしたが、気が変わりました。柊先生に貸しますよ。賃貸料は安くてかまいません」
「そ、そんなことを急に言われても……」
「まあ、そうですな。返事は後日でかまいません。前向きに検討してください。秋葉原には柊先生のような人を必要としている人たちがいっぱいいますよ」
依頼人は、そういい残して、事務所を後にした。
依頼人が去ったあと、所長が、
「かがみちゃん、すごいじゃない。これはチャンスよ」
「で、でも、いきなり独立なんて……」
弁護士になってまだ2年ちょい。法科大学院卒業年次に一発で司法試験を通ったこともあり、まだまだ若い。今の段階で独立なんて、考えられなかった。
「かがみちゃんなら、しっかりしてるから大丈夫よ。なんなら、うちの事務員一人あげちゃうわ」
所長は、この事務所で一番のベテラン女性事務員を手招きした。
彼女は、事務所内では若いイソ弁なんかよりよほどの権力者で、事実上のナンバー2だ。
「いいわよね?」
「柊さんとともに秋葉原ですか。面白そうですね。行きましょう」
彼女はあっさりそういった。
到底ついていけないスピードで進む話に、かがみは戸惑うばかりだ。
「ちょっ、ちょっと待ってください、先輩」
「かがみちゃん。私は、別にふざけてるわけじゃないのよ」
所長がさとすように話し始めた。
「ほかのイソ弁にこんな話が来たら、私は止めてるわ。かがみちゃんなら大丈夫だって確信するから、言ってるんだから。はっきりいって、かがみちゃんはこんな事務所で雇われてるなんてもったいなさすぎるもの」
所長の隣で、女性事務員がうんうんとうなずいている。
「今回の案件だってそうよ。裁判所のホームページにさっそく判決文が掲載されたけど、著作権専門の大学教授や弁護士のブログじゃ早くも話題になってるわ。それだけあなたの主張に注目すべきところがあったってこと。判時や判タにも、どっかの教授の解説つきで載るわね、きっと」
裁判所のホームページには近年の判例を載せるページがあり、注目すべき事件の最高裁判決や高裁判決などは、判決日に即日で掲載される。このお役所仕事らしからぬ速報ぶりは、業界の間では有名だった。
判時は判例時報、判タは判例タイムズの略である。どちらも、法学界や法曹界では御用達の判例専門誌だ。この事務所でも定期購読しており、毎号送られてくる。
「それにね。秋葉原界隈の事情をちゃんと理解してる弁護士なんてなかなかいないわよ。私だってよく分からないもの。あの依頼人さんもいってたけど、かがみちゃんのことを必要としている人は、あそこにはたくさんといると思うの。かがみちゃんなら、すぐに数人は弁護士を雇わないと回らないぐらい仕事が集まるわよ」
「……」
「最終的に決めるのはかがみちゃんだけど、真剣に考えてね。こんなチャンスなんてめったにないんだから。これを逃がしたら、次の機会がいつになるかなんて分からないわよ」
2.独立開業
結局、かがみは秋葉原に行くことにした。
彼女は、オタク界隈の法的問題にのめりこんでいた。ならば、秋葉原に拠点をもつのは願ってもないこと。その機会が降って湧いたように出てきたのだ。逃すのはもったいなさすぎた。
まず行なったことは、所長が気前よく譲ってくれたベテラン事務員との雇用契約だった。
続いて、例の社長さんと事務所の賃貸借契約を締結する。
かがみは、契約書の内容をかみ締めるようにじっくりと読んだ。法律事務所が足元で法的紛争を起こしては笑い話にもならないからだ。
とはいえ、どの分野にも標準の契約書式というのは存在しており、それを実情に合わせてちょっと修正してやれば形は整うし、それで大きな問題が生じることもない。
社長さんはたいそう気前のいい人で、事務所の改装費用までポケットマネーで出してくれると申し出てくれた。
さすがにそこまでしてもらうのは悪いと思ったものの、かがみの手元にはその費用をすぐに出せる金もない。話し合いの結果、出世払いで利息はつけないということでまとまった。
ちなみに、出世払い契約における「出世」は「停止条件」ではなく「不確定期限」だという判例が民法の一般的な判例集なんかには載ってたりする(ただし、これは事例によりけりで、契約当時の事情や当事者の意思を充分に検討しないと、どっちであるかは確言できない)。
なんてことを思い出してしまうのも、専門家ゆえのさがなのだろう。
それはともかく、二人だけの小さな法律事務所だとしても、かがみは立派な個人事業主だ。
賃金を払って人を雇う以上は、雇用保険と労働者災害補償保険の手続をとらねばならない(じゃっかんの適用除外を除けば、個人・法人の別を問わず、全事業所が適用対象)。
また、納税義務者となるので、税務署に開業届出書、東京都の税務担当部署へ個人事業開始等申告書の提出も必要である。
青色申告で納税するので、税務署に青色申告承認申請書を出して承認をもらい、ちゃんとした簿記も整備しなければならない。簿記は、専用のソフトウェアがいくらでもあるから、パソコンに入れとけばいいのだが。
事務所の金の流れを明瞭にするためにも、当座預金口座の開設も欠かせない。
あと、法律事務所を開設する場合には、所属弁護士会への届出も必要である。
さらには、机、椅子、本棚、パソコン、はては鉛筆や消しゴムといったこまごまとしたものの購入。電話、電気、水道、インターネット接続等にかかる諸手続。その他もろもろの雑務。
それらはすべて、ベテランの事務員が鼻歌交じりでこなしてくれた。
「今月の給料には特別ボーナスをつけなきゃいけないわね」と、かがみは思った。それほどまでに、彼女の仕事振りは際立っていた。
いよいよ事務所開設の日となった。
ブルーシートがはがされると、そこには「柊かがみ法律事務所」の文字。
社長さんと事務員が拍手する。彼女を快く送り出してくれた所長は、折りも悪くはずせない仕事が入って、今日は来れなかった。
かがみは、笑みを浮かべながら礼をした。
そこに、
「アキバの新名所一番乗り~!」
現れたのは、かがみの親友、泉こなたにほかならない。
「誰にも言ってなかったのに、あんた、なんで……?」
「ハッハッハッ。私のアキバ情報網をなめてはいかんぜよ。社長さんとはネトゲ仲間なんだよね。店も常連だしさ」
「おやおや、お二人は知り合いだったのですか?」
「高校時代からの腐れ縁ですよ」
「さすがは、柊先生ですな。人気ラノベ作家の泉先生とご友人とは」
「というわけで、さっそく、新名所の写真を一枚」
こなたがデジカメを取り出したところを、かがみが制した。
「おまえは、あの注意書きが見えんのか?」
事務所にはデカデカと「写真撮影厳禁」の看板が掲げられている。
秋葉原をよく知るかがみは、先手を打っておいたのだった。
「ここは、私の仕事場で、見世物じゃないのよ」
「いいじゃん、いいじゃ~ん」
「だ~め」
ここで、事務員がこなたに助け舟を出した。
「まあまあ。ここは事務所開設記念ということで一枚どうですか? 私が撮りますよ」
彼女にいわれては、かがみも折れざるをえなかった。
3.そして、次へ
あれから5年がたった。
事務所もまあまあの規模になった。事務員は4人、イソ弁も常に5、6人は雇っている。
仕事はコンスタントに舞い込んでくるため、儲けはぼちぼち。少なくても、雇っている人間にひもじい思いをさせるようなことはなかった。
事務所改装費用の出世払い契約は無事に履行をすませていたが、事務所賃貸料は相変わらず格安だった。
かがみは値上げしてもいいといっているのだが、あの社長さんが頑として譲らないのだ。賃貸料が安いのは顧問料代わりだということで押し切られている。
秋葉原界隈のいくつかの企業の顧問弁護士を引き受けてはいるが、仕事をせずに報酬をもらうのを嫌うかがみは、いわゆる顧問料はもらっていない。報酬は仕事に見合うだけの分をきっちりいただくのが彼女のポリシーだった。
だから、顧問料代わりという名目で賃貸料を安くしてもらうのは心苦しいところだった。でも、あの社長さん相手だと、なかなか強く出られない。
そんな日常が続く中、雇っている女性イソ弁の一人に独立開業の話が舞い込んできた。
経緯はかがみが独立開業したときと似たようなものだ。
彼女は、池袋の乙女ロード界隈の仕事にのめりこんでいた。
ライトなオタク層も広く取り込むようになった秋葉原とは違って、乙女ロードはディープな腐女子層向けの濃ゆい街へと変貌していた。
かがみでさえあの界隈の仕事にとりかかるときには身構えてしまうほどなのに、彼女は物怖じせずに乗り込んでいってガンガン仕事をこなしていた。
かがみから見ても彼女は非常に有能で、弁護士になってまだ2年弱とは思えないほどだった。それでいて乙女ロードの事情に通じていて親身に依頼を受けてくれるとなれば、池袋で開業しないかという声がかかるのは当然だろう。
彼女から相談を受けたかがみは、こう言った。
「あなたなら大丈夫、なんていわないわよ。私だって、まだまだ若輩者だし、偉そうなこといえるような身分じゃないからね。でも、あなたがやりたいっていうなら、止めはしないわ。問題は、あなたの覚悟のほどがどれくらいなのかってこと」
「私、やりたいです」
彼女の目は真剣だった。
「そう。なら、がんばりなさい」
かがみは、事務所で一番のベテラン事務員を手招きした。
彼女には開業以来ずいぶんと頼ってきた。これからもまだまだ頼りたい気持ちもある。
でも、彼女に甘えるのはそろそろ終わりにしてもいいだろうと思った。彼女が抜けたぐらいで崩れるようなやわな体制は築いてこなかったつもりだ。
だから、
「餞別に、彼女をあげるわ」
「物扱いは酷いですね」
「いいでしょ?」
「池袋の乙女ロードですか。面白そうですね。いいでしょう。行きましょう」
まるっきりあのときの再現だった。
この二人にはなんの躊躇もなかった。
「えっ、そんな。いいんですか? 先輩」
「開業するときはいろいろな雑務が山ほどあるんだから。やっぱりベテランさんがついてないとね」
「ありがとうございます!」
こうして、若い後輩が一人、独立していった。
彼女の事務所の開設日に折り悪くはずせない仕事が入り、かがみはその門出を見送ることができなかった。
因果は巡るというか……まあ、そんなもんなんだろうと、かがみは思った。
改装を終えたばかりの事務所を前にかがみの両脇にこなたと社長さんが並んだ写真。
その写真は、今でも、かがみの机の上の写真立てに収まっている。