8月7日。早朝の霧島神宮に一人の青年がフラリとやってきていた

京太郎「……ふぅ」

 ここまで歩いてきたのか、軽く汗を拭う

 スラリと高い身長に、金色の頭髪が目立つ青年を

 社務所にいた当直の巫女は目敏く見つけ

 建物から出でて、彼に声をかける

霞「あら、京太郎くん?」

京太郎「霞さん。お早うございます」

霞「お早うございます。……こんな早くにどうしたの?」

京太郎「ええっと、小蒔ちゃんに呼ばれまして」

霞「小蒔ちゃんが?」

京太郎「明日の朝この時間帯に来てくださいーって」

 理由とかはよく分からないんですけど、と笑う京太郎に

 霞は、その時の小蒔の様子が容易に想起できて僅かに笑みを漏らす

 もちろん、彼女にも小蒔の真意は分からないのだが――

京太郎「もしかして、ひと月遅れで七夕祭りの行事でもやるんですか?」

 七夕は一般的には先月の事であり

 夏休みを利用して鹿児島に来ている京太郎にとっては

 街の商店街でそれに合わせた大きな笹を飾りたてたり

 七夕送りの祭りを行ったのは、もう一ヶ月前の話である

 しかし京太郎の言葉に霞は何かピンと思いつくことがあるようで

 一度社務所の中に戻っていくと数枚のタオルと卸したての巫女服を持って

 再び京太郎のところにやって来る

 その行動の意味も分からず、京太郎はただ困惑したまま

 着いて来て、と先導する霞の後を追って歩き出した

霞「本来七夕は、七夕(しちせき)の節句という、7月7日の夕刻に精霊棚を作って」

霞「死者を弔う中国の行事だったのよ」

 比較的最近に整備されたような道を通り神宮を囲む木々を抜け

 二人は北側に向かって進んでいく

霞「この盆行事に元々日本にあった棚機姫(たなばたひめ)の伝説が混じり」

霞「さらに一般的に言う七夕伝説――牽牛・織女の話が混ざって」

霞「七夕は“たなばた”と読まれ、織姫・彦星の伝説が重なるようになった」

京太郎「へぇ……」

 昇りかけの太陽の光を遮る木々に視線を遣りながら

 京太郎は霞の語りに相槌を打つ

京太郎「それじゃあ、もともとあった棚機姫の伝説ってのはなんなんです?」

霞「諸説あるんだけど、棚機姫、またの名を棚機津女(たなばたつめ)というのは」

霞「個人の名前ではなくて、そういう役目に選ばれた巫女の総称なの」

霞「選ばれた巫女は7月6日に水辺の機屋(はたや)に入り」

霞「機を織りながら神の訪れをじっと待つ」

霞「そのとき織り上がった織物は神が着る衣で」

霞「その夜、巫女は神の妻となって身ごもり、彼女自身も神になる」

京太郎「神に、ですか」

 本来巫女というのは、まつろわぬ神に捧げる人身供物である

 そういう知識を持っていた京太郎には、どこか納得できる結末だった

 神に捧げ物をすることで町や村に豊穣を齎し

 厄災を持ち去ってもらう、儀式――

霞「もちろん、最後の部分は神話的伝承で実際にそうなるわけじゃないけれど」

霞「その後、巫女は機屋を出て近くの川で禊(みそぎ)を行うの」

霞「旧い時代の日本において、七夕行事というのは」

霞「汚れや穢れを払って、この一年の豊穣を祈願する」

霞「農村にとってはなくてはならない、雨乞いの儀式だったのよ」

霞「笹竹やお供え物を川や海に流す《七夕送り》も、7回水浴びをすると」

霞「身体によいと言われているのも、これらの名残だと言われているわ」

 やがて、道の半ばで霞は立ち止まると京太郎を振り返り

霞「さて――ここで京太郎くんに問題」

京太郎「はい?」

霞「私はどうして、こんなことを話したのでしょう?」

 悪戯っぽく唇を歪める霞に生唾を飲み下しつつ

 京太郎は頬を掻いてそっぽを向いた

 意識が目の前の女性から逸らされたことで

 感覚が鋭敏化し――仄かな水の香りを嗅ぎ取る

京太郎「……ここでも、やってるんですか? その神事」

霞「半分正解」

霞「もう半分は、そうね。ヒントを出そうかしら」

 人差し指で唇を抑え、考え込む霞

霞「《日本書紀》には一人、織経る少女(はたおるおとめ)という」

霞「棚機津女の元になっていると思われる女神様がいらっしゃるの」

霞「もう半分の正解は、彼女が夫とした神様よ」

 京太郎は言われた内容を頭の中で反芻し

 やや、呆れ気味に口を開く

京太郎「そんなヒント出されましても……」

霞「大丈夫。京太郎くんもよく知ってる神様だから」

 自分の良く知る神様――

 そう言われて京太郎が思い当たる神様は

 だいたい三貴子くらいのもので

 三貴子にまつわる話の中で、織経る少女などなかったように思う

 降参、とばかりに両手を上げ、肩をすくめた京太郎に

霞「流石に意地悪が過ぎたわね」クスクス

京太郎「解ってるんなら止めてください……」

霞「だって、神事を行っているって言ってしまったのだから」

霞「もうヒントなんて出しようがないわよ?」

 成程、ヒントという言葉に上手いこと騙されてしまったのかと

 京太郎は自嘲し再び思考の中に入る

 神事とはつまり崇めている神に対して行う儀式の事であり

 神に仕える巫女である小蒔がそれを行っている――

 頭の中ですうっと事項の一つ一つが繋がり

 線となったことで京太郎は合点がいった

京太郎「なるほど、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですか」

霞「正解」

 九面の主であり、霧島神宮の主祭神

 彼に捧げる儀式であるのであれば

 本家の直系であり巫女でもある小蒔以上の適任はいない

京太郎「でも時期がおかしくないですか?」

 霞の言葉が正しいのであれば

 この神事は7月6日の夕刻より始め

 翌朝の7月7日までに終わるはずの儀式である

 旧暦を使っていると考えるにも

 詳細の日時は間違いなくずれているだろう

 ちなみに――旧暦の七夕を『伝統的七夕』と称し

 国立天文台が日本時間での旧暦7月7日を発表し始めて久しい

霞「そう言うと思ってたわ」

 霞はそう言って微笑むと歩みを再開する

霞「旧暦から新暦に移行したとき、日本の年中行事の殆どは」

霞「旧暦に於いて定められていたわ」

霞「これをそのまま力づく、新暦でもそのままの日付で」

霞「行おうとしてしまったのが原因で季節が一ヶ月早まってしまい」

霞「本来の、年中行事の意義が薄れてしまったの」

 例えば――

 鯉幟は、元来梅雨の季節である旧暦5月に

 雨中で鯉が天に昇って竜になる故事に肖り

 武士が子弟の出世を願って掲げるものであった

 しかし新暦の5月は梅雨とは言えない

霞「これを避けるために、年中行事は暦上での日付を一ヶ月遅らせて」

霞「季節とのずれを小さくする方法を取ったのよ」

京太郎「……でも普通に7月7日に七夕祭りやりますよね」

霞「とても残念なことだけど」

霞「時代と共に七夕は神事との関わりが薄くなってきてるから」

霞「伝統に頓着しなくなっていくのは、仕方のないことだと思うわ」

 背中を見せているから霞の表情は京太郎に分からない

 声音は平静のそれであるが……

霞「さ、着いたわよ」

 静けさの中で唯一反響していた熊蝉の鳴き声を割いて

 霞の声が木々を通り抜ける

 日射による発汗を一度拭い、京太郎は

 霞の立ち止まるその先を見据えた

 舗装された道の終わりは生い茂る木々の終わりでもあり

 涼やかな小川のせせらぎが耳に心地よい

霞「ここからは、京太郎くんだけで行ってらっしゃい」

京太郎「え?」

 持っていたタオルと巫女服を京太郎に手渡すと

 そう言って霞は来た道に向かって踵を返す

霞「小蒔ちゃんは貴方を呼んだのよ?」

霞「まあ、迎えに来るなんて思ってはいないだろうけど」

京太郎「あの、それ以前にどうすれば……」

霞「川で禊をしているだろう小蒔ちゃんにそれを渡すだけよ」

京太郎「だけって、そうは言いますが」

 神事であるのだから、部外者の自分が出張ってもいいのか

 眉を寄せて難色を示す京太郎に対して

 悪戯に成功した童女のように表情を綻ばせた霞は言う

霞「まるで織姫を迎えに来た牽牛みたいでロマンチックじゃない」

 ここまで来ておいて尻込みする方が馬鹿らしくなるような

 自分を後押ししてくれているのであろう霞の声に

 京太郎は俯いて、腕の中の衣類を握る力を強める

京太郎「……霞さんもほとほとロマンチストですね」

霞「京太郎くんほどじゃないわ」

 顔を上げれば、同志を見るような霞の視線と京太郎はぶつかる

 ジッと見つめ合うお互いの間に言葉はない

 しかしそれでも、二人の間には確かに通ずるものがあった

 あぁ、俺はこの先ずっとこの人に頭が上がらないんだろうなと

 妙な確信を得て京太郎は頭を最敬礼の位置にまで下ろす

京太郎「ありがとうございます」

 そして、そのまま道なき行き先を目指す

 霞の気配が遠ざかっても、京太郎は一度も振り返らなかった

 道の先にあったのは、質素な機屋とその傍を流れる小川であった

 水かさはせいぜい膝に届くか否かというほどの本当に小さなもので

 京太郎はふと周囲を見渡す

 不思議と満たされていくような心地よさと静寂が支配する空間

 その中で、一人、鮮やかさを放つ少女の姿があり

 砂利を踏みしめる音をさせながら

 京太郎は小川の中程に佇む彼女に近寄る


小蒔「――霞ちゃん?」


 振り返った小蒔は、白装束に水を滴らせ

 普段はお下げにして纏めている髪を解き背中に流していた

 いつもなら巫女服の下に隠れている豊満な身体つきが

 水で体に張り付き、また白色が透け

 下着を着用していなかったが故に

 一糸纏わぬ姿と変わらない様相を呈し――

京太郎「…………」

 京太郎はただただポカンと口を開け

 目の前の光景に釘付けになっていた

 平時の彼であれば、間違いなく目の前の彼女に対して

 情欲の念から妄想を始めていただろうが

 朝日を受ける小蒔の裸体の――

 官能的ではない、洗練された芸術品の如き美しさに

 どこか衝撃にも似た感動を受け

 その場に立ち尽くしていた

 小蒔の方も同様に、何が起こったのかを理解できず

 しばらく京太郎に合わせて固まっていたのだが

小蒔「~~~~っ!」

 無言のまま顔を真っ赤に染め上げると、両腕で体を抱きしめ

 京太郎に背を向けて肩越しにチラと視線を寄越す

小蒔「きょ、きょお、きょぉ……!?」

 しどろもどろに名前を呼ばれたことで

 京太郎もようやく意識と認識が現実に戻って来た

京太郎「ご、ごめん!」

 自分のやっていることの重大さに、慌てて顔を背け

 意識して小蒔を視界に入れないようにする

 しかしして健康的な男子の想像力は非常に逞しく

 視界に入らなくなってしまえば、余計に先ほどまでの光景が

 脳裏を埋め尽くさん勢いで再生されてしまい

 結局生殺しのような状態に京太郎は声にならぬ声で悶絶する

小蒔「あ、あああの、京太郎、くん……」

京太郎「はいっ!?」

小蒔「タオルと服を……その、渡していただければ……」

京太郎「……っ分かりました」

 京太郎と小蒔、双方がお互いに気を遣い

 相手を見まいとしながらじりじりと近づく

 そして――それが故に、足元を疎かにした小蒔は

 川の中で転んでしまい余計に濡れることとなってしまった

 京太郎は小蒔が着替えるのに背を向けて

 これまでの経緯をかいつまんで小蒔に聞かせていた

小蒔「もうっ。霞ちゃんったら」

京太郎「ははは……」

 すぐそこで聞こえる衣擦れの音に

 始終京太郎の胸は、その高鳴りを抑えられなかった

 予め小蒔が持ち込んでいたのであろうビニールの背負い鞄に

 彼女が着ていた白装束と、体を拭いたタオル数枚を仕舞う

 手にしたことで、それは先ほどまで

 小蒔が着ていたものだという実感が急に降って湧いてきた京太郎は

 邪念を振り切るようにそれを背負った

 水気はできる限り絞ったはずだが、それでもやや重たく感じるのは

 内心の情が関係しているからだろうか

 足袋を履き、草履を突っ掛けた小蒔が京太郎の隣に並ぶ

 新品の巫女服から漂う、卸したての服特有の香りに

 しっとり濡れた小蒔の髪から僅かに香る桜の匂いが混ざり

 京太郎の心象の中に淡い色を付けた

京太郎「棚機津女でしたっけ。霞さんから聞きましたけど」

京太郎「こんな大事な儀式があったのに、どうして俺を呼んだんです?」

 小蒔の顔を見て、京太郎は問う

 真剣な面差しに見詰められた小蒔は

 目を丸くし、慌てて両手で胸元を抑え少しの間、黙していたが

 やがて京太郎を見つめ返し、ぽつぽつと語り始めた

小蒔「棚機津女の神事は、ある意味では生まれ変わりの儀式でもあるんです」

小蒔「昨日までの“神代小蒔”は神様に供物として捧げられ」

小蒔「禊によって再び“神代小蒔”はここに生まれてくるんです」

京太郎「生まれ、変わる……」

 禊は通過儀礼(イニシエーション)としての側面も持ち合わせている

 誰かに掛かりきりでなければ生きていけない幼年期の殻を脱ぎ捨て

 一人前の、当り前の人間として歩み始める……

小蒔「その姿を、私の一番大切な人に――京太郎くんに」

小蒔「生まれたばかりの、真っ新で、一番綺麗な私を見てもらいたくて……」

 視線は逸らさず見つめ合ったまま

 恥ずかしそうに、はにかみながら言う小蒔

 言葉は尻すぼみになりながらも

 京太郎は自分に向けられた、その真っ直ぐな好意に

 喜び打ち震える自分自身を自覚しつつ

 自分より一回り小さい小蒔の手を握りしめた

小蒔「あ……」

 俗に恋人繋ぎと呼ばれるそれに小蒔は小さく声を漏らし

 より近付いた二人の距離に、甘い吐息を漏らす

 京太郎は空いた方の手で小蒔の頬を撫で

京太郎「いつだって小蒔ちゃんは綺麗だよ」

 そのままゆっくりと抱き寄せた

 二人の姿は一つとなり――やがて唇同士が触れ合う

 ただ触れ合わせるだけの軽い行為でありながら

 これ以上ないくらいに早鐘を鳴らすお互いの心音と

 混ざり合う体温に、否が応でも気持ちは昂ぶってしまう

 勿論これは初めてのことではない

 だがその時以上の甘酸っぱいキスに、二人は酔い痴れていた

京太郎「……っ」

小蒔「……ん」

 どのくらいの時間、そうしていただろうか

 二人は少しずつ離れると、どちらからともなく

 小さく笑みを漏らし、手汗でぐしょぐしょになった手を

 一度拭って、もう一度握り直した


 幸せとは膨大な時間の刹那に見出す一筋の光明に過ぎない

 それ以外の大多数に埋没し、時に見出せるからこそ価値があるのだ

 だから『こんな時間がずっと続けばいい』と、京太郎はそう思わなかった


 ただ、こんな風に穏やかな日々をこれからも二人で作っていけばいい


 そうとだけ心に決め小蒔と寄り添いながら

 京太郎は、木々の生い茂る山道を神宮に向かって戻っていった


 カンッ