―― 結局、和が須賀邸へとたどり着いたのは夕方の五時を過ぎた頃だった。

家を出た時刻こそ予定通りだったものの、思わぬアクシデントに献立は決まっていないままだったのだ。
結果、スーパーへと立ち寄った和は食材を前に悩み、中々、決める事が出来なかったのである。
普段なら即断即決出来るはずのそれを胸中で少しだけ楽しみながら、レジを通った頃には既に時間は危険域に達していた。
だが、両手いっぱいに買い物袋を掲げた和が走ったり出来る訳もなく、両手に掛かる重さに苦しみながら須賀邸へと到着したのである。

和「(こんな事ならもっと早く出ればよかったです…)」

父に見つかってテンパって居たとは言え、見通しの甘かった自分。
それに自嘲混じりの言葉を浮かばせながら、和はそっと肩を落とした。
既に肩にはコリと共に疲労感が浮かび上がり、冬の外気の中でもはっきりと分かるくらいの汗を見せている。
その不快感に大きく息を吐きながら、和はそっとインターフォンに手を伸ばし… ―― 

小蒔「あれ?」
和「えっ?」

瞬間、聞こえてきた声に和の指は固まった。
そのまま声の聞こえてきた方に視線を向ければ、そこには見慣れた黒髪の少女が目に入る。
紅白が目に映える巫女服を身に纏ったその少女は、和の部活仲間であり目下恋敵として対立中の神代小蒔だ。

小蒔「…」
和「…」

固まった二人の間に微妙な空気が流れるのは、二人ともその手にスーパーの袋を下げているからだろう。
普通のものよりも幾分大きなそこには所狭しと食材が並べられていた。
そんなものを掲げてこうして須賀邸の近くにやってくる恋敵の目的に気付かないほど二人共鈍くはない。
だからこそ、二人はけん制をしあうように沈黙を続け、じっとお互いの顔を見続けるのだ。

小蒔「(ど…どうしましょう…)」
和「(どうすれば良いんですかぁ…)」

そんな二人の内心は奇しくもまったく同じものだった。
共に師匠であり弟子でもあるという特殊な関係上、普段の二人は良好な関係を保っている。
少なくとも修羅場を見せる事などはなく、恋焦がれる相手を譲ったりする事もあるのだ。
そんなフェアな戦いを心がけている二人とは言え、こうして休日に ―― しかも、親がいないと知らされている須賀邸の前で ―― 会うのは気まずくて仕方がない。

小蒔「(も、勿論…そういう…事…ですよね?)」
和「(神代さんもその…京太郎君に愛されに…)」

それは勿論、自分たちがただ食事を作りに来た訳ではない事を理解しているからである。
婚約者として、そして愛玩奴隷として愛される為に二人はこうして貴重な休日を潰してやって来ているのだ。
相手もまた食事の先を期待していると分かっているだけに二人は見つめ合い、沈黙を貫く。

小蒔「あの…原村さんは…どうしてここに?」
和「そ、それは…」

それを破ったのは小蒔の方だった。
軽いジャブから入るその言葉に和は口篭る。
幾らか素直になり、感情をストレートに示すようになったとは言え、彼女の羞恥心は強いままなのだ。
恋のライバルに対して意中の相手に料理を作りに来たとは中々、言い難い。

和「き、京太郎君に…料理を作りに…」

それでもポツポツと言葉を漏らすのは、和が小蒔に負けたくないと思っているからだ。
今や二人の親友の期待までもその背に背負う和にとって、自身の敗北は親友の敗北でもあるのだから。
だからこそ、普段であれば中々口に出来ないであろうそれを戸惑いながらも口にし、小蒔の事を真正面から見返した。

小蒔「そう…ですか。私も…同じ…だったりして…」
和「そう…ですよね」

そんな和に返すのはその手に掲げたスーパーの袋を持つ小蒔の言葉だった。
彼女と同じ目的である事を告げるそれは途切れながらもはっきりとしている。
それは勿論、つい先ほど聞いた霞の話が彼女の背中を押しているからだ。
500年前に結ばれなかった先祖の為にも、ここは譲れない。
その覚悟で怯みそうになる心を支えながら、小蒔は和を見つめ続ける。

小蒔「……」
和「……」

とは言え、二人は二の次の言葉を紡げない。
二人共、譲るつもりはないにせよ、相手のことを無視して押し通れるタイプでもないのだ。
出来れば納得して帰って欲しいと思っているし、穏便に済ませたいのである。
しかし、その為の方策が浮かぶはずもなく、ただただ無為に時間だけが流れていった。
その間に食材が傷んでいくという事を理解しながらも二人は達人同士の試合のように一歩も動けなかったのである。

和「(このままじゃ…時間が…)」
小蒔「(ち…遅刻しちゃいます…っ)」

しかし、そうしている間にも京太郎と約束していた時間が迫る。
それに焦りを覚え始めながらも、二人とも恋敵を遠ざける良い案が浮かびあがったりはしない。
勿論、二人共、今日は譲る代わりにまた後日…というのが一番、角の立たない方法だと理解している。
だが、京太郎と今日のこの時間に会うと約束しているという事実がそれを選びがたいものにしていた。
約束を違えて京太郎に嫌われたくはないと思う二人にとって、今日は決して譲れないものだったのである。

和「(妥協…するしかありません)」
小蒔「(このままじゃ…時間を無駄にするだけ。だから…)」

和・小蒔「「あ、あのっ」」

だが、このまま我を張り続けていても時間を無駄にするだけ。
そう同時に判断した二人はほぼ同時に口を開く。
その後に気まずい表情を浮かべるタイミングさえ一致する二人はまるでコントのようだろう。
だが、夕方の住宅地でそんな二人を見ているものは誰もいなかった。

和「あ…じゃあ…神代さんから…」
小蒔「いえ…原村さんの方から…どうぞ」
和「いや…私はその…大したものじゃないので…」
小蒔「私も…あんまり重要な事じゃないですから…」

だからこそ、自分たちでギクシャクしている雰囲気を突破するしかない。
そう判断した二人は言葉の先制権を譲り合い、そしてお互いに辞退しあう。
それは妥協するのは相手の出方を見てからで良いという打算があったからである。
勿論、相手に遠慮する思考がない訳ではないが、それは打算に比べれば小さなものだった。

和「じゃあ…あの…い、一緒に…作りません…か?」
小蒔「え…」

そんなループを断ち切ったのは和の言葉だった。
それに小蒔が驚きの声を返すのは自分も同じ事を考えていたからである。
このままお互いにけん制を続けるよりは何かしらの方法で京太郎にジャッジを任せた方が良い。
能力によって自分たちを縛っている彼の言葉にはお互いに逆らえないだろうとそう思っていたのだ。

和「その後の事は…京太郎君に任せる…という事で」
小蒔「ふふ…そうですね」

そして、それは和もまた同じだった。
ただ、小蒔と違うのは京太郎が約束を違えたりはしないという打算があった事だろう。
ちゃんと前もって約束しているのだから、京太郎はきっと自分を選んでくれるはず。
そう判断を下す和の脳裏には京太郎が小蒔とも約束しているかもしれないという思考は欠片もない。
彼女にとって京太郎はそんな不誠実な事をするような相手ではなかったのだ。

和「じゃあ、押しますね」
小蒔「はい」

―― ピンポーン

結局、和が須賀邸にたどり着いてから十数分。
その間、ずっと宙に浮き続けていた指が今度こそインターフォンへと辿り着く。
それに反応して人の気配が扉へと近づいてくるのを二人はじっと待った。
数秒後、ゆっくりと開いていく扉の向こうから彼女たちが恋焦がれる金色が現れる。

京太郎「いらっしゃ…ぃ…」

京太郎の言葉が小さく窄んでいくのは、目の前の状況が意外なものだったからだ。
勿論、二人に指定した時刻が一緒だっただけにまったく予想していなかった訳ではない。
しかし、こうして二人一緒に須賀邸に顕れる確率なんて本来ならばかなり低いはずなのだ。
それをピンポイントで引き当てる自分の運の悪さに彼は顔を引き攣らせてしまう。

小蒔「京太郎様…」
和「京太郎君」

そんな彼の名前を呼びながら二人は笑みを浮かべて近づいていく。
それは勿論、京太郎の事を責める為のものではなく、彼と会えたのが嬉しかったからだ。
骨身どころか魂までも能力に支配されている彼女たちにとって、数時間の別離でも久しく感じられるのだから。
しかし、後ろ暗い感情を抱く京太郎にとってそんな彼女たちのにこやかな笑みが妙に迫力あるものに感じられた。
分かっていてダブルブッキングを仕組んだ彼にとって、それは責められているものにしか見えなかったのである。

小蒔「とりあえず…原村さんと一緒に料理を作りますね」
和「諸々の事は後で相談しましょう」
京太郎「あ、あぁ…それと袋持つよ」

しかし、彼の後ろ暗さなんて二人に分かる訳がない。
京太郎がぎこちないのも予期せぬイベントに驚いているだけだと思っていたのである。
だからこそ、二人はそう冗談めかして言いながら、玄関へと近づいていく。
そんな二人を招き入れながら微かに胃が痛くなるのを感じながら、京太郎はそっと二人に手を差し出した。

和「でも…」
小蒔「良いんですか?」

勿論、二人にとって、その優しさは嬉しい。
二人分とは言え、ご馳走を作ろうとしていたのだからその荷物はそれなりに重かったのである。
それを彼に預けてしまいたいという気持ちは二人の中にも間違いなくあった。
しかし、それを躊躇うのは京太郎の手が二つしかないからである。
お互いに2つずつ、合計4つの袋を彼に負担にならないか、二人は不安になっていたのだ。

和「(一つだけ渡して一緒に…って言うのが理想なんですけれど…)」
小蒔「(先にそれを選んだら…原村さんに同じことをされそうですし…)」

何より、自分の持つ袋を全て彼に渡したら相手にアピールさせる余地を作ってしまう。
さりとて、一つだけ手渡すのであれば、相手も同じ事をするだろう。
そうお互いに同じことを思った彼女たちは動く事が出来ない。
こうしてお互いの存在を認めるに至ったにせよ、二人は未だライバル同士なのだから。
普段は暗黙の了解で結ばれているものの、それを反故にしない領域では相手に先んじたいのが本音だったのである。

京太郎「いいから。4つくらいリビングまで運ぶくらいなら余裕だし」
小蒔「あ…っ」
和「…じゃあ、お願いします」

しかし、根が鈍感な京太郎が二人の逡巡に気づくはずもない。
迷う二人がただ遠慮しているだけだと判断した彼は、少しばかり強引に二人から袋を受け取った。
そのままスタスタとリビングへと歩いていく彼の背中を追いかけながら、二人は開け放された扉を潜る。

京太郎「よっと…」

そんな二人の前で京太郎は4つの袋をテーブルへと置いた。
四人がけのそれはそれなりに大きなサイズではあるものの、4つも袋があると狭苦しく見える。
まずはそれを片付けるべきか、或いは京太郎を労うべきか。
それをお互いの瞳から確認した二人はほぼ同時に口を開く。

小蒔「お疲れ様です。お礼に私がお茶、淹れますね」
和「じゃあ私は冷蔵庫開けさせてもらって良いですか?もう冬とは言え、このままじゃ落ち着きませんし」
京太郎「いや、良いよ。二人はお客さんな訳だし、俺が動くって」

ある意味では同じ相手に恋する同志だからか、一瞬でお互いの意思を確認してみせた二人。
そんな彼女らに京太郎が口を開くものの、彼は二人の手でそっと椅子へと移動させられてしまう。
優しく、けれど、有無を言わさないそのコンビネーションに京太郎そのままストンを腰を下ろすしか無い。

小蒔「いいから。座っててください」
和「そうですよ。京太郎君は主賓なんですから」

そのまま連れ立つようにキッチンの中へと入っていく二人の背中を京太郎は見送る事しか出来なかった。
そんな自分に小さく自嘲を浮かばせながらも、幸せを感じるのはキッチンの中で動く二人がとても魅力的だからだろう。
タイプこそ違えども、紛れも無く美少女と言っても良い二人が自宅のキッチンで、しかも、自分の為に動いてくれている。
それは世の男性諸君の顔に笑みを浮かばせるのには十分過ぎる光景だろう。

京太郎「(ホント…洒落にならない質の悪さだよなぁ…)」

だが、京太郎はそれに安易に浸る事が出来ない。
それは勿論、その光景を自分の手で作り出せたものではないからだ。
ある日突然、自分の身に宿った特殊な能力 ―― オカルトとも言われるそれを知らず知らずの内に振るってしまった結果なのだから。
勿論、自身の能力がなければ、どうであったかと仮定の未来は分からない。
だが、世の男性全てが羨むような目の前の光景を見る事が出来ない事くらいは彼にだって推測する事くらい出来た。

京太郎「(性的快感による相手への支配…或いは洗脳か…)」

鹿児島での神代家当主との話から、その能力の根源は分かっていた。
小蒔と同じく神から与えられたそれは零細神社が、霧島という他の神の支配下で生き残るには必要なものだったのだろう。
しかし、京太郎はその子孫であるとは言え、大国主を信仰していた訳でも、何か危機的状況にあった訳でもない。
それなのにこうして自分の中に能力が芽生えたのは一体、どういう事なのか。
それは彼にとってずっと悩みの種だったのである。

京太郎「(俺が…そういうの欲しいって…そう思っていたからなのか?)」

清澄が全国優勝を果たした瞬間、誰よりも傍にいて、けれど、部外者だった京太郎。
彼にとって宮永咲や片岡優希が持つような能力は眩しく、そして羨ましいものだった。
それに嫉妬を覚えた事はないにせよ、能力さえあれば皆の練習相手くらいにはなれるのに。
そう思った回数は京太郎自身、覚えてはいなかった。

京太郎「(結局…俺も小蒔に偉そうに言えるほど自分の事ちゃんと分かってなかったって事かなぁ…)」

それを自分の血筋を守護する大国主が聞き届けてくれたのか彼には分からない。
小蒔のように神を相手に対話をするような能力など京太郎にはないのだから。
しかし、もし、そうなら自分はこうまでお節介を焼いてくれている相手に恐ろしいまでの不義理を続けている事になる。
それを思うと何となく申し訳なくなり、最近は部屋に小さいながらも神棚を作ったりした。
そんな迷走する自分に彼が一つ苦笑を浮かべた瞬間、二人はキッチンからそっと抜け出し京太郎へと近づいてくる。

小蒔「はい。どうぞ」
和「熱いですから気をつけてくださいね」
京太郎「おう。ありがとうな」

そう言いながら差し出されたお茶に京太郎はそっと口をつけた。
瞬間、芳醇な緑茶の香りがそっと広がり、口の中を楽しませてくれる。
スーパーでパック詰めになっている安い茶葉のはずなのに一体、どうしてここまで美味しく出来るのか。
そう思うほど豊かで優しい風味に京太郎はつい頬を綻ばせてしまう。

京太郎「うん。美味しい。小蒔のお茶はやっぱり良いな」
小蒔「えへへ…」

そのまま口にした言葉に小蒔もまたその頬を緩ませた。
そう言われるのは初めてではないが、何度、言われても色褪せはしない。
京太郎から賛辞を貰う為に少なからず努力している彼女にとってそれは何時だって嬉しい言葉なのだから。
特に今はすぐそばに恋敵がいるのだから、尚更、嬉しいものである。

和「む…」

そして、逆にそれを見せつけられた和は面白く無い。
勿論、緑茶を淹れる技術や須賀邸に対する知識では劣っているという自覚はある。
だからこそ、お茶を淹れるのは譲った彼女にとって、それは仕方がないという思いはあった。
しかし、実際にこうして目の前でいちゃつかれると理不尽感は否めない。
自分だって不慣れな冷蔵庫と格闘していたのにどうして褒めて貰えないのか。
どうしてもそう思って頬を膨らませてしまうのだ。

京太郎「和もありがとな。お陰で助かったよ」
和「別に…お礼を言われるような事じゃありません」

勿論、京太郎はそんな和の気持ちも分かっている。
だからこそ、紡いだフォローの言葉に和は素っ気ない言葉を返した。
しかし、その表情が強張りから開放されたのは小蒔の目から見ても良く分かる。
何だかんだ言いながらもそうやってお礼を言われて、和もまた機嫌を直していたのだ。

小蒔「それで…どうします?今から夕食の準備をしましょうか?」

それにほんの少しばかりの嫉妬を感じながら小蒔が口にした言葉はこの場に置いては必要不可欠なものだった。
既に時刻は夕方から夜にさしかかろうとしているのだから。
京太郎と二人っきりという事もあり、お互いがご馳走を作ろうとしているのだから時間的猶予はあまりない。
どちらが何を作るかという話し合いもしなければいけないし、このままのんびりしていられなかったのだ。

小蒔「(勿論…そうしたいと思う気持ちは私の中にもあるんですけれど…)」

小蒔は基本的に京太郎との何気ない触れ合いが好きだ。
本来の彼女は無言で傍にいるだけでついつい幸せになってしまうくらいに純朴なのである。
だが、そんな彼女にとって再優先にするべきは常に愛しい婚約者の事なのだ。
彼に空腹など感じさせたくはない彼女にとって、今の安寧は後の不幸を呼ぶものである。
だからこそ、彼女はこのままのんびりするという誘惑を断ち切って、そう口にする事が出来たのだ。

京太郎「あー…その前にちょっと話があるんだけどさ」
小蒔「話…ですか?」
京太郎「あぁ。かなり重要な…これからの話」

そんな小蒔の決意を遮るような京太郎の真剣なに二人は緊張を走らせる。
そうやって重要な話と言われた二人の脳裏に、真っ先に出てくるのは京太郎の選択なのだから。
これから彼の隣に居続けられるたった一人を決めるそれを感じて、身体が強張らないはずがない。
これまで出来る事はやってきたものの、もし、自分が選ばれなかったらどうしよう、と思ってしまうのだ

和「(でも…大丈夫です。そんな事はありません)」

和がそう思うのは、今の状況があまりにもそれに適さないからだ。
その選択を伝えるのであれば、正直に「決めた」と二人に言えば良いだけなのだから。
それが二人に、いや、三人にとって重要だと京太郎も分かっているが故にこんな騙し討のような真似はすまい。
根が誠実な彼ならば自分たちが覚悟出来るように、ちゃんと前もって言ってくれるだろう。
和はそう京太郎の事を信じていたのだ。

京太郎「とりあえず…そろそろ出てきて良いぞ」

―― ガチャ

小蒔「えっ」
和「……っ!」

京太郎の声に従うようにリビングの扉が開く。
初めて須賀邸を訪れる和は知らないものの、そこは脱衣所に連なる扉であった。
そこからひょっこりと顔を出すその顔を、二人は覚えてる。
小蒔は対戦相手として、そして和にとっては映像越しでしか知らない彼女の名前は… ―― 

和「どう…して…上重さんが…?」
漫「や。神代さんは久しぶり。原村さんは…初めましてかな?」

上重漫。
この場にいるはずのない三人目の犠牲者で、二人にとっては紛れもない恋敵。
そんな彼女の登場に二人は目を丸くし、茫然とする。
ついさっきまで今日は京太郎とイチャイチャ出来ると思っていた彼女たちにとってそれはあまりにも急展開だったのだ。
息継ぎも許さないようなそれに思考が追いつかず、どうしたら良いのか分からなくなるくらいに。

京太郎「こうして皆を呼んだのは…他でもない。俺がこれからどうするかを伝える為だ」
和「え…?」

和にとって誤算だったのは、京太郎に覚悟をさせるつもりなどなかった事だろう。
つまり、彼にとっては二人が多少、混乱してくれていた方が有難い事だったのだ。
だからこそ、京太郎は二人を騙すような真似をして、こうして家へと呼び寄せた。
勢いのままに結論を口に出来るように、三人を間違いなく地獄へと引きずり込む言葉を紡ぐ為に。

和「(ど…どうする…べきなんですか…?)」
小蒔「(こ、心の準備がまだ…まだ出来ていないのに…)」

そしてそんな京太郎の目論見通り、二人は混乱していた。
最初から京太郎が自分たちを騙すつもりであった事さえ思い浮かばないくらいに。
それほどまでに冷静さを失った彼女たちは、半ば呆然と事の成り行きを見守った。。
それは勿論、彼女たち自身もまたその答えをずっと待ち続けたという事も無関係ではなかったのである。

京太郎「俺は…三人と一緒が良い。誰か一人なんて選べない」

そんな二人に告げられる言葉に部屋の中に沈黙の帳が降りた。
誰一人言葉を発さずに流れるそれは普段、彼女らの間にあるそれとは比べ物にならないほど息苦しい。
それはいきなり渦中へと落とされた二人が少しずつその顔を歪めていったからだろう。
一人は怒りに、そしてもう一人は悲しみに。
それぞれ心が命じるままに感情を浮かばせていったのである。

和「…本気…なんですか?」
京太郎「…あぁ。俺は本気だ」

数分ほどの沈黙の後、その片方 ―― 怒りを浮かばせる和は静かにそう京太郎へと尋ねた。
低く抑えられたその声は平坦ではあるものの、しかし、だからこそ京太郎には恐ろしく思える。
その感情を向けられる京太郎には、それがまるで荒れ狂う前の海のような静けさにしか見えないのだから。

京太郎「(でも…怒られるのも当然だ)」

京太郎とて自分の選択がどれだけ最悪なものか理解しているのだ。
理解して尚、彼はそれを選ばずにはいられなかったのである。
そして、そんな自分の背中を漫は押してくれた。
だからこそ、ここでヘタレる訳にはいかないと彼は必死に自分を叱咤し続ける。

和「本気で…そんな自分勝手な考えが通用するって…そう思ってるんですか!?」

そう声を荒上げるのは、和が京太郎の事を心から信じていたが故だ。
どんな形になろうとも絶対に京太郎は答えを出してくれると、自分を選ばないにしても納得だけはさせてくれるとそう信じていたのである。
しかし、現実は最低とも最悪とも言ってもまだ足りないような答えを出されるだけであった。
それは和の信頼を裏切るのには十分過ぎるもので、だからこそ、彼女は騙された悲しみよりも先に怒りを滲ませたのである。


和「分かってるんですか!?京太郎君は今、最低な事を言ってるんですよ!ただ答えを先延ばしにするよりも…酷い事を言っているんですよ!?」

それでもそうやって和が詰め寄るのは京太郎の事を信じたいという気持ちがまだ心の中にあるからだろう。
和が京太郎に恋い焦がれ、心まで任せるようになったのは何も彼の能力だけが原因ではない。
多少、性欲に弱い傾向こそあれど、京太郎が優しい人物だったから、和も心を許したのだ。
少なくとも…和にとって、京太郎はこんな全員を深く傷つけるような答えを出すような人物ではない。

京太郎「分かってる。その上で…俺は全員が欲しい。誰か一人を選ぶなんて出来ない」

だが、その信頼すらも京太郎は踏みにじる。
そんな自分の言葉に京太郎自身も傷ついていた。
そうなる覚悟はしていたとは言え、自分の言葉で目に見えて和が傷ついているのだから。
京太郎とて怒りを通り越して今にも泣きそうなその顔を見たくて、こんな答えを選んだ訳ではないのである。

和「ふざけないで…ふざけないでください!」
京太郎「ふざけてなんかいない。俺は本気だ」

しかし、それでも答えを揺るがせられない。
そう心に決めた芯を守るようにしながら、京太郎ははっきりとした言葉を返した。
それに和の目尻が一気に潤み、その頬に涙が零れていく。
しかし、和自身、そんな自身の涙が一体、どういうものなのかは分からなかった。
信頼を裏切られたが故の悲しみなのか、或いは一番だと言われていた事が嘘だったという痛みなのか。
もしくは…自分が捨てられなかった安堵の涙なのかさえも、今の和には判別つかなかった。

小蒔「冗談…ですよね?」

そんな和とは裏腹に、小蒔の表情は未だ信じられないものが強かった。
まるで自分の目の前の光景が夢だと、嘘なのだと思いこむようなそれに京太郎の胸が張り裂けそうな痛みを発する。
和よりもさらに純真な小蒔にとって、その答えはあまりにも残酷過ぎたのだ。
潤むのではなく濁っていくその瞳に京太郎は良心に押しつぶされそうになる。

小蒔「だって…言ったじゃないですか。私の事愛してるって…そう何度も…」
京太郎「…ごめん」

そんな京太郎を追い詰めるような小蒔の言葉に、彼は思わず謝罪を返してしまう。
勿論、その言葉は嘘ではなく、京太郎の本心だ。
しかし、それが自己満足の類である事くらい彼にも理解できていた。
何せ、京太郎は謝罪こそすれども考えを曲げるつもりなどないのだから。

小蒔「指輪だってほら…これ…覚えていますか?京太郎様に貰った…こ、婚約…指輪で…」

そう言いながら小蒔はそっと京太郎に右手を伸ばす。
その薬指についた白銀の指輪を魅せつけるようなその仕草は微かに震えていた。
そしてその声もまた震えさせる小蒔に京太郎は何と言って良いか分からない。
これ以上、何を言っても小蒔を傷つけるだけだとそう理解した彼はただ沈黙を守る事しか出来なかった。

小蒔「私のこと…婚約者だって…そう認めて…くれたんですよね?だから…これ…私に…」

それでも諦めず京太郎へと呼びかける小蒔の目尻からゆっくりと涙が流れ落ちていく。
つぅと一筋を描くように溢れるそれは止まる事がなかった。
まるで昂った感情が溢れ出るようなその涙を小蒔は拭わない。
そんな事をする時間すら惜しいとばかりに震える声を紡ぎ続ける。

小蒔「それなら…私が三人分…京太郎様の事を愛します…。絶対に満足させて見せますから…だから…」

その言葉に京太郎はそっと首を左右に振った。
勿論、小蒔の提案そのものに惹かれないと言えば嘘になる。
しかし、誰だって他の二人の代わりが出来る訳がないのだ。
既に三人は京太郎の心に深く突き刺さり、抜けないところにまで来ているのだから。
それを亡くした際に出来る隙間を埋めるのはどんな人だって不可能なのは目に見えていた。

小蒔「そんなの…そんなの酷いです…私…それなら…何の為に…」

勿論、小蒔とて自分が必ずしも選ばれると思っていた訳ではない。
彼女の知る和はとても素晴らしい女性で、そして漫もまた強敵であると理解していたのだから。
そのどちらを京太郎が選んでも、祝福しようと思うくらいには二人を認めていたのである。
しかし、京太郎の選択はそんな覚悟すら踏みにじる最低なものだった。
それに今まで尽くしていた日々を全て穢されたような気がした小蒔はそっと項垂れる。

京太郎「あぁ。俺は…最低だ。どれだけ罵って貰っても良い。だけど…俺は…それでも…皆が欲しいんだ」
小蒔「……」

再び紡がれる京太郎の言葉に小蒔は何の反応も返さない。
まるで打ちひしがれたように顔を俯かせ、目尻から涙を零している。
それは彼女の服に降り注ぎ、大きなシミを作るが、小蒔はそれを相変わらず拭うことはなかった。
そんな気力すらないとばかりに悲壮感を漂わせるその姿は京太郎の胸に強い痛みを走らせ、ぎゅっとその歯を噛み締めさせる。

和「…上重さんは?」
漫「うち?」
和「えぇ。何か…ないんですか?」

そんな悲痛な小蒔の様子に和はそっと涙を拭い、扉前に立ち尽くす漫へと問いかける。
そこに縋るような響きがあったのは、もうこの場でそれに否と唱えられるのが漫だけだからだ。
後はもう漫が京太郎の考えを変えてくれる事を期待するしかない。
それが望み薄なのを様々な感情が溢れる頭で理解しながらも、彼女はもうそれに縋るしかなかったのだ。

漫「うちは別にそれでええかなーって」
和「え…?」

けれど、そんな期待は軽い漫の返事によって打ち砕かれる。
まるで今夜の夕食を決めるような軽いそれを和は最初、信じる事が出来なかった。
真剣を超えて悲壮ですらある場の雰囲気にはあまりにもそぐわないのだから。
しかし、それはある意味、この状況の元凶でもある漫にとって嘘偽りのない言葉だった。

和「な、何を言っているんですか!京太郎君は最低な事を言ってるんですよ!!」
漫「うん。それくらい分かっとるよ」

そんな漫を責めるような強い語気に漫はそっと肩を落とす。
こうして落ち着き払っている漫も、一人の女性として和の怒りが分かるのだ。
誰も選べないから全員欲しいです、だなんて幾らなんでも相手を馬鹿にし過ぎている。
幾ら虜になるほど惚れているとは言え、そんな答えを聞かされたら激怒して当然だろう。

漫「でも、現実問題、二人とも京君無しで生きていけるん?」
和「それ…は…」

だけど、それはあくまでもこの状況が普通のものであれば、の話である。
実際、三人は三人とも京太郎の不可思議な能力の支配下にあるのだ。
物理的精神的問わず接触がなければ気が狂ってしまいそうになるその強力な力に和も小蒔も抗えない。
その心は既に京太郎に絡め取られ、彼以外の男に触れられる事すら嫌悪し始めていた。

漫「うちは京君から捨てられるくらいなら死ぬつもりやけど…二人はそうじゃないの?」
和「そんなの…詭弁です!」

まるで自分の愛の深さを見せつけるような言葉に、和は強い視線を返した。
勿論、彼女とて京太郎から選ばれなければ、生きていけるか分からないくらい彼の事を愛している。
しかし、だからと言って全員を選ぶという滅茶苦茶な彼の選択を肯定する気にはなれない。
こんな答えを出すくらいならずっと先送りか、或いは小蒔を選んで欲しかったと彼女の理性はそう告げる。

漫「まぁ、うちは二人が何を選ぼうとまったく関係ないけどね」
和「っ!」

そう言いながら漫はそっとテーブルへと近寄ってくる。
そのまま京太郎の後ろへと回った彼女は二人の前でそっと京太郎を抱きしめた。
後ろからその背中を包み込むようなそれを京太郎は拒まない。
いや、寧ろ、隠しきれない自責を滲ませていた顔を少しだけ緩ませ、漫の事を受け入れるのだ。

漫「どっちかって言えば、二人が京君から失望してどっか行ってくれた方がうちとしては嬉しいし?」
小蒔「あ…」

そんな京太郎の頬を優しく撫でながら漫は二人にニコリと笑う。
まるで二人はそこで座っているのがお似合いだと告げるような底意地の悪いそれに小蒔が微かに声をあげた。
しかし、彼女の身体は微かに身動ぎした程度で、京太郎の元へと駆け出したりはしない。
まるで迷いが鎖になるように、何時もなら考えずに出来るはずのそれを出来なくさせているのだ。

和「(落ち着いて…落ち着くんですよ、原村和…)」

聡明な和は漫の言葉がただの挑発であるという事に気づいていた。
この場で唯一、京太郎の言葉を肯定した漫は明らかに自分たちと同じかそれ以上に京太郎によって支配されている。
そんな彼女が三人の事が欲しいと言った京太郎に逆らえるはずがない。
漫はそれを第一に行動し、その為に自分たちを挑発しに来ている。
だからこそ、ここで和がするべきはその挑発に乗って、京太郎から距離を取るべきなのだろう。

和「(なのに…どうして…それが言えないんですか…)」

挑発に挑発で返すだけで良い。
そう思いながらも和はそれを選ぶ事が出来なかった。
まるで身体がそれを拒否するように、京太郎から離れたくないというように、言葉を紡ぐ事が出来ない。
理性で分かっているはずのそれに身体は従わず、ただただ沈黙だけが四人の中で流れていく。

小蒔「私…は…」

そんな中、ポツリと漏らされた小蒔の言葉に和は嫌な予感を感じた。
さっきまでの悲壮感は消えた代わりに諦観を強く感じさせるそれに和の背筋は冷ややかなものを感じ取ったのである。
しかし、その予感を言葉にする事が出来ないまま、小蒔の口は再び言葉を紡いでいった。

小蒔「どんな…どんな事でもします…エッチな事でも…恥ずかしい事でも…なんでもします…だから…だからぁ…」
和「(っ!いけません!神代さん…っ!)」

ポツリポツリと漏らされるそれがさっきの予感通りのものだと和は感じ取った。
けれど、彼女の口がそれを遮る言葉を放つ事さえ出来ないのは、それが一番、楽な道だと彼女も理解しているからだろう。
何もかもを受け入れて現状維持と割り切り、漫と共に京太郎の寵愛を求めるのが一番、安易なものだと分かっていたのだ。
しかし、それでは京太郎の意識なんて何も変わらず、彼にとって都合の良い関係だけが続いていくだけ。
それを良しとしない和は小蒔に釣られて漏らしそうになる言葉を堪え、ぎゅっと歯の根を噛み締めた。

小蒔「お妾さんでも良いですから…側に…京太郎様のお側に置いてください…」
京太郎「そっか」

最後には涙と共に崩れ落ちるようになった敗北宣言。
それに京太郎は短い言葉で返しながら、その顔に微かな安堵を浮かべた。
けれど、その内心が微かでは済まない安堵があった事を漫だけは知っている。
こうして二人を追い詰める事にどれだけ京太郎が苦悩し、そして今も押しつぶされそうになっているのを彼女だけは分かっているのだ。
だからこそ、漫はそんな京太郎を励ますようにそっと撫で、彼の上で小さく笑みを浮かべる。

京太郎「…おいで、小蒔」
小蒔「う…ぅぅぅっ…っ」

そんな漫にもう小蒔も我慢出来なくなったのだろう。
その口から子どものような泣き声を漏らしながら、小蒔は椅子から立ち上がり、京太郎に抱きついた。
そのまま泣きじゃくる小蒔を京太郎は慰めるように優しく撫でる。
何度も何度も飽きる事がないそれに小蒔はさらに涙を溢れさせ、泣き顔を隠すように京太郎を抱きしめた。

和「(羨ましい…)」

そうして慰めて貰う小蒔の姿に一番、動揺していたのは勿論、和であった。
小蒔ほど目に見える訳ではなくても、和もまた深く傷つき、そして悲しんでいたのである。
未だ涙の跡が残る頬を彼に優しく慰撫して欲しいという気持ちは彼女の中にも少なからずあった。
しかし、それに簡単に従う事が出来ない和はぎゅっと握り拳を震えさせ、三人から目を背けるように顔を俯かせる。


小蒔「あの…原村さん…」

そうして過ごす時間が一体、どれほどのものだったのか和には分からない。
確かな事はそれがきっと数分どころか数十分になりそうなものだったという事だけだ。
何せ、小蒔の声はまだ涙ぐんではいるものの、さっきのような諦観はまったくなかったのだから。
あれほど打ちひしがれていた小蒔が立ち直るまでにはかなりの時間が必要だろう。
しかし、心を閉ざしていた和には、その間にどれほどの時間が経過していたのか分からない。

小蒔「原村さんも…認めませんか?」
和「私…は…」

その言葉に和は言葉を濁らせる。
実際、和自身にも分かっていたのだ。
小蒔が屈してしまった時点で、京太郎の選択を受け入れるしかない事を。
彼に考えなおさせるには、自分たちが手を組んで、京太郎を拒み続けるしか道はなかったのだ。
しかし、二人がめまぐるしく変わる状況に混乱している間に、小蒔の陥落という形でその可能性は弾けて消えてしまったのである。
既に小蒔は京太郎の手先として和の説得に動いている以上、それを後悔してももう遅い。
後はただ押し切られるだけなのは和自身にも分かっていた。

小蒔「私達は…京太郎様に逆らえないんです。愛してしまったから…もう虜にされてしまったから…」

そう言う小蒔の言葉にはもう諦観すらなかった。
寧ろ、まるでそれほどまでに京太郎へと入れ込んでいる事を喜ぶように微かな喜悦すらある。
明らかに歪んだその喜びに、けれど、和は寒気を感じる事はない。
セックスの時には同じ事を思い浮かべる和にとって、彼女の気持ちはまったく理解出来ないものではなかったのだ。
何より、自分ももうすぐああなってしまうと思えば、寒気を感じるような余裕なんてまったくなかったのである。

小蒔「それに…二人も三人も…同じでしょう?それなら…私、原村さんも一緒が良いです」
小蒔「一緒に頑張ってきた原村さんと…どれだけ京太郎様の事を愛しているか知っている原村さんと一緒が…良いんです…」
和「神代さん…」

説得を続ける小蒔の言葉は完全に良心からのものだった。
小蒔とて自分が屈した以上、和に勝ち目などない事くらい分かっているのだから。
それならば師匠であり弟子でもあり、そしてライバルでもある和が意地を張って苦しまないようにしたい。
勿論、そこにはここまで来たら京太郎の思い通りにしようという自暴自棄に近い考えがなかった訳ではないが、一番大きなものはそれだったのである。

小蒔「京太郎様なら…きっと皆…幸せにしてくれますよ」
和「…」

そんな小蒔に和が沈黙を返すのは、それは彼女自身にも分かっている事だからだ。
和が知る須賀京太郎という少年は責任感が強く、誠実で、そして優しいのだから。
ここで自分が頷けば、傷ついた分だけ幸せにしようとしてくれるのは分かっていた。
それに心が強く惹かれる心は、キッカケさえあれば一気に屈してしまう。
そう自覚するが故に、和は小蒔の優しさに言葉を返す事が出来なかったのである。

和「(私にだって…分かっているんです…)」

このまま意地を張り続けても、ジリ貧ですらない。
結論を先延ばしにしているだけで、妥協点すら探る余地はないのだから。
しかし、そうと分かっていても彼女はどうしても首を縦に振る事は出来ない。
そんな和の心に共感するようにリビングは再び沈痛な沈黙が支配す始めた。

漫「よし。それじゃ麻雀しよう」
京太郎「いきなり何言ってるんですか」

その沈黙を破ったのは漫の明るい声だった。
相変わらず場の雰囲気にそぐわないそれに思わず京太郎がツッコミを入れてしまう。
こんな状況を作り出す主因である彼とは言え、追い詰めるような真似をして悪いとそう思っているのだ。
痛々しい沈黙が支配する中であくまでも遊戯でしかない麻雀をやろうだなんて、流石に失礼ではないだろうか。
漫の考えを見通す事など出来ない彼はそう思っていたのである。

漫「雀士が四人揃っとるんやで?そりゃやるのは麻雀しかないやろ」
京太郎「いや、だからって今のこの状況で…」
漫「能力全開のガチ麻雀や言うても?」
和「っ!」

その声は相変わらず明るいものだった。
けれど、そこに込められていた残酷な響きに和は思わず息を呑んでしまう。
この場にいる全員は一度は京太郎と対局し、その能力を受けているのだから。
その所為で京太郎の理不尽な選択に抗えない和にとって、それは死刑宣告にも近いものだったのである。

和「(もう一度…京太郎君からアレを受けてしまったら…)」

これまで自分の中に疼きを抑え、それと向き合ってきた和には多少の耐性がある。
しかし、京太郎が和了る時に受けたものは普段のそれとは比べ物にならないものだったのだ。
それまでただの部活仲間としか思っていなかった相手を求めてしまうほどのそれを支配されている状態で受ければどうなるのか。
今までそんな経験こそないので分からないものの、きっと自分の理性を打ち砕くのには十分過ぎるものだろう。
それに和はゴクリと生唾を飲み込み、その指先にぎゅっと力を込めた。


漫「とは言え、勝った負けたは時の運やし、三人敵扱いなのは不利やろ」
漫「だから、ちょっとルールを変えて…東風戦で原村さんが一回も京太郎に振り込まへんかったら原村さんの勝ちって事にせえへん?」

それが期待によるものか、或いは恐怖によるものかすら分からない和の前で漫がそう説明を始める。
普段やっている麻雀よりも幾分、勝利条件の緩いそれは確かに和に対して有利にするものだった。
東風戦は対戦形式の中では最も短く、最短で四回しか行わないのだから。
その間、京太郎からだけ逃げまわるのは決して難しい事ではない。

漫「それが出来たら、うちも京君に考え直すように言ってあげる」
京太郎「…いや、実際、考えなおすよ。そうしないと流石にフェアじゃないだろ」

そう漫の言葉に合わせる京太郎は、彼女の意図を察した訳じゃない。
二人が来る前に多少の打ち合わせこそしていたものの、こんな事を言い出すだなんてまったく聞いていなかったのだから。
しかし、それでも漫が自分の為に動いてくれている事だけははっきりと伝わってくるのである。
それならば、ここで自分がするべきは確実に勝負の場へと和を引き入れる事。
そう思った京太郎の言葉に和は小さく頷いた。

和「(どの道…このままじゃ私の負けは確実ですし…)」

圧倒的に自分の方が有利なその条件。
それに罠を感じ取らないほど和はお人好しではない。
しかし、それでも虎口に飛び込む他に和には道がなかったのだ。
このままではジリ貧にもならない以上、和は罠だと分かっていても一発逆転に賭けるしかなかったのである。


漫「じゃ、ちょっと待っててな」

和の首肯にニンマリと笑みを浮かべた漫はそっと京太郎の背から離れる。
そのまま再び洗面所へと戻った彼女は数秒後、小型のシートと箱を持って現れた。
小さなテーブルにも並べられそうなそれは勿論、麻雀の道具である。
暇潰しの道具としてバスへと持ち込みながらも、広げる場所がなくて断念したそれを漫は喜々としてテーブルへと広げていった。

小蒔「わぁ…可愛い」
漫「ええやろー?これ、ドン○で売っててん」
小蒔「ド○キ…ですか?」
京太郎「ドンキホーテって言う総合ディスカウントショップだな。長野にもあるし、今度、一緒に行ってみようか」
小蒔「はいっ。えへへ…デートですね」
和「…」

そう和やかな会話をする三人に対して、和は終始無言だった。
これから変則的なものであるとは言え、三人を相手にする事になるのだから、にこやかに会話をする気にはなれない。
しかし、それでも、どことなく疎外感めいたものを感じてしまうのは、和自身も其の中に入りたいと内心、思っているからだろう。
意地というごく一部の部分を除けば、和は既に負けを認め、一人仲間外れにされる事に寂しさを覚えていたのである。

漫「じゃ…そろそろやろうか」
小蒔「…はい」
京太郎「あぁ」

とは言え、そんな三人も麻雀の準備が終われば真剣な表情になる。
それはこの短い東風戦がお互いの未来を決めるものだと分かっているからだ。
この結果が一体、どうなるのかは分からない。
しかし、それでも後悔のないように一生懸命やろうと四人は簡易式の卓に着いた。