宮永咲は、朦朧としながら帰り道を歩いていた。
学生時代から活躍し、デビュー早々から華々しい成績を挙げるプロ雀士。
姉と共に日本代表に選ばれ、世界での活躍さえ期待されるスーパールーキー。
「う…ぶ…」
しかし─その顔はいまや血の気が引き、まるで幽鬼のように成り果てている。
「ぅえ゙え…っ!」
不愉快な音を立てて、吐瀉物が道端を汚した。うら若き女流雀士にあるまじき醜態。
「咲ッ!大丈夫か?!」
「だいじょ…ぅぶっ…?!」
事前の電話で駆けつけてきた幼なじみの恋人は、苦しむ彼女をすぐに抱きかかえた。
「き、汚いよ…京ちゃ…ん」
「自分の心配をしろ!病院行くぞ!」
「でも…明日も対、局が…」
「お前の方が大事なんだよ!」
須賀京太郎は、問答無用とばかりにタクシーを手配すると、そのまま咲と病院へ直行した。
「ごめん…京ちゃんだって忙しいのに」
「当たり前だろ、恋人なんだから」
「…うん」
検査を終えたふたりは、自宅─東京で借りたアパートの一室へと帰ってきた。
上京して就職した京太郎は、プロ雀士となった咲と同棲生活を続けている。
「…なぁ、咲。もう、麻雀…止めよう」
「それ…は…」
─だから、彼は知っていた。咲がトッププロとして、どれほど苦しんで藻掻いているかを。
そうして心身を磨り減らした結果が、ストレスによる健康状態の悪化を招いたことも。
「…わたし、麻雀やめたら、なんにもできないよ」
しばしの沈黙の後。咲はそれだけを絞り出すように、震える声で呟いた。
京太郎は、悪鬼羅刹が如き力を誇る咲が、実のところ危うい精神の持ち主であることを理解している。
とりわけ麻雀以外は特に取り柄が無い─と思い込んでいるのは、咲の昔からの悪い癖だった。
「咲は咲だよ。少なくとも俺にとっちゃ、麻雀の腕前は関係無い」
「でも…!!」
「俺がいつからお前と一緒に居ると思ってるんだ?」
涙を浮かべ、幼子のように愚図る咲を抱き締めると、京太郎は静かに言った。
「俺はお前のそんな顔は見たくない。プロの世界がお前を苦しめるなら、無理にでも辞めさせてやる」
「きょ…京ちゃん…っ!」
熱く大きな腕に掻き抱かれながら、咲はただ嗚咽を漏らすしかできなかった。
鳴り物入りで迎えられた緊張感。国の代表として日の丸を背負わされた責任感。
宮永咲は、彼女なりにプロとしての義務を全うし、期待に応えようと必死になった。
だが、その結果がこれだ。溢れんばかりの才能だけで突っ走り、最後はそれに圧し潰された。
「京ちゃん…わたし、怖いよ…!プロになって、みんなに応援して貰って…」
麻雀から離れようと思っても、そんな罪悪感が彼女を縫い止める。
「後援会も出来て…スポンサーだって付いてるのに…辞めるなんて言ったら…!」
「大丈夫だ。俺が一緒に居てやるから…」
それは、まがりなりにもプロである咲がぞっとするほど、覚悟と決意に満ちた言葉だった。
─ううん…わたしは、一度でも京ちゃんくらいの覚悟で卓を囲んだことはなかったんだ…。
思えば京太郎は、ずっと咲のために動いていた。麻雀部に入る前もその後も。
そして恋人になると、プロになった彼女を支えるため、上京して職に有り付いた。
全ては咲のため、青春やその人生までをも擲ったのだ。彼女を愛しているが故に。
「ごめんね…!こんなに情けなくて、弱い私でごめんね…!!」
咲は子どものように泣いた。こんな自分を愛してくれる彼に報いられない申し訳なさから。
そして、それほどまでに愛されているという事実に、喜びを覚えた自分を恥じながら。
─そしてプロを辞めた宮永咲は、故郷の長野へ帰ると、京太郎と籍を入れて主婦になった。
京太郎も職を辞し、実家に頭を下げて咲ともども居座り、その取りなしで再就職している。
「ま、幾ら俺が働いても、お前がプロで何年か稼いだ金には及ばないだろーけどな」
「もうっ、そういうこと言わないの!」
すっかり元気になった咲は、カピバラを撫でながら苦笑する夫をぽかぽかと殴りつけた。
お前のしてきたことは無駄ではないし、自分よりも凄いのだ─そう暗に言っているのを理解しながらも。
一体この人は、どれほどの愚痴や弱音を胸の中に仕舞って歩き続けているのだろうか─?。
心身に余裕が出来た咲は、ようやく京太郎が隠しているものに目が向くようになっていた。
「かなわないなぁ…」
並外れた覚悟と度量は、咲の及ぶところではない。隣に居るのが彼女でなければ、どれほど飛躍できたことか。
「…京ちゃん。私はもうプロ雀士でもないし、何の取り柄も無いただの女だけど…」
ふと真剣に、真っ直ぐ目を見つめて語り始める咲を、京太郎はただ静かに、穏やかに見守る。
「いつか…ううん、必ず京ちゃんの自慢の嫁さんだって、胸を張れるようになるから!」
ふわりと、花が咲くような笑顔を浮かべた彼女は、溜息が出るほどに綺麗だった。
完
最終更新:2018年04月29日 21:47