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―― コンコン

「…ん?どうぞ」

―― ガチャ

「…京ちゃん、晩御飯出来たっておばさんが…」

「あー…そっか…」

「京ちゃん?」

「…悪い。まだ良いや」

「…どうしたの?何かあった?」

「いや…なんでもない」

「…なんでもないって顔じゃないよ」

「それでも…今はほっといてくれ。明日からは普通にするからさ。だから…」

「…やだ」ギシッ

「咲…?」

「京ちゃんが話してくれるまで…私、ここ動かないから」

「…いや、でも…」

「良いの?このままだったら可愛い可愛い幼馴染が餓死しちゃうんだよ?」

「自分で可愛いとか言うなって」クスッ

「…ま…それなら仕方ないかな」

「咲が頑固なのは知ってるし…それに前みたいに漏らしそうになられても困るからな」

「あっあの時の事は言わないでよぉ」カァァ

「はは。悪い悪い」

「もう…っ!…それで…何があったの?」

「いや…まぁ、端的に言えば振られただけなんだけどさ」

「振られた…?」

「そ。見事、玉砕。嫌いとまで言われたぜ」ハハッ

「…京ちゃんが…」

「まぁ、俺も色々、がっつき過ぎたんだろうなぁ…」

「…そうかな…?」

「そうだって。まだあの事件から立ち直っていないだろうに…好きだとか言ってる時点で苦手意識持たれてもおかしくないのに…」ハァ

「…好きだって…そう言ったの?」

「あぁ…まぁ…はっきりと言った訳じゃないけど…あの反応だともろバレだっただろうなぁ…」

「そう…なんだ…」

「私にもまだ言ってくれた事ないのに…」ポソッ

「…咲?」

「ううん。なんでもないよ」フルフル

「それで…原村さんが嫌いって…?」」

「あぁ。まぁ、面と向かって言われた訳じゃないけど…はっきり大嫌いって言って…」

「ってなんでバレてるんだよ…」

「そりゃ…まぁ…京ちゃんだし」

「…そんな分かりやすかった?」

「多分、気づいてないの原村さんだけなんじゃないかな」

「あー…実際、部長たちには気付かれてたっぽいしなぁ…。まぁ、背中押したりしてくれたし、それはそれで良かったんだけど」

「へぇ…そう…なんだ…」

「んで…まぁ、身分不相応な恋に敗れた京太郎は落ち込んでる訳ですよ」

「高嶺の花って最初から分かってたのになぁ…途中から調子のりすぎて…このザマだ」ハァ

「京ちゃん…」ナデナデ

「あー…悪いな」

「ううん。いいよ。京ちゃんだって私が辛い時こうして撫でてくれたし…」

「それより…泣いちゃっても良いんだよ」

「ばっ!そ、そこまで情けなくないっての!」

「でも…脈なしなんでしょ?」

「まぁ…そりゃ…なぁ…」

「だったら思いっきり泣いて…吹っ切った方が良いんじゃない?」

「そりゃそうだけど…でも、お前の前で泣くのはプライドが許さない」

「え…どうして?」

「俺にとっちゃお前は手のかかる妹みたいなもんだからな。妹の前で兄貴分が泣いたり出来ないだろ」

「妹…妹かぁ…」

「あー…嫌か?」

「ううん。嫌じゃないよ。………今は」

「ん?」

「それより…これからどうするの?」

「どうするって…?」

「麻雀部。そのままだと居心地悪いでしょ?」

「そうなんだよなぁ…和も俺が麻雀部に居たら来づらいだろうし…退部すっかなぁ…」

「そんな!勿体無いよ!」

「でも…麻雀部にとって俺と和のどっちが大事かって言えば、そりゃ和の方だろ」

「和がいれば団体戦にだって出れるし…いや、それどころか、インターハイ出場だって夢じゃないんだぜ?」

「それは…そうかも…しれないけど…」

「でも…京ちゃん、麻雀好きなんでしょ?」

「まぁ…そうだけど…でも、麻雀そのものは部活に入ってなくても出来るしな」

「最近だとアプリもあるし、ネット麻雀だって充実してるし…リアルで打ちたいなら雀荘だって…」

「…そんなのダメだよ」

「原村さんの為に京ちゃんが退部するなんて…絶対ダメ」

「…咲?」

「…それより…私にいい考えがあるんだけど…」

「考えって…」

「京ちゃんが退部しなくて、原村さんとも必要以上に気まずくならなくて…部長さんの夢も叶えられる方法」

「…本当にあんのかそんなの?」

「京ちゃんは私のこと信じられない?」

「いや…そんな事ないけど…」

「だったら…私ともっかい付き合おう?」

「……は?」

「…ダメ?」

「い、いや、ダメっていうか…どうしてそんな結論に達するんだよ」

「だって、私と京ちゃんが付き合ったら、原村さんも安心出来るでしょ」

「まぁ…もう興味がないってそう思われるだろうけど…」

「それで京ちゃんも原村さんとギクシャクしないで済むし、部内の空気だって悪くならないし…良い事ずくめだよ」

「そもそも…お前はそれで良いのかよ?」

「え?どうして?」

「どうしてって…お前が言ってるのって偽装交際だぞ?」

「噂だって立つし、色々冷やかしだって…」

「そんなのもう中学で慣れてるもん」

「…咲…」

「それに…私…嫌じゃないよ?」

「京ちゃんだったら…例え偽装でも…大丈夫だもん」

「いや…でも…」

「…京ちゃんはまだ原村さんの事好き?」

「そりゃ…まぁ…」

「だったら…原村さんの為にも…偽装交際…しよ?」

「そうすれば…全部、上手くいくんだから」

「…本当にそう上手くいくかな…ぁ」

「大丈夫だよ。私が京ちゃんに嘘吐いた事がある?」

「それとこれとは話が別だろ」グイー

「うにゃ」ノビー

「でも…有難うな。相談に乗ってくれて…少し気も楽になった」スッ

「…これくらいお安い御用だよ」

「ま…偽装交際の件はとりあえず…脇に置いとこうぜ」

「でも…」

「明日…もし、俺が顔を出す事で…部の空気が悪くなるみたいだったらさ」

「え…っ?」

「…悪いけど…頼めるか?」

「…うんっ」

「…本当、ごめんな。俺に出来る事なら…何でもするから…」

「大丈夫だよ。困った時はお互い様だもん」

「それに…」

「…ん?」

「ふふ…なんでもない。それよりほら、夕飯食べよ」

「おう。そういや今日なんだっけ?」

「酢豚だって。私も手伝ったんだよ」

「そりゃ胃薬用意しといた方が良いな」

「もうっ!京ちゃんったら!」


-------------


「…ただいま戻りました」

そんな私が家へと戻った頃にはもう夜の九時を大きく過ぎていました。
しかし、ダイニングは暗く、家からは物音らしい物音がしません。
ただ無機質な家電製品の駆動音だけがその空間を支配していました。
それに私は小さく肩を落としながら、テーブルの上にレジ袋を置きます。
そして、その中から材料を取り出し、料理を始めるのでした。

「……」

その間、私は勿論、無言です。
誰もいない家の中で独り言を言うほど私は酔狂ではありません。
しかし…今日の私はその主義を曲げたくなっていました。
まるで一人で居るという事を認めたくないように…口から言葉が飛び出してしまいそうになるのです。

―― …もう宮永さんは…家に帰ったでしょうか…。

それを抑えこむ私の脳裏に浮かんだのはさっき別れた彼女の事でした。
私と同じく家事を担っている宮永さんもまたきっと今頃は夕飯の準備をしている事でしょう。
でも…きっとそれは私のように…一人ぼっちではありません。
今日はお父さんが帰ってくるのが早いと言ってかけ出した彼女は…少なくとも一人ではないのです。

―― いえ…もしかしたら…須賀君も一緒かもしれません。

夜遅くまで部活をしていた宮永さんを心配して須賀君が迎えにいってもおかしくはありません。
そのままの流れで三人で食事をする事になる可能性は、決して低いとは言えないでしょう。
もしかしたら…そのままお風呂まで入って…部屋で二人っきりになっているかもしれません。
そして…その後、二人は… ――

「…あ…」

瞬間、私の指先に熱が湧き上がります。
それにふと視線を下げれば、そこには真っ赤な何かが漏れだしていました。
まるでインクのように鮮烈なそれは不恰好に切り揃えられたナスの上に転々と滴っています。
それを数瞬ほど眺めてから、私はようやく包丁で指を切ってしまったのだと理解しました。

「……どう…しましょう…」

そうポツリと言葉を漏らしながら、私の身体は動きませんでした。
勿論、私にだってそれが早く消毒し、止血しなければいけない事くらい分かっているのです。
少なくとも今夜使う予定であった茄子の上に置きっぱなしでは味が堕ちてしまう事でしょう。
しかし、そう理解しながらも私はぼぅっとそれを見つめたまま、動く気になれません。

―― 普段なら…こんな事ないのに…。

幼い頃から包丁の使い方を叩きこまれたのですから。
普段は決してこんなミスはしませんし、茄子だってきちんと均等に切りそろえる事が出来るのです。
しかし、今の私はまるでそれが嘘のように不器用で、普段出来ている事が上手く出来ません。
その理由を反射的に探った瞬間、私の脳裏に恋人繋ぎをする二人の姿が蘇ったのです。

「いやっ!」

それを振り払おうと動かした手から包丁がすっぽ抜けました。
そのままステンレス独特のガシャンという音を鳴らしながら、それはフローリングの上で暴れます。
数秒後、それは音と共におとなしくなりますが、私の胸は決して穏やかではありませんでした。

「あれは嘘…あんなの…見間違え…聞き間違えです…」

ブツブツとそう漏らす言葉は、何か意味のあるものではありませんでした。
そうやって言葉にしたところで決して現実は変わらないと私は理解できているのです。
しかし…それでも私はそれを止める事が出来ません。

「夢…夢なの…だから忘れて…違うんです…」

ですが、どれだけ言っても胸のざわつきは収まりません。
さっきまで平静を装えていた分のゆり戻しが来たかのように…私の心は揺さぶられているのです。
まるで大嵐に悲鳴をあげる家屋のような心に、私の手は反射的に顔へと伸びました。
そのまま視界を閉じるように両手で顔を隠した瞬間、私は自分の指先から血が流れている事に気づいたのです。

「あ…あぁぁ…」

けれど…須賀君はそれを心配してはくれません。
勿論、知ったら…彼は何を置いてもまっさきに私の所へと来てくれるでしょう。
しかし、須賀君が今、いるのは…私の傍ではないのです。
アレだけ可愛いって…好きだって言ってくれた私の傍にいなくて…私を…護ってもくれません。

―― でも…知らせれば…知れば…きっと…飛んできてくれますよね…?

だって、彼は身を呈してストーカーから私のことを護ってくれたのです。
自分が死んでしまうかもしれない恐怖と戦いながら、私の事を護ってくれたのです。
きっと今だって…私が怪我をした事を知らせれば、誰よりも早く私の傍に駆けつけてくれるでしょう。

「電話…電話…しないと…」

追い詰められた私にとって、それは唯一の救いでした。
ふらふらと震える足を動かしながら私はカバンへと近づくのです。
そのまま血が流れ出るのも構わずに…私はそこから携帯を取り出しました。
そして慣れない手つきで電話帳を開き、そこにある須賀君の番号を押したのです。

―― 後は通話ボタンを押せば…須賀君はきっと来てくれる。

そう思いながらも私の指が中々、それを押す事が出来ません。
あとほんの少し力を入れればそれで電話が行くはずなのに…私はそれが出来ないのです。
フルフルと指先を震わせながらのそれは…私も内心…分かっているからなのでしょう。
もし、須賀君の携帯から宮永さんの声がしたら…立ち直れないと…そう理解しているのです。

「私…は…」

そんなの夢だと…幻だと信じていました。
あんなのたちの悪い冗談だって…二人の悪戯なんだって…そう思いたかったのです。
しかし…そうやって自分を誤魔化すのも…もう限界に達していました。
私は…私は…もう…それを…自分でも…理解していたのです。

―― 須賀君は…須賀君は、もう…私の事なんて…どうでも…良いんです…。

そう思った瞬間、私は膝からガクリと崩れ落ちました。
瞬間、硬質な音を立てて、携帯が手から溢れてしまいます。
しかし、今の私にはもうそれを拾う気力なんてありません。
ただ、その事実に打ちのめされるようにして、ぼぅっとし続けるのです。

―― どうして…?

別に…須賀君から見放されたところで…私がこんなにショックを受ける理由はありません。
そもそも須賀君は私にとって高校から新しく追加されたファクターに過ぎないのですから。
彼なしの生活をしてきた時期に戻ると思えば、それは決してマイナスではありません。
どれだけ酷く見積もってもプラスマイナスゼロになっただけなのです。
しかし、今の私は…ゼロどころか…まるで絶望の淵に立たされたかのような心境でした。

―― 私…は…。

宮永さんの打ち方に気づいた時だって…私はこれほどの無力感を感じてはいませんでした。
まるで先に希望も何もないような…真っ暗な絶望感もなかったのです。
アレだけ…ショックで辛かった宮永さんとの邂逅よりも遥かに強い感情。
これまで私の人生の大半を占め、アイデンティティでもあった麻雀をバカにされたよりも辛いそれは… ――

「あは…あはは…」

その瞬間…私はようやくその原因に気づきました。
まるで世界が終わったようなその絶望感の理由を…ようやく理解したのです。
いえ…それはもしかしたらもっと以前から分かっていた事なのかもしれません。
しかし、私は…ずっとそれから…目を背けて来ました。
気恥ずかしさや体面というものを気にして…向きあおうとしなかったのです。

「私…須賀君の事が好きだったんですね…」

それは…ゆーきに向けるそれとは似ているようで…大きく違うもの。
友人に向ける親愛の情ではなく…異性に向ける恋慕の情だったのでしょう。
けれど…私は経験の無さからその違いを理解出来ず…また理解したとしても目を背け続けてきました。
結果…私は須賀君を傷つけ…そして…奪われてしまったのです。
いつの間にか麻雀よりも大事で…大きく育っていた人の事を…私は奪われてしまったのです。

「あ…あぁぁ…」

その瞬間、私の目は決壊したように大粒の涙をこぼし始めました。
それが一体、何の涙なのかは私にも分かりません。
須賀君を傷つけた後悔から来るものなのか、或いは宮永さんに奪われた悲しさなのか。
しかし…それでも…はっきりと…残酷なくらい分かる事がひとつだけありました。

―― もう…取り返しが…つきません…。

今更…それに気づいた所でもう遅いのです。
私は…私は一番大事な人を傷つけ、そして見放されてしまったのですから。
今から彼の告白に応えても…須賀君が困ってしまうだけでしょう。
彼の心の中にはもう…私ではなく、宮永さんがいるのですから。

「須賀君…須賀君…須賀君…っ…」

ですが…私はそれでも諦める事なんて出来ませんでした。
痛みの走る胸の奥は…理不尽だと…そう泣き叫んでいたのです。
だって…私たちは本来ならば両思いだったのですから。
それが…ほんの少しすれ違っただけで…こうも結果がズレてしまった。
勝者と敗者が逆転し…もう元には戻らないくらいに。

「須賀君…好きです…好き…なんです…」

きっと私にはそうやって好きという資格はないのでしょう。
こうやって本来あるべき結果からズレたのは私の責任なのですから。
あの告白からも須賀君は私に優しくしてくれましたし、手を差し伸べもしてくれました。
ですが、私はそれら全てを無碍にして…ついには彼に失望されてしまったのです。
そんな女に…彼の事を好きという資格はありません。
ただ…一人で泣きじゃくり…孤独に過ごすのがお似合いなのでしょう。

「いや…いやぁぁ…」

しかし、それでも私はその現実を認めたくありませんでした。
後ほんの少し気づくのが早ければ…あり得たはずの未来を思って…痛みに胸を震わせているのです。
それから逃げるように胸元を押さえ、首を振りますが…現実が変わるはずがありません。
既に私は須賀君から見捨てられ…こうして一人ぼっちになってしまったのです。
その辛さに私の涙は止まらず…ただひたすら泣き続けていました。

「私…は…」

それが収まった頃には…もう日付が変わるギリギリになっていました。
胡乱な目で携帯を見れば、そこには着信を告げる点滅があります。
きっと両親がまた泊まり込みになった事を知らせてくれたのでしょう。
それならば…もうここにいる理由はありません。
両親がいないなら…わざわざ料理を作る理由なんてないのです。

―― じゃあ…何をするの…?

ふと胸中に浮かぶその言葉に私はふらふらと立ち上がりました。
その身体が一体、何をするつもりなのかは分かりませんが…しかし、しなければいけない事は分かっているのです。
どれだけ辛くても…苦しくても…私が今の生活が好きなのですから。
それを護る為には…私は一分だって時間を無駄にはしていられません。

「麻雀…麻雀…しないと…」

そう呟きながらカバンを掴んだ私は、そのままゆっくりとダイニングから出ました。
そのままフラフラと階段を上がり、自室へと戻った私はそのままベッドへと倒れ込みたくなります。
そして…現実から逃げるように…休息を求める身体を癒したいと…そう思いました。
けれど…私にはそうやったところで泣き腫らした目は冴え、眠れないのは目に見えていたのです。

―― だったら…私がするべきことなんて…一つだけじゃないですか。

そう自分に言い聞かせながら、私はそっとカバンをベッドへと投げ捨てました。
そのままきっと顔をあげる私の脳裏に…父の言葉が蘇ります。
『優勝できたら長野に残る事も考える』というそれを事実にする為には…ここで頑張らなければいけません。
あれだけ圧倒的だった藤田プロよりも強い天江選手。
その人を倒さなければ…優勝どころかインターハイに行く事すら難しいのですから。

―― 優勝…してみせようじゃないですか…!

私にしては珍しく強い語気の篭ったそれが逃避であるという事くらい私にだって理解出来ていました。
しかし、失恋の痛みと絶望に崩れた『原村和』が縋れるのはそんなものしかなかったのです。
これまで私の人生を楽しく彩ってくれた麻雀くらいしか…私を慰撫してくれるものはありません。
そう言い聞かせながら、私はふらふらとノートPCへと近寄り、ネット麻雀を始めます。

―― けれど…その結果は散々なものでした。

どれだけ平静を装い、目標にすがったとしても、それは強がりでしかないのでしょう。
私の思考は相変わらず敗北感に彩られ、失恋を強く引きずっているのですから。
結果、私はろくに集中する事が出来ず、何時もであれば見えているはずの待ちも見えません。
それに何とかギリギリのところで保っていた心が焦りを覚え、そしてそれがまたミスへと繋がり… ――

―― そして私はその日、十回連続ハコワレという…かつてないスコアを記録したのでした。



―― その日の私の目覚めは最悪に近いものでした。

昨夜の私は十回連続トビという狙っても中々出来ないスコアから逃げるようにベッドへと潜り込んだのですから。
打っている最中に泣きたくなった回数なんて両手の指では足りません。
普段であればそこそこの的中率を誇るはずの読みもまったく出来ないどころか、自分やる事なす事全てが裏目に出ていたのでした。
それでも泣かなかったのは、その前に思いっきり泣いて涙が枯れていた所為なのでしょう。
そうでなければ…私はきっとまた涙を滲ませていたに違いありません。

―― 起きたく…ありません。

しかし、自分が泣かなかったなんて言う事は私にとって何の救いにもなりませんでした。
だって、私はそんな事関係ないくらいにボロボロになり…起きる気力さえ湧き上がらないのですから。
失恋の痛手と麻雀での惨敗。
その二つがまるで重石のように私の身体にのしかかり、ぼうっと瞼を開く気力さえ出て来ません。

―― 何とか…しなきゃいけないのに…・。

そうやって落ち込んでいる暇がない事くらい私にも分かっていました。
こうして私が時間を無駄にすればするほど全国は遠のいていくのです。
そうなれば…私はきっとこの長野から離れて東京へと行く事になるでしょう。
しかし、そうと分かっていても私の身体は活力を湧きあがらせず、ベッドの上に横たわったままでした。

―― このまま…時間が止まってしまえば良いのに…。

勿論、現実はそんな事あり得ません。
時間というものは誰にも平等なのですから。
どれだけ明日を拒んでも…それは必ずやって来るものなのです。
故に、それは決してあり得ない幻想でしかなく…普段であれば簡単に跳ね除けられる考えでしょう。
しかし、今の私は弱音にも似たその考えが広がっていくのを止められないくらい…弱り切っていたのです。

―― ガチャ

そんな私の耳に部屋の扉が開く音が聞こえました。
ノックの音は聞こえませんでしたが、それは恐らく両親のものなのでしょう。
私は結局、キッチンの片付けもしないまま、私は部屋へと逃げ込んだのですから。
滅茶苦茶になったキッチンの様子を見て、何事かと心配してくれたのでしょう。

―― でも…動きたくありません…。

両親へと不必要な心配を掛けてしまった責任を果たす為には…今すぐ瞼を開いて起きるべきなのでしょう。
そして、少しずつベッドへと近づいてくる母か父に謝るべきなのです。
ですが…どれだけ意識がそう言っても、私の指一つ動かせません。
まるで心が現実を拒否しているかのように、目を開ける事すら出来なかったのです。

―― ギシッ

それに胸中でため息を吐いた瞬間、私の耳にベッドが軋む音が聞こえました。
それはきっと母か父が私のベッドの脇に腰掛けた音なのでしょう。
相手が誰なのかはまだ分かりませんが、ただ私の事を起こしに来た訳ではないようです。
けれど、そう理解しながらも、私の瞼は未だ動かず… ――

「ほら、そろそろ起きろよ」

―― …え?

瞬間、聞こえて来た声に私は反射的に目を開きました。
だって、それは私にとって考慮すらする余地がなかったものだったのですから。
どう考えてもあり得ないその声に私は強い困惑を覚えたほどです。
その衝撃は鈍った私の身体を突き動かすには十分過ぎるものだったのでした。

「って、もう起きてたのか」

そんな私の視界に入ったのは…見慣れた一人の男性の顔でした。
その整った顔立ちを優しげな笑みで彩るその顔を…私が見間違えるはずがありません。
キラキラと輝く髪も、すらりと通った鼻筋も、暖かいその瞳も、冗談ばっかり言う唇も、シャープの顔のラインも。
私がずっと…ずっと傍に居て…助けて欲しいってそう思った人のものなのですから。

「おはよう。今日はちょっと寝坊助だな」
「あ…あ…あぁぁ……っ」

そう言って私の髪をそっと撫でる彼 ―― 須賀君の手にはまったく遠慮がありません。
まるで常日頃からそうしているかのように私の頭を撫でてくれるのです。
しかし、私は…彼とはそんな関係ではありません。
あくまで私と須賀君は友人関係であり…彼の隣は宮永さんに奪われてしまったのですから。
彼がどれだけ気安いタイプとは言え、恋人でもない女性の頭を理由なく撫でるほどありません。
だからこそ…私の心はまず真っ先に困惑を思い浮かべるべきなのでしょう。
そもそも彼がこの場にいるという事自体が明らかにおかしいのですから。

―― 須賀君…須賀君…っ!!

けれど、私は…そんな事まったく心に浮かばせる余裕がありませんでした。
今の私は胸の底から湧き上がるような歓喜の波に埋め尽くされていたのです。
望外の喜びという言葉を体現するようなその強い感情に…私は疑問なんて投げ捨ててしまいました。
彼がここに居てくれるなら…それで良い。
須賀君が私の事を助けに来てくれたのなら…疑問なんて必要ないと…そう思って… ――

「どうした?怖い夢でも見たのか?」

そう言って私の目尻をそっと拭ってくれる須賀君の手は…とても優しいものでした。
その指先が微かに濡れているのは、多分、私の涙の所為でしょう。
疑問すら浮かばないくらい心の中を埋め尽くした感情は、そのまま涙となって私の外へと排出されているのでした。
まるで頭の中で処理出来ないほどに膨れ上がった感情を、何とか整理しようとするような生理的反応。
それを止めようとしても止められず…私はまた須賀君の前で泣き顔を晒してしまうのです。

「大丈夫。俺はここにいるから…何も怖くないぞ」

そんな私に優しく言い聞かせる言葉が逆効果だって…彼はきっとわかってはいないのでしょう。
だって、そんな風に優しくされたら私はまた嬉しくて仕方がなくなってしまうのです。
胸が熱くなって…湧き上がる感情に全身を震わせてしまうのですから。
自然、漏れだす涙の勢いも強くなりますが、彼は飽きずに何度も私の頬を拭ってくれました。

―― もう…泣きたくなんて…ないのに…。

私はもう…気づいてしまったのです。
自分が須賀君の事を異性として好いていた事を…恋人になりたかった事を自覚してしまったのでした。
そんな相手にボロボロに崩れた泣き顔なんて晒したくはありません。
ですが、私の中から溢れ出る感情の波は止まらず、涙もまた勢いを決して緩めませんでした。
まるで須賀君にもっと構って欲しいと言うように…ポロポロと大粒の涙をこぼしてしまうのです。

「う…あ…ぁぁ…」

そんな状況が…十数分も続いたでしょうか。
ようやく感情が一段落した私の涙はその勢いを弱めました。
けれど、それは決して私の中にある歓喜が弱まった事を意味しません。
寧ろ、処理能力を超えた余剰分が収まってきた事により…自分の内面に意識を向ける余裕が出来るのです。
結果、私は自分が今、どれだけ嬉しくて幸せなのかをはっきりと感じ…横たわる身体をブルブルと震わせてしまうのでした。

「落ち着いたか?」
「…はい。お見苦しいところをお見せしました…」

そんな私を優しく見下ろす須賀君にそう言いながら、私はそっと布団を引き上げました。
顔の半分を隠そうとするその仕草が子どもっぽい事くらい私にも理解できているのです。
しかし、だからと言って…また泣き顔を見られた気恥ずかしさはなくなりません。
きっと今も目が赤くなっている事を思えば、そのまま完全に顔を隠してしまいたくなるのです。

―― でも…流石にそれは不誠実ですし…。

優しく私のことを慰めてくれた人から顔を背けるだなんて失礼にも程があります。
それに何より…私自身、須賀君から目を背けたくありません。
もし…私がほんの少し目を離した隙に彼が消えてしまったら…と思うと…それだけで背筋が冷たくなるのですから。
また…さっきみたいに絶望の淵に立たされ気力を根こそぎ奪われるような感覚は味わいたくありません。
そんな私にとって何より優先するべき事は…須賀君をこの場に留める事でした。

「そ…それで…須賀君は…どうしてここに?」

そう言葉を紡ぐのは決して疑問が強くなってきたからではありません。
未だ私の胸は強い歓喜に彩られ、浮かれているままなのですから。
微かに生まれ始めた隙間も、それを失うかもしれない不安が詰め込まれ、疑問が入る余地はないのです。
それでもそうやって須賀君に尋ねたのはあくまで時間稼ぎの為の話題でしかありません。

「そりゃ…和を起こしに来たんだけど…」
「私を…?」

そんな私の問いに須賀君は不思議そうにそう答えました。
まるでどうしてそんな事を聞かれるのが分からないと言わんばかりのそれに私の理解は及びません。
だって、ストーカーの事件が解決して以来、須賀君が私の家に上がった事はないのですから。
今日だって私は招待していませんし、両親だって彼を招く理由がありません。
ましてや、一人娘の寝室に、須賀君を送るだなんて、到底、思えず…私は布団の中で首を傾げました。


「それに…須賀君ってなんだよ。昔みたいな呼び方してさ」
「…え?」

けれど、その疑問は次の須賀君の言葉に一瞬でかき消されてしまいました。
何せ、私はこれまで須賀君を『須賀君』以外の呼び方で呼んだ事なんて一度もないのです。
ゆーきと違って、私は決して人と距離感を詰めるのが得意なタイプではないのですから当然でしょう。
少なくとも、出会って二ヶ月も経っていないのに…下の名前であったり、ニックネームで呼び合うような仲になれるはずがありません。

―― でも…嘘を言っているようには見えなくて…。

ごく自然に疑問を口にする須賀君の顔には嘘は見当たりません。
そうするのが当然であるかのように彼は「昔の呼び方」と口にしているのです。
まるで私の知らない内に時間が進んでしまったかのようなそれに私の頭はクラクラしました。
彼の言葉と私の記憶、そのどちらが正しいのか分からなくなった私の中で困惑が強くなっていくのです。

「何時もみたいに京太郎とかアナタって呼んでくれないと拗ねるぞ」
「…ふぇ…・?」

瞬間、私の耳に届いた言葉に…私の思考は完全に固まってしまいました。
だって…それは……わ、私と須賀君が…け、け…結婚しているような言葉なのですから。
けれど、私と須賀君はまだ結婚できるような年齢ではない以上、そんな事あり得るはずがなくって…。
あ、いや、でも…い、嫌って訳じゃ…た、ただ早いかなってそう思うだけで…子どもとかもういるんでしょうか…。
出来れば男の子と女の子の二人が良いなって…後、お家を立てるなら白い家で…お庭には大型犬を飼いたいです。
私、昔から引越しばかりでペットを飼った事がなくって…子どもの情操教育にも良いって聞きますし… ――

「そもそも今の和だって須賀なんだからさ。そういう他人行儀なのは禁止」
「は…うぅ…」

まるで逃避するようにそこまで考えた私にトドメを刺したのは須賀君の言葉でした。
疑いの余地もないくらい…私と彼が結婚しているという現実を感じさせるそれに私の思考は完全にショートしたのです。
まるで理解が追いつかないそれに…私はどうしたら良いのか分かりません。
私にとっては…数年、下手をしたら十年近く時間が飛んでいるのですから…それも当然でしょう。

―― でも…でも…嫌じゃ…ありません…。

私だって女の子です。
麻雀の人生の大半を捧げてきたとは言え、初恋の人と結婚するという未来を夢見た事くらいはあるのです。
それが現実になっている今の状況は狼狽えこそすれ、決して嫌なものではありません。
どれだけ困惑して訳が分からなくても…私が須賀君の事が好きなのは決して変わらないのですから嫌な訳がないのです。

「あ…あの…」
「ん?」

それでも私はフリーズを続け、また数分の時間を無駄にしてしまいます。
しかし…私の夫だと言う彼は、そんな時間の無駄を惜しまず、私の整理が終わるまでじっと待っていてくれました。
そんな須賀君に口を開きながらも…私はどうしたらいいのか分かりません。
聞きたい事が一杯で…何から聞けば良いのか、まるで分からないのです。

「落ち着いて一つずつ言えば良いよ。俺は何処にも行かないからさ」

そんな私の気持ちを感じ取ってくれたのでしょう。
須賀君は優しく私の頬を撫でながら、そう言ってくれました。
まるで子どもに言い聞かせるような優しいその口調に私はまた涙が漏れそうになってしまいます。

「あ、でも、ちゃんと京太郎かアナタって呼んでくれないと応えないぞ」
「う…」

それを抑えた瞬間、悪戯っぽく言われるその言葉に、私は思わず言葉を詰まらせました。
一体、今がどんな状況なのかは分かりませんが、それは私にとってハードルが高い事だけは確かなのです。
須賀君呼びからいきなり呼び捨てかアナタ呼びだなんてランクアップし過ぎでしょう。
しかし…ここまで私の事を真摯に考えてくれている人に、何一つ返せないのはあまりにも情けなさ過ぎます。
そう呼ばないと応えてくれないと言う大義名分もあるのですから…ここは少しだけ勇気を出して…それを口にするべきでしょう。

「あ…あ…アナタ…?」
「どうした?」
「は…ぅ…ぅぅ…っ」

瞬間、沸き上がってきたゾクゾクとした感覚に私は思わず声を漏らしてしまいます。
須賀君に「アナタ」と呼んでちゃんと応えてもらえた瞬間、私の胸の中に実感が沸き上がってくるのですから。
あぁ…本当に私は須賀君と…ううん、京太郎君と結婚したんだなって…そう思える実感が…胸を埋め尽くすのです。
そして、それは堪らない幸福感を呼んで…私の胸に浮かんだ疑問や困惑を根こそぎ消し飛ばすのでした。

「アナタ…っアナタぁ…」
「はは。今日の和は甘えん坊だな」

そんな感情がもっともっと欲しいとばかりに京太郎君の事を呼ぶ自分。
それは甘えん坊と言われても致し方ないものでしょう。
だって…今の私はまるで迷子になっていた幼子が親を求めるようにして…彼の事を呼び続けていたのですから。

―― …ううん…私…きっと…迷子だったんです…。

だって、私は…こんなにも大事な事を見失っていたのです。
こんなにも幸せで暖かな『現実』を知らず…辛い過去にばかり目を向けていたのですから。
そんな私を『現実』へと引き戻してくれた夫に…私はそっと身体を近づけ、腰の辺りにぎゅっと抱きついてしまいます。
それに京太郎君は小さく笑いながらも拒まず、私の頭を優しく撫で続けてくれるのでした。

―― あぁ…それに…とっても暖かいです…。

そうやって京太郎君に…夫に頭を撫でられるだけでも身体がぽかぽかと暖かくなります。
けれど、それ以上に私の胸を揺れ動かしていたのは抱きついた彼の身体の温かさでした。
かつて一度だけ感じたことのあるそれは今回も私の心を和ませ、そして嬉しくさせてくれるのです。
さっきの恐ろしさがまるで嘘のように安定した自分に…私はふと胸中で自嘲気味な笑みを浮かべました。

―― 私はもう…夫がいないと…ダメなんですね…。

私にとって京太郎君はもう精神安定剤の一種なのです。
彼が傍にいなければ、私は落ち着かず、ろくに麻雀一つ出来ません。
ですが、そんな自分が…決して嫌ではないのです。
そうやって夫へと依存していく自分を京太郎君が受け止めてくれるってそう信じているからでしょうか。
私は安心して彼に寄りかかる事が出来…甘えんな自分さえも肯定する事が出来たのです。

「どうした?今日は本当に何時もよりも甘えん坊だな」

そんな私をからかうように言うその声は、けれど、心配そうなものを滲ませていました。
きっと夫も何時もと様子の違う私の事を心配してくれているのでしょう。
それが嬉しくてつい頬を緩ませてしまいますが…私はなんと言えば良いのか分かりません。
さっき私を苦しめていたのは、あくまで『幻』であって、夫にそれを伝えても困るだけでしょう。

「夢を…夢を見ていたんです…」
「夢?」

しかし、それでもそうやって言葉を紡いだのは…自分の中の不安を根こそぎ消してしまいたかったからです。
さっきのそれがもう過ぎ去った『過去』に過ぎないのだと…
ただの『夢』に過ぎないのだと、嬉しければ嬉しいほどに不安を大きくする自分に言い聞かせたかったのでしょう。
そんな行為に夫を付き合わせるのが申し訳ありませんが…さりとて聞かれた以上、無視は出来ません。
後で出来るだけサービスしてあげる事で、報いとするべきでしょう。

「…アナタが宮永さんと…付き合って…私は…一人で…」
「俺が咲と?」

そう思いながらポツリと漏らす言葉に京太郎君は信じられないようにそう聞き返してくれました。
まるでそんな現実などなかったかのようなその表情に、私は胸の奥からふっと安堵の感情を湧きあがらせます。
やっぱりアレは夢であり…私の妄想に過ぎなかったのだと、そう言うような夫の仕草に…私はようやく心から安心する事が出来たのでした。

「そんなのあり得ないって。そもそも…俺が最初っから和にベタ惚れなのは知ってるだろ?」
「…えぇ。知ってます」

勿論…そんなのは知りません。
未だ寝起きで記憶が混乱しているのか、そんな記憶なんて頭の何処を探しても存在しないのです。
しかし、心外そうに言う夫を疑うほど、私は愚かではありません。
きっと京太郎君は昔からずっと私の事を一途に思い続けてくれたのでしょう。

―― そうです…それが…正しい事なんです。

私達は想い合っていたのですから…こうして愛を深め、結婚する事が当然の未来だったのです。
私が…失恋して…宮永さんが夫の恋人になるだなんてそんなのあり得ません。
きっとそれは私の疑心が生み出したただの妄想なのでしょう。
そんなものに一々、囚われて、心を揺れ動かしていたら、何も出来ません。

「私の事…愛してますよね…?」
「愛なしで結婚するほど酔狂な男じゃないつもりだぞ」

しかし、そう言い聞かせながらも…私はつい夫にそう尋ねていました。
もう不安なんてないはずなのに、これが『現実』なんだって…そう確定したはずなのに…まるで怯えるように尋ねてしまうのです。
そんな私の怯えに…京太郎君も気づいてくれたのでしょう。
私の視線を合わせるようにベッドへと倒れこみながら、私の頭を撫でていた手を背中へと回してくれるのでした。

「俺は和の事を世界で誰よりも愛してる」
「は…わ…ぁ…」

そのまま私の顔に触れてしまいそうな距離ではっきりと言い切ってくれる夫の姿。
それはとっても凛々しくて…そして胸の奥がゾクゾクするくらい嬉しいものでした。
普段の三割増しは格好良く見えるだけではなく、はっきりと愛してると言い切ってくれたのですからそれも当然でしょう。

「何なら今ここでキスしても良いぞ」
「そ、それは流石に…」

悪戯っぽく言う夫の言葉に、私はそっと目を背けながらそう応えました。
それは決して間近で見る京太郎君の顔が思いの外整っていて、ドキドキした…なんて事だけではありません。
幾ら何でもここでキスなんて段階が飛躍し過ぎてついていけないのです。
いえ…既に結婚までしているのですからキスなんてとうの昔に過ぎ去っているのでしょうが…私にとってはその記憶はなくて…。
それに今の私は寝起きで口の中が臭いかもしれませんし…そんな口でキスなんて出来ません。
いえ…別にディープなくちづけを期待している訳じゃなくて…
で、でも夫婦ならそういうの普通かもしれませんし…口臭で嫌われたりするのは流石にちょっと… ――

「本当に?」
「あ……」

そんな私にぐいっと顔を近づける夫に…私は視線を惹きつけられてしまいます。
視界一杯に広がったその顔は…まるで私の世界が夫に埋め尽くされているようでした。
いえ…実際、私の世界の殆どは京太郎君のものなのでしょう。
こうして彼とベッドに横になっているだけで…私は幸福感を得て…ずっとこのままでいたいとそう思ってしまうのですから。

「ズルい…です…」
「はは。悪いな」

それでも拗ねるようにそうやって返したのは私の顔が強い熱を持っているからです。
きっと今頃はまるで熟したりんごのように肌が真っ赤に染まっている事でしょう。
それをこうして間近で見られてしまうのはやっぱり恥ずかしく、中々に耐え難いものでした。
しかし、私の身体は決して夫から逃げようとはせず…寧ろ自分から温もりを求めて近づいていくのです。

「んで…今日はどうする?」
「今日…今日…ですか…?」

そんな私を抱き締めながら、夫はそう尋ねてくれました。
けれど、私はその言葉にどう答えれば良いのか分かりません。
未だ私の意識は高1のままで、今日が何日かどうかさえ分かっていないのですから。
普段、二人で何をしているのかさえ知らない私が、予定を立てられるはずがありません。

「折角の休みなんだし…デートでもするか?」
「で、で…っデート…ですか…?」

何の毛なしにその響きに私はつい声を震わせてしまいます。
だって、それは私にとってついぞ京太郎君と出来なかったものなのですから。
宮永さんが邪魔してくれたお陰で、台無しになったそれがようやく出来るという期待に胸がトクンと跳ねてしまいます。

「それともDVDでも借りて家でのんびりするか?」

とは言え…夫のその申し出もかなり魅力的でした。
そもそも私はあまり外に出るのが好きなタイプではないのです。
外に出たら一部がとても目立つ私はジロジロと人に ―― 特に遠慮を知らない男性の視線へと晒されるのですから。
それに今の状況もまだちゃんと理解できている訳ではありませんし、今日くらいゆっくりするべきなのかもしれません。

「で…デート…したいです…」

その二つのどちらが良いかを悩む私が最終的に選びとったのはデートの方でした。
勿論、家でのんびりするのも捨てがたいですが、それは別に今日じゃなくたって出来るのです。
それよりは折角の休みのようですし、デートに時間を割いてみたい。
そう思ってゆっくりと漏らした声は、まるで小鳥の囀りのような小さなものでした。

「ん?なんだって?」
「あぅ…ぅ…」

それは顔を間近に近づける夫の耳にも届かなかったのでしょう。
それに顔をさらに赤く染めながら、私はそっと俯きました。
瞬間、湧き上がる羞恥心に無言を貫きたくなりますが、そうやって沈黙したところで何も解決出来ません。
それよりは早く京太郎君に思いを伝えて…この状況から脱するべきでしょう。

「私は…アナタとデートが…したいです」
「だったら…何時までもこのままじゃいられないな」
「きゃっ」

そう決意しながらはっきりと言葉にする私に夫は笑いながら、身体を起こしました。
自然、京太郎君に抱きとめられていた私まで強引に身体を引き起こされてしまうのです。
それに小さな悲鳴をあげながらも…私は決して嫌ではありませんでした。
なんだかんだ言ってこうやって強引にされるのが、私は性に合っているのかもしれません。

「ほら、顔洗って歯を磨かないとな。それとも…それも俺がやってやった方が良いか?」
「そ、それくらい一人で出来ます!」


冗談めかして言う夫の言葉に私は頬を膨らませながらそう応えました。
そんな風に言っても、さっきまで子どもじみた反応ばかりしていたのですから、あまり説得力はありません。
実際、夫もクスクスと笑って、面白そうにしていました。
それがなんとなく悔しいのはやっぱり負けず嫌いな気性の所為でしょう。
主導権を握られるのは別に構いませんが…あんまりからかわれると負けた気がして悔しくなってしまうのです。

「それだったら早く起きないとな」
「あ…」

そう言いながら夫は私からそっと手を離しました。
瞬間、遠ざかっていく温もりに私はついそう声をあげてしまいます。
そのまま手を伸ばしそうになった瞬間、私はようやく自分のしようとしていることに気づきました。
これではまるで一人では何も出来ない証拠のようではないか。
それにまた顔が羞恥の色を浮かべるのを自覚しながら、私はゆっくりと身体を動かすのです。

「…ふぅ」

そこにはもうさっきのような重苦しさはありませんでした。
寧ろ、身体は活力に溢れ、どんな事だって出来そうな気がするのです。
きっと今なら宮永さんに勝てるとそんな荒唐無稽な事だって思い浮かばせる万能感。
それを齎してくれた愛しい人に私はつい…微笑みを向けてしまうのでした。

「なんだ。からかわれるのがそんなに嬉しかったのか?」
「ち、違います!」

そんな私にニヤニヤといやらしい笑みを返す夫に私は再び頬を膨らませました。
ついさっきまであんなにも優しかったのに、隙あらば人のことをからかおうとするのは一体、どういう事なのか。
勿論、そんな意地悪な夫も、須賀君の一部だって分かっているつもりですが、やっぱり納得は出来ません。
別に怒ったり機嫌を損ねたりするほどではありませんが…拗ねているという自己主張だけは欠かさないのです。

「ほらほら、拗ねてないで…な」
「う…」

そんな私に夫はそっとその手を向けてくれました。
下向きに差し出されるそれは私につかめと言う事なのでしょう。
それを理解しながら言葉を詰まらせるのは…そうやって手を握った経験も殆どないからです。
変に寝汗をかいて手がべたついたりしているかもしれないと思うと…すぐさまそれを掴む事は出来ません。

「お手をどうぞ。お姫様」
「…もう。これだけで許したりしないんですからね」

そんな私の背を押したのは夫の芝居めいた言葉でした。
私の事をお姫様と呼ぶそれに…ついつい頬が綻んでしまうのです。
勿論、そう呼ばれるのは気恥ずかしいですが…それよりも嬉しさの方が強かったのでした。
それはきっと…その呼称がついに自分のものになったからなのでしょう。
宮永さんから…京太郎君という宝物を取り戻せたという実感に私はつい寛大な態度をとってしまうのです。

「じゃあ、許してもらえるように一杯、キスしないといけないな」
「そ、そういうエッチなのはいけないと思います…」
「じゃあ、許してくれるか?」

瞬間、試すように尋ねる夫に…私はほんの少し逡巡を浮かべました。
別に怒っている訳ではありませんが、夫からキスをされるのに興味が無いと言えば…決してそうではないのです。
私だって普通の女の子なのですから…初恋の人とのキスに憧れない訳じゃありません。
けれど、その為に許さないと言ったら、その真意を見透かされてしまいそうで…私は中々、首を横には振れなかったのです。

「…仕方がありませんね。これっきりですよ?」
「はは。有難うな」


結局、私はヘタレてしまいました。
キスを経験する絶好の機会だったのにも関わらず、そうやって夫の事を許してしまったのです。
そんな自分に一つ自嘲の笑みを向けながら、私はそっとベッドから立ち上がりました。

―― まぁ…機会は幾らでもありますし…。

別に…これで終わりだなんて事はないのです。
私と夫は既に結婚して…二人っきりの家庭まで築けているのですから。
今日は休日らしいですし、キスをする機会だって幾らでもあるはずです。
も、もしかしたら…それ以上の事だって…その…不可能ではないでしょう。
いえ、私は京太郎君の妻なのですから…それが普通なのです。

―― が…が…頑張らないと…!

一体、二人がどういう…その…性的な関係を築いていたのかは知りませんが、私の経験はまったくのゼロなのです。
これだけ私に優しくしてくれた夫の要求には出来るだけ応えてあげたいと思えども、
知識も何もない私には頑張るという何の保証もない言葉を思い浮かべるしかありません。
そんな私の身体は自然と緊張し、京太郎君の手をぎゅっと握りしめてしまうのです。

「…どうかした?」
「いえ…何でもありません」

瞬間、私の事を心配してくれる夫に、私はつれない言葉を返すしかありませんでした。
幾ら何でも…その…せ、性交渉の事を考えて緊張しているだなんて恥ずかしすぎて言えません。
デートという単語だけでそういう事を考えてしまうだけでも恥ずかしいのに…緊張しているだなんて言えるはずがないでしょう。
もし、京太郎君にその…淫乱だとかそんな風に誤解されてしまったら私は本当に生きていけなくなってしまいそうなのですから。

「そっか。ま…気が向いたら何時でも言ってくれよ」

それほどまでに私に依存されている夫はそう軽く言いながらゆっくりと歩き始めました。
様子のおかしい私を気遣うようなその歩幅に私はつい後ろで笑みを浮かべてしまいます。
それはこうした仕草一つ一つにも…夫の優しさが見える自分に誇らしさを…
そしてそんな優しさを絶え間なく私に注いでくれる京太郎君に愛しさを覚えたからでしょう。
そんな感情の波に突き動かされるようにして私の足は軽く動き出し、そして… ――

「…あれ…?」

次の瞬間、私の視界に入ってきたのは扉を開いた先にある壁などではありませんでした。
見慣れた天井が私の視界一杯へと広がっていたのです。
まるで暗雲のようなそれがどうして見えるのか、私にはまるで理解出来ません。
だって、私はついさっき夫と一緒に部屋を出ようとしたばかりなのですから。
それなのに…どうしてまた布団の中で天井を見上げているかなんて分かるはずがないでしょう。

「……アナタ?」

そう呼びかけながら、私が上体を起こしても、誰も応える人はいませんでした。
シィンという静寂だけが部屋の中を支配し、帰ってくるのは沈黙だけなのです。
それに私は首を傾げながら、そっとベッドの縁から足を垂らしました。
そのまま床を踏みしめて立ち上がった瞬間、クラリと頭が揺れてしまいます。

―― やっぱり…私は京太郎君がいないとダメですね…。

夫が目の前にいないだけでつい不安になって、バランスさえ覚束ない自分。
それに自嘲を向ける心は…寂しさで満ちていました。
だって、さっきまで一緒にいてくれた夫が…今、私の傍にはいてくれないのですから。
私の心を誰よりも、そして何よりも勇気づけてくれる愛しい人が…見えないのです。
ついさっきのようにそれを受け入れて喜びへと繋げる事なんて出来ません。

―― 大丈夫…大丈夫ですから…。

きっと今の京太郎君は…デートの準備をしてくれているのです。
昨日、ろくに寝れなかった私が途中で倒れて、ベッドに運んできてくれたのでしょう。
また変に記憶がこんがらがっているだけで…さっきのそれは『現実』なのですから。
私の助けを求める声が聞こえれば、夫はきっと…私の傍へと駆けつけてくれるはずです。

「アナタ…アナタ…」

そう思ってフラフラと部屋から抜けだした私が何度も夫の事を呼びました。
しかし、部屋だけではなく、家の中全ては静寂に支配され、人の気配なんてまるでありません。
念のため、二階の部屋を全て確認しましたが、それらは無人で、両親が帰ってきた様子さえ見当たりませんでした。

「そうだ…一階…一階にさえ降りれば…」

きっと夫に会える。
その気持ちを抑えておく事は私には出来ませんでした。
今の私にとって…そんな余裕なんて欠片もないのですから。
精神安定剤にも等しい夫の姿が見えないだけじゃなく…その気配すらないのです。
まるで…あの辛く苦しい『幻』へと戻ってしまったかのような感覚に…寒気が走って止みません。
それから逃れる為には…京太郎君に慰めてもらうしか無い。
そう思いながら一階へと降りた私に…玄関に並ぶ一足分の靴が… ―― 私が使う学校指定の靴が飛び込んできたのです。

「…どうしてですか…?」

そんなもの…もうとっくの昔に使わないはずです。
だって、私と夫は既に結婚しているのですから。
同い年の私達が結婚しているということは最低でも18にはなっている事でしょう。
けれど、高校に通いながらの結婚なんてまずない以上、とうの昔に卒業していると考えるのが自然です。
しかし…どれだけそう言い聞かせても、その靴は私の視界から消えず…依然として存在し続けていました。

「あぁ…きっと…あの人の悪戯ですね…」

きっと出かける時に私の靴を出してびっくりさせようとしてくれているのです。
うえ、未だに悪戯っ子のような面を持つ夫の悪戯に違いありません。
そう言葉にしたら…私は少しだけ気が楽になりました。
後でこんな悪戯をした事に対して、少しは怒ってやらなければいけない。
そう思いながら、私は小さく笑みを浮かべました。

―― でも…帰ってきた時の為に…お茶の準備だけでもしておきましょうか。

勿論、色々と言いたい事はありますが、まぁ…それも些事です。
原因が分かった以上、あまり固執し続けるようなものではありません。
それよりも私にとって重要なのは、今、夫がこの家にいないという事実なのです。
きっと私が倒れた所為で、買い物などの為に動かなければいけなくなったのでしょう。
まずはそれを労う為にも、お茶の準備の一つでもしておかなければいけません。

―― それが終わったら…携帯で連絡しましょうか。

そして…夫に言うのです。
早く帰って来てって…寂しいって…そう素直に。
アナタの奥さんが一人で悲しいって伝えれば…きっと彼は一も二もなく全力で帰ってきてくれるでしょう。
そんな彼にお礼を言いながら…愛していると…私も素直に返しましょう。
あの時…夫が私を元気づける為に紡いでくれた愛の言葉に…今度こそちゃんと返すのです。
そうすればきっと夫は今日一日ずっと私の傍に居てくれるでしょう。
一時たりとも私の傍を離れず…今みたいに寂しくなるような事はなくなるのです。

―― ガチャ

そう思いながらリビングへの扉を開いた瞬間…私の目にかつてない光景が飛び込んできました。
調理途中だったのか、キッチンにはまな板と食材が出しっぱなしで、そこからは真っ赤な血の跡が点々と伸びているのです。
その終着点には携帯が転がり、チカチカとメールの着信を知らせる光を放っていました。
まるで誰かが逃げ出して…そのままにしていたような光景に私はズルズルとその場に崩れ落ちていくのです。

「あ…あ…あぁぁ…っ」

そんな私が漏らす言葉は…まるで驚きに固まったかのように単調なものでした。
いえ…実際、私の心は…今までにない強いショックを受けていたのです。
だって…それは…それは私の『現実』が…嘘だったとそう告げるものだったのですから。
あの幸せで暖かな『現実』の方が『幻』で『夢』であったと…残酷なまでに私に突きつける…証拠だったのです。

「嫌…嫌…違う…違うの…こんなの…こんなの違う…」

そんな光景を認めまいと私は自分で頭を抱えてそう言い聞かせました。
しかし、どれだけそうやって自分に言い聞かせても…目の前の光景は変わりません。
昨夜…私が自分の感情に気づき…失恋の痛手に打ちのめされた時のままの光景が目の前に広がっているのでした。

「こんなの…現実じゃありません…違う…私は…京太郎君と結婚してるはずなんですから…私は幸せで…彼に愛されていて…」

それから逃げるように私は両手で瞳を隠し…俯きます。
けれど、それでも…私はあの幸せな世界に戻る事は出来ません。
まるで亀裂の入ったガラスのように崩れ…剥がれ落ちていくのです。
その度に私の心は悲鳴をあげますが…その崩壊は決して止まってはくれません。
まるで夢から覚めるように…これが『現実』だと実感し…アレが『幻』であったのだと理解させられるのです。

「止めて…いや…止めて…ぇ…」

自分の幸せであった世界さえも奪われる。
その恐ろしさに私は何度も懇願の言葉を紡ぎました。
しかし、私の理性はそれを聞き入れず…自分を騙す事を良しとはしません。
他でもない自分自身に辛い現実を突きつけられるその痛みに、私はまた涙を漏らし始めました。

「助けて…助けて…アナタ…」

そんな私に縋れる人は…もう一人しかいませんでした。
どんな時でも私の事を助けて、勇気づけてくれる…最高の人。
まさにヒーローと言っても過言ではないその人を…私は何度も呼びました。
けれど…その人は…どれだけ呼んでも…決して私のところには来てくれません。
私が今…辛くて仕方がないのに…幸せがどんどんと崩れていっているのに…
そんな事ないよって…愛してるよって…そう言ってくれないのです。

「大丈夫…伝えれば…伝えれば…そう…大丈夫だから…」

それはもう悪あがきである事くらい私にも理解できていました。
私の理性はもう目の前のこれが現実であると理解しているのです。
否定しているのは往生際の悪い感情ばかりで、それだっていつまでも続くものではありません。
しかし…だからと言って…そう簡単に諦める事なんて出来ません。
私の幸せを奪うような現実を受け入れるなんて…出来っこないのです。

―― だから…携帯で…連絡さえ…すれば…。

そう胸中で言葉を紡ぎながら、私は再び床の携帯を拾い上げました。
そこにはゆーきからのメールが入っていましたが、私はそれを無視します。
それよりも今は京太郎君に…愛しい夫に連絡するのが先なのですから。
後で確認出来るメールの事なんて一々、構ってなんていられません。

―― でも…もし…ダメだったら…。

瞬間、浮かんできた思考は昨夜と似たものでした。
ここで連絡してしまうと…否応なく現実を突きつけられる事になるのです。
しかも、他でもない夫の手で…私の『現実』は粉々になってしまうでしょう。
その恐ろしさは…決して言葉に出来るものではありません。
コレ以上、追い詰められてしまったら…私はもう…おかしくなってしまいそうだったのですから。

―― でも…でも…私…。

昨夜は…それでなんとか思いとどまる事が出来ました。
けれど、今の私にはもう…とどまっている余裕なんてなかったのです。
こうしている今もドンドンと崩れていく『現実』が、私を急かしているのですから。
それを護る為には…もう躊躇している暇はない。
そう言い聞かせながら、私は携帯から電話帳を呼び出し…通話ボタンを押したのです。

―― プルルル

そのまま携帯を耳に当てれば、そこから無機質な通話音が聞こえます。
それにドキドキと心臓を鳴らしながら…私はじっと彼の応答を待ち続けました。
一回…二回…三回…とコール音が鳴る度に私の鼓動はより大きくなっていくのです。
それが四回目に達した頃、ガチャリと言う音と共に通話が繋がりました。

「…はい。もしもし…?」

その声は眠気を引きずったものでした。
しかし…それでも私にとってはとても嬉しいものだったのです。
だって…それは夫が私に答えてくれたものなのですから。
少しばかり気怠そうな声音だって、そんな状況でも私に応えてくれたと思えば、喜ばしいもののように映るのです。

―― でも…何て呼びかければ良いのか…。

連絡するので頭の中が一杯で私はそれから先の事なんてまったく考えていませんでした。
半ば衝動任せの弊害が目に見えて現れるその状況に、私は言葉を詰まらせるのです。
しかし、こうして私から連絡した以上、何か言わなければいけません。
せめて私が私であるという事だけでも伝えなければ夫も心配してしまうでしょう。

「あの…あ…アナタ…」
「ん…こんな朝早くからどうした?」

そう思っておずおずと問いかけた私の呼び方に、夫は何も言わずに聞き返してくれました。
疑問を挟まずに私の事を心配してくれるそれに私の胸はジィンと震えます。
まるで感動に胸を埋め尽くされるようなそれは私が勝利した証なのでしょう。
目の前の光景に負けず一縷の望みに賭けたが故に…私はそれに打ち勝つ事が出来たのです。

―― あぁ…やっぱり…こんなものは嘘っぱちだったんですね…。

目の前に広がる悲惨なリビング。
それこそが嘘であり、私の『現実』こそが本当だったのです。
そう確信めいた思いを強める私の口からは中々、言葉が出て来ません。
しかし、それでも夫は急かす事はなく、私の事を待ち続けてくれているのです。
それに比べれば…どうして京太郎君が外で寝泊まりしているかなんて些細な事でしょう。
私にとって重要なのは…夫の反応が『現実』と大差ないものだったという事なのですから。

「京ちゃん、そろそろ起きないとダメだよ」
「…え?」

しかし、瞬間、私の耳に信じられない声が届きました。
それは…間違いなく宮永さんの声でしょう。
でも、そんな事あるはずがありません。
だって、今は…まだ朝の7:00にもなっていないような時間なのですから。
妻である私が夫の傍にいないのに…宮永さんが傍にいるだなんてあり得るはずがないのです。

「あ…ごめん。電話?」
「ん…だから、また後でな」

しかし、どれだけそう言い聞かせても、その耳障りな声はなくなりません。
電話しているのなんて一目で分かるはずなのに…そうやって夫の手をとるのです。
ですが、そんな彼女に私は怒りを感じる事はありませんでした。
さっきゆっくりと修復されていった『現実』が今度こそ粉々になっていく感覚に…深い絶望へと突き落とされていたのですから。

「それで…えっと…和で良いんだよな?」
「え…えぇ…」
「あー良かった。何時もと違う呼び方されたからちょっとびっくりしたぜ」

その声にはもうさっきのような眠気はありませんでした。
きっと夫は割りと寝起きの良い方なのでしょう。
『現実』の方でも決して寝起きが悪い訳じゃない私を起こすくらいにしっかりと起きれる人なのですから。
けれど…それはもう私にとって何の救いにもなりません。
どれだけ『現実』と目の前の彼の行動が一致しても…もう私の『現実』は修復なんて出来ないのですから。
微かに残った希望さえも夫自身に…いえ…須賀君に打ち砕かれ…儚く散ってしまったのですから。

「…和?」
「あ…いえ…すみません。間違え…ました…」

そう言って私は答えも待たないままにブツリと通話を切ってしまいました。
そのままダラリと腕が垂れ下がり…再び携帯が床へと転がっていきます。
それを虚ろな目で見ながら…私は今度こそ何もする気力が起きませんでした。
完全に『現実』を砕かれてしまった私の目の前にあるのは…辛く苦しい ―― 
それこそ夢のなかに逃げたくなるような…本当の現実だったのですから。

「あは…あは…あははははっ…」

そんな私の口から漏れるのは乾いた笑い声でした。
無味乾燥で何の感情もこもっていないそれは…虚しくリビングへと響きます。
何処か機械的にさえ聞こえるそれを…私はどうすれば良いのか分かりません。
止めるべきなのか、或いは、このまま漏らし続けるべきなのか。
それを判断する気力さえ失った私には…ただただ暗い現実だけが残ったのです。

―― 私は…どうすれば良いんでしょう…?

その問いに答えてくれる人はどこにもいません。
私を導いてくれるはずの両親も、勇気づけてくれるはずの親友も、護ってくれるはずの初恋の相手もいないのですから。
ただただ…本当に一人である事を知らせるその現実に私はまた頬を歪めてしまいます。
けれど、不思議と涙だけは漏れず、私はただ…ぼーっとその場に座ったまま過ごしていました。

―― どうして…こうなったんでしょう?

勿論…そんな事、一々、考えなくても分かっています。
私が気づくのが遅かったから…素直になれなかったから…こうして私は大事なものを取りこぼしたのです。
けれど…私はそれを認めたくありませんでした。
唯一、私の心を護ってくれていた『現実』さえもが、砕け散った今…それを認めたら…後には何も残りません。
ただただ…自分の事を責めて…手遅れなのだと悲しむ日々だけが残るのです。

―― ホントウに?

瞬間…沸き上がってきたその言葉に私はぎゅっと手のひらを握りしめました。
そんな事は…いけない事です。
間違いなく人の道を外れて…後ろ指を指されるものなのですから。
それは否定されるべき事であり、寧ろ、軽蔑される事でしょう。

―― けれど…私は…。

そう。
もう私は…知ってしまったのです。
須賀君に愛される事の喜びを、自分の心に素直になる心地良さを、心通わす充足を、自分の胸に秘めた愛しさを。
そして何より…彼に依存している自分を…自覚してしまったのです。
そんな状態で…彼の事を諦められるはずがありません。
例え、『現実』が本当の事でなかったとしても…そこで感じた猛毒は既に私の全身に回りきっていました。

―― 須賀君を…取り戻すだけ。そう…それだけ…。

それは決して非難される事ではないでしょう。
だって…そもそも私たちは心通わせていたのですから。
その状態に戻るだけであり…何ら人に嫌われる事ではありません。
寧ろ、悪いのは私たちの間に入り込んできた宮永さんの方なのです。
これから私がしようとしている事はその間違いを是正するという、謂わば正義の側に立つものでしょう。

―― えぇ…悪いのは…宮永さんです…私は…何も悪くない…。

きっと…きっと須賀君だって私のことを本当は待ってくれているはずなのです。
だって…『現実』の中の彼はあんなにも私に優しくしてくれていたのですから。
そんな彼が簡単に心変わりするはずがなく…きっと宮永さんに騙されているのでしょう。
私はそれから彼を解放しようとしているだけで…悪いのは須賀君を束縛してる宮永さんの方です。

―― それで…戻すんです…全部…正しい方向に…。

あの『現実』は確かに夢でした。
私の頭が創りだした都合の良い世界だったのです。
しかし、だからと言って、それを目指す事が決して悪い事ではありません。
寧ろ、そうする事で…彼も幸せになるはずなのです。
だって、あの世界の須賀君の表情は晴れ晴れとしていて、とても幸せそうだったのですから。
しかし、こうして私が蹲っているままでは、きっと須賀君はあんな風に幸せにはなれないでしょう。

―― だって…宮永さんは…酷い人なんですから。

私から色々なものを奪っていった彼女は…酷い人なのです。
皆の前では大人しそうな顔をしていますが…彼女は平気な顔で私の邪魔をして…今も彼の傍に居続けているのですから。
そんな人と結婚して、須賀君が幸せになれるはずがありません。
きっと利用され続けて…最後にはゴミのように捨てられてしまう事でしょう。

―― それを…それを助けてあげられるのは私だけ…。

皆は宮永さんの本性には気づいていません。
私だけが…彼女に様々なものを奪われた私だけがそれに気づいているのです。
それなら…こうして躊躇している暇なんてありません。
今すぐにでも行動して…私は須賀君の事を奪い返し…全てを『現実』へと戻さなければ… ――

「っ…!」

瞬間、私は自分の思考がおかしな方向に進んでいるのに気づきました。
それにハッと息を飲む私の口からはいつの間にか荒い吐息が漏れだしています。
まるでほんの数瞬の間に疲れきったようなそれに私はそっと壁に身体を預けました。
けれど、身体の中に横たわるような倦怠感はなくなりません。

「違い…ます。あんなの…私…じゃ…私じゃない…んです…」

それでもポツポツと漏らすその言葉が一体、誰に向けているものなのか私自身にも分かりませんでした。
ただ一つ確かなのは…それは真実味の欠片もないただの良い訳だという事です。
だって…数秒前まで思い浮かべていたそれは…間違いなく私の心から出たものなのですから。
決して誰かに強要された訳ではないそれをどれだけ否定したところで…私自身すら騙す事が出来ません。

「…違います…私は…私は…」

そうわかっていながらも…そうやって無意味な言葉を紡ぐのはさっきの自分を決して認めたくなかったからなのでしょう。
まるで私の暗い部分を寄せ集めたようなそれは…宮永さんに全ての責任を押し付ける醜悪なものだったのです。
だから、と自己肯定に走り…須賀君を奪い返す事を正義とのたまうとんでもないものだったのでした。
まるで思考のタガが外れたようなそれがどれだけ本心に近かろうとも…頷く訳にはいかないのです。

「あ…あぁぁ…っ!」

しかし、その一方で…私の心はそれを求めていました。
楽で安易な道へと進もうとする弱い私は…確かにそれに頷いていたのです。
それを認めまいとして声をあげても…何の意味もありません。
ジワジワと染みこんでくるような本心というなの狂気に…私は少しずつ侵食されていったのです。

―― こんな自分なんて…嫌なのに…っ!

明らかに思考の方向性を間違え、道を踏み外した自分。
それに理性が強い拒絶を発し、私の心が真っ二つに割れそうになります。
しかし、私はそんな自分の胸を抑える気力もなく、ただ、フローリングの上に横たわっていました。
その視界に何かが映っていますが…それを判別するだけの思考能力はもう私にはありません。
ジワジワと這い寄ってくる自身の狂気に抗うのに…精一杯だったのです。

「須賀君…助けて…助けて…下さい…」

そんな私の口から漏れだすのは三度目の救難信号でした。
須賀君へと助けを求めるそれは、しかし、今回も届きません。
だって、私の携帯はもう…須賀君との通話を切ってしまったのです。
今の私を救ってくれる唯一の人を…私はまた拒絶したのでした。
故にその言葉は一番届いて欲しい人には届かず…それどころか、誰の耳にも入らない無意味なものでしょう。
しかし、それでも私は壊れたレコードのように何度も彼の名前を呼び続けました。
それは遅刻した私を心配したゆーきが連絡をくれるまで続き…その間に私は… ――