梅雨を経て、樹木にかかる衣もその色を変え道行く人が夏の到来をしばしば感じられるようになったころ。
暦の上では夏至を少し過ぎ、七月に入ったばかりである。肌にかかる日差しはいまだにその輝きを極致にまで高めてはおらず、時折鉛色の雲と制空権を争っていた。
――――ただ、心地よい風は確実に空の上から、地上にゆっくりと降りていた。ふと外に耳を向ければ、昨今の気象の移り変わりによって気の早くなったセミが鳴いている。
本来まだ土の中にいる伴侶たちは、その声を聞きいっそ滑稽に思っている事だろうか、それとも自らも早く外に出なければいけないと成長を推し進めているのだろうか。
ともかく、彼らは――――宮永咲と、須賀京太郎はその声を部室の外にあるバルコニーのような場所で聞いていた。互いに互いを凝視し、その顔は二人とも真剣そのもの。
余人の入れる隙間など、どこにも無い。
――――清澄高校、麻雀部。部員のほとんどが女子であるその部にも、今新たな風が吹き始めている。
先日の県予選を乗り越えた戦士たちは、新たに修行を始めるもの、休息をとるもの。
そして――――何かの計画を練るもの、まさにこの二人がそれであった。
ごそごそとポケットをまさぐり、京太郎の制服からメモ帳のような紙が出てくる。
ところどころに走り書きのあるそれを彼はこっそりと咲に渡す。――――小さく、機密と書かれていた。
京太郎は、再び周りに気を配りながら、口を開く。
「――――というわけで、だ。……咲。七夕に遊びに行くぞ」
「う……うん!」
力強く頷く彼女の顔を、薄い影が横切った。二人を見下ろすパラソルの端が、風で少し靡いたのだ。彼らはテーブルを挟むようにして、日差しからその身をパラソルで守られている。
逆に言えば、それが無ければ日一日と強くなっていく日差しから身を守るものは何もないが、ともかくそのバルコニーの隅で、周りに聞こえないように神経を尖らせながらしかし咲には柔らかな口調で京太郎は言った。
傍から見れば年相応のカップルがよくやっている事、やましい事は何もしてはいないが、県予選を勝ち抜いたという事実は、即ち全国区への強敵を相手にするということと同義である。
この時になって二人が付き合っていると明かすというのは時期的に非常にまずい、周りの雰囲気に沿わず浮かれているとみなされるからだ。
そしてさらにまずい事に、咲はこの部の中でも切り札となる存在だ。
例え浮かれていると見なされなくとも、何らかの形で彼女の集中を遮ってしまうのは部の総意としてまずい――――結局これは許されないのではないかとの後ろめたさから、いまだに彼は人に言えずにいた。
勿論、咲もそれは同様である。親友の原村和にさえ、それを話すことはできなかった。二人は、いわば二重の罪悪感に苦しんでいたともいえる。
ただし、県大会の後に場所をセッティングしてくれた部長には、どうあがいても「何も無かった」という嘘はつけない
――――というよりついても無駄だというほうが正確だろうか、下手に言い訳をしなくとも何をされるか分からないのに、もしそこで下手に言い訳をすれば、咲と二人で白刃の上を裸足で歩くような危険を払わねばならない。
それならば、最初に言っておいてから堅く口止めをしておくのがよいだろうと彼は考えた。部長自身は先刻の理由から、部室内の雰囲気が悪くならないように配慮をして話さないでいてくれるといったが、少々気が揉むと言うか……。
――――いや、本当のことを言おう、部長の口の軽さは信用できない、その内に……。
「ねえ、奥さん。知っている? 須賀君と宮永さんって付き合っているのよ」
というノリで話すとも限らない、この場合の奥さんが誰でも、こちらにとっては何もかわりはない。部長は何故か自分が知っていて人が知らないような事を嬉々として話す癖がある。
心の奥底で優越感でも感じているのであろうか? いや、何もそんなに難しく考える必要は無い。おそらくは、井戸端会議と同じようなものだろう。
あの部長には、咲の三割いや一割でよいから、もう少し口を堅くしてほしいものだと。
そこまで考えて、はたとそれを閉じた。彼は人のマイナス面しか考えられない自身を辟易したのだ。
――――何もそんな邪推をせずに、人の好意は素直に受け取って置けばよいのに。京太郎、お前はそんなに度量の狭い男だったのか?

「……くすっ」
ふとどこからか聞こえた女性の声、その声のするほうを二人が向くと部長が意地悪い笑いを表情に現していた。
既に半分疑心暗鬼になっている京太郎は、それがこちらに向けたものなのか、それとも卓に向けたものなのか分からない。
ともかく、いよいよ肝を冷やした京太郎は、いろいろな感情をこめて咲に視線を戻す。だが、彼の頬と背中には既に嫌な汗が数筋流れ始めていた。
「ごめんな……咲」
咲は京太郎がそんな事を考えていたとは知る由も無い、故に今口をついた「ごめんな」――――を考えうる最悪の意味に捉えてしまう。
おもちゃを取り上げられた子供のような顔を一瞬京太郎に向けたが、彼は首を横に振る。
「お前は俺より背負っているものが多すぎるんだ、俺がその一つでも変わってやれたら」
「あ……そっち?」
「? そっち以外に何がある」
「あ……あはは、てっきり」
てっきり、デートも関係も中断されるのかと思ったなどとは、いえない咲である。
彼女の顔に、朱が注がれる。自覚したそれを隠すように、暑そうなそぶりをした。はたして心配になった京太郎はすぐに彼女と共に部室に戻った。
彼には、暑さで顔が赤くなったとしか考えられないはずだ。
咲は部屋に入った後に、先ほどの京太郎に習うようにして、ちらりと卓で打っている四人の方を見た。
現在一位は部長で、ついで原村、優希とその後を追っている。主に餌となっているのは染め手を主にして捨て牌が限られてくるまこだ。
三人が三人、まこの待っている牌にあたりをつけ、暗刻や順子でそれをとめていた。
「ぐぬぬぬぬ……」
先ほどからそんな音と共に、彼女は湯気を発している。
この順位では降りるという選択肢は避けたいが、それゆえに原村から絞り殺されやすい。
咲は、同じような光景を県大会大将戦で見たことがあるのを思い出す。現在は、東三局らしい。
「いっその事、染め手……止めたら?」
部長が、ニヤニヤと言い放つ。染谷はさらに苦い顔をして見せる。
「――――言ってんさい」
「あ、染谷先輩、それロンだじょ。……えーと、12000だじょ!」
「――――ぬがああああ! もうやめじゃ! もう駄目じゃ! やってられんわ!」
ついにハコになった彼女は、一度抜ける。
冷却のために飲み物を買いに部室から出て行った彼女を三人は横目で見たが、すぐにこちらにそれを向ける。
そのタイミングが同時というしか無かったので、驚いた咲は短い悲鳴を上げて京太郎の陰に隠れるように、それから逃れようとした。
――――が無情というほかない、当然のように咲に代わりが求められた。とはいえ、咲としては今京太郎と計画を育てる時間のほうが大切だ。
ようやく待ち合わせ場所と、時間を決めたところでそんな事を言われてもというのが彼女の心の中にある異論。……とはいえ、部長に態度が不真面目だといわれても困る。
仕方なく咲は卓につこうとする。

――――京ちゃ~……ん。
去り際の彼女の眼がそういっている気がしたので、京太郎は彼女の左手を掴み――――行くな、と目配せをした。
「ああ、犬は弱いから駄目だじょ」
「ぐっ……」
とはいえ彼の部室内での地位は低い、咲を止めようとしていた京太郎に、言葉の槍がつき刺さった。一瞬ひるんだ彼ではあったが、再び建て直し口を開こうとする。
「ごめんね須賀君、今は全国に向けての調整なの」
――――が、機先を制される。彼にとって、これは非常に効いた言葉であった。
部長の持っている情報量、タイミング、笑顔、言動とどれをとっても抗える気がしなかった京太郎がついにフリーズしたのを見て、咲は仕方なく席に着いた。
「お願いします」
「負けないじぇ!」
「ふふふ……」
三者三様に咲に挨拶を述べる、咲は一つこくりと頷いた後に、サイコロを振った。
集中せねばならないと考えつつも、咲の頭の中は既にそんな事ができる状態ではない。
早く彼との会話に花を咲かせたい一心で、故に本気など出せるわけが無い。
配牌時の癖の違いからそれに気がつくもの、最初から知っている二人の関係を頼りになんとなく察しているもの、特に興味も無く何も考えていないもの。
しかしそれらの視線は一様に咲の残した結果にそそがれることとなった。
結論から言えば、咲の順位は三位。当然、それだけを見ればたいしたことではない。
しかしながら、彼女の点数は最初の持ち点に300を足したもの――――±0だった。すぐに、原村が立ち上がって、咲に怒りを向ける。
「宮永さん!」
しかし、その後に続く言葉が出てこない。逆に、咲の弁護をするのはこれ以上なく簡単な事だとだれであろう検事の娘である原村は考えた。
――――例えば、退部をしてくださいと言っても、全国戦が近づいている今になってそれが通るわけがない、人数の問題だ。
また、私との約束を破ったのですかといっても、今の咲はどこか意識が遠くに飛んでいるような印象を受ける、万が一彼女が何かの病気だったとしたら、それに追い討ちをかけた自らに対する評価が一気に下落するだろう。
知己を得る難しさを分かっている彼女に、今ここで踏み込む勇気は存在しない。
そんな腹のうちを見せることなく、原村は微笑を咲に返した。一瞬の間に対極の感情を揺らした原村を咲は見たが、よくも悪くも深くは考えずに視線をずらす他にする事はなかった。
逆にそんな咲を見て、それほどに重症なのだと、ずれた考えを原村はする。
「――――今回は私の勝ちですね」
あえて原村はそう付け加えたが、よくよく咲を見ると先ほどまで自分を見ていた視線はあらぬ方向を向いている、それを追うようにつつ、と顔を動かすとなにやら赤いものが二つ目の端に映った。
それに呼応するかのように、ひょこりという擬音をつれて長い金髪をした女の子が姿を現した。
ランドセルを背負っていても特に違和感はない風貌をしているが、誰であろう全国区の魑魅魍魎の一人である、天江衣だ。
――――どうやら、ほかの龍紋渕メンバーはいないらしく、ここに来たのは彼女の気まぐれらしい。
「ノノカはいるかー?」
「え? ええ……」
あまりの事に一瞬面を食らった彼女らではあったが、衣は気にせずに挨拶を続ける。
口調や声色は嬉々とした女性……女子のそれで、そこに魔物の影は見る影も無い。
だが……それは、紛れもなく魔物なのだと、そこに居る者はみな覚えていた。
「咲! 衣だぞ! 恙ないか?」
「う、うん。こんにちは……」
その衣も、ついに咲の点数を見る。同時に、首をかしげた。金の長い髪が衣の顔を罰の悪そうな態度で横切っていく。
だがそれには眼を向けることなく、衣は咲の顔をまじまじと見た。
「――――どうかしたのか?」
「……なんでもないよ?」
なんでもないわけが無い、衣は何かの病であるのかと聞いたが、咲の返事は濁りに浸したものばかりで妙にすっきりしない。衣の記憶には、他人がこのような態度になった前例が無い。
よって何をどうすればよいのかもまったく分からないのだが、仮にも年上としてのプライドがある。
必死で、何か自身にできる事はないかと考え始めた。

「食事はちゃんとしているか?」
「うん」
「睡眠はよくとっているのか?」
「うん」
「お通じは滞りないか?」
「………ない」
「では何だ? 奇怪千万――――衣はどうしたらいい?」
別にどうもしないでほしいというのが本音だが、そんな事をこの輝いた目に言うわけにはいかない。
当然、返答に窮する咲に衣はさらに追い討ちをかける。
「そうだ! 咲! 衣のうちに来い! 透華たちがきっとどうにかしてくれる!」
「え……? ええっ……!」
言葉が終わるやいなや、衣は咲の手を掴んで引き寄せた。咲よりも衣のほうが背が低い、その低いほうに流れる力が、咲の体をつんのめらせる。
一度どころか三度転びそうになったが、横から伸びていた手がそれをことごとく支える。――――男の手だ。
「ちょ、ちょっと待て!」
京太郎が、急いで衣の手を止める。力だけに着目し、小学生にしか見えない女子と成長期真っ只中である体格のよい男子と比べれば結果は火を見るより明らかなのだが、ここで天江の内なる魔物が首を擡げた。
京太郎の命運が尽きるとは言わないが、それに大きな皹が入ったことは確かである。
「有象無象が邪魔をするか……それともお前は衣の莫逆の友となるのか?」
「―――――」
彼女の眼に強い光が生まれた、その威圧から逃げるようにして窓を見れば、いまだ日は空の高い位置に光をともして制空権を誇示している。夜は、まだ遠いはず。
――――なのにこの女子から出る威圧は、既に尋常なものではない。
閉じた口の奥で、歯のカチカチとなる音が京太郎の骨に響いていたなど、誰が知りえようか。
答えが喉か胸か腹かに突っかかっていると見るや、衣は京太郎を鼻で笑い、背を向ける。
「行くぞ、咲」
「――――京ちゃん!」
衣は京太郎を一瞥する事も無く、そのまま連れ去っていった。彼が咲を掴んでいた手はとうに空中に放り出され、かかる力が減少すると共にゆっくりと降りていく。それが足に触れた時には、既に彼女らの姿は影も形も無く、ただ遠くで車の走り去る音が耳に喪失感を残していた。
時計の進む音だけが響く中、しばらくは誰も言葉を発せなかった。
それでも、数刻後に口を開く者はいる。――――部長である、久だ。
「ねえ、知っている?」
聞きなれたその枕詞に、京太郎は頭をうなだれた。
――――今この状況で、何を暢気な……。そう思わずにはいられない、同時に自分の無力さという名の苦い思いが全身に回っていく。
「江という字には川という意味もあるらしいわよ、だから天江っていうあの子は天の川の化身なのかもしれないわね」
つまり、少しの差異はあれど、その光景は紛れも無くある逸話――――咲と言う織姫が、京太郎という彦星と、天江と言う天の川に遮られて引き離されたことを示していると、部長久は言っているのだ。
後に考えてみれば、勘の鋭い輩がその意を汲み取りここで何らかの動きがあっておかしくはなかったのだが、誰も動かなかったのは激流に混じった一筋の幸運というほかない。
とはいえ、周りも多かれ少なかれ動揺と放心をごちゃ混ぜにしたような状態なので、何か言っても気がつかないだろう。
――――部長は、一人苦笑いを呈した。

「あ、あのっ……私全国への調整を……」
「衣もとーかもいるだろう、強者に事欠く事はない故、安心するがいい!」
確かにその通りだと思いながら、それでも衣を迎えに来た車の中で、咲は抗っていた。
とはいえ、県大会決勝戦のあの時とは違う、麻雀の腕ならば咲にも自信があるが、話術ではこの支配。
この運命を乗り切れそうには無い。あれこれと話していくうちについに車は太陽の眼から逃れた、――――夜が来たのだ。
月は三日月、ただ雲がそれにかかっているために眼にはぼんやりとした光としか判別できない。それでも、夜を支配するべき存在であった事は確かだった。
隣にいた衣の雰囲気が、少しずつあの日に戻っていくのを感じられたからだ。
「咲、一段落着いたら、また麻雀を打とう」
「…………」
その言葉には答えられず、思考は空へと漂わせる。眼に浮かぶのは、あの人の笑顔。口から漏れるのは、消え入りそうな溜息。
どうしてこうなってしまったのか?
――――車は、やがて大きな屋敷の中へと入る。
駐車場へととまり、衣は咲を連れて降りた。それを待っていたというように、数人の執事やメイドが列を成して、いっせいに頭を下げる。
「お帰りなさいませ、衣様」
その中には、龍紋渕四天王の姿もあり、既にこちらに気がついているようだ。下げた頭からでも分かるほどに訝しげな表情と雰囲気とを向けているとあって、咲は少々居心地が悪くなった。
「咲に部屋と着替えを」
そんな彼女の気を紛らわせようと、衣は彼女を部屋に押し込む。彼女に言われるままに制服をクローゼットの中にしまった咲は、一人用とは到底思えないような大きさのベッドに腰を置く。
どうやら衣は、寝相が悪いらしく一人用のベッドでは転げ落ちてしまうそうだ。
やがて、少し時間がたった後に、部屋に龍紋渕のメンバーがぞろぞろと入ってきた。
入ってきたのも口を開くのも、先頭は龍紋渕透華だ。
「――――衣、いったい何をしてやがりましたの?」
「とーか、大変なんだ。咲の病状が分からない」
答えのようで答えではない、その逆問いに透華の眉間にまた一つ新たな地層が生成された。
――――ああ、いよいよ大事になってきたと、咲は感じていた。
しかし、この状況で自分が何をすればよいのか、まだ彼女自身つかめていない。
何しろ、彼女の予想をことごとく超えたところにある現実。それをまだ彼女自身一部受容できていないのだ。
「貴方、いったい何を……」
「あ……あの……」
それでもなんとか、咲は透華にこちらに来るように促す。仮にもお嬢様である自分が動かされるとあって彼女は少しむっとしたが、それでもしぶしぶと咲の近くに来る。
そしてここまでのいきさつを掻い摘んで説明した。
しかし、大切なところ――――自分と京太郎の関係については恥ずかしいからいわないのは彼女の中で当然として、
それに繋がりそうな所も大きく省略してしまったために、 結局龍紋渕メンバーの中では、咲の何らかの病気を衣が見かねてここにつれてきた
――――という事になってしまっている。
「なるほど、確かに仮にも私たちに勝った高校がそこらの……」
「『仮にも』だって、とーかは意地っ張りだね」
「う、うるさいですわっ! はじめ! 貴方も原因か解決法を考えなさい!」
リボンを頭につけ、なぜか女性の声とは程遠いだみ声で話す彼女に違和感の塊を見つけたが、それについて考える前に咲はふと、耳の中に短い笑い声が入ってきた気がした。
きょろきょろと首を振ると、小さいパソコンを持ちながら椅子に掛け、そのレンズの奥から黒を称えた瞳にこちらを映している髪の長い女性と眼が合う。
ぱたりとパソコンを閉じた彼女は、右手と共にそれを膝の上に置いた。
モナリザを思わせる佇まいをかもし出しているその女性は、しかしその中に得体の知れない色を隠し持っている。
――――部長とは違う、天江とも誰とも重ならない底の知れない笑顔がそこにはあった。そしてその彼女が、ポツリと言い放つ。
「赤面、溜息、上の空……恋わずらい……」
どきりと、咲の心臓が一度大きく鳴り響いた。表面上は平静を繕っているが、既に龍紋渕メンバーには通じはしない。
彼女らも咲の反応で、それがすぐに真実と悟る。
咲はさらに動悸をまして、ついに顔を両手で覆ってしまう。その光景からもはや咲からは何も出ないと悟った彼女らは、一様に視線を移した。

「……恋わずらいですって?」
「……そう。宮永さんのポケットから、こんな紙を見つけた。……読ませてもらった結果、何者にも簡単に全てが解ける」
機密と書かれたその紙片を見るなり、咲はポケットをまさぐる――――だが、今彼女が着ている服は衣から借りた龍紋渕家のものだ、既に制服は手の届かないところにある。
――――返して。そう言おうともしたが、音が出るどころか、むしろ彼女の意思に反して息を短く吸ってしまっている。羞恥の極限にいた彼女の背中を、一がさすってあげた。
「服といえば……この紙にある計画には足りないものがいくつかある……例えばこれを見る限り彼女たちは七夕に開催されるお祭りに行くみたい、
でも宮永さんの家のクローゼットの中にはそんな服はない。たいていが女の子らしい洋服……」
「――――なるほどね、ともきーは浴衣をどうにかさせたいって事みたい」
やはり喉を痛めているとしか思えないはじめの補足を聞きながら咲は考える、いったいこの女性は何者か。
部長やその他の噂から情報のエキスパートとは言われていることは知っている――――知ってはいるが、他人の家のクローゼットの中身まで網羅しているとは、既に一般人の力の及ぶところではない。
ここまで人間離れした情報収集力を目の当たりにすると、自分の疑問にこの女性が全て答えられるような錯覚を覚える。
「……?」
透華と向き合っていた沢村智紀が再び、意味ありげな笑顔を向けて、咲のほうに視線を移す。
彼女の驚いたような色と、恥ずかしさに悶えた色がありありと見える顔を見て、一度メガネの位置を直した。
「衣の、遊び相手をしてくれたら……透華がお給料で浴衣を買ってくれる……」
「ちょ、ちょっと! 私はまだここで働いてもらうとは、……いっておりませんわ!」
智紀は、嘆息を漏らした。しかしそれをしたのは、何も彼女だけではない。
――――嫌な話の流れだな、智紀がこの場の空気を支配してやがる。一体なんだってんだ?
と、先ほどまで部屋の中にいたが、口は物を食べる事に使っていた背の高い女性――――井上純が香ばしい匂いと共に言葉を吐く。
「なあ、さっきから思っていたんだけどさ。何でお前はそこまで清澄に肩入れするんだ?」
その核心をついた疑問に対して、智紀は少しばかり考える――――が、特に疑問に対しての答えを考えているようには見えない。ますます井上は訝った。
「…………」
「? どうした?」
「純……おとといの事、覚えている?」
純が、戦慄する。背筋が真一文字に伸びたかと思うと、一言詫びを入れそのまま頭をたれて以後何も話さなくなった。
勿論透華も追求はするが、そのたびに智紀に彼女自身の過去を話しかけられて口をつぐむ。
恥をいくつも見せものにされたうえにその傷に塩を塗られたとあって、ついに目立ちたがりの口が、力なく閉められた。
「ともきー……」
見かねたはじめ、特に握られる過去もない衣は話の流れを変えようとする、しかし智紀は透華に詰め寄り咲を働かせるよう促した。
「こ……ここで働かせてください!」
どこぞのアニメ映画のように、咲は声を張り上げた。衣のねだるような視線も突き刺さり、顔を大きくひくつかせた後に、透華はついに折れる。
「わ……分かりましたわ……」
言質と言う鬼の首。否、龍の珠をとったかのように智紀は薄い笑顔を咲に向けた。
だが、咲にもなぜ彼女がここまで良くしてくれるのかがよく分からない。
自分に何か頼みたい事でもあるのだろうか? それならば何故ここでそれを言わないのか?
疑問が新たな疑問を生み出し、彼女は自問の鎖にとらわれる。
「…………」
「衣? どうかなさいましたの?」
「恋わずらい……ということはやっぱり相手がいるということだよね」
「え? それは、まあ……そうですわね?」
咲は、こくりと頷く。
「智紀、一体その相手は誰だ。まさか、まさか――――」
名前で言っても分からないと思った智紀は、京太郎を形容すると共に、簡潔にまとめる。
「……衣が、今日麻雀部室内で脅かした男の子」
「!」
やはり、という顔を衣はした。
――――何故それを知っている、あの女性に対して何回それを思ったかは知れない。だがこれは、さすがに耳が早すぎる。
何故に、何故にそこにいたかのように詳細に説明ができるのか。咲はそこまで考えると、以後彼女に関しては何にも驚かなくなった。
というより、諦めたというのが正しいだろう。

「…………」
「衣?」
咲の視線も興味も、智紀から衣に移る。――――彼女は、今何を考えているのであろうか。暗い面持ちでうなだれているその頭が、妙に寂しさを誘う。
もしや、彼女は今――――。
「すまない、咲。衣は大切な人と別れさせられる悲しみを知っている、知っているはずなのに、お前たちを引き裂いてしまった。
懇ろであった仲を引き裂くのは、……好ましくはない」
最後の二言は、消え入りそうなものであった。
「……うん」
「とーか、頼む。咲に、浴衣を買ってはくれないだろうか」
「まあ……そこまで言うのでしたら、安物でよいなら買ってあげないこともないですわ」
衣の顔に、春風が吹いた。暖かい笑顔を満面に散らしたその玉女は、再び天真爛漫な性格へと戻る。
「うむ、爾今は咲の為に全力を尽くすとしようぞ」
「じゃあ、勤務体系を決める前に、貴方の家に電話を入れてきなさい」
透華の言葉と共に、放り投げられた携帯で、咲はうちへと電話を入れた。友達のうちに泊まるというと、父親は心配そうな声で了承を伝える。
「京太郎君の家にいるのか?」
奥手とはいえ、咲も高校生である。年頃の男の家に泊まるというのがどのような意味を持つのか分からないわけがあるまい。
故に、彼女の顔に紅潮が満ち、声に少々の上ずりが見え始めた。そこに、父親は三度突っかかる。
「まさか、京太郎君じゃない男の家か? ……いかんな、浮ついた気持ちには感心できんぞ」
親にも、自分たちが付き合っている事は話していない。なのに今ここでそれに触れられるとは、咲自身思いもしなかった。
さすがに親をなめていたかと思いつつも、そういえば中学のころから父は京太郎に目を掛けていた気がすると、一人で納得をする。
「咲? 京太郎君と付き合っている事は知っているんだ、お前の彼を見る目や語る口調が、妙に色気を帯びてきたからな。
――――しかし、その気持ちを裏切り不義を働くのは親として……」
「ち、違うよ男の子じゃあない! ……ちょっと待って、今かわるから」
――――とはいえ、さて誰に代わればよいものか。

井上純と国広一は、名前だけ見れば男の子に間違えられそうだ。
純のほうは声が女性にしては低く、一に関しては風邪で喉が少しつぶれている。
透華が言うには、「あんな露出度の高い私服を着ていれば、体が冷えるのは当たり前ですわ!」との事だが、
はたして今の父親に少しでも男の疑念を植えつけてしまったら、すぐに帰って来いとでも言うに決まっている。
となれば、ここでもっともまともそうな一という安全牌が消えてしまう事になる。
「じゃあ、龍紋渕透……」
できるだけ智紀には渡したくないと、なんとなくだが感じる咲は、そのまま手渡そうとする。しかしそれを、衣がひったくった。
「もしもし? 咲? 咲~?」
「あ……あの……」
衣は、電話を受ける事に、慣れてはいない。
しかも、彼女自身久しぶりに触れる父親という存在に対し、はるか昔に失った彼女の中の偶像が頭を擡げ、声が喉で止まってしまう。
「衣……衣は…」
「え? 子供?」
「子供じゃない! 衣だ! 衣は咲より年上なんだぞ!」
ぷん! という擬音が間違いなく全員に見えていたことだろう。
だがその声と共に、衣のせき止められたものも一気に吹き出てきた。
先ほどの態度を裏返し、はにかんだ顔を恥ずかしそうに浮かべている。
「おや、咲の友達かな?」
「うむ! 莫逆の友だ!」
「本当に女の子だったんだねー」
見る見るうちに会話の中から芽が出て、やがて大輪を咲かす。
衣が咲の父親と話があうとは咲自身も意外に思っていたが、既に衣はあの怪物の天江ではなく単なる甘えっ子と化しているため、咲もそうそう無粋な口を出せない。
時たま難解な言葉も混じっていたが、辞書兼翻訳係の智紀がそれを咲にそつなく説明する。
父にはその意を伝える事ができないが、咲が本を読み始めたのは父親の影響だ、故に彼にも衣の言葉が分かっているに違いない。
「――――そうか、これからも咲と仲良くしてくれるとありがたいな」
「うん、任せて!」
「じゃあ、他の皆に挨拶できないが、よろしく言っておいてくれるかい?」
「わかった!」
そこで、電話を切る。智紀と透華がそれぞれに含みのある表情を天井に向けた。
互いに電話を取りたかったという気持ちと、衣が笑顔になってよかったという気持ちが混在し、はたしてもう一人のそれらを確認すると、顔を見合わせてすぐに破顔した。
メンバーがそれぞれの部屋に戻った後咲は、衣と共に、自分の部屋のそれとは違う、なれていないベッドの柔らかさに興奮しながらも、次第にその眠気に負けてやがて意識を手放した。
夢の中、峻厳な山の空気を身に纏い凛と咲き誇る白い花畑の真ん中で、京太郎と咲は笑顔で涙を流しながら手をつないで歌いあう。
涙のしずくが、やがて花畑を青白い光で包んでいった。不思議と悲しくは無かったが、何故か涙は止まらなかった。

次の日から、咲の生活スケジュールに大きな変化が起こった。
学校が終わるとすぐに、どこからか駆けつけた衣につれられて何処かへと消えていく。
携帯に電話をしてもメールをしても沙汰はなく、部室から大きな光が一つ消えてしまったかのような温度差が、彼らを襲う。
「――――見事に腐っているわね」
「キノコとか生えそうだじぇ」
「…………一人ならまだしものー、二人じゃからのー」
卓にいる、最後の一人を視界に映した。京太郎とは別のベクトルに、原村和も沈んでいる。
先ほどから彼女は、フリテンはおろか少牌もしている。完全にのどっちとしての力は影を潜めており、闇から抜け出せない。
――――ふふ、神話の牽牛……彦星も今の須賀君と同じような感じで腐っていたのかしらね?
まったく、仕事をしなかったから別れさせたのに、彼の今の様子からすると、これじゃあ彦星も働くどころか一年間腐っているに違いないわ。
とはいえ、ここで腐ってもらっても困るのもまた事実。
ここは心を鬼にして、ガツンと言わないといけないと、どこからが受信した責任感がそうさせる。
「須賀君ー? 腐るのはいいけど掃除が大変だから、どこか他の場所でやってくれないかしらー? 正直邪魔よー?」
「――――鬼じゃの」
「……鬼だじぇ」
「…………」
「須賀君?」
「……わかりました」
反論する事もなく、彼は暗い部室の隅から眼に刺さる光の下へと出て行く。
京太郎は部室のバルコニーから、やがて太陽を仰いだ。耳に、波の音が聞こえてきたのは彼の気のせいではない。
心に漣が立ち、心自体をまるで砂浜を浚うかのようにサラサラと削っていく。京太郎は、荒れていた。
「嫌味なほどに強い日差しだな……こっちはこんなに暗く沈んでいるっつうのに」
――――咲は今、何をしているのだろうか。七夕は、すぐそこまで迫っている。
もしかしたら、自分たちの仲はあのときに終わってしまったのだろうか?
七夕には、彼女は来ないのではなかろうか?
「咲……咲ぃ……」
――――だが、心の中に何度疑心暗鬼が広がろうと、そのたびに彼はそれを抑え、彼女を信じた。
彼が貫き通したそこに、今回の一件の成功の要が存在した事や、そもそも彼がこんな悲壮と戦っている事など、彼女はまだ知る由もない。
ただし織姫のほうも、彦星とはなれて辛い思いをしているという事は間違いないのだ。
ただ、織姫のほうは彦星と違って働いているだけの事――――文字通り、龍紋渕邸宅にて咲は誠心誠意働いていた。
携帯を取り上げられ、満足に京太郎と話ができない事を心の中で嘆きながらも、幾筋の支流が本流に流れるようにその努力の全てが七夕にむけて収束を進めていた。
その川が流れ着くのはどの海か、知る者はいない。
さて、彼が少しだけ身に溜まる鬱憤を沈め、再び立ち上がったその時に咲からのメールが来た事は、果たして僥倖というべきか?
――――京ちゃん、ごめんね。
そんなタイトルに、京太郎は鉄槌を食らったような衝撃を受ける。
奇しくも先日京太郎自信がその台詞を放ったとき、咲がどう受け取ったかを今ここで知る事となるのだが、彼の驚きはことさら尋常ではない。
「どういうことだよ!」
――――京ちゃん、ごめんね。私も連絡を取ろうと思ったんだけれど、天江衣がいると、電子機器が高い確率で破壊されるって沢村智紀さんが……。
結局龍紋渕透華さんにとられちゃって、だからこのメールは私が伝えたものをそのまま送ってもらっているんだ。
そっちの事は沢村さんに聞いてよく分かっているから安心してね。京ちゃん、元気出して!
「……はあ、よかった……」
咲が直接打ってくれたものではないのだと、少しばかり京太郎は落ち込んでしまったのだが、それでも逆にそれほどまでに自分を思ってくれていたのだと、やがて奮起をした。
メールの後半にはつらつらと、今の咲自身の境遇や七夕の計画について少しの補足がかかれてあった。
彼女のそれは自らが考案したものの穴を見事に埋め、懸念していた事柄もなくなっている。
「予想される人数密度……なるほど、そんな場所があるなら待ち合わせはそこだな。
おおー、湿度や温度ばかりか……七月七日は――――晴れか。天気まで断言するとは……やるじゃないか」
とはいえ、自身の知る咲は自分と離れてあわただしいであろうこのときにこんな情報を集める事はもとより、これほど論理的に考えられるわけがない
――――明らかに咲以外の意思が入っている。

「とはいえ……敵では無さそうだな」
京太郎は溜息と共に魂の一部をも口から吐く、全身の力の抜けた彼を、やさしく後ろから風が抱きしめた。
熱を持った体を心地よく吹き抜けるそれは、彼女の温もりとどこか似たものがあり、肩に入っていた力が散ずるのを彼は感じた。
それと共に、頭は少しずつさえてくる。
「……敵って何だよ?」
眼を閉じて考えても、間違いなく裏でこの糸を引いているのは龍紋渕の何某かだと結論付ける事ができる。
――――しかし、今龍紋渕がこのようにして何か得でもあるだろうか? せいぜい咲の心を乱して自分たちを早々に敗退させるしか、こちらにとって不利益なものは考えられない。
しかしそれでは、龍紋渕の格も落ちる。ただでさえ無名の学校に負けたと大々的に言われているのに、その無名が早々に敗退すれば龍紋渕部長のあの目立ちたがりの負けず嫌いが我慢できるはずがない。
さらに考えを深くしてみるものの、それ以外は皆自らにとって益あって害はない。しかし、敵は益をもたらすものではない。
極論で言えば、敵など今は存在しない。あの口の軽い部長でさえ、味方という側面が必ずどこかにある。
ただ――――今は何とか黙っていてくれているが、爆弾を懐にしまっているようなものだ。火力さえ間違わなければ大丈夫だが……。
「――――ふむ」
京太郎は、文面をさらに下に移動させる。そこにはいくつかの添付ファイルが置かれていた。その下にさらにひっそりと一文が書かれている。
――――これを差し上げます、ですからどうかこの文面の通りに清澄の部長に進言をお願いいたします。
文面には人の性が少なからず出るという話を、いつかどこかで聞いたことはあるが、そんなものは眉唾物だと思っていた京太郎にとって、その閃きはまさしく符合が弾けるといった言葉がこの上なく似合うものだった。
「――――あの、メガネの女か!」
京太郎の知る龍紋渕は五人、長身は女性としての恥じらいよりは漢と言う言葉が似合う気概気質であるし、金髪二人は片や高飛車、片や絶滅危惧的な言葉を多用する。
ともかくどちらも己がベクトルを突き進んでいるためこんな文は書きそうにない、残りは二人。
勿論、龍紋渕メンバー以外の人物が書いたという可能性もないわけではないが、逆に他校の情勢にここまで詳しく入り込んでいる執事やメイドと言うのも現実的では無さそうだ。
この文には少し物腰のかたい、感情をあまり表に出さないような一種の無機質さが漂っている。二人のうちどちらがそうだったかと県予選を思い出すと、明らかに沢村智紀のほうを彼自身の頭が推していた。
「まさかハギヨシさん…………じゃねえなこりゃ」
京太郎がそういったのには、勿論理由がある。添付ファイルには写真――――その一枚は咲のメイド姿、そしてもう一つの写真は、咲の口に出すのもはばかれるような恥ずかしい写真だったのである。
とはいえ実際には咲が入浴前にバスタオルをはだけさせて巻いている写真だったのだが、彼が言うのもはばかられると言う点ではあっているだろう。
ともかくそんな写真が男の手でとられたはずはない。それなりに安心できる女性が周りにいたのだろう。
そこで、龍紋渕の待遇についても少しだけ安心ができる。
「でもこんな写真を取られたって事は、逆に安心しすぎもちょっと怖いんだけどな」
さて、京太郎が最後の文面を見てみると。――――大きな謎が一つ解けた。
「なるほど、これほどまでに俺たちの協力してくれる理由がこれか。確かに咲を介すればこれはそれなりに力を持つようになる、しかし咲は今向こうにいる。
……だから、パイプ役に俺が選ばれたのか」
ここで、文面の通りにしなければ一体どうなるのか? わざわざ危険を呼び込む事もないだろうと、京太郎は考えるまでもなく再び部室の中へと入る。
いつの間にか打ち終わっていた面子は、仮眠を取ったり、腐っていたり、飲み物を買いに行っていたりしていた。
――――そこで、はっきり意識のあるものは、彼を除けば部長しかいない。ちょうどいいと、京太郎は話を切り出した。

「……ごめんなさい」
「――――へっ?」
七月六日、京太郎とのデートはもはや明日に迫っている。その時にこんな言葉を沢村智紀より聞かされるなど、咲には意想外のことだった。
「え……っと?」
「本当は二日も拘束する気はなかったのだけれど……」
「――――ああ」
どうやら、あなたの須賀君も清澄の部長に首尾よく手を回したようだし、これで私の役目も終わりと彼女はその後に続けた。
咲としては部長云々よりも、「あなたの須賀君」という部分に反応してしまう。
「貴方たちのおかげで――――清澄、風越、鶴賀、龍紋渕の四校合同合宿は、これでまず間違いなく実現されるでしょう」
「うん、でもそしたら京ちゃんはさすがにいけないよね」
そこが、今回のもっとも大切な部分であったといわざるを得ない。京太郎がもしも自らを優先させて部長に話さねば、そこですべてが水泡に帰していた。
京太郎個人的には、言わずとも特に損はない、むしろ言えばそれだけ咲といられる時間が短くなる。
京太郎が話した理由、それは自らよりも咲を優先させた事と、それでも四校合同合宿は実り多いものになるだろうと考えたため。
現在清澄は全員が全霊をかけて強化に徹しているだろうから、余裕のない今このような計画を立てられるものではない、もし立てても破綻が多いものになるであろうし、それに導かれた後には眼も当てられない結果となるのは必然である。
それならば、こちらが計画を立てて他校に手を回しておけば、清澄は何も考えなくても良い。
しかしその意をこちらが残る二校に伝えても、あちらにしてみれば一回しか戦っていない上に、繋がりなどほとんど皆無な他校が作った何の目的かもしれないものに乗るわけがない。
だが逆に清澄から誘われれば行く所もあるだろうと考えられる。何しろ清澄には今県大会を制した代表と言う肩書きがあり、敦賀は引退をしているとしても、部員の多い風越は二軍でも行きたいと望む者が多いはず。
質は数で何とか埋められるはずと考えたのだ。
それ故に、信用できる人間のアプローチが必要だったのだ。
ようは、咲と京太郎は手形代わりである。その事も併せて智紀は頭を下げたい気になったが、咲が手を振ったのでそのままでいるしかない。
「でも、どうして私に? 清澄にはほかに部員がいるのに……」
「貴方が一番……衣に大きな影響を与えてくれた。衣も、一番貴方と居ることを望んでいたの。
四校合宿も、龍紋渕を鍛えるという目的のほか、衣が楽しく麻雀を打てる場を一つでも多く作るために立ち上げるもの。
彼女の心の模様が冬から春になった今、衣は大きな変革を迎えている。さなぎが蝶になるように、衣の外も内も徐々に進化を遂げている。私は……私も衣の友達だから、何かをしてあげたくて」
その熱意は、咲自身感じている。本当の友情という物があるのならば、その一端を間違いなく彼女は宿している。
それを悟ると同時に、この女性に対する見方が大きく変わった。無機質な性格だと思われがちだが、実はとても情に厚い人なのだ。
「咲ー! どこにいるー?」
そんなことを考えているうちに、衣が咲を呼びにきた。どうやら、明日の舞台に来て行く晴れ着を合わせたいとの事だ。既に、いろいろと取り寄せたらしい。
これ以上待たせると透華が怒るというので、衣は走ってやってきたらしい。
「――――じゃあ、行ってくるね」
「ええ、行ってらっしゃい」
智紀は、とても安らかさを秘めた笑顔で見送った。それは彼女が、初めて他校の者に見せた顔でもあった。
衣も、その光景に驚きを隠せないでいる。自らが最初にあの顔を見たのは何時だったかとも思いをはせた。
しかしやがて、自らのすべきことを思い出したのだろう。咲の手を引いて別室へと連れて行った。残された智紀はパソコンを開いて、溜息をつく。
――――ただキーをたたく音が、暖色の壁に吸い込まれていった。

七月七日――――そう、七夕である。
祭りの開催所の近くにある目立つ場所、しかし人のあまり集まらない場所はどこかという問いに、かの沢村智紀の答えは満点に近いものであった。
事実、咲がついたころには、人が数えるほどしか居なかったのである。邂逅を果たすには、十分すぎる環境だった。
「うーん……」
咲は、口を尖がらせて細く伸びた影を見た。着付け等の準備で遅くなるかとすら思ったが、逆に早く来過ぎてしまったのだ。
具体的にはまだ、待ち合わせの時間まで30分は残っている。
夕日の沈むさまをゆっくりと眺めながら、胸に手を置いて自らの心臓からだんだんと強く、そして徐々に早くそして何よりも心地よく放たれる命の音をゆっくりと聞いていた。安らかなる気持ちではあったが、それは同量の不安に裏打ちされて起きるものでもあった。
咲は腕時計をしない、特に時間を気にした事などないからだ。携帯も同じ、話す相手もいないから。
京太郎とは、学校でいつでも話せるしそれはほかの友達も同じだ。
そもそも他の女子たちが携帯を持ち始め化粧をして男子の話をする年代になっても、咲は本に没頭をし、京太郎と良く話していた。
つまり満たされていた故に、それらを必要としなかったのだ。――――少なくとも、今までは。
咲は、時計を探した。自分が時計をしない事を沢村智紀は知っているはずだ。それでここを選んだという事はどこかに時計があるという可能性が非常に高い。
果たしてすぐに時計台を見つけ、咲はその周辺を歩きながら待っていた。
太陽は沈みやがて短針が咲を、長針が天を指し示す。――――だが、彼の姿はまだ見えない。
首を振りながら、自分の知っている彼の背格好を探すが、その実像も影もなくただ目に映るのは自分の肌と温度の違う空気だけ。
空から赤色の残滓が去っていくと共に、不安がその色を影と共に大きくそして濃くしていく。
「おーい? ……咲ー?」
遠くから、風に乗せられて声が耳に届く。そのそよ風が――――むしろそよ風だからこそか、黒い不安を霧が晴れるように簡単に消していく。
「京ちゃん」
後ろを、期待と共に振り向く。京太郎と眼が合った瞬間に、ドサっと何かが落ちるような音がした。彼の右腕にぶら下がっていたビニール袋が地に落ちたのだ。
「さ……咲……――――だよな?」
「う、うん。……変か……な?」
京太郎は首を横に振る、綺麗だよと咲の顔をまっすぐに見つめながら何度も何度も繰り返した。
咲の顔にうっすらと紅がさす。パタパタと咲は京太郎のそばへとかけていき、彼はそれを抱きとめる。
「行こうか」
「……はい、京太郎」
いつもとは違って、「うん」とは言わない。日ごろとは違った面を彼に見てほしいからこその返事だが、そこに何らかの意図があるなど京太郎はおそらく考えないだろう。
並んで歩き始めた咲の目に、ふと悪戯心が生まれた。

「ねえ、京……ちゃん」
「んー?」
「今私って、どういう格好をしているの?」
「え……えー……そりゃあ……」
こういえば、彼は自分を形容するためにまじまじと見ざるをえなくなる。
自らの持つ生来の気質は目立ちたいという感情からは無縁のものだと考えていたが、なるほど見られるという行為にも理解が深まった気がする。
見られるとは、自らの存在を相手に認めさせる事なのだと、龍紋渕のあの目立ちたがりの行動の裏には、きっと今の自分と似た様な感情があるに違いない。
「あー、……そうだな。まず――――」
あまり深い答えを期待してはいなかったのだが、意外にも彼はそれなりに深い答えを残してくれた。
「深い藍の地に白い花がちりばめられた着物に、夕日のような様相を持つ朱色の帯。
顔には白粉と、紅を少々。………ふむ、この匂いは柑橘系だな。香水も使っているんだろ? 髪型は……エクステでもつけたのか、簪できれいにまとめられていて
……そうだな、俺はそっちも好みかもしれない。……ああ、着物の美しさに着られてない。お前のほうが……うん、ああ……」
――――できる限り冷静を装っているが、彼自身の心はこれ以上ないほどに高まっていた。
幼馴染ではなく、一人の女として彼女を見たのは、もしかしたらこれが最初だったかもしれない。
――――正直、女という生き物をなめていた。そんなことを考えるまでにだ。
「…………」
彼は、自身の格好を見た。自分は咲につりあっているのだろうか? そう、自問せずにはいられない。
自らも持っていた浴衣をよく着こなしていると思うが、色は質素なものでしかも彼女のそれと比べると値段だの何だので確実に見劣りをしているだろうと、そう考える。
しかし自らにその差を埋める価値はない――――というよりも、自らのほうが咲より価値が高いなどとはどうしても考えられない。
釣り合っているか釣り合っていないかなど彼女が気にしないのはわかってはいるが、男にはプライドという長きに渡って共に生きていかねばならぬものもある。
「うおおおおおおおおお!」
「きょ、京ちゃん?」
咆哮のあと、力強く彼女の手を握って、ゆっくりと京太郎が咲を先導した。
草履が地をこする音が一定に響く中、それをかき消すかのようにいろいろな色の声が、祭りの会場に近づくたびに強く二人を引き寄せる。
心臓の鼓動が彼らの足音と重なり始めた所で、二人は祭りの会場に着いた。既に人が己自身を使って熱気を混ぜていた。
喧騒の中に、ぼんやりと灯る提灯が、それらを見守るかのようにゆらゆらとゆれている。
提灯の上、空を見やれば葉の影に覆われて星が瞬いているのかどうかが分からないが、そもそも周りのほうに眼が行くものばかりで空を見るものは少ない。
空が見えなくても別に困りはしない、それでも天の川が見られるかと二人は心の底で願い続けた。
しかしながら木がどいてくれないので、二人は再び視線を互いの顔に移動させる。

――――二人の空気と、周りの空気の温度が違う。
言葉は発さずとも、互いにほとんど同時にそれを考えた。
例えるならば、この熱気をかもしだしている祭りの風景画の中に、自分たち二人だけが意思を持って入り込んだような。
外から見ている感覚と、中に入って一部になっているような感覚が混在している。
名状しがたきその感覚に、二人は心を強く結んで、離れないようにした。
迷子という意味ではなく、離れれば二度と戻れないような気がしたのだ。
「咲……」
「なあに?」
「いや……なんでもない」
話したいことはたくさんあった、だがその一つすら、なぜか今は思い出せない。
魂魄が薄く剥離しているような、違和感。自らの体の中で、自らが自らと争っている。
咲が、むずむずと体をよじってポツリと言い放つ。
「京ちゃん」
「何だ?」
「……チョコバナナでも食べない?」
「――――は? あ……あははははは!」
そうか、違うんだ。この空気に威圧や圧倒をされるんじゃない、この空気と一つになって楽しむべきなんだ。
そうだ、忘れたのか。――――敵なんていない事を。
「俺……」
「?」
「アンズあめを食いたい」
「――――りんごじゃなく?」
「りんごは邪道だ」
「なにそれ」
ふと、京太郎の左手に重みが戻ってくる。彼自らが咲と共に楽しむために買ってきたそれが、遠慮しがちにだが自己主張をしていた。
だが、それを使うのはまだ早い。もっと、この逢瀬を楽しんでからでもよいではないか。
一通り、彼らは音と光を潜り抜けて境内が見えるところに来る。
「京ちゃん、ちょっとお参りしていかない?」
「ああ」
「ここは、……ここは、縁結びの神様が祭られているんだって」
――――沢村智紀がそういっていたと、おそらく後に続いて来るとおもっていたが、意外にも出てこない。
それ即ち咲が自分で調べた事なのだろうという考えに、京太郎は繋げる。
「じゃあ、行ってくるか」
「うん」
「俺たちの出会いというすばらしい過去を、感謝しに」
「私たちのこれからが。未来が、よりよい物になるように――――」

バケツに、水の入る音がする。
周りに木こそないが、草と石を村にしている虫が高い声で鳴くその中で、二つの影がゆっくりと呼吸していた。
かたや背の高いほうのそばには、ビニール袋とその中身が、自ら最も美しく輝けるその時を待っている。
今、柔らかな手がその一つをとる。黒の中ではあまり意味が無いといえばそうだが、その棒は握り手が鮮やかな七色に染められており、虹を閉じ込めたかのようだ。
「京ちゃん」
「ああ、ちょっと待っていな……ライター……どこに落とした?」
地を手探りで探す彼とは対照的に、咲の目は天へと向いていた。真珠を砕いて流したようなやさしい輝きを空は放ち、雲は一つもない。それは、咲の心を反映しているかのようであり、地を照らす唯一の光でもあった。
「――――あった」
火をともすと同時に、咲の口からあっという声が出た。
棒の先から白みがかった淡い緑色の光が迸ったからだ。
咲はそれを斜め上に向け、京太郎に見せるようにしてゆっくりと振り回す。
「花火を持つと、どうしてそう振り回したくなるんだろうな」
京太郎も、自らの持つそれに火をつけた。彼の持つそれを地に下ろすと、螺旋を描いて走り回っていく。
京太郎も咲も、明るい笑いを空に飛ばしていった。
しばらくそこは優しげな炎に包まれて、夜のしじまに切なくその光を溶かしていく。
やがて一本、また一本と燃え尽きていく中、最後に咲が手に取ったのは線香花火。
京太郎にそれを渡すと、先ほどまでの雰囲気が嘘のように、しん、とした世界を作り始める。
「……つけるぞ」
「……ええ」
暖かな火が、微かにパチパチと音を立てる。二人の呼吸と同じように小さいそれを愛しげに見て、咲が漏らした。
「私……空に咲く大輪のような花火も好きだけど、線香花火みたいにひっそりするのも好き……」
「――――そうだ、な。こっちはこっちで趣深いよ」
「ねえ、京ちゃん。さっきから気になっているんだけど、いつからそんな趣深いとか言葉を話すようになったの?」
「これでも、お前やお前の見ている世界に少しでも近づきたいとおもって、本は読んでいるんだ。その影響だろうな」
「えっ……」
――――初耳であった、そしてとてもうれしい事であった。同時に線香花火の光に照らされて、咲の頬に体温を持った水が流れていくのを京太郎はしっかりと確認した。
京太郎はその光景に驚愕こそすれ、涙を拭いてやるという考えは出なかった。

「咲……」
「あ、あははは……煙が眼に入っちゃった」
「そうか……俺もだ」
確かに考えは出なかったが、幾ら盆暗と言えどもさすがにその意を汲み損ねる彼ではない。
すぐに苦い顔をして、そのままそらした。咲も京太郎の顔が赤くなっている事を気がつくのに少しかかったが、やがて愛おしさがこみ上げてきて、彼の近くに腰を下ろし、頭を彼に寄りかからせる。
「線香花火って、彼岸花のようだけど縁起が悪いものには思えないんだ……」
「――――確かにな、縁起の悪いものを逆さにしたような形だから、むしろいいものではないかとも思うときがある」
花火は名の通り華に似ている、しかし同時にそれは人生にも似ていると咲は言う。打ち上げ花火のような、大きくはじける人生よりもこうして仄かに輝いていく人生が自分にはあっていると言った。
口調に、どことなく悲しさが見える。
「自分を卑下するなよ」
「うん、でもね――――地味だ地味だといわれ続けても、それを変えられない自分も嫌だったんだ」
「でも、俺は好きだ。お前の全てが……」
「嫌だった、嫌だったけれども私、だんだんと自分を好きになっていったんだよ。――――京ちゃんのおかげで!」
京太郎の言葉をさえぎり、満面に朱を注ぎながら咲は言う。
京太郎が麻雀部に連れてきてくれなかったら、今自分はどうなっているだろうか。この線香花火も、嫌いなままだったかもしれない。
「線香花火もさ、こうやってくっ付ければそれなりに……あれ」
何かを思いついた京太郎が線香花火の先同士をくっつけた瞬間に、咲が体をよじり花火の先は落ちてしまう。
それでも京太郎は諦めずに新しい花火に火をつけて、今度は動かないように彼女の肩を抱いてゆっくりと近づける。
すると二つの珠は大きな一つの珠となり、先ほどよりもまばゆい光を放ちはじめる。
「動くなよ?」
――――動けないよ!
と口には出せないが、京太郎の体温、肉質、力、それらを全てを全身で感じている彼女に他の事を考えるという余裕は無い。
風が止み、虫の声も消えた。時がそこから去ったような感覚の中で、それでも現実なのだと知らせる花火の音が、光が消えた。
――――しばらくの間、二人すらも動かなかった。
「見てみろ、咲」
京太郎が指し示す先には、一つの珠で繋がった二股の棒があった。
こんなことはめったに無い、京太郎の執念がなした業だといわざるを得ない。
「線香花火が落ちるさまは、まるで彼岸花の種が地に落ちて時代を超え、次代へと繋がるような、そんな気がしないか?」
「京ちゃん……彼岸花は球根だよ?」
「――――マジで?」
「うん」
「……かっこわりーな! 畜生、せっかくいいこと考え付いたのに!」
頭を抱えた京太郎を、朗らかに笑う。だが、確かにそれでもいいかもしれない。
潔く何も残さず散るよりも、時代へ脈々と続くものを残すのもいいかもしれない。
「なあ……咲――――一緒に住まないか」
二股の片方を握りながら、ポツリと京太郎がいいはなつ。
「え?」
「一緒に、………住まないか?」
それは、同棲という事でいいのだろうか。それを聞く前に、京太郎は続ける。
「あと二年すれば、俺も十八になる。――――結婚できる年になる、俺はお前以外と添い遂げるつもりは……なんだ……その……」
ぷらぷらとゆれる二股の片方が、咲に握ってほしそうな表情を向けていた。
それを、躊躇無く掴んだ咲は、面食らった京太郎に一度口付けをし、深呼吸を一度する。
「私も、貴方以外には考えられない。京ちゃん……いいえ京太郎、私は……」
「ありがとう、でも……何も……今は言わなくて良い。――――そうだろ?」
「うん、そうだね……」
言葉は交わさずとも、二人の間に何か暖かいものが流れ始める。
それを二人は絆ともいい、また愛とも言うのだろうと確信していた。
天の川が、二人を祝福しているようであった。
今夜、綺麗に二つの支流が一本の本流へと合流をし、やがて一つの海へと流れ着いた。
海は名の通り次の時代を生み出し、連綿と命を続けていく――――。

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