――――空は、心のようにいくつもの顔を見せてくれる。
今日は、風が全てを嘆き悲しんでいるような音色を響かせる、そんな月の無い夜だった。
星も漆黒を纏う空に吸い込まれ、人々とそれに連なる全てが眠る宵闇の中で、彼女は――――宮永咲は夢を見る。
いや正確には、夢と現実に片足ずつを浸しながらも、ふとした切欠で意識の一部を現実に戻したり、逆に再び夢の中に引き込まれたりしていた。
例えるのならばそれは、夢の世界に開いた穴を覗いてみれば、現実の部屋があり寝ている自らを確認する事ができるという感じであろうか。
意識が飛ぶという意味では幽体離脱という言葉にも似ているかもしれない。ともかくその穴は伸縮を繰り返し、消えると思えば別の場所に出る。
ただ穴がいくら大きく開こうとも咲が覗かなければ現実には戻ってこない、川を挟んで存在する夢と現実という二つの世界を往復する間隔はだんだんと長くなっていく。
ついに夢に向かったあとに、帰ってこなくなった。
――――季節は二月、春までの扉は暗く重い。
夜は勿論の事昼でもそこらに眼をかければ見えてくる、冬特有の鉛色を持った外の風たちが、この丑三つ時で力を増して、
空を駆け巡りながら幾度となく窓と衝突を繰り返して各々が身を叩く、だが既に眠っているが故かそれらに惑わされず咲の心は平穏そのものであった。
しかし外ではどこからか犬の鳴き声が、風を追い払うかのごとくに高く遠く響き渡る。
その鳴き声に対抗するかのように風もいよいよ勢いを強め、鳴き声は風に対抗するものから風と共に響くものへと変質を遂げてしまった。
その合奏が独奏になったあとにはついにカラスもいずこかへ消えて、自ら動くものはその一帯からなくなってしまった。
それでも風は満足せずに、自らを構いあわよくば打ち消すものを探している。ぶつかり合うそれは木であったり、車であったり、気まぐれなものだった。
外にて激しい躍動を続ける風の乱舞に対して咲の呼吸は、澄んだ音を出しながら一定のリズムでゆっくりと動いている。
春風の息吹のように優しげなそれを耳にすると、部屋の外と中は既に別の世界ではないかと、もしも暴風が知を持っていたのならばそう言うかも知れない。
やがて嵐は勢力を移動させ、叩かれる窓の負担もだんだんと減ってくる。
「すう……すう……」
咲は寝息を立てながら――――夢の中は、暖かいと一人ごちる。それは自らが生み出したぬくもりなのだろう、自らでこれほどの安らぎを得られるのならば、あの男のそれはどれほどに自分を満たしてくれるものかと咲は顔を赤らめながら空に問うた。
現実での答えはともかく、全てが自分の味方であるこの場所は、自らのほしい答えを、空を介して与えてくれる。ここは、とても平穏だった。
そう、平穏。布団の中の暖かみと、温もりと同じように失いたくは無い――――平穏、絵に書いたような平穏、綺麗過ぎて壊れるのが怖い……平穏。
だがそれが、永遠に続く事もないことは知っている。
「む……」
空が、暗い模様になった。雲の去来と共に、咲の心に一抹の不安が生じてくる。数ヶ月ほど前に、夏祭りに彼――――京太郎と出かけたときと、同じようなものを感じているのだ。
確かに、結果だけを見ればあの計画は協力もあって大成功を収めた。
しかしその前段階として、自らは龍紋渕に監禁――――いや、軟禁――――拘禁――――ともかく、働いていたわけである。……彼と離れ離れになりながらも。
そう。その、所謂ハッピーエンドの前段階に存在する避け難い厄災と同じにおいが漂っているのである。空に聞けども、求める答えだけを話すそれを今度は信用できない。
咲は、考える。それはやがて巡り来る、嵐の前の静けさというべきか。
それとも、そんなものは無く嵐自体がただの杞憂か?
しかしそのどちらであっても、運命は目の前にくるまで――――前で手を振っていても読み損ねることがある。最後まで、どちらに転ぶかわからない。
京太郎との歩みの内でそれは、彼女自身も良く知っている。知っているからこそ、その流れを受け止められるような伴侶を常に求める。
彼がいれば、どのような困難にも立ち向かえるからだ。事実、彼と超えたものは幾多にも存在する。
一人では駄目かもしれないが、彼と共に歩めるのならば何者にも負ける気はしないと考えると、急に気分が軽くなった。
前向きになったというのが正しいだろうか、雲のうちから日差しが優しげな顔を向けたかと思うと、雲が変質し映画のスクリーンのようになった。
夢の中の光景には、限界はないと咲はしみじみ思う。
そして咲も――――彼女の意識は、初めて京太郎と出会ったときに遡る。
その光景が眼の前の、雲のスクリーンにありありと現れてはじめた。
動くアルバムというよりは、まさにこれから映画でも始まるかのような錯覚を咲は感じたが、
残念ながら実際の彼との出会いは、ドラマや映画のように衝撃的なものではなく、むしろ地味を極めたものであったとも彼女は考えた。
だが、彼女自身の人生の節目も全ては地味なものから、言い換えれば眼をかけているようでかけていなかった盲点のような場所からじわじわと染み出していったのだと、
ちぐはぐな形容で彼女は悟る。
部長が言っていたが、夢は自らの体験を頭の中で整理する意味合いも含まれているという。
特に、失敗や自身に近づいた危険などは次に似たような場面に出くわしたとき、より良い選択をして避けるために、人によっては何年も後に再び見ることもあるらしい。
咲は先ほどの嵐の予兆に一瞬考えを向けたが、すぐに閉じた。
スクリーンには、字幕のような形で咲のモノローグがつづられている。
誰に言われたわけでもないのに、咲はそれを読みたい気持ちになった。
「彼との――――京太郎との出会いは、中学二年の初め――――クラス替えの時だった」
だんだんと、鮮明にその事を思い出す。
「そして――――」
……そして自らと姉との大いなる確執の始まりは、もしかしたらそれと同時期であったのかもしれない――――。
中学の頃も、とある時期まで咲に友達はいなかった。言い方は悪いが、咲自身そうだったと肯定するしかない。
勿論理由はある、咲が内気なのもその一つではあるのだが、それ以上に家の事情があったからだ。だが、咲と関係が薄いためにそれを知る者はやはりいなかった。
咲の姉――――宮永照は、既に東京に行っていた。白糸台高校という名前だった気がするが、ともかく母と共に東京にいた。
母親の仕事と父親の都合が会わなかった事に端を発するのだが、存外親たちは険悪な雰囲気を一切出すことなく円満に実家と東京に別れたのだ。
幸運だったのは、姉の宮永照にいろいろな所から願書が送られてきた事だ。麻雀の強さで人生の良し悪しが決まるといっても過言ではない現在において、宮永照の力は名の通り光を放っていた。
当然、推薦という形で彼女を得ようとする高校は多かったのだ。
そんな姉を、咲は誇らしく思えばこそ、まさかこの先確執が起きるなどとは考えていなかった。この時に未来が見えていれば、あるいは咲も別の選択をしたかもしれない。
ともかく――――その中に、件の白糸台高校が存在した。まず初めに目をつけたのは立地、即ち母が住んでいる家から近いという事。
父親が母に聞いたところ、東京にある母方の実家は、もう一人二人増えても問題なく住む事ができるといっていた。父親も母親もよく考えてからだといっていたが、照の決断はいつも早い。
推薦で安くなる学費や学校にある施設、卒業後の進路など照自身どこにも文句の無かったそこへと、咲が中学一年になったころとほぼ同時期に照は向かった。引越しのその日に、咲は彼女に抱かれながら延々と泣いた記憶もある。
最後の日に麻雀を打って、それきり家族ではやらなくなってしまったとあって、家にある麻雀卓はほこりを被り、咲自身もだんだんと麻雀自体から遠くなってしまっていた。
――――麻雀は嫌い、姉と自分とを引き離してしまった原因だからだ。
しかし、それと同量に、また家族で打てたらなあと思ったことも一度や二度ではなく、それでも時はそちらへと流れはしなかった。だが、それもあと少し。高校へ行けばまた姉と麻雀が打てる――――いずれ咲も、照と同じように東京へと移る気でいた。
高校に入った照が麻雀でその力を見せ付けているとあって、周りは当然妹の咲にも目をつけていた。
学校によっては照を逃したその二の舞をどうあっても避けようといろいろな策をめぐらす所もあった。
だがしかし、咲の心はもう既に姉と同じところに行くと決まっており、既にそれは時期的な問題でもあったのだ。
――――だが、中学の途中でわざわざ東京へと移って授業の速さに差が出るよりは、照の様に高校入学と同時に東京へ移ったほうが良いという考えを親たちも自らも持ったので、今ここに残っている。
それ故に、いまさら友達を作ってもどうせ数年後には別れてしまうのだと咲は特に気には留めなかった。携帯電話も持たなければ、色恋の話題もない。咲自信もこんな自分に近づく奴などいないと思っていたのだが……彼はそんな咲の想像のはるか上にいた。
今考えてみれば、出会いと別れはすぐそこで手を振っていたのだ。

長野に存在する、とある中学校。そこに通っている咲がチャイムが鳴ったのを意識の片隅で聞きながら――――ああ、次の時間が始まると顔を上げれば、眼に入った金髪。
一瞬何事かと思った咲の頭に響いた男の声、掠れたそれはちょうど変声期の男のそれであり、それを理解すると共に目の前のそれが何であるかを思い出した。――――クラスメートの、というか隣の席にいる須賀京太郎だ。
「…………なあ、教科書忘れちゃったんだけど、貸してくれない?」
「え? う……うん……どうぞ」
「ありがとう、間違って一年の教科書持ってきちゃってさ……」
「……気にしないで」
「いや、助かったよ。……ありがとう」
その時間は、四時限。国語の、枕草子であったと思う。授業中に必要に応じて本に彼の視線を受容させる。たまに双眸が教科書ではなく咲自身を見た。
そのたびに胸の奥をちくりと針か何かに刺されたような錯覚を覚える。しかしそれと同時に、隣であるとはいえ今まで彼とは話した事もなかったからか、授業中にもかかわらず咲の心にはほんのりと心地よい驚きが広がっていった。
授業が終わればすぐに昼食の時間になる。そしてその時にも、おもむろに彼は咲に話しかけてきたのだ。
教科書ありがとうなどという入りから始まり、彼は咲自身のことを色々聞いて、逆に自らの事は聞いてもいないことを話し出した。
最初は冷えてぎこちなかった彼女の口も、彼という熱の存在でだんだんと油をさしたかのように回り始める。咲は寡黙な子で通っている、その少女が意外と饒舌であった事に驚いたのと同時に、あちらも本調子が出てきたのか、自分の会話の空気の中へと彼女を連れ込んだ。
あちらが押せばこちらが引いて聞き、こちらが前に出ればあちらはそれを真正面から抱きとめるために待ってくれる。まるで一対の歯車が動いているかのように、彼との会話の中で時間はいつもより早いペースをもって進むのであった。
――――そう、その日から咲の価値観が一変した。
家族以外の人と話すのが、これほどまでに楽しいとは。咲は、すぐさま姉に電話でその事を報告した。姉のほうも少し沈んでいた咲の様子が一変したとあってうれしそうではあったが、同時にその口調に少しの陰りが見えた。
咲はそれが姉の嫉妬と喜びの入り混じった微妙な感情が起こすものだと考えていたし、照自身でさえもそう思っていた。互いに姉妹離れができないという事をさんざん親にネタにされた二人は、経験から無意識にその話題をさける。
「じゃあ、咲……風邪なんかはひかないようにしろよ?」
「……お姉ちゃんがそういうと、必ずそういうことが起こるんだからね。勿論気をつけるけど、風邪引いたらお姉ちゃんの所為だよ?」
「はは、否定できないのが悲しいところだな。――――じゃあ、また電話してきな」
「うん、おやすみ。お姉ちゃん」
電話を切る、そして布団へともぐりこんだ。今日あった事を頭の中で、何度も何度も繰り返す。身をよじって、はにかんだ笑顔を枕に隠しそのまま眠りにつく。
――――あれ……やっぱり風邪でも引いているのかな……?
体が、熱い。風呂から出たからであろうか? 否、既に出てから結構な時間はたっているはず。……では、この体のうちからあふれ出る熱の正体とは一体なんなのだろう?
「――――まあ、風邪ぐらいなら寝て起きれば治っているよね?」
やがて睡魔に意識を持っていかれて、咲は安らかな寝息を立てる。
――――姉が出て行ってから久しぶりに、咲は夢も見ずに深く深く眠ることができた
咲は、過去を映し出している雲のスクリーンを見て、少し恥ずかしい気持ちになった。かつての自らを振り返る事以上に、恥ずかしい事は他にはない。
それでも、眼をそらさずに見ていたいという気持ちも咲の中にはあった。
雲のほうも一瞬画像がくすんだが、咲の心に呼応するかのように明度を取り戻し、やがて元の像よりも鮮明なそれになる。
制服の映る雲の中に再びのナレーションが映し出される。
――――このころの咲は、とても不安定なものであった。思春期という限りなくナイーブな時期に、いろいろな事が整理する暇もなくどっと押し寄せたのだ。自分が壊されなかっただけ良いと考えるべきかもしれない。
――――それを自覚したのは、いつだったであろうか?
字幕を見て咲は自問した、雲の答えは中学二年の中ごろを過ぎ、ちょうど期末テストが始まったころだった。
このころになると、他人行儀な面はどこかへときえ、良い友人として語り合えるようになっていたのだ。日を重ねるごとに、彼との会話の量が増えていくことを、咲は勿論京太郎ですらも自覚していた。
それは二人の距離がだんだんと近くなっている事を意味していたのだが、二人ともその感情が何を意味するかをまだわかってはいなかったのだ。
咲は、男とは怖いものであるという先入観を持っていたし、そもそもその先入観の所為で男にあまり話しかけない――――話すのはたいてい自分が話しかけられた時の数秒だけ、つまり男を理解しようとしなかったためにその先入観がはらわれる事もなかった。
そんな堂々巡りの中にいる咲とは逆に、女子と話しことも多々ある京太郎は彼女ほどにかたい考えを持ってはいない。ただ一つ、女性にはいろんな性質があると頭のどこかで考えているだけだ。
だが、京太郎の基準となる一般女性像というのが他の女子たちとグループを組み、かしましいというものであったため、真逆である咲の性質は京太郎にはなじみやすいという事も確かであった。
「ねえ、あの二人……」
「あらあ……意外ねー、愛想もなければ二人が合いそうもないと思っていたけど」
そんな事を言われているなどと知らぬは当人達だけ、だが逆にそれは皆が知っていたという事にもなる――――京太郎を好く女性がいなかったのは、これ以上のない幸運というほかないだろう。
その理由は至極簡単な事である、教室の中に京太郎よりも魅力を眩い光として放つ男子がいたからだ。
女子は当然そちらにかかりっきりで、さらに言えば咲はその男子に唯一目もくれなかった存在であるのだが、ともかく水面は平穏であった。

咲は、少し前とは打って変わって京太郎に近づき、積極的に話しかける。放課後や授業後などに、鞄を背負って帰るときも彼の背中を見つけてはこちらから近づいて話しかけた。
「――――宮永は、趣味とかあるのか?」
「本を読むこと、かな。須賀君は?」
「俺はともかく、…………本なー、俺も読もうと思っているんだけど手が出せないんだよ。何か読むのに易い本はないか?」
「……笑傲江湖とかはどうかな?」
我ながら、答えを間違ったと咲は思う。確かにその本は面白いが、内容的には少女ではなく少年が好みそうな物だ。
恐らく京太郎はかなりはまるだろうが、特に咲のような少女とは開きがあるので、もしかしたら京太郎が咲に対して変だという印象を抱くかも知れない。それ故に深くは話せなかった。
変だと思われたくない、嫌われたくない、彼のことを知りたいけれど自分のことはあまり知られたくない。そんな矛盾を、咲は日を追うごとに一つずつ心に溜めていった。
『何でかな……?』
きっと初めてできた男の友達だからだろう、あまり嫌われたくないのは……。珍しく暖かな日差しを受ける席で、咲はそう考える。
紐解きたいのに紐を解くのが怖い、まるでギリシア神話のパンドラになったようだ。
彼女の気持ちは、恐らく今の自分に似たところがあるのだろうと。開けてはいけないと分かっていても、時が自分を誘惑する。
しかし、パンドラとは違い答えを紐解くその間に、咲は京太郎とある少年の会話を聞いてしまう。
先の通り、京太郎よりも魅了のある少年がいるのならば逆に教室で一番嫌われている男もいる。そしてそいつは、まさにそれであった。
「おう、京太郎」
「薫か……」
嫌々ながらも答える彼、京太郎に話しかけたとあって、咲は反射的に彼を見た。あちらも何気なくこちらを向いたかと思うと、笑顔で手を肩の高さに上げる。それを見て、もう一人は不満そうな顔をした。
「なんだ? お前あいつと付き合っているのか?」
「……ちげえよ」
「はははっ……だろうな、あいつ根暗そうだし。お前だって、言われなきゃ近づきたくはないんだろ? ははっ、いやな役目を押し付けられたもんだな! 俺だったらごめんだね!」
「…………」
咲は沈黙の中で、冷めた。いや覚めた心地がした――――心のどこかで、そんな気はしていた。だが、実際に耳にすると胸になにやら、黒い煙のような感情が、しこりのような物ができる。
幸いにしてその男のなじりはこれ以上飛んでこなかったが、咲の心の中で癌のように転移していくそれの切除を試みる事も叶わぬままに時の流れはよどみによどんだ。
蜂蜜のように流動性の薄くなった時の流れが、しかしようやく下校を指し示したとき、咲は京太郎には何も言わずに、一人でひっそりと帰っていった。

「…………」
教室の中で、一人で帰る咲に気がつくものは数人ほどしかなかった。そのいずれも、咲の方を悲しげな様子で見ていた。それぞれ咲に抱く感情は別であったが、その場で泣き出さず、叫びもせず、誰にも助けも求めない咲に一種の哀れみと、強さとを感じていた。
その中の一人に、京太郎もいた。彼の方も思う所があったのか、目ざとく咲を見つけ出して、その鞄に手をかける。
「――――おい、咲!」
「…………」
鞄を掴まれて動きを止められても咲は答えない、ただ頭の中で考えをまわすだけだ。
――――なんと言う皮肉であろうか、そう思わずにはいられない。初めて苗字ではなく名前で呼ばれたのが、こんな黄昏のなかでとは。
「音鳥に言われた事は気にするなよ、俺は……」
彼の言葉が途切れる、俺はなんだというのか? 咲を聞きたくもあり、聞きたくなくもある彼女は、振り向いて笑顔を見せつぶやいた。
「ねえ、何でわたしに話しかけたの?」
「いやな、実は……先生やら何やらに頼み込まれたからさ」
咲は、悲しそうな笑顔で京太郎に痛みを与える。鈍感な彼ですら、その優しげな顔を見て胸に痛みを生じる。咲の双眸が彼を捕らえて、その場に縛り付けた。
「そう、なんだ……」
「でも! 俺はただ……」
「いいよ、もう……」
その一言が、時を夕闇に引きずり込んだ。人は神隠しにあったかのように、周りからいつの間にか消えていた。その事に驚いたのは京太郎だけだが、咲も京太郎とは違う所で驚いていた。二人の影が長く大きくなっていく中で、二人の間の空気が冷たくなっていく。
「私を見ていたのは、哀れみからだったんだね」
「――――違う!」
「じゃあ、……何?」
「上手くいえないけど、なんていうんだろう……でも、信じてくれ。――――頼む!」
「……………」
その問いに咲は、答えなかった。
背を向けて、夕日に向かいただ一言、バイバイといっただけで――――。

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