昼下がりの街角。通りに面したカフェテラス。
日傘の下に設えられたテーブルが八組ほど並んでいる。
その一つ、通りに一番近い席に女が一人で座っていた。
置かれたティーカップからは甘いミルクの芳香が薄白い湯気を立ち上らせていた。
京太郎「よっ。待たせたな」
塞「遅いよ。10分の遅刻」
特にこちらを見ることもなく言い放つのへ、俺は座席に腰を下ろしながら反駁する。
京太郎「指定時刻はあくまで午後2時頃ってことだった。なら別に前に10分ずれようが、後ろに10分ずれようが俺の自由だろ」
塞「そういうのを世間では屁理屈っていうだよ」
京太郎「へいへい」
生返事を返しつつ、手近にいたウェイトレスに適当にコーヒーを注文する。
特に会話もなく緩慢な空気だけが時間の針を動かしていた。
俺はコーヒーの杯に口をつける。塞はミルクティーを飲むでもなく、カップの縁を指先でなぞっているだけ。
突然、女の甲高い怒声が響いた。
何事かと視線を向けると、一人の女が別の一組の男女と激しく言い争っていた。
周囲の人間が好奇の目を向ける。俺もその衆人環視の中の一人に溶け込む。
会話の内容からして、男が隣にいる女と浮気をし関係を続けたいから別れてほしいっといった内容だった。
ありふれた修羅場の一場面だった。
謝罪と譲歩を続ける男女に言葉を続けようとする女が周囲の視線に気付き口を噤む。
衆目の中で謝罪することで相手を許さざるを得なくする心理的な罠に気付いたらしい。
二、三言言葉を叩きつけ女は足早に去っていった。取り残された男女にもわずかな寂寥感と安堵感が現れていた。
今までに何億回と繰り替えされた男女の愁嘆場だ。
すでに周囲の人間は興味を無くしており、各々が自分の用事へ戻っていく。
俺も通りへ視線を戻した。
テラスから見えるビルの壁面で街頭テレビが映し出されていた。
流れているのは報道番組。世間の災害や事故やら事件と続き、芸能ニュースでは何とかというタレントが誰それと熱愛だったり、離婚だったりと世間は相変わらず忙しない。
塞「そういえば、歌手のえ~っとなんていったっけ?なんとかって子に恋人がいてファンが狂乱してたね」
画面の向こうで俺達と同年代くらいの少女の、歌っている場面やインタビューを受けている場面が順に映し出されていく。
テロップに名前が出ているが、名前を聞いても顔と一致しない。まぁその手のことには疎いからな。
塞「彼女のCDを割ったり、ポスターを燃やしたり、起訴まで起こそうとしてる人までいるらしいよ」
京太郎「いつの時代にも熱狂的なファンってのはいるもんだからな」
俺としては苦笑するしかない。
塞「彼女は外見からしても15、6歳だしその歳なら別に恋人がいてもおかしくはないと思うけどね」
京太郎「それは、そうだけど」
塞「京太郎がよくテレビで見てるアイドルの佐々野いちごや、瑞原はやりに恋人がいたとして、怒る?」
京太郎「いや、ちゃちゃのんに恋愛感情は抱いてないし、はやりんはファン的にはそろそろ身を固めてもいいんじゃないかと逆に心配になるけど」
塞は一口紅茶のカップに口をつけ、唇を湿す。
塞「歌手やアイドルに恋人がいて怒る心理を式で表すと女A+処女膜=正の値で、女A-処女膜=負の値ってなるわけだ」
塞「この不等式を解くと女性そのものよりも処女膜のが価値があることになるけど」
碧瞳には疑問の色。
塞「内臓の一部を崇拝するって古代の邪教かなにか?」
京太郎「いや、それだけってわけじゃないんだけど」
塞のその思考は独特だ。俺自身その立場になってみても反論し辛い。
後、仮にも女の子が処女膜とか連呼すんなや。
京太郎「男と女の関係って言うより、商品と客の関係っていうかさ」
塞「彼らのいう『好き』とか『愛してる』っていう言葉は一般人のそれとは意味が違うわけだ」
塞「けど、好きで愛してる女に傷があると憎悪を向けるって、それってよくある映画やマンガの悪役の思考じゃないの?」
京太郎「いや悪役って言うか、単にどこにでもある男の願望だと思うけど」
塞「たとえば女A。以前は清楚で大人しい性格だったけど、恋人が出来て関係を持ってから性交渉に依存して、他のいろいろの男とも関係を持つようになった」
塞「たとえば女B。今現在は貞淑で、恋人だけを大事にしているが、過去にはさまざま男性との交際経験があり妊娠や出産、堕胎経験まである」
塞の怜悧な分析の目が俺に向けられる。
塞「京太郎ならそれぞれにどんな感情を向ける?」
俺は少し考え、ある程度まとめた意見を並べていく。
京太郎「前者は、まぁ怒るだろうな。単純に浮気をされてるわけだし」
京太郎「後者は、……どうだろうな?その人の過去を知ってなお受け入れられてるなら愛せるんじゃないか」
人間の感情という、ある種の不可侵的な部分はどうにも想像し辛い。
容姿の美醜や、性格や趣味の一致不一致などさまざまな要素でいくらでも変化するから実際にその立場になってみないと明確に答えが出せない。
顔を上げると、塞の視線は空白の座席に注がれていた。
京太郎「どした?」
塞「男は女の貞淑性に固執するのに、当の男は平気で浮気をする。理解しがたいなと思って」
そこは先ほどの修羅場を演じていた男女が座っていた席だった。
言われてみれば確かにそうだ。男は女へ無償の愛を強要する一方で、自身はそれを平気で無視する。
男は複数の女性に好意を持たれることを優越感や度量などと思っている節があるが、それこそ男の傲慢さだ。
塞「京太郎はその内にハーレムでも作り上げそうだけどね」
京太郎「はぁ?」
間抜けな声が衝いて出た。
テーブルに頬杖を突いた塞がおかしそうに微笑んでいる。
京太郎「あの、勘違いされてるといけないんで訂正しときますと僕これでも純愛路線派なんで……」
塞「本人にその気がなくても、周りが京太郎を囲ってくるだろうけどね」
意味有り気な言葉に俺は眉をひそめる。
京太郎「それは俺が女にモテるってことか?万年雑用係のこの俺が?」
塞「君って、自分のことをつまらないくだらない人間だと思ってるんだね」
俺の姿が映りこんだ双眸は少しだけ寂しげだった。
なんと返したものか言葉に窮した。俺自身、少なからず心当たりがあるような無いような。
京太郎「いやでも、道徳とか倫理的にダメだろ。そんなん」
塞「自己を信じ、律しないものに倫理と誇りは成立しない」
一言で切って捨てられた。
塞の空いた人差し指が鼻先に突きつけられる。
塞「いい機会だから言ってあげる。周りの人達が態度で示してきただろうけど、それでも京太郎はわかってない」
塞「君は相手から明確に好意を示されると拒めない。自分も相手も不幸になるとわかっていても受け入れてしまう」
塞「それは優しさじゃなくて、単なる流されやすさだから少し気をつけた方がいいよ?」
京太郎「う、はい。気をつけます」
それ以上の返す言葉が見付からなかった。俺はただ静かに首肯するだけだった。
塞「でも、私の前でだけは優しさってことにしといてあげようかな」
その口調はどこか優しげで楽しそうな響きがあった。
先ほどの翳りはいつの間にか消えていた。
なんとなくこそばゆくなり、俺は気まずさと居心地の悪さを温くなったコーヒーと一緒に飲み干す。
気付けば、日が傾き夕映えが街並みを塗り潰していた。
塞「そろそろ出よっか」
そういって立ち上がるのへ、俺も続いて席を立つ。
勘定を済ませ店を出る。
塞「京太郎、今晩なに食べたい?」
京太郎「う~ん、じゃあカレー」
塞「ならビーフシチューにしよう」
カン!
最終更新:2014年05月03日 22:14