「麻雀教室かあ」

 そう呟いたのは須賀京太郎、元清澄高校唯一の男子部員だ。
 元と言うのも事情がある。京太郎は親の都合で長野から奈良に引越してきたのである。
 転校して来ても麻雀は続けていこうと思っていたのだが、転校先の学校に麻雀部がなかった。
 部長から聞いた話によると、
 転校先の近くにある阿知賀女子高校で誰でも麻雀教室をやっているらしいので行ってみる事にした。

「ごめんくださーい。……って誰もいねーし」

 卓はあるし、やっている形跡はあるのだが誰もいなく、京太郎は今日は休みなのかと残念がる。
 しかし例えは人はいなくても、転校してきてから牌を見てなかった為、その光景に京太郎は懐かしさを感じる。

「やっぱり牌に触れると違うな」

 そう言いながら軽く牌を弄ぶ。
 長野にいた頃は雑用が主で牌に触れる事も少なかったが、やはり実際に触れると感じるものがある。
 久しぶりに打ちたいと思った時、扉が開き人が入ってきた。

「あれ、どなたですか?」
「お邪魔してます。ここ麻雀教室って聞いてきたんですけど」
「ごめんなさい。麻雀教室はもうやっていないんですよ。
 それに子供向けだったので元々貴方には合ってなかったと思いますよー」
「えっ!? そうなんですか……」
(部長ー話と違うじゃないですかー)

 心の中で部長を罵り、そして凹む。
 そんな凹んでいる京太郎を見かねたのか少女が話かけてくる。

「あの、麻雀好きなんですか?」
「はい。下手なんですけどね。
 実は俺、最近こっちの方に転校して来たばかりなんですけど、転校した高校に麻雀部がなかったんですよ。でもどうしても麻雀がやりたくて」

「じゃあ、よかったらやってみます?」
「えっ、いいんですか?」
「うん。今日は部活休みだし、いいですよー。えっと……」
「自己紹介もまだでしたね。長野から来た高校一年の須賀京太郎って言います」
「阿知賀女子高校二年松実玄です」

 そして自己紹介をした二人は対局を始めた。

「ロン。三暗刻、対々和、門前混一色、ドラ6で数え役満です」
「なにー。玄さん本当にどうなってるんですか?さっきからドラばっかりじゃないですか……」

 何局か打ったのだが、二人麻雀だというにも関わらず、玄にばかりドラが集まっていたのである。

「うん。何故か私のところにはドラがいっぱい集まってくるんだ」
「これが和だったら、SOAって言う所だ……」

 まさか長野以外にもこんなオカルト持ちがいたとは。思わず愚痴を言い、へたれる京太郎であった。

「えっ……今、和って言いました?」
「ええ、長野の時の同級生なんですけど、玄さんみたいなオカルト技を見たらよくそう言ってたんで、つい俺も使ってしまいました」
「そっかー。和ちゃん相変わらずなんだね」
「和の事知ってるんですか?」
「はい。昔ここの麻雀教室で一緒に打ってたんですよ」
「あー。そういえば和からこっちでドラばかり手に来るオカルトな人がいるって聞いた事があるような」
「きっと、私の事ですね」
「まさか本当に存在してたなんて……」
「存在って……何か幽霊みたいなんだけど、京太郎君酷くなーい?」
「うっ……」

 玄みたいな美少女にジト目で抗議されたら、京太郎には降参するしかなかった。

「ごめんなさい……」
「……ふふふ、京太郎君って苛めると面白いね」
「えっ……あー騙したんですね!ひでえー」
「あははは」

 大袈裟に驚く京太郎がまた面白さを誘い、玄は思わず笑みが零れた。
 ちょっぴり悔しい思いをした京太郎だったが、そんな玄の笑顔を見たらどうでもよくなってしまった。

「はははは」

 そして二人でただ笑い合ったのであった。

「あっ!」

 談笑中にふと京太郎は思い出した。

「そういえば今日部活休みだったのに、玄さんはどうしてココに来たんですか? 何か用事でも?」

 そうだとすると、ただでさえ間違ってお邪魔してしまった京太郎としては申し訳なさ過ぎてやばくなってしまう。

「んー。することもなかったし、部室のお掃除でもしようかと思って」
「そうだったんですか。それならもしかして俺がいて迷惑でしたか?」
「ううん。そんなことないよ。掃除してるより麻雀をやってる方が楽しいもの」
「へー。玄さんみたいに可愛い人なら休みの日は男の人と遊びに行ったりしてるのかなーと思いましたよ」
「ええええ。わっ、私なんか全然可愛くなんかないですよ」

 慌てて赤面した顔の前で、わたわたと混乱したように手を振る玄はどうみても可愛かった。

「なに言ってるんですか。凄い可愛いですよ」

 だからこそ京太郎思ったままに素直にそれを玄に伝える。

「もー、そんなこと言っても手加減してあげないんだからね!」
「うっ……いいですよ!望むところです!次こそは勝ちますからね」

 そしてもう一局しようとする二人の所に訪問者が来た。

「玄ちゃんいるの?」
「おねーちゃん?どうしたの?」
「あの、玄さんこのお方は?」

 玄の言葉からすると姉のようだが、眼鏡にマスク、マフラーをしている不審者に京太郎は警戒を抱かずにいられなかった。

「ほら、おねーちゃんお客さんがいるんだから、眼鏡とマスクは取ってちゃんと顔を見せて」
「……う、うん」
「おおっ!」

 怪しい格好を止めて出てきた素顔は、玄と同じくらいの美少女。
 予想外ではあるが嬉しい展開に思わず京太郎は驚きの声をあげる。

「初めまして、阿知賀女子高校三年松実宥です」
「どうも、長野から来た高校一年須賀京太郎です」
「どう? うちのおねーちゃんは、和に負けないくらいのものをおもちでしょ?」

 ふふんと宥の事なのに、何故か自慢気な玄。

「うっ……これは確かに……」

 妹の玄が自慢するのも当然と言える程のものに思わず、京太郎も眼がいってしまう。

「ちょ、ちょっと玄ちゃん!?」

 慌てて胸を隠す仕草をする宥。

「あっ……すいませんジロジロ見ちゃって」
「う、ううん、京太郎君が悪いんじゃないから。玄ちゃんが悪いんだよ!」
「ふーん。つまりおねーちゃんは京太郎君には見られてもいいんだ?」
「なんと!」
「もー! そういうことじゃないでしょー! 玄ちゃーん!」

 この姉妹仲いいんだなーと思わず二人のやりとりに見とれる京太郎であった。

 ***

「えっとー京太郎君は長野から来たんだよね?」
「ええ、そうですよ」
「和と同じ学校だったらしいよ」
「そうなんだー」
「それで近くに麻雀が出来る所がなくて、子供麻雀教室に来たんだよね?」

 にひひと笑顔で言ってくる玄。

「それは忘れてください……」

 恥ずかしい所を突かれた京太郎は、頭を下げ必死にお願いするしかなかった。

「あはは」
「京太郎君面白いねー」

 そんな京太郎を見て二人は思わず笑ってしまった。

「玄さーん、それは簡便してくださいよー」
「だって面白いんだもの。もう京太郎君ずっとここにいてくれればいいのに」
「そうですねー。それが出来れば俺も嬉しいです」
「ねー。おねーちゃん。京太郎君ここで麻雀することって出来ないかな?」
「んー。部員って言うわけにはいかないだろうけど、やるだけならなんとかなるかも。赤土さんに聞いてみるよ」
「えっ、そんなことしてもらっていいんですか?」

 京太郎としては、麻雀をただ出来るのでなく、こんな可愛い姉妹と一緒に出来るというのなら望む所である。

「うん……麻雀が出来ない悲しさはよくわかってるから」

 当時を思い出したのか、どこか悲しげな表情を浮かべる宥。

「失礼ですけど、何かあったんですか?」
「うちの麻雀部って今までなくて、今年ようやく部員が入ってきて復活したばかりなんだ……」
「そうなんですか……俺のいた長野の高校も似たようなものでしたよ」
「そうなの?」
「ええ、うちは部活事態はあったんですけど三年生が部長一人だけで、団体で大会に出ることもできなくて、
 今年に一年が入ってようやく出れるようになったんですよ」
「そうなんだぁー。よかったねぇー」
「じゃあ似た者同士一緒に頑張ろうね!」
「はいっ!」

 こうして須賀京太郎は阿知賀女子高校の雑用となったのであった。

 ***

「京太郎、この前の牌譜はある?」
「はい、灼さん。これですね。今まで適当に並んでたのでちゃんと学校別、個人別と整理しておきましたよ」
「ありがと、分かりやすい」


「あっ、玄さん備品の後片付けなら俺がやっておくからいいですよ」
「でもこのままだとなんか落ち着かなくて」
「いえいえ、そういうのは玄さんは大会に向けて頑張ってもらわないと」
「うーん。分かった。よろしくね京太郎君」


「京太郎ーお腹空いたぞー」
「ほらっ」

 穏乃の訴えに、京太郎は慣れた手つきでお菓子を与える。
 与えられた穏乃も慣れた手つきでお菓子の包装を解くと、すぐに口に入れた。

「うまうま」
「京太郎、なんだかしずの扱いに慣れてるわね」

 見てる方が惚れ惚れするくらいの連携に純粋に憧は感心していた。

「んー。長野にも似たような奴がいてなあ」

 そう言いながら思い出すのはいつもタコスを欲しがっていた元気な少女。
 その少女となんか似てるなあと思ってとりあえずお菓子をあげてみたら、これが見事に当たったのである。

「しずったらすっかり餌付けされてるね」
「憧っ! 私は餌付けなんてされてないぞ!」

 憧の容赦ない物言いに、むきーと吼える穏乃。

「ほら、穏乃これもあげるから落ち着け」
「こんなもので私が黙るとでも……うまー」

 しかし新しいのをあげるとすぐに黙ってしまった。

「やっぱりされてるじゃないの……」

 額に手を当てて、呆れたような物言いの憧にも、当の穏乃はお菓子に夢中で聞いていなかった。
 どうみても餌付けです本当にありがとうございました。


「宥さん。冷えるといけないのでお茶入れときましたよ」
「うん。京太郎君、いつも気を使ってもらってありがとうね」
「うっ……ううっ」
「えっ、京太郎君どうしたの?」

 普通にお礼を言っただけなのに、涙ぐむ京太郎に宥は驚きの声をあげる。

「いやあ、お茶を入れるだけでこんな優しい言葉をかけてもらえるなんて嬉しくてつい涙が……」
 思い出すのは、入れて当然だった長野での日々。

「よしよし」

 そんな京太郎を慰める為に、宥は抱きしめるように京太郎の頭を撫でる。
 そうすると体勢的に、自然と頭とあれがあたるわけで……

「でへっ」

 思わず京太郎から歓喜の声が漏れる。

「わぉーおねーちゃん、だいたーん」
「そっ、そういうのじゃないよぉー。ね? 京太郎君?」
「…………」

 当の京太郎は幸せのあまり意識がどこかにいっているのであった。

 ***

「いやーしかし、松実姉妹が変な男を連れて来たから適当に扱き使って追い出してやろうと思ったら、ここまで出来る奴だったとはねー」

 晴絵は、眼前で一生懸命に雑用をしている京太郎を見て、素直に感嘆の声を出した。

「追い出すって!? 晴絵さん俺の事そんな風に見てたんですか?」
「だって行き成り雑用でも何でもするからココに置いてくださいって土下座しながら言うんだよ? それは警戒するでしょ」
「うっ……あの時は必死だったんですよ」

 思わず汗を垂らしながら言う京太郎。
 松実姉妹がせっかく頼んでくれたうえに、京太郎も麻雀が出来るとその気になっていただけに、この機会は逃せないと必死だったのだ。
 しかしまあ流石に土下座はやり過ぎだったなあと京太郎も今では反省している。

「まあなんだ。京太郎がいるおかげでコーチの私も楽をさせてもらってる。助かるよ」
「いえいえ、いいんですよ」
「でもよく京太郎もあそこまでやるよねー」

 憧から見ても京太郎の働きは目を見張るものがあった。
 ちょっとコンビニにパン買ってきてと冗談で言ったら、笑顔で了解して即座に買って来た時は衝撃を覚えたものだ。

「ああ、長野にいた頃は鬼のような部長にこき使われてたからな。
 それに比べたら今なんて大したことないよ……」

 部活に来たと思ったら買い出し、牌譜の整理、部室の掃除、それだけならいいが最終的には存在が消えかかっていた。
 それに比べればこの程度些細な事である。

「そ、そんなに酷かったんだ?」
「ええ。まあ……長野の皆を嫌いってわけじゃないんですけど、あのままあそこにいたら今頃いらない子になってたと思う」

 どこか遠くを見るような目で語る京太郎に、全員言葉も出なかった。

「え、えーっと……」
「で、でもせっかく私の方から誘ったのに、麻雀あんまりさせてあげられなくてごめんね」

 思い出したかのように、京太郎の雑用具合を謝罪する玄。
 決して重くなった空気を変える為に、必死に話を変えたかったわけではない……はず……

「いいんですよ玄さん。俺なんて麻雀の腕はまだまだですからね。
 雑用でも何でもして皆の力になれるのならそれでいいですよ。俺だって全国に行って、和や皆に会いたいですからね」
「いい事言うねー京太郎! これかも期待してるからね!」
「ハルエは自分が楽したいだけでしょ」
「うっ……」
「ははは、憧、俺の事はいいからお前も頑張れよ」

 痛い所を突かれた晴絵。
 しかし憧の言う通り晴絵が楽をするだけだとしても京太郎は構わなかった。
 そもそも麻雀をここでやらせてもらっているだけで京太郎としては助かっているのだ。
 勿論、美少女達とうふふきゃきゃな展開を期待していないかと言えば嘘になるが。

「京太郎がそう言うならいいけどさ」
「大丈夫だ。問題ない」

 学校は違えど、メンバーも違えど、京太郎の気持ちは長野にいる頃から変わっていない。やる事だって変わらない。
 そう皆で全国を目指すんだ!

「オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな。このはてしなく遠い阿知賀坂をよ……」

 ***

 須賀京太郎が阿知賀女子高校の雑用となってから全てが順調だった。
 県大会も見事に勝ち抜き、全国へ向けて特訓をしていき、そうこのまま順調に行くとその時は誰もが思っていた。
 あの事件が起きるまでは……


 奈良県大会優勝阿知賀女子高校で援助交際発覚!
 今夏10年ぶりに全国大会出場を決めた奈良県阿知賀女子高校にて援助交際が発覚された。
 問題の生徒は同高校麻雀部、県大会にも出場したAさん(16)だった。
 前々からインターネット上では噂として流れていたが、事実関係が確認出来ず悪質な噂として終わっていたが、先月末別件で捕まった男性に事情聴取をしていた所、Aさんとの関係が発覚した模様。
 阿知賀女子高校は、阿知賀のレジェンドこと、赤土晴絵さんをコーチとし、県大会では奈良県屈指の麻雀強豪校として知られ、全国出場を逃したのは40年の中で赤土晴絵さんが在籍していた阿知賀女子に阻止された一度のみで、それ以降9年
連続全国出場している晩成高校を破っての全国出場だっただけに期待が寄せられていた。
 記者会見した同校の校長によると、事実関係を確認をした後にしかるべき処置を行うとの事。
 日本麻雀協会は、この一件を重く捉え、事実関係が本当ならば全国大会出場停止も検討している模様である。


 事件が起きた阿知賀女子高校麻雀部。ここに部員全員が揃っていた。
 問題となってる生徒――憧は正座をしていて、その憧を全員が見下していた。
 皆険しい顔をし、自体の深刻さを嘆いてる中、穏乃だけは今回の一件を掴みかねていた。

「なー京太郎ー、援助交際ってなんなんだ? 憧はいったい何をしたんだ?」
「穏乃……」

 なんとか事態を把握しようと穏乃も京太郎に尋ねる。
 しかしそれを答えようにも京太郎には中々答えられない。
 あれほど全国大会出場を喜び、和と遊べる事を期待していた穏乃に全てを告げ、
 悲しみを与える事などどうして出来ようか……
 例えそれが一時の引き伸ばしであり、唯の逃げであっても京太郎には真実を告げる事が出来なかった。

「なあ、京太郎……」
「しずっ!お前は黙ってろ!」

 それでも尚縋る穏乃を止めたのは晴絵の叱責であった。

「ご、ごめん……」
「ねえ。憧ちゃんなんでこんな事したの?」

 怒鳴っている晴絵とは裏腹に優しい口調で玄は憧に問いかける。
 口調とは裏腹に普段は優しげなその瞳が笑っていなかったが。

「お願い答えて……」

 何故こんな事をしたのか?それはここにいる全員の疑問である。
 その証拠に他の人も言葉には出さずとも視線で問うて、返事を待っている。
 何故こんな事をしたのかと……

「…………」

 それでも憧は俯いたまま何も答えず、部屋は無言のままであった。
 何も返さない憧に呆れたのか、はあっとため息をつき晴絵はどこか他人事のように呟く。

「こんな事件があったんだ。部活は活動停止、全国も取り消し、私は監督責任を問われ解雇だろうな」
「そんな……」

 事件が発覚した時から皆覚悟はしていたのだろうが、いざ実際に晴絵の口から聞くとより実感が沸いてくる。
 部員全員から絶望の声が漏れる。

「そんな! 赤土さんが辞めて、その上に和と遊べなくなるなんて!」

 ここで初めて援助交際の意味も分からず、事態を把握出来ていなかった穏乃もようやく事の重みに気が付いた。

「憧っ! なんで援助交際っていうのしたんだよ!」

 無垢な穏乃の叫びが憧の胸に響く。

「…………」
「答えろよお!」

 胸元を掴み絶叫する穏乃。
 しかしそれでも憧は言葉は返さない。今の憧に返す言葉などないのだ。
 またしても部屋は無言となった。

「憧……顔をあげろよ」

 掴み掛かってる穏乃を優しく横に退けると、代わりに憧の前に来てその肩に手をあてる京太郎。
 そして言われるがままに無言で顔をあげる憧。その瞳はどこか救いを求めているようであった。

「んっ……」
「憧……」

 僅かの間二人は見つめあい。
 そして京太郎は憧のその頬に思い切り平手を振りぬいた。
 バチッという鋭い音が部屋に響く。

「うっ……」

 衝撃で床に倒れこみ、呻く憧。
 しかしそんな憧を見ても京太郎は同情の気持ちなど微塵も抱けなかった。
 自分の、そして皆の夢を台無しにした人間に対して同情をするなど京太郎には不可能であった。

「憧っ……お前っ……」

 京太郎は気持ちが溢れ何を言えばいいか分からなかった。
 それでも何かを言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
 そして無言でもう一度手を振り上げようとして――

「やめとけ、そいつに殴る価値もない」

 その腕を晴絵に捕まれ止められた。

「……晴絵さん」
「みんな気持ちは同じだ。お前が汚れ役をする事はないんだ。だから、な……」
「……はい……」

 京太郎は納得は出来ないようだが腕を降ろす。

「京太郎君、手は大丈夫?」
「宥さん……大丈夫ですよ」
「なら、いいんだけど……」

 そう言いながらも、そっと京太郎の手を包み込む宥。
 その動作はまるで京太郎の心さえも包み込んでいるかのようであった。

「……宥さん、ありがとうございます」

 宥は、うんうんと頷き、より一層京太郎の手を握ることで、そのお礼に返事をした。
 しかしそんな微笑ましい光景を見ても憧は絶望しか感じなかった。
 あの宥ですら殴られた憧の心配ではなく、殴った京太郎の手の方を心配したのだから。
 その光景を見て感じるものがあったのは、憧だけではない。晴絵もだ。

「みんな……私のほうで出来るだけ便宜を図って貰えるように言ってみる。だからもう……ココには来るな……」

 これ以上ここで話をしていても何もない。終わりにするべく晴絵は喋る。

「ハルちゃん……」

 晴絵の言葉に、灼は今にも殺しそうな眼で憧を睨み付ける。
 晴絵が終わりにするように言うのならば、ここで憧を攻める事は晴絵の為にも止めておくべきだろう。
 それでも……理屈では分かっていても感情は納得がいかない。
 憧の問題は間違いなく晴絵の今後にも影響する。プロとしてやっていけるのかどうかも分からないだろう。
 憧れの晴絵をそんな目に合わしているのだ。納得がいくはずがない。
 だからこそせめてもと、憧を睨み付ける。
 殺意で人を殺せるのならば、今の灼なら憧を殺しつくせる程だろう。

「赤土さん……」

 誰も晴絵に何と言えばいいのか分からなかった。少女達は、無力であった。

「……京太郎ー」

 悲しみから涙を流し、縋りつくような瞳で京太郎を見つめる穏乃。

「穏乃……ごめん、ごめんな」

 自分に救いを求める穏乃を抱きしめ、謝る事しか京太郎には出来なかった。
 京太郎もまた無力なのだ。

「みんな……行くぞ」

 言いたい事はあっただろうが晴絵の言葉により皆無言で動き出した。
 皆分かっているのだ。ここで憧を攻めてもどうにもならないということを。
 バタンと扉が閉まり、皆退室して行った。
 残された憧は惨めだった。
 いっそ皆にもっと攻められれば幾らか楽になったのに。

「うっ……」

 京太郎に叩かれた頬が痛む。
 残された憧のその目に光る涙はその痛みからか……
 それは憧本人でさえも分かる事ではなかった。

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