松実玄がいなくなったの3週間ほど前だった。

鉛色の厚い雲が天蓋のように頭上を覆い始めていた。

舗装された小川が流れる、その川沿いの遊歩道に俺たちはいた。

転落防止の欄干が川の形に添って伸び、その手前に設置されたベンチに並んで腰を下ろす。

「曇ってきましてね」

「そうだねぇ」

俺の感想に彼女の間延びした声が重なる。

「小さい頃にね、玄ちゃんとよくこの辺りを散歩したんだ」

「そうですか」

俺は短く返すだけ。

黒髪と、コートを着込んだ肩とマフラーが揺れる。

「また、一緒に来たかったな」

「そうですね。玄さんと、…………宥さんと一緒に」

俺は言葉を搾り出す。震えてしまわないように懸命に堪えた。

「階段で転んで死んじゃうなんて、まるでドラマか小説みたいだね」

「脳挫傷だそうですね。いつもコタツでグータラしてるようで、案外しっかりしてるはずなんですけどね」

「あはは、いつもコタツでぬくぬくしてたのは私だよ?」

俺は川の水面を眺めるだけでなにも答えない。紡ぐべき言葉が見付からない。

「最近は夜も泣かなくなったんだけど、今度はおとーさんの私を見る目が痛ましそうで、逆に辛いよ」

妻を早くに亡くし、2人姉妹の1人が事故で亡くなって、今のこの状況で松実のおじさんは大丈夫だろうか。

無意味だとわかっていても、俺は今この場にいない男性の精神を気遣わずにはいられなかった。

「玄ちゃんに会いたい。もう一度お話、したいなぁ」

「会えますよ。今じゃないかも知れないけどいつかに、必ず」

確証のない気休めだけの自分の言葉に抵抗を覚えるが、それでも俺には他に言葉がなかった。

「助けてあげたっかた」

「そうですね。助けてあげないと、いつかは解放してあげないと、でも」

隣に座る少女の、紫の瞳が俺を映す。その表情はこの曇天のように曇っていた。

「玄さんは、これでいいのかも知れない。過酷な現実から解放されて、行ったまま帰ってこれないのならそれでいいと思う」

「現実の負債を返す必要はありません」

彼女は理解出来ないような表情をしていたが、最後には納得したように頷いた。

「そう。そうかも、知れないね」

まるで憑き物が落ちたかのような晴れやかな顔だった。

天から水滴が落ちてくる。アスファルトにぶつかり、薄黒い染みを地面に穿つ。

それから滴涙のようなそれは断続的に降り、雨へと変わろうとしていた。

「振ってきましたね。戻りましょうか」

「うん」

俺たちは立ち上がりその場を跡にしようとする。

雨の気配に混じり、人の気配を感じた。

「こんなところにいたんだ」

降りかかった声には聞き覚えがあった。

そこに立っていたのは制服姿の憧だった。

「憧?」

「憧ちゃん?」

俺たちの疑問の声が重なる。

「……」

憧はまっすぐに俺たちを見据えていた。拭ったような無表情の、その眼窩に嵌る瞳だけが怪しげな光を湛えていた。

直感的に感付く。よくわからないが今の憧は危険だ。

俺は足を踏み出す。

「玄に会いたいの? 会わせてあげようか?」

俺にではなく、俺の背後に投げかけられた問い。

「やめろ、言うな!」

憧の肩を掴み、手で強引に制しようとするが遅かった。

「そこであんたはなにしてるの? 玄」

憧の口元が痙攣したように震える。毒の滴るような笑みだった。

雨が降りしきる。衣服が水を吸い鉛のように重くなる。

「え…………?」

宥さん……の、格好をしていた玄さんが疑問の呟きを漏らす。

雨が煙る中、俺の腕は力なく垂れ下がる。

「なにを言ってるの?」

「なにを言ってる? こっちこそ教えてよ。宥姉のマフラーにコートを着込んでなんで玄は宥姉ごっこをしてるの?」

憐憫と嘲笑が等配合された声。

懐を探った憧が取り出しのは小さな手鏡だった。

「信じられないなら確かめてみればいいよ」

手鏡が投げられ、地面を滑り玄さんの足元で停止する。

玄さんは汚れることも厭わず、その場に膝を着いて鏡を覗き込む。

雨水に濡れた鏡面の奥から見つめ返していたのは、色素の薄い茶髪でも緑の瞳でもなく、玄さんの赤みがかった黒髪と紫の瞳だった。

震える右手の指先が、自身の顔の造作に触れる。

雨音を切り裂く絶叫。声にならない悲鳴が響いた。

幻想は砕かれた。

「私が、玄ちゃん? じゃあ、おねーちゃん、宥は、おねーちゃんはどこ!?」

玄さんの顔には極度の混乱があった。紫雲の双眸が恐慌するように小刻みに揺れている。

「亡くなったのは玄さんではなく、宥さんです」

そう。俺たちが話した話はすべて逆だった。玄さんの縋るような視線が俺を打ちのめしていた。

「宥さんを失った玄さんは、連日部屋に篭ってずっと泣いていました」

「けど、数日前に突然部屋から玄さんは部屋から出てきました」

「宥さんの遺品となったマフラーとコートを身に着け、自分が松実玄であることを忘れて」

俺に、地面に手と膝を突いてうな垂れる玄さんに、薄暗い笑みを浮かべている憧に雨が降り注ぐ。

「幼くに母を失い、最愛の姉を失い、散り散りになりそうな自身の心を繋ぎとめるには玄さん自身が宥さんを演じることだった」

力なく垂れ下がった拳に力が篭る。腹腔にタールのような怒りが込み上げ、その憤怒のままに憧に振り返る。

「なぜ、なぜ玄さんに真実を教えた!? 玄さんを現実に引き戻させる必要はなかった!」

最早、現実の中に玄さんの心の拠り所は存在しなかった。ならばせめて幻想の中で亡き姉と戯れていられればよかったのだ。

「私ね。京太郎のことが好きなの」

「…………は?」

突然の告白に俺の混乱は加速する。

「一目惚れって言うのかな? 出逢った時からずっとずっとずーっと、京太郎のことが好きだった。京太郎のことだけをいつも考えてた」

憧の両目が俺を通して、過去へ向けられる。

「それなのに、そいつらは私から京太郎を奪っていった」

小さな瞳孔には暗い瞋恚の怒りが燃え広がっていく。

不愉快気に歪められた口元が笑みを刻む。

「宥姉さえいなくなれば、玄は勝手に自滅してくれると思ったのになぁ」

含んだような物言いに俺の呼吸が一瞬途絶した。

「まさか、お前が宥さんを?」

「さぁ? あれは事故って判断が下ったんでしょ? じゃあそれが真実なんじゃない?」

憧はただ淡々と告げる。

「宥姉がいなくなって、玄が塞ぎ込んでやっと邪魔者がいなくなったと思ったのに」

声には底知れない憎しみが篭っていた。身体を打ち据える雨よりも冷たい怒りだった。

「そいつだけが、安楽な幻想に逃げて、また京太郎のそばにいるなんてそんなこと許せない」

「例え、昔馴染みの親友だろうと私から京太郎を奪っていく奴は許さない。許されるはずがない!」

俺は憧から数歩間合いを離し、憎悪の視線を突き刺していく。

「そんな、そんなことのために。宥さんや玄さんを……!」

「……俺は、憧。お前を憎む」

雨で額に張り付いた前髪の隙間から、俺は憧を糾弾する。

そんな俺に、憧は無邪気に微笑むだけ。父親に褒められたことを喜ぶ子供のような笑顔だった。

「うん、いいよ。京太郎が私を見てくれるなら、なんだっていい。もっといっぱい憎んで、もっと私を見て」

「お前は、なにを言ってるんだ?」

笑顔でそんなことを言える少女の思考に俺は戦慄していた。

彼女の言う『好き』とは、俺の知るそれとは違うのか?

立ち尽くす俺と、精神が崩壊しかかった玄さんを、降り注ぐ雨が冷たく濡らしていく。

重なる雨音の合唱の中で、憧の哄笑だけが響いていた。



カン