ID:oJ4ghRM0氏:灰色

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私達は入り口で手を消毒した後、ノックをしてから病室に入った。 ゆたかが入院している部屋は個室になっていて、他の患者との交流は無かった。 それは彼女にとって寂しいのかもしれないし、気が楽なのかもしれない。 ただひとつ確かなのは、ナースコールを押せずに苦しみ続けるという危険性があることだけだ。 私達が見舞いに来ると、彼女は笑って出迎えてくれる。 「いらっしゃい。みなみちゃん、ひよりちゃん」 「こんにちは。元気そうだね、ゆーちゃん」 ゆたかと田村さんが名前で呼び合うようになったのは、ゆたかが入院してしばらく経ってからのことだった。 その瞬間に居合わせなかった私には詳しいことはわからない。 私が遅れて病室にたどり着いたとき、すべては終わってしまっていた。 二人は顔を赤くして笑っていて、とても仲がよさそうに見えて、私は軽い嫉妬を覚えた。 もちろんそれは些細なことで、私が未だに田村さんのことを苗字で呼び続けていることとは関係が無い。 無い。 「お邪魔します、泉先輩」 病室にもう一人いることに気がついた私が挨拶をすると、先輩は折りたたみ式の椅子から立ち上がった。 「いつも来てくれてありがとう。私は席を外しているから、ゆっくりしていってね」 私は先輩の背中を見送りながら、ゆたかと二人で話をしていた所に割り込んでしまったかもしれないと思った。 そんな不安げな顔に気づいたのか、ゆたかは私を見て笑みを浮かべた。 「漫画を買いに行きたいと言っていたのに、私が無理を言って引きとめちゃってたんだ」 「へえ。じゃあ、今頃は本屋まで走って行ってるかもね」 もちろん、彼女の言葉は嘘だとわかった。 ゆたかがそんな事を出来ないことも、先輩がそんな事を言えないことも、とっくに理解できていた。 それでも騙されたふりをして、私は笑う。 笑顔には自信が無いのだけれど、ゆたかの前では自然に笑うことが出来た。 彼女の性質がそうさせるのか、あるいは、ゆたかと過ごした時間が私を大きく変えたのかもしれない。 「……雪だ」 田村さんの声を聞いて、私達は窓の外を眺めた。 灰色の空には小さな白い花びらが舞っていて、少しの間だったけれど言葉を失った。 「珍しいですね」 みゆきさんが言った。 ……違う。彼女はここにいない。 私は視線を病室の内部に戻し、部屋には三人だけしかいないことを確かめると再び雪に目をやった。 今度は美しさを表現する言葉を失う事はなかった。 幻想的な光景は四角い窓に切り取られて存在を続けている。 「ねえ、これは夢だよ?」 誰かが言った。ゆたか、たぶんそうだ。 当然だ。身篭ったわけでもないのに、ゆたかが入院をするような事があっては困る。 私は困らないけれど、息が出来ずに私は死ぬ。 苦しくて、怖い。 「泉先輩のお母さん、亡くなってるんだよね」 私達の誰かが言った。いや、私が言ったのかもしれない。 「だけど、ゆたかとは血が繋がっていない。だから病気の因子が遺伝するようなことはありえないよ」 そうだね、と言って笑った。誰が? 「悲劇のヒロインに憧れる気持ち、よくわからないんだ」 みなみが言った。 「当たり前だよ。誰だって、不幸にはなりたくない」 私はみなみを見つめながら言った。 「でも、きっと命があと僅かだって知っていたら、いろんなことが特別になる」 ゆたかは私を見つめながら言った。 「特別?」 田村さんはスケッチブックを手にしていた。右手には鉛筆。スケッチブックは左腕で支えている。 彼女はしきりに手を動かしながら、ゆたかに訊ねた。 何かのデッサンでもしているのだろう。 モデルにされていると感じ取ったのか、ゆたかは顔を動かさずに声だけで答えた。 「うん。夏祭りや花火とかだけじゃなくて、日常のあらゆることが特別になる」 それは素敵なことだよね。 「私は首を振った。」 違うよ、それは余命僅かだから特別になるわけじゃない。 本当は全てが特別なのに、私達がそれに気がつけていないだけなんだと思う。 「私がそう言うと、ゆたかは寂しそうに目を閉じた。」 ひどいよ、みなみちゃん。 ちょっとくらい、病気で良いこともあったんだと思いたかったのに。 ……ごめん。 「私が頭を下げると、田村さんが近づいてきた。」 「完成したよ、と彼女は言った。」 二人の言う、特別なもの。これなら両方に当てはまらない? 「差し出されたスケッチブックを私は見る。」 いつもどおりの笑顔の三人。 白い世界の上にはその十二文字と、私達の大雑把な輪郭だけが描かれていた 「変化があったのにいつもと同じだって事は、やっぱり特別なことなんだよ」 鉛筆をペンケースに仕舞いながら、田村さんは言葉を紡ぐ 「いつもどおりであるという事が特別になる。元からそれは特別なんだけれどね」 彼女は照れたように頬を掻くと、私達を交互に見た。 「うまいことを言おうと思ったんだけど、やっぱりそういうキャラじゃないね。私は」 私はそれを否定も肯定もしない。ゆたかも同じだった。 「ところで、この夢の意味は?」 思い出したようにゆたかが言った。 「夢に意味なんて無いよ」 私はそう言ってみたけれど、本当にそうだろうかと考え直した。 脈絡の無い会話に、大きな矛盾。そんなものを抱える夢にも、意味はある? わからない。どちらでもないと答えて、誤魔化してしまいたい。 小説や漫画ならば、夢が何かを表現することはありうる。 主人公の心情を表していたり、予感、予知、気づいていない心の本音、妄想。 けれど、この世界はそのどれでもないような気がする。 考えても無駄なのかもしれない。夢を使った精神診断ほど当てにならないものも無い、と本で読んだ事がある。 たとえば、泉先輩が病室を後にしたこと。 私が先輩を疎ましいと思っているとも考えられるし、先輩自身ではなく、ゆたかの家族についてかもしれない。 ゆたかが暗い考えに囚われるのは――いや、そもそもネガティブだっただろうか? 「わからないことは、わからないままにしておけばいいよね」 私か田村さんがそう言った。もしかすると、ゆたかが。 「だけど、もしも夢じゃなかったら?」 何気ない調子で不安を口にしたことを、私は後悔した。 言葉になった不安は生き物のように動きと命を持って、私達を撫で回す。 これが夢ではないとしたら、ゆたかが命の危機にあるということだ。 田村さんは左手の指が動かなくなっていて、私の右足は造り物。 そんな悲劇は夢の中だけで充分で、現実である必要は無い。 全員が黙り込んでしまった病室に、ノックの音が響いた。 「ゆーちゃん。明日はもう手術があるんだから、そろそろ……」 泉先輩はそこまで言って、私達をちらりと見た。 右目だけではなく、私達とは違って本当に失ってしまった左目でも見られたような気がした。 「すいません。随分と長居をしてしまったようで」 「申し訳ないッス」 私達はゆたかに挨拶をして病室から出た。廊下を歩いた記憶はなく、すぐに病院の外に立っていた。 「泉先輩からの生体肝移植かぁ……。他は全員適合しなかったんだっけ?」 「さあ。本当に肝臓がおかしくなっているのかすら、私達にはわからないから」 自動販売機の前まで来た私達は、それぞれ温かい飲み物を買った。 「それにしても、泉先輩はすごいよね」 田村さんは右手で缶の側面を持ち、左手の指でプルタブを持ち上げながら言った。 「私達にはあそこまで出来ないもん」 「……確かに。でも、私達の嘘も、先輩の痛みも、ゆたかにとっては辛いだけかもしれない」 私の言葉に田村さんは笑いながら頷いた。 「そうかもね。少しでも近い立場にいるように思って欲しかったんだけど、自己満足すら出来てないや」 熱い缶コーヒーを一気に飲み干した後、私はその缶を片手で潰した。 丈夫なスチール缶をこんなように扱えるのは夢の中だからで、これが現実ではないという数少ない証左だ。 「本当は違う内容かもしれないけど、今度の手術は成功するかな……」 当然だと言い切って欲しかった。だが、彼女は曖昧に笑ってみせた。 「どうかな。結果を知る前に、この夢から醒めたい?」 どうなんだろう。 私はすぐに答えるかわりに、空き缶をゴミ箱に入れて歩き出した。 田村さんは慌てて私を追いかけてきた。 私はこれが夢であることを知っている。悪夢であることを。 ゆたかがインフルエンザで学校を休んだ日、私の中に生まれた不安がこの世界だ。 もしも、病状が悪化したら。いつまで経っても治らなかったら。 あるいは、風邪やインフルエンザなどというのは嘘で、本当はもっと重たい病気だったら……。 私の不安は際限なく大きくなっていき、ゆたかが学校に戻ってきてからも消える事はなかった。 私が、みなみが抱えてしまったこの不安は終わらない。 だけど、終わらせたければいつでも終わらせる事はできる。 それでも私がそうしないのは、幸せな結末を信じたいからだった。 「きっと大丈夫。ゆたかなら、無事に手術を終えて私たちに笑いかけてくる」 「そうだよね。うん、きっとそう」 恐怖と不安から始まってしまった物語。 一見すると絶望しかないような世界だけれど、笑いも幸せも存在することを私は知っている。 だから奇跡も起こる。必ず起こると言い切ってしまおう。 毎日の夢の中で、私はこの一つの世界でゆたか達と過ごす。 いつかハッピーエンドで終わり、不安はやはり不安でしかなかったのだと気がつく日まで。 この夢が終わったときには、夢の中のゆたかと同じように、私も田村さんを名前で呼べるようになる気がした。

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