――月が欲しい。孤独に浮かぶ丸い月が欲しい。

――月でありたい。空にあって、皆を睥睨する冷たい月でいたい。

――けれど、月は独りではいられない。大地があってこそ、月はぽつんと浮かんでいられるのだから。


天江衣は積み木遊びをしていた。実の所四人で卓を囲み麻雀牌を使って並べているのだが、少なくとも天江衣には自分が『麻雀』をしているとは思えなかった。

「自摸。うぬらの気が満ちたなら失せろ。衣は物凄くつまらない」

小さな体から漏れ出る声は酷く冷たい色をしている。一応中学生ではあるが、小学生と見間違うほどの体躯だというのに、気配はまるで別物だ。近くにいるだけで怖気が走り、ともすれば部屋の隅で吐き気を堪えきれず飛び出していく者もいる。
大人という大人が全て逃げ去るまでさほど時間は掛からない。それを衣は僅かにも興味を持たず、見送る事さえしなかった。ただ、扉が閉まる寸前に吹き込んだ生ぬるい風が不快で、薄い布地を剥ぎ取る事にした。

「……往こう。人界は俗物塵芥の群れとはいえ、ここより月に近いはずだ」

衣は月を愛している。麻雀をすれば月を手中に収め、抱擁したくなるほどに。だから今日のような満月の日にはなるべく長い時間見ていたかったし、可能な限り大きな月が良い。
そのためには今の場所ではいけない。龍門渕の家はそれなりに高い場所にあるが、一番を求めるのならもっと良い場所がある。

「ふん、これで閉じ込めたつもりか。片腹痛い…激痛だ。片腹大激痛」

小さな声で吐き捨て、瞳に滲む侮蔑の色を隠すように目を伏せる。そのままでも、歩くことに何の問題も無い。
足取りも軽やかに館の裏にある水の出ていない噴水へ辿り着くと、その縁に足を掛けた。真っ白で起伏の無い体が月光に照らされて、絵画を彷彿とさせる。惜しむらくは見る者がいないことだろう。
張り詰めた水面。映る顔は能面の様で、衣は(気持ち悪い奴だ)と心の内で呟いた。

「……往こう。衣の場所は其処に有る。月が衣を掬い取ってくれる――」

次の瞬間、衣の姿は掻き消える。水面に映る月だけが嗤っているかのように揺らめいていた。

須賀京太郎は悔しかった。
数日前のハンドボールの大会、決めれば優勝できた場面で決めきれず、準優勝に終わったのは自分のせいだと彼は考えている。部活仲間がどう言おうと彼はそうだと信じている。
それだけに、今の行動は彼にとっては武者修行のつもりなのだ。来年の大会で優勝を掻っ攫うための第一歩。それが今回の、誰にも許可を得ない夜の山登りであった。

「くそ…夏なのに、あっつ…!」

滴り落ちる汗を拭いつつ一歩一歩山道を登っていく。
実のところ頭の中は後悔でいっぱいだ。なにせ装備も雑なもので、タオルとスポーツドリンクといくつかのお菓子だけ。持って来た懐中電灯は電池切れで役立たずになっている。それ以外何もないのだから、京太郎の展望の粗雑は推して量るべきであろう。
そんな彼を助けてくれたのは自然であり、季節である。仮に寝転んだとしても風邪は引かなさそうな蒸し暑さ、それなりに高いお蔭で山頂まで整備された山道、そして足元を照らす満月の光。全てが京太郎を導いてくれていた。
だから京太郎は歩く。階段を登り、遊歩道を歩き、展望台へとたどり着き。ようやく眼下の景色に意識を向けられるようになった時、そのご褒美もやはり、自然が与えてくれたのだろう。

「おー…すっげえ綺麗だ」

陳腐な言葉が漏れる。あいにく彼には語彙が少ない。月の明かりで輝く深緑の山々と、負けじと煌々と輝く街の色。
肌を撫でる生ぬるい風はむしろ、熱くもなく冷たくもなく、丁度良い具合で優しく包んでくれているような気さえする。
ひとしきり絶景を味わう。独りで見るには随分贅沢で、眠気なんてものはとっくに消え去っていた。

「うっし、せっかくだし探検でもしてみるか!」

夜の山は怖い。それに危ないのかもしれない。だが、まだ中学生で好奇心旺盛な京太郎はそこで止めることはできなかった。

「そーだなー、山頂とか行ってみるか。獣道もあるし行けるだろ」

京太郎は振り返り山頂を仰ぐ。さほど距離があるわけでは無いが、展望台から通じる正式な道は無い。
それでも彼は歩き出す。山頂に向かって踏み均された道があるのだから、彼の蛮勇は止まらないのだ。
そして蛮勇は一つの成果を見る。地図にも人の口にも上がったことのない、山の頂に突如現れた小さな泉と、その上に立つ少女の生まれたままの姿をもって。

言葉も無く、京太郎は泉に立つ少女を見つめていた。
月を仰ぐ少女は一糸も纏わず、月明かりに身を任せて僅かにも隠そうとしていない。羞恥心すら感じていないのだと――いつの間にか京太郎を捉えていた目が物語っていた。

「人の子……衣に何か用か」
「え、あ、いや……えっと、この山ってこんな泉あったっけ?」
「愚昧者。そんな風聞、流れたこともないぞ。無知蒙昧も甚だしい」
「は? むち……なんだって?」

衣は息を吐く。愚かしい子供の相手をして、月を愛でる時間が短くなるのは痛恨の極みだ。

「煩い。月を見たいなら大人しく見ていろ。衣はこの月が大好きだから邪魔するなっ」

関わるな、と衣から滲み出る気配は語る。もしもこれと相対するのが京太郎の幼馴染であればすぐに離れただろう。もしくは、衣と親戚筋の少女であれば、黙って傍で見守っただろう。
だが、彼は違う。無遠慮で無造作で、少女の恐ろしさを感じる力も無い。だから近寄ってしまうのだ。
決して下心ではない。思春期真っ盛りとはいえ、京太郎の好みは豊満なおもちであるからして。

「あのさ、それって楽しいか?」
「……」
「せっかくだし一緒にお菓子でも食べよーぜ。ほら、チョコ」
「……」
「なあ……それって楽しいのか?」

二度目の質問に衣は僅かに肩を震わせる。水面に小さな波紋が生じて、月を撫でつけた。

「あのさ――なんで泉に映った月だけ見てるんだ? 空の月の方が、もっと綺麗じゃないか」

月が揺れて、その姿をかき消していく。
雷撃のような凶悪な輝きが衣の瞳に宿り、阿呆のように目を丸くする京太郎を捉えたのはその直後の事だった。

――衣の力はなにも麻雀に限定されてはいない。もしそうならば、龍門渕の当主は幼い少女を閉じ込める必要などない。
彼女が持つ『支配』の力はあらゆるものを支配する力だ。その気になれば人の身体や心までもが範疇であり、だからこそ彼女は遠ざけられているのだ。
衣はそれで構わないと思っている。他の輩はすべからくどうでもいい。衣はいつも独りなのだと知っている。

だから、衣は月が好きなのだ。星々の光を食らいながら浮かぶ孤高の月は自身の姿である。
だから、衣は月が嫌いなのだ。大地という寄る辺が無ければ自分を保っていられない月など情けなくて仕方ない。
だから――いつしか衣は、天の月を忌避するようになった。代わりに水面に映る月だけを愛するようになった。そこならば自分の手が届く。自分が月になったのだと、月を手に入れたのだという愉悦に浸る事ができたから。

それが紛い物の、儚い月の模写に過ぎない事を知っていて、心の底に押し込めたままに。

「……え」

その蓋を開けた京太郎は衣にとってまさに不倶戴天の敵である。激情に駆られて暴発した異能は彼を押し潰し、心を壊し、捻じ伏せる――はずだった。

「ん? どうしたんだよ。つーか服着た方がいいって。着替え無いのか?」

それがどうだ。少年はこれっぽっちも、重圧の欠片すら感じていないかのようにあっけらかんとしている。
自分は能力を使わなかったのか、と衣は疑うが、周囲の植物や小動物は衣に平伏するように伏せている。蟲の一匹すら、彼女の不興を買ってはならぬとその身を隠していた。
だというのに、京太郎は顔色一つ変えていない。それが衣には不気味で、恐ろしい。

「おま、えは……」

カラカラと渇いた衣の喉が言葉を紡ぐ。

「ん、俺は須賀京太郎。お前はなんていうんだ?」

衣はその瞬間、少年の瞳を見て知った。

「あ……あまえ、ころも……」
「そっか。んじゃ衣、とりあえずこっちに来て服着ろって。風邪ひくぞ? つーかどうやって立ってんの?」

この少年は、何もない。力の欠片も感じない。これっぽっちも自分には近くない。決して交わる事のない相手だ。
須賀京太郎という相手は、『異能』では関わる事の出来ない存在なのだ、と。

京太郎は困り果てていた。どういうわけか水面に立っていた少女を傍に来させたまではいいのだが、服が無いらしい。
持ってきていてどこに置いたか忘れたのなら自分が探しに行ってもいいのだが、最初から着てこなかったのではどうしようもない。
幸い、夜に備えて羽織っていた薄いシャツを着せる事は出来たものの、このちんまい少女は怯えた様に自分をちらちらと伺っているのだから具合が悪かった。

(参ったな、送ってくにしても龍門渕ってどこだ? わっかんねー)

天江衣と名乗った少女がポツポツと語った生活は、自分とはまるで違う。
これっぽっちも想像できないが、「衣は独りだ」と言い切った声色から、寂しいんだろうな、と察していた。
となれば。京太郎にできることは二つくらいなものだろう。一つは龍門渕なる所を調べて少女を送り届ける事。もう一つは、その寂しさをほんのちょっとでも紛らわせてやることだ。

「でさ、こないだのハンドボールでギリギリ手が届かなかったんだ。あれは悔しかったなー」
「……ふん、衣は運動なんてしないぞ。そんなの詰まらない」
「ま、得意不得意とかもあるしな。けどさ、俺、どうしても掴みたかったんだ。がむしゃらに手を伸ばして、駄目だったのが無茶苦茶ツラかった」

「……」

膝を抱いて座る衣は顔を伏せていて京太郎からは窺うことができない。もし見えていたのなら、その顔は鈍い痛みを抱えているように見えただろう。
衣と彼は似ている。珠を手中に収めたいと願うのは同じことだ。違うとすれば、衣は月そのものに成りたかったということである。

「俺ってテスト勉強ってあんまりしないんだよ。だから理屈より、まずは鍛えてみようって思ったんだ。で、今日はここまで来た。修行って感じだな」

かっこいいだろ、と快活に笑う京太郎に衣は一瞬だけ目を向けて、再び伏せる。

「……ただの馬鹿者だ」
「そうかもなー。でも、もしかしたらプラスになるかもしれないだろ? 自分で手に入れられるものなら、とりあえず手に入れてからそれが要るかどうか考えてみようと思うんだ」

京太郎は笑う。純粋な強欲を隣の化け物に叩きつけ、人間らしく笑っていた。

それは人なら誰でも持っている欲だ。人の欲は限りなく、手に入れられるなら収めようとする。
だが、それは『化け物』の欲ではない。『化け物』は必要なものを必要な時に手に入れられる――天の月のような不可能なものを除けば――だから、必要以上を求めない。
もちろん、衣は人の欲を知っている。龍門渕に関わる人間は衣の力を使って満ちることのない欲を満たそうとしていたくらいだ。トーカのような人間は、あの家では特殊なのだ。

しかして、この京太郎という男はどうか。
欲はある。必要以上を手に入れようとする、衣が忌避する愚物に近い。
だというのに――酷く、純粋だ。きっとこの少年は自身の言葉通り、求めることのできる全てを手に入れた後、必要で無い物を全て捨てることができる。

衣の身体に走るのは、怖気だった。
この京太郎という奴は人であり、人でない。自分に向けられた異能は一切合切気にも留めず、そのくせ目のつく場所に異能があれば凡夫のように慌てふためくのだろう。

「……キョータロー」
「ん?」

もし。
もしもこの須賀京太郎が麻雀を『支配』するとしたら。きっと『何もない』ことが起こるのだろうと衣は直感で理解する。全て滞りなく進み、京太郎は見守る事しかできないはずだ。
まるで、そう。
この大地のように、人々の欲も何もかもを見届け、必要な物だけを手中に収めて残りは好き勝手にさせるに違いない。

「お前は、月が好きか」

月を仰ぎ見る京太郎の目は輝いている。答えは決まり切っていた。

「ああ、好きだ。いつか手に入れてみたいくらいだ」

叶わない願いを語っているくせに、その声色は「アイスが欲しい」と零していたものと全く同じものだ。手に入ったところで「参ったなあ」と笑うような、自然な声色。

衣は自身でも気付かないうちに笑っていた。唇を歪めていた。月光を映す瞳の中に、一人の少年を宿したまま嗤っていた。

「衣は月に成りたい」

京太郎は気付かない。衣の声色が変わったことにまるで気付かず、欠伸交じりに遠くの街明かりを見るばかりだ。

「へー、そしたらどうするんだ?」
「さて……でも、今までは無理だった。衣は独りだったから」
「そっか」

気の利いた言葉も出ない京太郎だが、衣はまるで気にした様子はない。それどころか喜びさえ映した顔で立ち上がり、京太郎の背中にしな垂れかかる。
耳元で囁かれるこそばゆさに、京太郎は笑うしかない。

「月は独りでは成立しない。月が月であるためには、大地が無いといけないから」
「ああ、引力だっけ。それで地球の周りをぐるぐる回ってるんだよな」
「だから衣は欲しくなったんだ」

そっと、衣は腕を回す。京太郎の頭を優しく抱えるように。

「衣は――大地が欲しい。未来永劫の彼方まで、衣と交わらない大地が欲しい」

愛し気に息を吐く衣は、彼女を知るものが見れば驚愕するに違いない。
今の彼女は両親が健在だったころの無邪気さも、先ほどまでの憂いと虚無感もない。それどころか溢れんばかりの情欲と、結ばれない愛への歓喜を浮かべている。

ざあ、と泉がさざ波を打ち、周囲の命が潰れ消えていく。『支配』は辺りの命を追い払い、しかし京太郎だけは暢気に空を見上げている。
まるで宇宙に浮かぶ月と地球だ。そう思えば思うほど、衣は京太郎が愛おしい。

――京太郎個人の事などどうでもいい。ただ、彼が『大地』であることだけが大事なのであり、自分が『月』でいられることが重要なのだ。

水面に映る月への愛しさは、『憧れ』から『分身』への微笑ましさに変わり。
空に浮かぶ月への憧憬は、『嫉妬』から『我が身』への誇りへと変わる。
天江衣は笑っている。やがて空が白み始めるまで、少女は少年を抱き続けていた。

―――――

「衣、最近妙に機嫌が良いですわね」

龍門渕透華は親戚の少女を見て、こてん、と首を傾げた。
このところの衣は大人達の欲に呆れ果て、両親を亡くした後のように厭世的になっていた。だというのに、いつからから急に機嫌がよくなり、自然を愛でたり自分やメイドと積極的に交流し始めている。
それが悪いわけでは無い。悪くはないが、どうも急すぎて透華には奇妙な気がするのだ。

「ふふん、衣は既に月下にあらず。羨むだけの愚虎とは別物だ!」
「はあ? まあ、いいですわ。それより暇つぶしに麻雀でもしませんこと?」
「わーい! 麻雀、麻雀っ!」

はしゃぎまわる衣は可愛らしく、透華は唇の端を綻ばせる。
こんなにも楽しそうなら良いだろう。そんなことより気にするべきはメイドの心情だ。これだけ上機嫌ならさぞかしとんでもない手をぶちかましてくれるだろうから、終わった後慰めてやる必要がある。

「トーカ! 早く早く!」
「はいはい、わかりましたわ」

それに、衣が圧倒的に強いだけなれ自分たちも強くなればいい。
機嫌が良いなら好都合。打って打って打ちまくって、自分を磨く糧にしよう。透華は心を燃え上がらせて卓へと向かう。

――衣には、それが愛おしい。大地に息づく命なのだから愛さない訳がない。
――決して自分には届かない命が自分を愛でるのが心地良い。当然だ。大地に生きる人々は昔から月を愛でてきたのだから。

衣は一度だけ振り返る。直接見えるわけではないが、その先にいるのは分かる。
『何もない』命が、そこにある。

「ふふ……あは、ははっ!」

耐えきれない笑い声を漏らしながら衣は走り出す。
いつか手に入れよう。其処に有るのだから、手に入るはずだ。仮に互いに愛情を持っても交わる事はないだろうが、そんなことはどうでもいい。

「衣は月だっ! やっと、やっと――!」

――やっと独りになれたんだ!