妻が、宥が死んだのは半年ほど前だった。

元々身体の弱った彼女は一年ほど前に突如倒れた。半年の闘病生活の末、彼女は静かに息を引き取った。

宥が息を引き取るその少し前、俺たちは夢を語った。宥が快復し、念願の子供を授かり親子三人で海岸沿いを歩こうと、夢物語に思いを馳せた。

奇跡など起きやしなかった。

当時の自分は思い返してもみても酷い状態だったと思う。ろくに食事も摂らず会社にも行かず、ただ自宅で無為に時間を消費するだけだった。

それでも1ヶ月を過ぎる頃には寄せられる光熱費の請求書や溜まった新聞から、そろそろ経済活動を行わないとならないと理解し仕事に復帰した。

自分に生きる意味があるのかわからないし、生きる目的も生き甲斐もない。

それでも、理由よりも、なにかをしていないと耐えられそうになかったから。

残業を押し付けられ、定時よりだいぶ遅くなった時間。俺は帰宅するべく繁華街を歩く。

自宅と職場を往復するだけの空洞の日々。

靴の踵がアスファルトを擦りながら歩を進める。心が瀕死でも前に進まねばならない。

立ち止まればまた倒れてしまう。

行き交う人々の合間。視界の隅にありえないものを見た。

背格好からして女。色素の薄い茶色の長い髪。厚く着込んだコートに腰まで届く桃色のマフラー。

京太郎「宥!?」

気付けば俺は走り出していた。すれ違う通行人が好奇の視線を向けるが気にも留めない。

女は路地を右折していく。俺は必死に追いすがり、その手を取った。

女は驚愕を貼り付けた顔で振り返る。俺はそこでようやく自分の馬鹿げた行為に気付く。

京太郎「あ、っと。すみません」

慌てて手を離し、ばつが悪そうに視線を逸らす。

京太郎「本当にすみません。つ、知人に似ていたもので」

言葉を続けようとして、続く言葉は相手の女性によって遮られた。

?「京太郎くん?」

京太郎「え?」

女は宥の妹。玄さんだった。


玄「でも、ホントに久し振りだね」

俺と玄さんは繁華街を並んで歩いていた。

成り行き、といえばその通りだが久し振りに知人に会ったことで少しだけ気分が昂っているのかもしれない。

京太郎「玄さんはどうして長野に?」

玄「和ちゃんに会いに。後は観光かな」

適当に相打ちを打ちつつ、先程から疑問に思っていることを口にする。

京太郎「玄さん、その格好……」

玄「これ? あはは、少しはおねーちゃんに見えるかな?」

寂しげに笑う玄さんに俺は否定も肯定もしなかった。姉の格好を真似ることで、その存在を身近に感じようとする。

それが玄さんなりの折り合いのつけ方なんだとそう思うことにした。

玄「せっかく会ったんだし、これからご飯なんてどうかな?」

手を打ち、そう提案する玄さんに思わず苦笑が漏れる。

京太郎「じゃあこの近くに会社の同僚に教えてもらった良い店があるんですが、そこへ行きますか?」

玄「それじゃあ案内お任せしようかな」

京太郎「はは、お任せあれ」

冗句と笑みが自然に出たのは何日振りだろうか。


玄「あー美味しかった」

ご満悦な様子の玄さん。だがその足元はいささか覚束ない。

京太郎「まったく、飲み過ぎですよ」

玄「そんなことないもーん……って、うわぁ!?」

転びそうになる玄さんの手を取り、引き寄せる。

京太郎「っと、ったくいくつですかあなたは」

玄「あはは、失敗失敗」

しっかりと立たせようとして、自然と両者の距離が詰まる。

一瞬だけ、宥の面影が重なった。

俺は無言で玄さんの手を離そうとする。だが、その手を玄さんは逃がさず腕を絡めながら身を寄せてきた。

見上げてくる瞳、その奥からは真意が読み取れない。

京太郎「玄さん、冗談は……」

玄「冗談じゃないことにする気、ない?」

俺は女性から迫られた事はほとんどない。いつだって俺から誰かを好きになり、言い寄り男女の関係の持っていった。

好きな女を追いかける、どこにでもいるような平均的な男だ。

宥が他界してからは、自宅と職場を往復するだけの日々。同僚も気を遣って俺を無理に誘おうとはしなかった。

下世話な話をすれば女の身体に飢えている状態だ。

もう一度、玄さんの顔を見詰める。先程とは違う冗談の成分を含まない真摯な瞳。

京太郎「ああ」

俺は女に恥をかかせたくない、という言い訳を選んだ。


玄さんの甘い唇に貪るように吸い付く。

自宅の寝室に、服を脱ぐのももどかしいと言わんばかりに縺れ合うように進む。男女一組分の衣服が床に散乱している。

白い肌に、黒の下着がよく映えておりより男の雄の部分を刺激する。

俺は玄さんを抱えるようにして、ベッドの上に押し倒す。

玄さんの腕が誘うようにシーツを撫でる。

玄「その、私、こういうの初めてだから……」

恥ずかしそうに告げるのへ、頷きながら俺は玄さんの上に覆いかぶさる。うなじに両腕が回される感触。

俺はそっと頬に触れそれから顎、首筋へ。さらに指先を降下させ乳房に触れる。

女の口から甘い吐息が漏れる。その唇を自身の唇で塞ぎながら、手は白い肌の上を這っていく。

シーツの上に広がる宥と同じ色の髪が目に入った。

同時に、脳裏に亡き妻との思い出が反芻する。

昂ぶっていた情欲が急激に冷めていく。

上体を起こそうとする俺に回された腕が抵抗するが、俺の背筋力に抗えずあっさり拘束が解かれる。

ベッドの縁に、両足を投げ出して座り込む。玄さんが俺に視線を向けてくるが俺はその顔を見れないでいた。

気付けば喉の奥から嗚咽が漏れていた。

京太郎「宥、ごめん…………玄さん……ごめん……」

不実の罪をただ謝り続ける。

京太郎「俺は、君に気にかけてもらえるような人間じゃない……」

ふわりと、優しく温かなもの包まれた。細くしなやかな指先が俺の髪を撫でる。

玄「京太郎くんは、今でもおねーちゃんのことを愛してるんだね」

その通りだった。俺は今でも宥を愛していた。愛していたのに、その面影を重ねられる相手を見つけ容易くそちらに走った自分自身が許せなかった。

玄「私もね? おねーちゃんが大好きだった。優しいおねーちゃんが、本当に大好きだった」

玄「だから、京太郎くんが苦しいのもわかるよ」

俺はそこでようやく玄さんの顔を見る。罪人を赦す、慈母の笑みを湛えていた。

玄「辛いのも苦しいのも、私が全部受け止めてあげる」

なお言い訳を募らせようとする俺の口を玄さんの唇が静かに塞ぐ。

玄「私は弱った男の人の心につけ込む悪い女。京太郎くんは悪くない。悪いのは私だけ、だから、ね?」

京太郎「そ、れは……玄さんが都合のいい女になるだけじゃないか」


玄「それでいいよ」

女は笑う。優しい笑みだった。

京太郎「なんで、そこまで」

玄「好きだから」

玄「ずっとずっと好きだった。だから京太郎くんがおねーちゃんと付き合うって聞いたとき、すごく悲しかった」

玄「けど大好きなおねーちゃんと大好きな京太郎くんが幸せならそれでいいやって思えたから、この気持ちはずっと秘めたままでいようって」

言葉もなかった。こんなにも俺を想っていてくれる人がいたことに。

玄「だからいつまでも辛そうな京太郎くんを見てられなかった」

冷静になった今だからわかる。

亡き姉の面影を持つ妹が姉を髣髴とさせる格好をして遠く離れた長野の繁華街をたまたま通りかかるなど、そんな偶然があるわけがない。

玄さんは俺に会いに来てくれたのだ。

玄「おねーちゃんの代わりでいいよ。代わりだと思って?」

京太郎「玄さん……」

その言葉は哀しい。あまりにも哀し過ぎた。何故なんの見返りも得られないとわかっていてなお、身も心も差し出せるのだろう。

俺は自分がどうするべきかわからなかった。宥への操を立てて拒絶するべきなのか。

それでも俺には助けが必要だった。思いを向ける相手が、浅ましい欲望を向ける女の熱い肌が。

弱い男と優しい女が互いに傷を舐めあうように肌を重ね合っていく。


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