168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 15:13:19 ID:gFyOZvHU

県予選、大将戦――――。
「無聊を託つ……」
特徴的なヘアバンドをつけたどこからどう見ても小学生にしか思えない高校生が、ぽつりと言い放ったその言葉の意を知らずとも、雰囲気から何かに失望したことを読み取る三人。
異様な気の波の底で静かに、しかし確実にもう一人の魔物が動き始める――――。
「……そろそろ、御戸開きといこうか」
敵意を持った視線が迷うことなく咲を射抜く、威圧と共に紡ぎ出された天江の言葉を始まりに、咲は自らの体が萎縮するのを感じた。
他の者は気付いているのかいないのか、少なくとも対面に座る池田は天江と少しのやり取りをしているが、既に彼女の耳には届かない。
――――予選、自身が相手校の一つを飛ばし誇らしい気持ちで戻ってきたときの事をこの県予選決勝戦にて不意に咲は思い出した。
しかしながら、彼女はそれが走馬灯に似たものだとは気がついていない。
ともかく思い返してみれば、今自身がこの卓につき、自身と鎬を削るほどの強敵とこうして麻雀をうっていることは全てあの男に起因するものだ。
あの男――――京太郎その人が自分を連れ出してくれたのだ。静かで平凡な日常から、例えるのならば海原を船で渡るような心躍る冒険へ……。
しかし今自らの小船はこの嵐で転覆寸前、この身にまとわりつく波の重圧も、空から刻一刻と近づいてくる月の強圧も恐ろしいものでしかありえない。
……そして、何よりも仲間内で打って心と腕を通わせていたあのときとは違い、今はひとりなのだ。
もしかしたら何よりも重いのは、――――思い。控え室で待つ仲間の期待かもしれない。
もしもその荷物をいっそ海に捨て去ってしまえば、軽くなった船はこの波に耐えられるだろうか――――?
そう考えて、しかし刹那に考えを捨て去る。
確かに、大きなうねりから生きて帰る事を第一にするのならば荷物は少ないほうがよい、しかしそこで捨てた荷物は当然のことながら二度と帰ってこないのだ。
来年部長は、もう居ない。そして彼女はまだ知らないが、もしも負けたら原村和は転校してしまう。
つまりはもう二度と、このメンバーでこの場所に来ることはできないのだ。
頭を振り、気息を整える。だが、不快感はぬぐえない。それは、ほかの二人も同じようだ。
――――まるで、そう……――――海の底に引き摺り込まれるかのような――――……
加治木が最初にあげたこの考えは、しかしそこにいる天江以外の全ての考えであった。
いまや咲の心の中にもマージャンをやっている時に感じるあの踊るような爽快感どころか、自らにまとわりつく一種の閉塞感しか感じることができなかった。

南一局、北家・池田
咲の対面、捨牌等の情報から推するに染め手である、しかも倍満を狙えると咲は考えた。
――――しかし、考えただけで咲の意識はほかに向いた。
勿論当たれば痛いどころではすまないが、逆にあたらないとも考えていることもまた事実だからだ。
その池田も、本来ならその厚かましさを全面に押し出したような笑顔を見せるはずだが、今は苦い表情を隠さない。
既にその理由も意味も咲は理解している。池田とは対照的に屈託の無い笑顔を卓に向けている、彼女がその答えだ。
――――またあの子が海底……。
時折鈍いところを見せる咲だが、頭の回転はけして悪くは無い。
池田の倍満よりもそちらの方に危険を感じた彼女は、即座にカンをして海底へのコースを天江からはずす。
嶺上開花には持ち込めなったが、それでも聴牌の形に動かせた彼女の顔から陰りがほんの少しだが消えた。
しかし、逆にそれを訝しげにみる者も居る。
――――嶺上開花では、ない……のか。
咲の捨て牌を見ながら、鶴賀高校加治木は、王牌に視線をずらした。
確かに海底は天江から遠のいたが、危険自体が遠のいたかというと、三校が三校間違いなく首を横に振るだろう。
安全とは到底いえないその脆すぎる橋を渡るために、天江に新ドラ三つを渡してしまったのだから。
加治木は、進まない手をみて苦笑いを浮かべながら牌を捨てた。
そして、あろうことか数巡後。池田の捨て牌をチーした天江に、再び道が作られた。
先刻の咲の行動により、和了られてしまうと最低でも12000はもっていかれる事態に相成ったのだ。
目の前にあるその光景を認識したとき、咲の心臓は一度大きく爆発した後徐々にその速さを伸ばしていき、呼吸と鼓動の早さが咲の冷静さを失わせていく。
やがて海の底が見え、同時に三校にいよいよ焦りが見え始める。だが、結局その局は加治木の機転により天江に海底が回る事はなかった。
一度彼女は深呼吸をし、早鐘を少しでも鎮めようと努めた――――。

南二局、点数版に記された天江と咲の点差は、わずか100。逆転しようと思えば、安い手を一つ上がるだけで再びひっくり返るというのが一般論だが、そんな甘い考えを抱いているものは、この卓において。
――――いや、控え室にいるものですらも考えるものは皆無だった。それほどに、天江がこの三局で与えた衝撃は大きかったのだ。
親を流され、一見天江の威圧は影を潜めたように見える。
――――しかしその卓に座っているものにしかわからない重圧、例えるならば鶴賀の副将東横桃子がカメラ越しには見えるが、卓の者にはほとんど見えなかったというのと似ているだろうか。
何かに締め付けられるような感覚とも、押しつぶされるような感覚とも似ているそれは、観戦者に見えないところで確実に彼らの戦意をそいでいった。
深緑に覆われた小さな戦場を覆うように、静かに夜の帳が下りる。その到来を知る者は少なかったが、いよいよ月の引力が満潮を引きつれ、まもなくその場ごと彼女たちを襲うだろう。
まだ見ぬ自らに降りかかる試練の存在を知らない彼女らは、各々が自身の思惑にて天江の支配――――運命に抗うべく展開を始めている。
彼女にとってはもう見慣れた光景ではあるが、やはり快いその様子を、天江は楽しそうに口端を吊り上げ、笑いながら見ていた。
そしてその中でも彼女が興味を持ったのは、やはり咲だ。嶺上使いである咲を、自分に匹敵するような魔物を屈服させているという事実が、衣の心をことさら愉快にさせている。
しかしその衣自身にも、一つわからないこともあった。今その咲が、いったい何を考えているかだ。周りで萎縮をしている敗北者に興味は無いが、この尋常でない打ち手が、何を支えにして戦っているのか?
この戦いを自分が心行くまで楽しむには、やはりそれをたたき折ってやるべきだという思惑を持って天江は観察を続けていたが、どうにもよく分からない。
――――というよりは咲の考えていることは自分ではなく他人の、特に結びつきの強い友達などのことなので、繋がりを失って久しいと考えている衣には理解ができないのだ。

そう――――今咲は仲間と、特に心を京太郎に染めていた。母と姉が出て行ったときから今まで、辛いときはいつも彼がそばに居て支えてくれた。
いつしか自分の中に芽生えた感情が恋だということに気付いてからも、この内気な性格が仇となり、それを口に出すことができなかった。……本当は、不安で仕方なかった。
このときまで、彼に恋人ができなかったのは幸運というほか無い。
勿論、自分は憎からず思ってはいるので、クラスメイトにたびたび冷やかされたこともあるが、そのとき自分の心はいつも、そうなれたならばいいのに――――と言いようも無い感覚に陥るのだ。
彼が自分以外の女性の事を彼自らの願望に沿って妄想するとき、彼女の心は千々に乱れた。そう――――あの時も、そうだった。いかにも京太郎が好みそうな巨乳の女子、しかもそれが同じ一年とあって咲はたたきつけられたような衝撃を覚えた。
しかし、その時にそれらの憂き目が全て吹っ飛んだ事も鮮明に思い出す事ができる。
――――咲にも、取り柄があったんだな。
初めて部室で勝ちを目指したうち方をしたときに彼が発した何気ないその一言で、自分の麻雀をやるという行為に対し、一つ大切な意味ができた。
内気で、容姿成績など何も彼にアピールできるところがない自分が、自分自身に対して唯一心から自信を持てたのだ――――。
その甘い思い出から、意識を卓に戻す。
「会いたいよ……京ちゃん――――」
唇は動かずとも、口からその言葉――――そういうには語弊があるかもしれないが、少なくともかすかな音が漏れる。衣には、聞こえていない。
――――そばに、……居てほしい……。
肩を並べて、ともに先を見据える戦友を挙げるならば間違いなくそれは原村和その人だろう、しかし今自分を支えてくれる人はその人ではなく、あの……。
「京ちゃん……助けて……」
再び、咲の心が悲鳴を上げる。はたから見てもわかるほどに震えている、彼女の双眸から涙がこぼれそうだったが、彼女はそれに耐え、今も県内に中継されているだろうカメラを見た。
今彼は、京太郎は部長に言われ買出しでもしているところだろうか? ……それとも、彼もカメラ越しにこちらを見ているだろうか? ――――願わくは後者であってほしい。
「リーチ」
だが、次の瞬間にその視線は再び卓に注がれる。今まで一向聴の渦にとらわれていた中から高らかにリーチが放たれたのだ、それに驚愕の色を見せながらも、次に池田は牌を持ちその処遇にて悩む。
――――捨牌キモっ。
一発を避け、安全策をとるには現物である二萬を捨てるべきだ。しかしそれでは、若干だが聴牌できる可能性が低くなる上に完成形にかかる点数の期待値が小さくなる。
現在四位であることを考えれば、多少危険でもここは攻めるべきと池田は考えた。
――――この点差だぞ、イーシャンとは言え迷う事などあるものか!
勇んで捨てた池田だが、捨てた瞬間無情にも加治木の牌は倒され、ロンと言う声が起こる。後悔しても……もう遅い。
猫は虎穴に入り、虎児を得る前に不幸にも親の尾を踏んでいたのである、当然餌となるしか道は無い。
「リーチ一発チートイ……」
顔色が青くなり、呼吸を忘れた池田を尻目に加治木が裏ドラをめくる。そこにはイーピンが、まるで池田をあざ笑うかのように視線を突きつけていた。
息を呑んでなんとなしに天江を見ると、彼女もまたイーピンと同じ種類の笑いを表情に出していた。もはや池田にはそれが天江の操る禍々しい月としか映らない、体の芯から寒さが湧き上がり、彼女の全身が震えた。
「裏裏……12000!」
加治木の言葉にて、更なる圧がかかる。感情が噴出すのを必死でこらえながら、点数箱を開ける。点差はさらに開き、絶望に心をうたれた池田の手から点数棒が奪われた――――。

「咲――――!」
「宮永さん!」
「…………」
清澄高校控え室、声を上げたのは二人。
そのほかはただ、黙して彼女――――咲を見る。
そこには数通りの思惑があろうが、声をあげた者はかたや戦友として、そしてかたや彼女を最も大切な存在として、どうにもならないながらも消すには難い、もどかしい思いをモニターにぶつけた。
そのモニターには、加治木、そして咲の異変がありありと示されていた。
唯一池田だけは何が起こったかわからないという顔をしているが、加治木はおもわず席を立ち咲にいたっては吐き気を催すほどの悪寒に襲われている。
それを見た京太郎は、唇をかみながらこぶしを握る。今はただ、咲の心が壊されないことを祈りながら必死で耐えるしかできることは無いのだと、誰に言われたわけでもないが、京太郎はそこに考えを漕ぎつかせた。
「咲………がんばれ!」
京太郎の言葉とほとんど同時に、場の雰囲気が一変した。再び天江の支配が、場を襲い始めたのだ。いくら麻雀の腕が拙い京太郎でも、それは見て取れる。
「宮永さん……」
震える声にふと、横を見る。苦い表情と共に原村は既に顔を背けていた、その態度に少しの不快感を覚え文句を言おうとしたが、何かを宥めるかのような部長の細い視線によって、喉まで出掛かっていた言葉が不満とともに下がっていく。
――――咲を、信じていないのかよ。
そんな言葉が、腹のうちで響く。
もしも信じているのならば、何で彼女が受けている苦しみから目をそらすんだ。なんで、彼女に声援を送る事をしないのだ。自分の意見を眼でぶつけるかのように、彼は視線をうごかした。
攻めるようなそれから顔をそらした原村を視界からはずし、副部長の染谷まこ、ついで部長に意見を求める。
「――――須賀君、落ち着きましょう」
しかし自分の望んでいる返答は得られなかった。微笑を浮かべながら話す部長に対し、しぶしぶと京太郎は席に戻る。
少し硬い手触りのソファーに手にかいた汗がじんわりとしみこむ。それが乾ききるころには、既に背中に冷や汗をぐっしょりとかいていた。
控え室の中は外より格段に心地よい空間だ、そこでそれだけ嫌な汗をかくということは――――。
京太郎の溜息が一つ口から出て、もう一つが同じタイミングで右隣から発せられた。訝しげにそちらを向くと、やはりそちらも同じようにこちらを見てくる。
こういうからかい方をするのは、この部には一人しかいない。
「大丈夫だじぇ! 咲ちゃんはきっとやってくれるじぇ!」
不覚にも、一瞬だけ原村和よりもこの娘のほうに共感を覚えた。そして次に意図を考える、自身を元気付けるために言ったのか? それとも何も考えていないのか?
語尾に特徴のある能天気な声がその後に二度三度飛んできて、彼は二度目の溜息とともに苦笑いを漏らした。
少しだけ、少しだけだが楽にはなった。だがしかし――――。
モニターに目をやる、状況は好転せずいまだに天江が大立ち回りを演じている。
「世界が暗れ塞がるとともに――――お前たちの命脈も尽き果てる!」
あの魔物に、あの威圧に対し、既に咲は白旗をあげかけている。戦意を復活させなければ、一敗地にまみれるのは時間の問題だ。
否、既に半分はまみれている状態といってもよいだろう。ともかく幸いにして、この局が終われば休憩時間。
池田が連荘しないことだけを祈りつつ、目の前にあるコップをとった。冷めかけたコーヒーをのどに流し込み、顔を数度振る。やはり、拭えぬ物は拭えない。
前半戦南四局は、恐々とした中で天江が牌をつもり、終わった。
当然、点差は開いていく事になったのだ。

休み時間、京太郎はすぐさま咲の下へと向かう。控え室から出るときに、部長などから含みのある笑顔を背中に向けられたが、気にしている余裕など無い。
速さの劣る原村を引き離し、彼は咲を探す。
長く付き合っていた故に、今の先が一番危険なことを彼は知っている、元々彼女を引き込んだのは彼だがこんな苦しみを味わわせる事になってしまったことに対し、彼は申し訳なさでいっぱいだった。
女子トイレ、仮眠室、階段などを回って程なく咲を見つける。さすがに女子トイレに入るのは抵抗があったので、彼女を外から呼びかけたが、それでも恥ずかしい事は恥ずかしい。
だがすぐに忘れ去られるちっぽけな自分の悪評よりも、今は咲のほうが大切だと心に何度も問いかけ探した事を、彼女はしる由も無い。
――――はずなのだが、咲は京太郎を見ると、泣きそうな顔で無理やり笑顔を作り、一言つぶやく。まるで彼の言いたい事や、今の今までやってきた事を全て理解しているかのような口調だった。
「ごめんね……京ちゃん」
その言葉で胸がいっぱいになった京太郎は、人目もはばからずに彼女を抱きしめた。青年男性の大きな体躯が咲の小さな体を包み、京太郎の色素の薄い髪が時々咲の頬に当たる。
「――――何いってやがるんだよ……馬鹿じゃねえのか」
今までこんな事をされた事がない彼女は、内心驚きと喜びとが混じった状態になった。しかしすぐに掠れた声、次いで小刻みに揺れる肩と彼の異変に気がついた。
京太郎が今どのような顔をしているか、付き合いの長い咲には十分に理解ができる。だが――――。
視線を横にちらと動かすと、幸いにも京太郎の泣いている姿を見て、野次馬たちはそれぞれがはしたないと思ったのか自分たちの興味を押し下げていずこかへと消えていく。
すぐに長い廊下にしん、とした空気が彼らと入れ替わりに入ってきて、二人は少しだけ落ち着いた。息を整えた京太郎が、再び発した。
「馬鹿じゃねえのか、一番辛いのはお前だろうが」
あの天江を相手にさせてしまった事、自分があの時に麻雀に誘わなければよかったと京太郎は吐露する、そうすればこんな恐怖や苦しみを味わう事もなく、平凡な日々を享受出来たはずだったのに。
咲が、少しだけ京太郎から体を離して彼と目を合わせる格好になる。とはいえ、二人の距離は息がかかるほどに近く、互いの眼の奥に吸い込まれそうな錯覚を二人は覚えている。
その感覚に少しだけ心地よいものを覚えながら、やがて不意に咲が首を横に振った。
「私が、……私が望んでここまで来たんだから、いいの。ありがとう」
ごめんねから、ありがとうに。その言葉の違いだけでも、彼にとっては何にも変えがたい喜びであった。
少し離れた咲を再び引き戻し、今度は逃がさないようにぎゅっと力を入れて抱きしめる。

「ちょっ……痛いよ、京ちゃん!」
「…………」
「――――京ちゃん?」
「逃がさない」
「え?」
「離したら、またあそこへ行っちまうだろ。もういいんだ、お前はよくやった」
「京……ちゃん」
今度は咲に涙が溜まる番だった、咲もまた彼の背中に腕を回して抱きとめる。彼に体を預けてふと眼を閉じると、彼の心臓が早鐘を打っているのがよくわかる。
京太郎には見えなかったが、彼自身の温もりが肌を伝わって咲の元へと伝わると、少しの笑顔とともに彼女の頬は紅葉を散らしたように赤くなった。
相変わらず、彼の抱擁は強い力にて続いているが、実際に痛みを感じたのはほんの一瞬以下だ――――むしろ感じなかったといっても差し支えはない。
それでも痛いといったのは、周りにいる人に見られるのが恥ずかしかったからと、彼女自身困惑していたからに相違ない。
すぐに離してほしかった先ほどとは逆に、咲はこの時間が永遠に続けばよいとさえ思った。少し時間を置いてから、とても安らかになった彼女から澄んだ声がつむがれた。
「――――京ちゃんのおかげで、私自分に自信が持てた。京ちゃんのおかげで、麻雀が楽しいものになった。京ちゃんのおかげで……」
「咲……」
「聞いて、私京ちゃんからいろんなものをもらったわ。それはとてもとてもすばらしい物だったけれど、どうしてももう一つだけほしいものがあるの」
「……」
「京ちゃん、私――――貴方が好き。この世界で、誰よりも好き」
すぐに少なからず後悔した、言った、言ってしまったのだと。そう理解した刹那に、京太郎の鼓動が消え代わりに自身の鼓動が爆発をするかのように大きく高鳴るのに気がついた。
先ほど彼の鼓動が聞こえていたのだから、今は自分の鼓動が相手に伝わっていると咲はすぐに思い当たる。
咲の手に、さらに力が入る。――――今、彼の顔を見られる余裕は無い。逃げたいが、返事を聞きたい、でも絶望はしたくない、それでもこの手を離したくないといろいろな感情がせめぎ合い、しばし時を忘れた。
「――――咲」
彼が、神妙な面持ちで口を開く。
「俺で、俺なんかで、本当にいいのか」
望んでいた言葉のはずだった、しかしその煮え切らない態度にかっ、と咲は言い放つ。
「俺なんかで……って何よ? 私は貴方がいいって言っているじゃない! そうよ、ずっと京ちゃんが好きだった。
ほかの娘の事なんて聞きたくなかった、私だけを見ていてほしかった! でも……でもいえなくて……やっといえたのに……」
私はこんなにも醜い、と咲はその後に続ける。今まで積もり積もった、募って貫き続けた思いの丈が一気に噴き出したのだ。
咲がこんなに感情を表に出す事があっただろうか? 京太郎は自らの記憶をたどりにたどったが、ついに出てこなかった。
ポタリ、と咲が流した涙が京太郎の制服にしみを作る。
この涙を醜いというのならば、今この瞬間の咲が醜いというのならば、自分はこの世の何者にも劣ると考えた京太郎は、すぐに自らの愚かさに気がついた。
咲の鼓動は、彼女の気持ちが真実であることを何よりも雄弁に語っているというのに。

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