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―― 誰だって初めてというのは緊張するものです。

『未知』というものは誰にでも立ち塞がる壁なのですから。
それが大きいか小さいかは人によるでしょうが、その時の私にとってそれは決して小さくありませんでした。
何せ…それは私にとって物語の中にしかないものに近く…今まで自分が経験するだなんて想像もしていないものだったのですから。

―― だ、大丈夫です。だって…こ、これは別にデートでもなんでもないんですから。

そう私が言い聞かせるのは駅前の広場でした。
大きな柱時計に背を向けるようにして立つ私は、さっきからそう何度も自分に言い聞かせていたのです。
しかし、何度そうやっても私の心はまったく落ち着かず、手足もそわそわとしてしまいました。
無意味に自分の髪の毛を弄った回数はもう数えきれません。
しかし、それでも待ち人 ―― 私と出かける約束をした須賀君は未だ現れませんでした。

―― 流石に…一時間前に来るのは早すぎたでしょうか…。

そうは思うものの、私にはデートをした経験なんてないのです。
一体、待ち合わせの何分前に着いておくのがマナーなのかも勿論、分からず、こうして先走ってしまったのでした。
結果、一時間前に着いてしまったのは自分でもやりすぎな気がしなくもないです。
とは言え…もし、須賀くんを待たせてしまったら心苦しいですし、これはコレで良かったのかもしれません。

―― それに…こうして待つのは嫌な気分ではありませんし。

勿論、私は今も落ち着きがなく、視線を彷徨わせていました。
その視界の端に須賀君らしき人が映る度についついそっちに顔を向けてしまうくらいです。
そんな風に落ち着きをなくした自分を感じるのは…正直、そうあるものではありません。
けれど、それが決して嫌なものかと言えば、決して違うのです。

―― さっきから…胸の中がドキドキして…。

髪を弄っていた手をそっと胸元に当てれば、そこにはトクントクンと規則正しく脈打つ心臓がありました。
けれど、その脈動は普段のものよりも力強く、そして何処か暖かく感じられるのです。
こうして身体が強張りそうな緊張の中で湧き上がるそれは私が決して今の状態を嫌がっていない証なのでしょう。
そうやって落ち着きをなくした自分ごと…今の私は受け入れる事が出来ているのです。

―― 不思議な…気分ですね。

自分で身体をちゃんと制御しきれないくらいに緊張しているのに、決してイヤではない自分。
それにクスリと笑みを漏らしながらも…私はそれがある意味で当然であると認めていました。
何だかんだ言いながらも…私は、今日こうして須賀君とお出かけするのを楽しみにしていたのでしょう。

―― も、勿論!それは須賀君の事が好きとかそういうんじゃないですけれど!!

ただ…そう、ただ…私は須賀君と一緒にいるのが…それほど嫌いではないのです。
他愛ない話をして…からかわれて…拗ねて…たまに反撃して…。
そんななんでもないやり取りを…私は内心、望んでいたのです。
ここ最近、色々あった所為で出来なかったそれを取り戻そうと…心の中でそう決めていたのでした。

―― だから…今日は絶好の…機会なんです。

今日のデート…いえ、お出かけにはゆーきも誘ってはいません。
文字通り須賀君と私だけの…二人っきりお出かけなのです。
それにまるでゆーきを仲間外れにしたような気がしますが…けれど、彼女にはどうしても言えませんでした。
須賀君の傍にゆーきがいると…どうしても会話の中心が二人の方になってしまうのですから。
そんな二人を見るのは好きですが…やっぱり今日という日の主役を譲りたくはなかったのです。

―― それに…その…ゆーきにはこの服の事も知られていますし…。

そう思うのは私が着ている服が原因でした。
普段着ているものよりもフリル多めのそれは所謂『よそ行き用』という奴です。
白地のワンピースからフリルが漏れるそれはまるでお姫様の着るドレスみたいで一目で気に入ったものでした。
しかし、買った後で着てみると思いの外、恥ずかしく、結局、今まで着る機会は一度もなかったのです。
それがとっておきだと言う事もゆーきは知っているので…私がどれだけ今日という日を楽しみにしていたか彼女に丸わかりになるでしょう。

―― 須賀君は…可愛いって言ってくれるでしょうか…?

自分でもあんまり可愛げがないって思う私にだって…そう言った期待はあるのです。
昨日からずっと悩みに悩んで選んだ服を…似合ってるって…可愛いって言ってほしいという期待が。
勿論…気遣いの上手な彼はきっと私を褒めてくれる事でしょう。
そう思いながらも私は不安混じりの期待を抑える事は出来ず、モジモジとしてしまいました。

―― 言ってくれなかったら…お昼は抜きですね。

そう思う私の手には小麦色のバスケットがぶら下がっていました。
その中には勿論、今日の為に頑張って作った二人分のお弁当が入っています。
昨日から仕込みを始めたそれは以前よりも遥かに手間が掛かっている自信作でした。
きっとこれなら間違い無く須賀君は美味しいと言ってくれる。
そう思えるほどの会心の出来に、私は一人キッチンでガッツポーズを取ったくらいなのですから。

―― これなら…きっと…宮永さんにも負けないはずです。

勿論、宮永さんがどれくらい美味しいお弁当を作るのかは分かりません。
もしかしたら私以上に彼の味覚を熟知しているのかもしれないのです。
しかし、それでも、私はこのお弁当なら引けをとるとは思えませんでした。
私の人生を振り返っても、これほどの出来は一度たりともなかったくらいなのですから。

―― その代わり…ちょっと作りすぎてしまいましたけど…多分、大丈夫ですよね。

大きめのバスケットの中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにお弁当が入っているのです。
正直、こうして手に下げているだけでも重いくらいのそれに少しだけ不安を感じました。
しかし…須賀君は食べ盛りの男の子なのです。
普段、彼が食べている量の二倍くらいありますが、きっと食べきってくれる事でしょう。

―― まぁ…何処で食べるかって言う問題はありますが…。

しかし、前回の反省を活かした私は、既にお弁当を作ってくることを彼に伝えているのです。
それに須賀君も了承してくれたのですから、ちゃんとその為のデートコースを考えてくれているでしょう。
まぁ…考えてくれていなかった場合は、ジュースの一本でも奢ってもらえばそれで済む話です。
須賀君もあんまりこうしてデートした経験もないらしいので、ちょっとした失敗くらいは大目に見てあげるべきでしょう。

―― でも…一体、何処に行くんでしょう…?

これまでメールで打ち合わせをしてきましたが、結局、何処に行くつもりなのか須賀君は教えてくれませんでした。
服装や靴の指定を聞いてみましたがなんでも良いと言われたので、何かしら運動したり遠出するような事はないのでしょう。
そうなるとこの辺りでは映画館かショッピングくらいが主な選択肢になるのですが… ――

―― そ、そう言えば…劇場版エトペンが2週間前から封切りでしたっけ…。

エトピリカになりたかったペンギン ―― 通称エトペンは私の大好きな本のキャラクターです。
そのぬいぐるみを抱きしめないと眠れないほど熱心なファンである私にはその映画がとても気になっていました。
新年度や事件に巻き込まれたのもあって見に行けませんでしたが…正直、私が今見たい映画と言えばそれだったのです。

―― 須賀君に言うべきでしょうか…いえ、でも…子どもっぽいと思われるのはイヤですし…。

とは言え、それをストレートに彼に言う事が出来るかと言えば、やっぱり否です。
最近は須賀君が居ても部室で寝るようになったので、彼も私の趣味をなんとなく察してくれている事でしょう。
ですが、須賀君はこれまでそんな私に突っ込んだりせず、エトペンの事もスルーしてくれていました。
そんな彼に自分の趣味を告げるのはやっぱりかなりの勇気がいる事だったのです。

―― な、何はともあれ…須賀君が来てからですね。

そうやって悩むのは別に今日に始まった事ではありません。
お出かけが決まってからほぼ毎日、ベッドの中で悶々としていた事だったのです。
そんなものが当日になったところで答えが出るはずがなく、考えるだけ無駄な事でしょう。
そう思考を打ち切りながら、私はそっと時計を見あげれば、そこにはほんの1/4ほど進んだ分針がありました。

―― 後…45分…ですか。

こうやって悶々としている間に15分ほど進んだ時計。
それを早いと見るか遅いと見るかは人それぞれでしょう。
しかし、私は正直…それを遅いと感じていました。
こうして悶々とするのは決して嫌なものではありませんが、やっぱり楽しみな気持ちはそれよりも遥かに大きいのです。
早く須賀君に会って…いろんな話がしたい。
そう思う気持ちはもう抑えられず、私は再びそわそわとしていました。

―― ピリリリ

「…あれ?」

そんな私の耳に届いた着信音は思ったよりも近いものでした。
まるで私が手に下げるバスケットから鳴っているようなそれに私はそっと中を覗き込みます。
そんな私の視界に飛び込んできたのはエトペンのストラップがついた自分の携帯と…その画面に表示されている須賀君の名前でした

―― どうかしたんでしょうか…。

まだ待ち合わせの時間まで45分もあるのです。
そんな時間に届いた待ち人からの着信に私は嫌な予感がしました。
正直なことを言えば…それをとるのを拒否したいくらいです。
ですが、もし、それが大事な要件であれば、彼に迷惑を掛けてしまう事でしょう。
そう思うと出ない訳にもいかず…私はおずおずと携帯を取り出し、通話ボタンを押したのです。

「…もしもし?」
「あ、和か?」

瞬間、私の耳に届いたのは聞き慣れた須賀君の声でした。
それに一つ安堵するのは彼が事故にあったという最悪の予想から免れたからです。
とは言え、それはあくまでも最悪のもの。
未だ私の中の嫌な予感はなくならず、胸の中に焦燥感が滲み始めました。

「はい。どうかしたんですか?」
「えっと…すまん。さっきちょっと電話があって…」

そう言葉を切り出す彼の声には焦燥が浮かんでいました。
まるで目の前で誰かが危ない目に遇っているようなそれは、少なくとも平静とは思えません。
瞬間、まるですぐ後ろに嫌なものが迫ってきているような嫌な予感が胸を突きました。
ジクジクと心の中に染みこむようなそれにさらに焦燥感を強めた瞬間、私の耳に須賀君の声が届きます。

「…悪い。今日、ちょっと行けなくなった」
「…え?」

それは正直、信じられない言葉でした。
だって、彼もまた私とのお出かけを楽しみにしてくれていたはずなのです。
デートコースだって言いながら、私と出かける場所を色々と考えてくれていたのですから。
そんな彼が当日のギリギリになってキャンセルするだなんて…よっぽどの事がなければありえないでしょう。
それをねじ曲げるほどの電話というのはただ事ではありません。
そう思うと再び須賀君の事が心配になりますが、今は…落ち着いて事情を聞くのが先決でしょう。

「…何かあったんですか?」
「ちょっと咲…いや、幼馴染が熱でやばいみたいでさ」
「っ…!」

瞬間、聞こえてきたその言葉に私は思わず息を飲みました。
まるで沸き上がってくる自分の感情を必死になって押し込めようとしているようなそれに…けれど、心は止まりません。
苛立ちのような…悲しみのようなドロドロとした感情を底から沸き立たせ、私の胸を埋め尽くしていくのです。

「親も仕事でもうとっくに出かけてるけど…熱でベッドから起きれないって聞いて…ほっとけなくて…」

そんな私に気づかずに、須賀君は申し訳なさそうにそう言います。
その声音に悲しそうなものも混ざっているのは…彼もまた私とのお出かけを楽しみにしてくれていたからなのでしょう。
しかし…それは今の私にとって何の救いにもなりませんでした。
今の私にとって何よりも大きかったのは…『須賀君が宮永さんの所為で来れなくなった』という事なのです。

「そう…ですか…」

それでも振り絞ったその声は微かに震えていました。
まるで自分の感情を吐露しようとするようなそれを私は拳を握って押しとどめます。
一番、苦しいのは私ではなく、こうやってキャンセルの連絡をいれなければいけない須賀君の方なのですから。
私が幾ら彼に感情をぶつけたところで…須賀君が困ってしまうだけなのです。

―― 須賀君は困っている友人を見捨てるような人じゃないんですから。

ここで宮永さんを見捨てて私に会いに来るような人なら、私はきっとここまで心を許しはしなかったでしょう。
きっと内心で距離を取りながら当たり障りなく接していただけのはずです。
だから…須賀君がそうして私ではなく宮永さんを優先するのは…至極、当然で当たり前の事なのです。
けれど…そうと分かりながらも…私は自分の胸の痛みを否定する事が出来ませんでした。

―― また…『また』なんですか…!!

こうして須賀君を宮永さんにとられるのは…別に今回が初めてではありません。
いえ…ここ最近は殆どずっとと言っても良いくらいなのです。
デートの約束をした日から宮永さんは頻繁に須賀君に会いに来るようになったのですから。
お陰で教室で須賀君と話す事は出来ず、部室でもゆーきが彼にべったりであまり機会がありません。
だからこそ、今日こそはそれを楽しもうと思っていたのに…それをまた目の前で奪い取られてしまったのです。

「あの…和?」
「いえ…すみません。それなら仕方ないですね」

そう答える声は思った以上に平坦なものになっていました。
自分でも驚くほどに冷たいそれに須賀君が電話口の向こうで怯むのが分かります。
それに胸が申し訳無さで痛みながらも…けれど、私にはどうする事も出来ませんでした。
だって…今の私の内側にはそれよりももっと醜い感情が荒れ狂い…轟々と唸っていたのですから。
一端、口に出してしまったらもう止まらないであろうその感情を押さえ込むには、そうやって言葉を冷たくする他なかったのです

「その…本当にごめん。今度、埋め合わせはするから…」
「気にしないでください。仕方のない事だって理解していますから」

えぇ。
私にだって…理解は出来ているのです。
須賀君がやっている事は決して間違ってはいません。
間違っているのはそれを仕方ないんだって…人として当然の事なんだって、許容出来ない私の方なのです。
けれど…けれど…どうしても…私は自分の感情を抑える事が出来ません。
自分勝手で…無茶苦茶な理屈だと分かっていても…私のことを一番に優先して欲しかったのです。

―― …苦しくて…息が詰まりそうです…。

きっと今の私は表面上はとても平静を装えているのでしょう。
理性の全てを総動員して作り上げた仮面は、強固なものだったのですから。
しかし、その奥底で感情に翻弄される私の胸は…今にも張り裂けてしまいそうでした。
須賀君が私ではなく…宮永さんの看病を選んだというだけで…私は今、死にそうなほどに苦しんでいたのです。

「京ちゃん…京ちゃん…何処…?」
「ちょ…咲!?」

そんな私の耳に届いたのは熱っぽい宮永さんの声でした。
こうして電話口からでもはっきりと分かるそれは彼女がとても苦しんでいる事が伝わってくるのです。
しかし…それでも…私はコールタールのような暗く淀んだ感情を捨て去る事が出来ません。
こうして私にも聞こえるくらいに…須賀君の傍にいる彼女に…私は今、間違いなく嫉妬していたのです。

―― そこは…私の場所であったはずなのに…!

今日の私は…そこにいたはずなのです。
今日の須賀君は…私の傍にいてくれるはずだったのですから。
しかし…その居場所は彼女に奪われ…私は一人ぽつんと…立っているだけ。
その虚しさとやりきれなさに目元が赤くなり、目尻がそっと濡れるのを感じました。

「バカ…!ちゃんと部屋で寝てろって言っただろ!」
「ごめんなさい…でも…」

心配そうに声を荒上げる須賀君の言葉に宮永さんは小さく謝罪の言葉を返しました。
それは彼の言いつけを破ってベッドから抜け出したからでしょう。
しかし、それでも宮永さんがその場を離れる気配はありませんでした。
助けを呼ばなければどうにもならないほどの熱を出している彼女にとって、頼れるのは須賀君だけなのです。
その姿が見えないというのは無性に寂しくなるものなのでしょう。

「…」ギリッ

しかし、それが私にとってはあてつけに思えて仕方がありませんでした。
須賀君は…自分を選んだんだって…私ではなく…自分の傍にいるんだって…そう言われているように思えるのです。
勿論、そんなものは私の錯覚であり…考えすぎなのでしょう。
ですが、今まで須賀君を彼女に取られ続けた私にとって…それは決して振り払えないイメージだったのでした。

「あー…もうほら…そんなフラフラになって…ほら、手ぇ貸せよ」
「本当にごめんね…」
「気にすんな。これくらいの我侭くらい可愛いもんだ。それに普段、俺の為に色々やってくれてるんだからたまにはお姫様気分味わっとけ」
「っ…!」

そんな私にトドメを刺したのは須賀君の言葉でした。
恐らく彼にとって…それは何の毛ない普通のものだったのでしょう。
冗談めかした彼らしい言葉だったのですから。
しかし…それを内心、期待していた私にとって…それはもう耐え切れるものではありませんでした。
もうコレ以上…聞いていられなくなって…私は反射的に通話を切ってしまったのです。

「あ…」

その事に気づいた時にはもう全てが遅かったのです。
携帯の画面は元へと戻り、既にそれが須賀君へと繋がっていない事を私に知らしめました。
勝手に途中で切ってしまうだなんて最悪なことをしてしまった自分に…私は強い自己嫌悪を感じます。
けれど、私はそれを再び繋ぎ直す気にはなれず、その場で呆然としていました。

―― もし…またあんなやり取りが聞こえてきたら…私…。

今でさえも…私の胸は苦しくて…今にも押しつぶされてしまいそうだったのです。
自分では到底、制御出来ない感情に振り回され、もうどうしていいか分かりません。
そんな私の耳にまた宮永さんとのやり取りが聞こえてしまったら…私は苦しさでどうにかなってしまうかもしれません。
今だって…私は…苦しくて…悲しくて…おかしくなってしまいそうだったのですから。

―― …お弁当も服も…全部…無駄になっちゃいました…。

それは本来…須賀君に食べて貰う為のものであり、須賀君に褒めてもらうう為のものだったのですから。
しかし、彼は宮永さんの看病をする為にここには来てくれず、全て無駄になってしまったのです。
いえ…それだけじゃありません。
私がさっきまで…考えていた色々な事も…全部が全部無に帰して…こぼれ落ちていってしまったのです。

―― 私が…一体…何をやったって言うんですか…。

私は…何も悪い事をしていません。
ただ…須賀君と二人っきりになれる機会を楽しみにしていただけなのです。
それなのに…私の手から楽しみにしていたものはこぼれ落ち…手の中には何一つとして残りません。
その空虚さに胸がズキズキと痛みますが、不思議と濡れた目尻から涙は出ませんでした。
私の作った理性の仮面はあまりにも強固だったのか、顔も固まったままろくに動かないのです。

―― …須賀君…。

そんな私にも…一つだけ希望がありました。
それは…さっきあんな失礼な切り方をしてしまったという事です。
もしかしたら…彼は心配してこっちに来てくれるかもしれない。
宮永さんの看病よりも…私とのデートを…お出かけを優先してくれるかもしれない。
そんな…ありえないはずの希望が…私の心を支える唯一のものだったのです。

―― でも…一時間待っても…二時間待っても…彼は来てくれませんでした。

勿論、来てくれるはずがありません。
須賀君は宮永さんの看病を放り出すような人ではないのですから。
そんなものは…私にだって分かってるのです。
しかし、それでも…私はその場を離れられませんでした。
もしかしたら…もしかしたらと待ち続け…立ち尽くし続けたのです。

―― そんな私が諦めたのは日が落ちてからでした。

結局…待ち合わせから半日経っても彼は現れてくれませんでした。
携帯を見ても…そこには一件の電話もメールも入ってはいません。
それを確認した瞬間、私は自嘲に曇った笑みを浮かべてしまいました。
きっと…途中で電話を切ってしまった私のことを…須賀君は呆れてしまったのでしょう。
自分勝手で…我侭な私に…付き合えないって…きっとそう思われたのです。

――…帰り…ましょうか…。

何処か空虚な言葉を胸中で浮かばせながらも、私はすぐさま立ち上がる事が出来ませんでした。
その腰はベンチに腰掛けたまま微動だにせず、身体は虚しさと無力感に満ちていたのです。
それでも数分後、身体に鞭を打つようにしてそっと立ち上がり、私はゆっくりと帰路につきました。

―― その途中で今日の夕飯の為のお買い物をして…。

今日のお出かけを知って夕飯を作らなくても良いと両親は言ってくれていましたが、折角、余暇が出来たのです。
日頃から頑張ってくれている二人の為に夕食くらいは作るべきでしょう。
とは言っても、今からではあんまり手の込んだものを作る事は出来ません。
特に下準備もなく焼いたり混ぜたりと言った程度のものでしょう。

「…ただいま」

そんな私が帰ってきた時にはまだ家に光が灯されていませんでした。
やっぱり今日も両親は忙しく、まだ帰ってくるには時間が掛かるのでしょう。
或いは私が友達と出かけると言っていたのを聞いて、二人で食事にでも出かけているのかもしれません。
そう思いながらリビングに入りましたが…テーブルには書き置き一つありませんでした。
何かあればちゃんと連絡をよこす几帳面な両親の事ですから…きっとまだ帰ってきていないのでしょう。

「さて…」

そんな誰も居ないリビングで私が真っ先に手にとったのは買い物袋ではありませんでした。
ずっとその手に抱えていたバスケットだったのです。
それを両手で抱えながら私はキッチンへと入り、ゆっくりと生ゴミ用のゴミ箱を開けました。
そこに会心の出来だと思った料理を放り込むのは…もうそれが食べられたものではないからです。
梅雨入り間近のじりっとした暑さを見せた今日、半日も常温で放置していたら…中身が腐っていてもおかしくないのですから。

―― だから…仕方のない事なんです。

本当にそれを無駄にしたくなかったのであれば、私はすぐさま家へと帰るべきだったのです。
そうすればきっと両親と一緒にそれを食べ、二人に褒めて貰う事が出来たでしょう。
しかし、私は一縷の…いえ、一縷すらない望みに賭けて…それを無駄にしてしまいました。
どうしても須賀君に食べて…褒めてほしいって…思った所為で…食べられないものにしてしまったのです。

「ひっく…ぐす…っ」

そう思った瞬間…私はもう自分の感情を止められませんでした。
これまで平静を装っていた仮面がバキバキと砕け、奥から涙と嗚咽が溢れるのです。
それに…とっておきだったはずの服が汚れてしまうのを見ながら…けれど、私はそれを止める事が出来ません。
まるで今日一日の事を全て洗い流そうとするように泣き続け…けれど、収まらない感情に…私は…… ――



……
…………
………………

―― 次の日、私の携帯に須賀君からのメールが届きました。

そこにはアレから宮永さんが倒れて病院に付き添っていた旨が書かれてありました。
結果、私に連絡出来なかった事とドタキャンになった事を詫びるその文面に私は一つ安堵したのです。
そうやってメールをくれたという事はあんな電話の切り方をした所為で嫌われた訳ではなかったのでしょう。
少なくとも最悪の予想が外れた事に私は安堵を感じながらも…しかし、心穏やかではいられませんでした。

―― それくらいあの日の事は私の中で大きかったのです。

仕方がなかったとは言え、須賀君が私ではなく…宮永さんを選んだ事に…私は思った以上にショックを受けていました。
それはベッドに逃げ込むようにして眠った後にも尾を引いていたのです。
ふと気を抜いた時にあの日の出来事が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるのですから。

―― それはきっと…さらに頻繁にクラスに顔を出すようになった宮永さんに関係しているのでしょう。

これまで彼女は来る日と来ない日がありました。
しかし、ここ最近は、ほぼ毎日、クラスに顔を出し、須賀君と話していくのです。
恐らくあの日の看病で完全に蟠りを消し去る事が出来たのでしょう。
それを思わせる関係はとても微笑ましく…それでいて私の胸を疼かせるものでした。

―― だって…そうやって二人が仲直りしている後ろで…私が犠牲になっているのですから。

あの病室で二人が仲直りを始めた時も…私は須賀君にお見舞いが出来ませんでした。
そして今回も…私は須賀君にお出かけをドタキャンされてしまったのです。
宮永さんが須賀君と仲直りして彼と接近する度に…結果的に私が損をしているのでした。
勿論、それは結果的にであり、二人が私に意地悪しようとしているからではありません。
しかし、そう分かっていても…彼女に対して蟠りを捨てきれるほど私は清い女性ではなかったのでしょう。

―― そして何より…今も私は宮永さんに『奪われて』いるのです…。

そうやって急接近する二人の関係をクラスの皆も好意的に見ているのでしょう。
からかいやすい須賀君の雰囲気も相まってか、最近は二人を『夫婦』と揶揄する声も増えていました。
けれど…それは元々…私に向けられたものだったのです。
あの日…須賀君が私を追いかけてくれた日から…私と須賀君に与えられた言葉だったのです。
それさえも…後から現れて奪っていく彼女の事を…私はどうしても好きになる事が出来ませんでした。

「…はぁ…」

そしてそうやって宮永さんの事を嫌いになればなるほど…私は自分に嫌気が差すのです。
自分の惨めさと矮小さに自己嫌悪が止まりません。
いえ、それどころか日増しに強くなっていくのを感じて…私はついついため息を吐いてしまったのです。

「どうかしたの?」
「あ…」

そんな私の耳に届いたのは心配するような部長の声でした。
それにここが部室である事をようやく思い出した私は小さく声をあげてしまいます。
しかし、さっきまで物思いに耽っていた私にそれを取り繕う言葉が出て来ません。
頭の中も妙にぼんやりとして…はっきりしないのです。

「最近、ちょっと変よ」
「…すみません…」

自分でも今の状態がおかしい事くらい理解していました。
頭の中は須賀君と宮永さんの事で一杯で…ろくに集中出来ていないのです。
お陰でここ最近は麻雀でもミスが多く、集中力のきれたゆーきにまくられる事だってありました。
恐らくインターミドルの頃よりも今の私は弱くなっているでしょう。
そうは思いながらも…頭の中に浮かぶもやもやは晴れず、集中することが出来ませんでした。

―― 私が人に誇れるものなんて…麻雀しかないのに…。

インターミドルチャンプ。
その称号は私にとっても誇らしいものでした。
そこに至るまでに色々な人に助けてもらい、自分でも努力したのですから当然でしょう。
麻雀が好きだからこそ、そして麻雀を通して出会った人々が素晴らしかったからこそ到達出来たそれは私の人生の中でもひときわ輝くものです。
それ以外が精々が人より優れている程度でしかない私にとって、麻雀は唯一、他人に誇れるものでした。

「私で良ければ相談に乗るけど…」
「それは…」

そう言ってくれる部長の心遣いはありがたいものでした。
けれど…それに甘えられるかと言えば答えは否です。
何せ、それは私の心の中でも最も醜い部分に踏み込む問題なのですから。
ゆーき相手にさえ漏らす事の出来ない自分を…部長に相談する事なんて出来ません。

「そっか。まぁ、私は何時でも窓口空いてるから。頼りたくなったら何時でもおいで」
「…ありがとうございます」

そんな私の感情に気づいてくれたのでしょう。
小さく笑いながら男らしい言葉をくれる部長に私は感謝の言葉を返しました。
けれど…その内心で、私は謝罪の言葉を浮かべていたのです。
本質的な部分では…私は未だ部長に心を許しておらず、頼る事はきっとないのですから。
そうやって踏み込むことを私が許しているのは…この清澄の中でもたった二人だけなのでしょう。

「それじゃ私は疲れたし…ちょっと寝るわね」
「はい」

そう言いながら部長は小さくあくびをして部室の奥へと引っ込みました。
そこには何時から運び込まれたのか小さなベッドが一つあり、仮眠を取る事が出来るのです。
受験間近の三年生、それも学生議会長として多忙な日々を送っている部長は良くそれを利用していました。
きっと今日もギリギリまで各所で打ち合わせをしてきたのでしょう。
さっきも椅子に座りながら、束になった書類に目を通していたのですから。

―― …それでもこうして来てくれるのは、この麻雀部が部員不足だからでしょう。

麻雀とは基本的に四人でやる競技です。
しかし、この麻雀部には男女合わせて五人しかおらず、またその内二人は色々な事情があって多忙なのでした。
結果、毎日集まれるのは一年生三人になるのですが…それでは普通の麻雀は出来ません。
勿論、三人用の麻雀ルールもあると言えばあるのですが、
未だ初心者の域を出ない須賀君がいるのに特殊なルールを彼のために良くないでしょう。
だからこそ、人数を四人に揃える為にこうして横になるほど疲れているのに部長は部室へと顔を出してくれるのです。

―― そんな部長に…何とか報いてあげたいんですけれど…。

今の清澄麻雀部の女子は四人…つまり、後一人誰か入ってくれれば団体戦へ出る事も視野に入るのです。
長年、染谷先輩と一緒に二人で麻雀部を守ってきた部長に報いるには、そうやって部員皆で公式戦に出られるようにするのが一番でしょう。
しかし、誰かもう一人麻雀部に入ってくれそうな宛なんて私にはありませんでした。
元々、私は交友関係も広くなく、あまり積極的でもないのですから。
勿論、ここ最近はそんな自分を改善しようとして、ゆーき以外にも話すクラスメイトは増えました。
しかし、彼女たちに麻雀の事を切り出せるような勇気はまだ持てなかったのです。

―― バーン!

「カモつれてきたぞーっ」
「…え?」

そんな不甲斐ない自分にため息を吐きそうになった瞬間、部室の扉が勢い良く開かれました。
驚きながらそちらに目を向ければ…そこには見慣れた須賀君の姿があったのです。
けれど、須賀君はその顔に嬉しくて堪らないと言わんばかりの笑みを浮かばせていました。
まるで長年の悩みがひとつ解決したような清々しいその笑みに私は首を傾げて… ――

「っ…!」

瞬間、その後ろにいた女性の姿に私の目は惹きつけられます。
須賀君の背中に隠れるようなその人を…私が見間違うはずがありません。
ここ最近、クラスでも頻繁に見かけるようになったその人は…私が勝手に対抗心を抱いている宮永さんその人でした。

「お客様…?」

瞬間、湧き上がる様々な感情は…決して良いものでありませんでした。
彼女を自分勝手な理由で嫌っている私は、また何か私から奪いに来たのかもしれないと身構えてしまうのです。
しかし、それを表層に出す訳にはいかず、私は溢れ出る感情を奥へと押し込みました。
それと同時に平静の仮面を被る私の言葉は、普段通りのものだったのでしょう。
私と向かい合う二人には表情の変化は見えず…それに私は胸中で一つ安堵したのです。

「さっきの…」
「え、おまえ和のコト知ってんの?」
「先ほど橋のところで本を読んでいた方ですね…」
「ぅひ…見られてたんですか」

そんな私にポツリと漏らす宮永さんの言葉に、私は部室に来る前に橋のところですれ違ったのを思い出しました。
けれど、私が彼女のことを知っているのは決して、さっきのすれ違ったからではありません。
私は普段、歩いている時に他人の事をそれほど注視するタイプではないのですから。
これが宮永さん以外の… ―― いいえ…私からいろんなものを奪った彼女以外であれば、きっと私は即答する事は出来なかったでしょう。

「和は去年の全国中学校大会の優勝者なんだぜ」

そう誇らしげに言ってくれる須賀君に私はほんの少し救われた気がしました。
一体、彼が宮永さんをどうして麻雀部に案内しているのかは分かりません。
正直、また須賀君と宮永さんが私を放っておいて二人っきりでいたんだと思うと胸が痛むくらいです。
しかし、我が事のように言ってくれる彼の言葉に、私の痛みは収まっていきました。
まるで彼の言葉が特効薬だったかのようなその素早い効き目と嬉しさに頬を私はついつい頬を赤く染めてうつむいてしまいます。

「それはすごいの?」
「っ…!」

そんな彼に呆れるようにして返す宮永さんの言葉に私はぐっと歯を噛み締めました。
そうしなければ…私は彼女に対してひどい言葉を放ってしまいそうだったのです。
勿論…何も知らない彼女にとって、それは価値の分からないものだったのでしょう。
その言葉そのものにきっと他意はないはずです。
しかし、それでも…私の中でひときわ輝く誇らしいものをバカにされたような気がして…小さな苛立ちを感じるのでした。

「すごいじょ!」
「…え?」

瞬間、聞こえてきたゆーきの声に視線をそちらに向ければ、彼女は大声をあげて宮永さんを驚かせているところでした。
その手に学食の袋を持っているのは、学食でタコスを買ってきた帰りだからでしょう。
タコスが大好物である彼女は部活の前にも良くそれを食べるのです。
お陰で常日頃から金欠に泣いているのですが…まぁ、それは余談という奴でしょう。

「学食でタコス買ってきたじぇー」
「またタコスか」
「ふふ…お茶入れますね…」

嬉しそうにその袋を見せびらかすゆーきに須賀君は呆れながらそう言いました。
けれど、彼女のお陰で沈んだ気分が浮き上がった私にとって、それはとても有難い事だったのです。
勿論、ゆーきも意識してやった訳ではないのでしょうが…彼女は普段からムードメーカーに近い役割を無意識的にこなしてくれるのでした。
中学時代から今日までその明るさに助けられた事は数えきれません。
だからこそ、私はそんな彼女に報いようと部室の隅へと移動したのです。

「~~~っ」
「~~」

そんな私の後ろで三人が話し始めるのを聞きながら、私は小さくため息を吐きました。
ゆーきの参入のお陰で随分と気が楽になりましたが、宮永さんが須賀君と話しているというだけで私の胸は痛むのです。
ズキズキと鈍痛走らせるそれは日常的なものだと言っても差し支えありません。
ですが、それに慣れるかと言えばまた別問題で…私はついついお茶を蒸らし過ぎそうになってしまうのです。

「部長は?」
「奥で寝てます…」

それでも何とか人数分淹れたお茶を卓へと運ぶ私に、須賀君がそう尋ねてくれました。
それに小さく答えるのは、部長を起こしてしまったら可哀想だからです。
部長は基本的に寝付きの悪い人ではないようですが、あまり騒がしいと起きてしまうでしょう。
普段から忙しくしていて疲れているのですから、ゆっくり休ませてあげたいのが本音でした。

「じゃ、うちらだけでやりますか」
「え」

そんな私の意図に気づいてくれたのでしょう。
須賀君は声を低く抑えながら、そう言います。
それに宮永さんが驚いた声をあげますが、彼はそれを完全にスルーしていました。
一体、どういう経緯で宮永さんがここに来たのかは分かりませんが、須賀君は多少強引でも彼女を麻雀卓へとつけようとしているのです。

「そうですね…」

正直…それに対して色々と言いたい事はありました。
聞きたい事だって…山ほどあったのです。
しかし、それを口にするのは私の心には邪魔なものが多すぎるのでした。
羞恥心や見栄…体面などの下らないものが私をがんじがらめにして…彼へと踏み込む事を禁じているのです。
そんな自分に一つため息を漏らしながら、私は自動卓の準備を始めるのです。

「25000点持ちの30000点返しでウマはなし」
「はい」
「…うん」
「タコスうまー」
「お前なー」
「仕方ないですよ。ゆーきですから」

準備が終わり、最後にルール確認をする私達。
そんな中で一人マイペースにタコスをかじるゆーきに須賀君は呆れたような声を漏らします。
けれど、今更、そんな事を言っても、彼女の態度は変わりません。
中学時代からずっと私も注意してきましたが、ゆーきのタコス好きは収まる事はなかったのですから。
最早、私は彼女にそれを注意する事を諦めて、ゆーきの個性だと受け止める事にしたのです。

「ふふん。そんな事言うのどちゃんにはタコスを分けてあげないじぇ」
「…要りませんよ」

私はゆーきと違って、食べても太らない体質ではないのです。
食べれば食べるだけ…その一部が大きくなってなるのに暴飲暴食は出来ません。
さっき昼食も食べた訳ですし、欲望に負ける訳にはいかないのです。
幾らゆーきがタコスを美味しそうに食べたとしても、何時もの事なのだと受け流すべきでしょう。

「んじゃ、俺にはくれるのか?」
「良いじぇ。ただし、金額は二倍な」
「ぼったくり過ぎるだろ…」

そう言いながらも、ゆーきが袋からタコスを取り出しながら須賀君へと手渡します。
その瞬間、全員に手牌が行き渡り、全員が無言へと変わりました。
麻雀が始まったのを感じさせるその独特の緊張感に私の表情も引き締まります。

―― 一体…どういうつもりかは知りませんが…。

ですが、こうして麻雀卓に着いた以上、宮永さんも一人の雀士です。
例え、役も知らないような素人であろうと手加減するつもりは毛頭ありません。
中学までがそうであったように…自分の麻雀を続け…そして勝つ。
さっき宮永さんがバカにした自分の力で…勝利したいと…心からそう思っていたのです。

―― お陰で…久しぶりに頭の中がクリアになっています…。

今まで自分の頭の中を支配していた雑念をぶつける先を見つけたからでしょう。
今の私は久しぶりに麻雀と向き合い、そして集中する事が出来ていました。
勿論…それは普通であれば非難されるべきことなのでしょう。
八つ当たりに近い感情を発散する為に…麻雀を使うだなんて間違っているのです。
しかし、私のようやくその捌け口を見つけたどす黒い感情は…制御出来ませんでした。

「ローン。2000。混一」

そんな感情に支配されながら始めた一局目。
それに和了ったのは宮永さんからの放銃を受けたゆーきでした。
天才肌のゆーきは後半まで集中力がもたない事が多いですが、前半の彼女を抑えるのは私でも至難の業なのです。
一局目に彼女が和了るのはそう珍しい事ではありません。

―― ですが…何かが…おかしいです。

宮永さんの牌を打つ仕草や並べ方。
それらはかなり熟練したものであり、決して彼女が素人ではない事を私に伝えていました。
もしかしたら私以上に熟練しているかもしれないそれは少なくとも…三回も鳴いた見え見えの混一色に振り込むような打ち手とは思えません。

―― わざと振り込んだ…?でも…そんな事…。

するメリットなんてありません。
まだ麻雀は始まったばかりでありわざわざ振り込んで親を流すような時間ではないのですから。
半荘と言う短い期間ですし、ここは一回でも多く和了るのを優先する場面でしょう。

―― …嫌な…感じです。

これまでも自分が理解出来ない打ち手と出会った事は少なからずありました。
けれど、私が今、彼女から感じているそれはそれとはまったく異なるものだったのです。
まるでやっているルールが違うようなその異質さに…肌がピリリとしたものを感じました。
ですが、どうしてそんな風に感じるのか私は理解出来ないまま、結局、オーラスまで回ったのです。

「リーチっ!」
「ごめん。それロン」
「なんですとォ!」

結局、オーラスに和了ったのは宮永さんでした。
少しでも点数を稼ぐ為、リーチに賭けた須賀君を狙い撃ちにした形です。
お陰で元々最下位だった彼はさらに転げ落ち、-25という成績になったのでした。
それが悔しいのか、宮永さんの頬をグリグリと突き回す彼の姿に私はまた鈍痛を覚えたのです。

「ごめ」
「素人にもほどがあるよっ」
「……」

そう言って宮永さんの頬を弄ぶ彼に、彼女は抵抗しませんでした。
無防備に身体を預け、されるがままになっているのです。
まるで須賀君なら何をされても良いと言うようなその仕草に私は卓の下で拳を微かに震わせました。

―― 私だって…それくらい…。

も、勿論…そうやってされるのは恥ずかしいですし…屈辱的ではあります。
でも、須賀君がしたいなら私だって身を任せる事は…その…吝かじゃありません。
二人っきりだったら…私だって…同じ事は出来るのです。
だから…私は全然、悔しくも、悲しくもなくって… ――

「…のどちゃん?」
「あ…」

瞬間、聞こえてきたゆーきの声に私は意識を現実へと戻しました。
そうやって私が胸中で思い悩んでいる間に、皆は牌を自動卓に片付けていたのです。
そんな中、一人呆然としていた私の事をゆーきは心配してくれていたのでしょう。
その視線には私を気遣うようなものが強く現れていました。

「おかげさまで私がトップですね…」

そう言ったのは…自分でもどうしてなのか分かりません。
仲睦まじい二人の様子を意識していた自分を取り繕いたかったのか、或いは、三位という結果に落ち着いた宮永さんに勝ち誇りたかったのか。
けれど…そうやって放った言葉が決して良い感情から生み出されたものではない事だけは確かなのでしょう。
何せ…そんな私の言葉に何ら反応を見せない宮永さんに…私の心は苛立ちを感じていたのですから。

―― どうして…なんですか…?

先の私の言葉は決して行儀の良いものではありませんでした。
下手をすれば人の気分を損ねてもおかしくはないものだったのです。
しかし、宮永さんはそれをまったく意識しておらず、また三位という結果に悔しそうな様子一つ見せません。
いえ…それどころか…最後の一局…彼女は進んで三位という結果に落ち着いたのです。
ゆーきから直撃を取れば、二位に浮かぶ事も出来たのに…宮永さんはそれを選びませんでした。

「ロン」
「ひぃっ」

しかし、宮永さんの真意を図りかねないまま次の半荘も進んでいきます。
その最中、須賀君から幾つか直撃を取れるように狙ったのは別にさっきの事を怒っている訳ではありません。
確かに目の前でイチャつくような真似をされてムカムカきてたのは確かですが、それとこれとは話が別です。
須賀君を狙い撃ちにした方が確実だとそう判断しただけで、別に仕返しでもなんでもないのですから。

「しかし、咲の麻雀はぱっとしませんなー」
「点数計算は出来るみたいだけどねい」
「……」

半荘とは言え、三回もすれば流石に集中力も切れてきます。
淹れなおしたお茶を飲みながら、須賀君たちは雑談を始めていました。
それでも麻雀そのものは続けていますが、そろそろ休憩を入れるべきでしょう。
しかし、そう思いながらも…私は妙に釈然としない気持ちで一杯でした。
まるでこのまま終わってしまったら後で酷く後悔してしまいそうな…そんな予感を感じていたのです。

―― ゴロゴロ

「雷!」
「夕立きましたね」

瞬間、鳴った雲の唸り声に真っ先に反応したのは須賀君でした。
そんな彼の声に視線を窓へと向ければ、ざああという雨の音が聞こえてきます。
部室に来る前までは綺麗に晴れていたので、それはきっと夕立なのでしょう。
予報では降水確率0%だったとは言え、天気が不安定な初夏に入っているのです。
折りたたみ傘は毎日、持ってきている私にとって、それは恐れるものでありませんでした。

「うそっ。傘もってきてないわ!」

しかし、部長にとってはそうでなかったのでしょう。
激しい雨の音に起きたのか、或いは最初から眠れていなかったのか。
ガバッと勢い良くベッドから起き上がり、ベッド脇にそろえてあった靴を履き直します。
そのまま立ち上がる部長に宮永さんが驚いたような視線を向けるのはきっと学生議会長が麻雀部所属だと知らなかったからでしょう。

「おはー」
「おはよっす」

そんな宮永さんに補足する私の隣でゆーきと須賀君が軽い挨拶の言葉を放ちます。
それに手で軽く答える様は何とも様になっていました。
その何とも言えない格好良さは、女生徒を中心にファンが多いのも納得です。
もし、部長が女子校に進学していたら、きっと今以上に人気者だったでしょう。

「なんで麻雀部に…」
「……」

瞬間、聞こえてきた宮永さんの言葉に私は再び苛立ちを湧きあがらせました。
なんで麻雀部『なんか』に、と言いたそうなそれは真面目に麻雀をやっている人にとっては冒涜もいい所です。
宮永さんが一体、麻雀に対してどんな感情を抱いているのか知りませんが、正直、聞いていて面白くはありません。
流石に食って掛かったりしませんが、またひとつ宮永さんの事が嫌いになる理由が私の中で生まれたのです。

「麻雀が好きだからに決まっているでしょ」

けれど、それを言われた部長はそれをあっさりと受け流しました。
それが当然だと言うようなその切り返しは苛立ちを抑えきれない私には凄く大人っぽく見えるのです。
いえ…多分、私が宮永さんの言葉を一つ一つ悪く受け取りすぎなのでしょう。
部長の反応が当然で、それが大人に見えてしまうくらいに私が子どもっぽ過ぎるだけなのです。
しかし、そうと分かっていても、どうしても宮永さんを好意的に見る事は出来ず…私の中で渦巻く自己嫌悪がさらに強くなっていくのでした。

「貴方が今日のゲストね」
「ども」

その声に驚きはありませんでした。
もしかしたら部長は既に須賀君から宮永さんが来る事を知らされていたのかもしれません。
いえ、なんだかんだ言って几帳面な須賀君はきっと責任者である部長に連絡していたのでしょう。
知らなかったのは恐らくゆーきと私だけなのです。

―― それが少しだけ…悔しくもありますが…。

宮永さんが来る事を最初から聞かされていれば、もっと心の持ち方も違ったでしょう。
彼女に対してこんなに硬い態度を取る事はなかったのかもしれません。
少なくとも…今の私がこんなにもモヤモヤする事はなかったはずです。
しかし、そんな自分を知られたくなくてひた隠しにしている以上、それを察しろというのは無茶でしょう。
言って欲しくはありましたが…けれど、それを望むのは酷だと私にも理解できているのです。

―― それに…もう終局も間近です。

麻雀もオーラスを迎え、数巡ほど進んだ今、宮永さんの聴牌気配も濃厚でした。
恐らくそう遠くない内に彼女は和了り、終局を迎えてしまう事でしょう。
それを理解しながらも私の手は遅く、宮永さんに追いつく事は出来ません。
とは言え、点差そのものの差は歴然で役満ツモか倍満以上の直撃が無い限り順位は逆転される事はないでしょう。
ならば、ここで避けるべきは直撃だけであり、その捨て牌を見ておけばそれも難しく… ――

「ロン。1000点」
「…え」

その瞬間、私は微かに声をあげてしまいました。
それは勿論、私がそれの直撃を喰らったからでも、逆転されたからでもありません。
宮永さんに振り込んだのはゆーきで、私は一位のまま抜ける事が出来たのですから。
ですが…宮永さんが和了ったその手牌は…普通に考えればまずないものだったのです。

―― この手牌なら…もっと上を狙えたはずなのですから。

勿論、それは終わった後なら幾らでも言える結果論なのかもしれません。
しかし…河を見る限り、宮永さんが六萬を切る理由は何処にもないのです。
それは危険牌でもなんでもありませんし、何よりそれがあれば三色とタンヤオがついたのですから。
ドラが絡まなくても7700は狙えるそれを誰かに当てれば、二位に浮上する事だってあり得たでしょう。

―― どういう…事ですか…?

まるで意図的に点数を下げたような打ち筋。
それに気づいたのは恐らく捨て牌を注意深く見ていた私だけだったのでしょう。
ゆーきは悔しそうに歯噛みし、須賀君はそもそも初心者でまだ他人の河を考察出来るレベルに達してはいません。
もしかしたら、それを隣で見ていた部長は気づいているのかもしれませんが、彼女も何も言いません。
その視線はじっと片づけに入る宮永さんに向けられ、怪訝そうなものを浮かべていました。

「三回目終わりました」
「今回ものどちゃんがトップか~」

―― トップ…?私が…?

胸中で違和感が疑念に、そして疑念が確信に変わっていったからでしょうか。
私はゆーきの言葉を素直に受け止める事が出来ませんでした。
まるで何か気持ちの悪いものに絡め取られ、無理矢理、一位を取らされたような気がしてならないのです。
勿論、麻雀は運に大きく左右される競技であり、そんなオカルト染みた何かが入り込むような余地はありません。
それがインターミドルという大会の最前線で戦ってきた私が一番、良く分かっているのです。

―― でも…何ですか?この焦燥感は…。

言い知れない気持ち悪さに私はそっと自分の胸を抑えました。
逸る自分を落ち着けようとするようなそれに、しかし、私の鼓動は落ち着きません。
はっきりと目に見えるようになってきた『何か』に対して怯えるように、ドクドクと脈打っていたのです。

「今回の宮永さんのスコアは!?」
「プラマイ0っぽー」

部長の言葉にゆーきは興味無さそうに答えます。
きっと彼女にとって、宮永さんはそれほど意識するような相手ではないのでしょう。
実際、高火力で敵を圧倒するゆーきに対して、宮永さんの打ち筋はあまりにも地味でした。
多分、私だって宮永さんの事を強く意識していなければ…違和感以上のものを抱いていたとは思えません。
それくらいに宮永さんの麻雀には華がなく…いえ…より正確に言えば…華を『切り取られた』ような印象を受けたのです。

「会長も起きてメンツも足りてるようですし抜けさせてもらいますね」
「えっオィ」
「もう帰っちゃうのー?」

そう言って咲さんが椅子から立ち上がりました。
そのまま本を手に持ってそそくさと去ろうとする彼女に私は何を言えば良いのか分かりません。
もう少しで気付けそうなのに…後一手、私の中で『何か』が足りないのです。
そんな私には無言で宮永さんを見送る事しか出来ず、彼女はぎこちない笑みと共に扉の向こうに消えました。

「…ふぅ…」

その瞬間、ため息を漏らしたのは自分でも何故なのかは分かりません。
宮永さんの前で思った以上に緊張していたのか、或いは彼女の持つ『何か』に気圧されていたのか。
もしくはその他になにか理由があるのかもしれませんが、私はそれを詮索するつもりはありませんでした。
あの様子では麻雀部に入ってもらう事は望み薄ですし、きっとここで会う事はないでしょう。
つまり…私の大事な居場所まで宮永さんに取られる事は防げたのです。

「のどちゃんやっぱ強すぎだじぇ」
「圧勝って感じだね」

そんな私の隣でゆーきと須賀君はそう褒めてくれました。
あまり勝った気はしませんが…それは素直に聞き入れておくべきでしょう。
ここで謙遜しても感じが悪いですし…何より私はまったく嬉しくない訳ではなかったのです。
宮永さんを抑え一位になった私を褒めてくれるのは、醜い私を肯定されたような気がして…ほんの少し救われた気がしました。

「圧勝?なに甘いこと言ってんのよ」
「「えっ」」

瞬間、ククッと笑いながら声を漏らした部長に、二人は声を揃えました。
こんな時にまで仲の良いその姿に私はほんの少し胸が疼くのを感じます。
けれど、今はそれを表に出すべきではありません。
だって…部長のそれは私の知らない角度から宮永さんを見ていたものなのですから。
あの一方的だったはずの麻雀の中で私が感じた確信をより形のあるものにしてくれるかもしれない。
そう思うと口を挟む気にはなれず、私はじっと部長の言葉を待ち続けました。

「スコア見て気付かんの?」
「宮永さんの三連続プラマイ0が故意だと言うんですか…」

そう言ってスコアを記録するパソコンに近づく部長の指先には宮永さんのスコアが映っていました。
終わる度に記録していたそこには三回連続プラマイ0という結果が残っています。
勿論、私もその結果には気づいていましたが…それが故意とは到底、思えませんでした。

「えっんなバカな。たまたまっしょ」
「そうだじょ。麻雀は運の要素もあるからプロでもトップ率三割もいけば強い方」

そう。
ゆーきが言うように麻雀は一位を取るのだって難しい競技なのです。
プロが初心者相手に打って負ける事だって十二分にあり得る競技なのですから。
それなのに、スコアを意図的に毎回同じにするだなんてあり得ません。
そもそもそんな風に点数を調整して宮永さんが得られるメリットなんてまったくないのです。

「ましてやプラマイ0なんて勝つことよりも難しい。それを毎回なんて…」
「不可能ってかい?でも…」

そう言葉を続けるゆーきに部長はそっと目を伏せて自分の頭を抑えました。
多分、部長にも自分がどれだけ荒唐無稽な事を言っているのか自覚はあるのでしょう。
そこには微かに自嘲めいた響きがありました。
しかし、それでも部長は言葉を抑えるつもりはないのでしょう。
ゆっくりとその瞳を開け、私達を… ―― いえ、私を挑発するようにじっと見つめていました。

「圧倒的な力量差だったら?」
「っ…!」

試すような部長の言葉に…私は今までの宮永さんの打ち筋を思い出していました。
普通は振り込まないような手にも放銃し、自身の点数を下げるような打ち方をする彼女。
本来であればもっと強くてもおかしくないのに、毎局、ぱっとしない成績になるその姿に違和感を感じた回数は数えきれません。
しかし…それが実力の差によるものだと言われてもすぐさま納得が出来るはずがありませんでした。

―― だって、それは…最早、人の領域にあるようなものではないのですから。

何度も言うように麻雀は運の要素が強い競技です。
幾ら点数を調整しようとしても配牌によっては動きも縛られますし、対局者が不意にツモ和了する事もあるでしょう。
ましてや和了ったところで裏ドラがひとつでも乗ってしまったら計算が崩れてしまうものなのです。
それなのに…毎局プラマイ0に落ち着かせるだなんて…そんな事出来るはずがありません。
それこそ自分だけではなく、相手までも思い通りに動かせなければ、そんな事… ―― 

―― …いえ…でも…そんな…。

その瞬間、私が思い出したのはあのなんとも言えない気持ち悪さです。
自分の意思で動いているはずなのに…まるで結果的に誰かに操られているような生理的嫌悪。
それが…もし、宮永さんに因るものだとすれば、確かに…納得出来ない訳ではありません。
それくらいさっきのそれは気持ち悪く…未だ私の背筋に冷や汗として浮かんでいるのです。

―― じゃあ…私は…一位にさせられていたって事ですか…?

その想像は…あまりにも腹立たしいものでした。
だってそれは私だけではなく、真剣に打ったゆーきや須賀君まで侮辱するものなのですから。
麻雀という競技そのものを冒涜するようなそのやり方に、私の頭の中はカッと熱くなりました。
今まで私が努力していた何もかもを…踏みにじるようなそれに…私は我慢出来ません。
気づいた時には私は椅子から立ち上がり、部室を飛び出していました。

―― 許せない…っ!

完全に頭に血がのぼった私の思考に浮かんだのはその言葉でした。
もし、部長が言っている事が確かならば…宮永さんは私の大事な物全てを踏みにじったのですから。
二人の大事な友人を、そして真剣に向き合い続けた麻雀という競技を…意図的に手を抜くという最高の侮辱で穢したのです。
それは…それは到底、許せるものではありません。
せめて一言でも…何か言ってやらなければ気が済まない。
そう思った私は躊躇なく夕立の振る外へと飛び出し、宮永さんの姿を探しました。

「宮永さんっ!」

そんな私が宮永さんの姿を見つけたのは一分のしない内でした。
しかし、私はその間にずぶ濡れになり、制服が身体に張り付いています。
その何とも言えない不快感に部室に戻りたくなりますが、けれど、今はそんな場合ではありません。
ようやく見つけた宮永さんを問い詰めなければ…私は気がすまなかったのです。

「三連続プラマイ0、わざとですか…?」

そう尋ねる私の声は微かに上擦ったものになっていました。
それはきっと雨の寒さではなく…その馬鹿馬鹿しさを未だ完全に信じきる事が出来なかったからでしょう。
だって、それは私が打ち込んできた麻雀の常識というものを根底から覆すものだったのですから。
そうやって尋ねながらも、私はそれを否定して欲しいと…そう思っていたのです。

「…私が打つと何時もあんな風になっちゃうんです」

ですが…宮永さんはそれを否定しませんでした。
寧ろ、それを肯定するような言葉をポツリと漏らすのです。
それに…血が登った頭が熱くなり、彼女を詰る言葉が飛び出しそうになりました。
ですが…そうやって宮永さんを罵る為に…私はここにいるのであありません。
まずはその理由を聞いてからでも、遅くはないでしょう。

「なんでそんな打ち方…してるんですか…?」
「家族麻雀でお年玉を巻きあげられないように負けない事を覚えて、勝っても怒られたから勝たない事を覚えました」
「~~…っ!」

私の問いに気まずそうに笑った宮永さんの言葉に…私はぎゅっと歯を噛み締めました。
そうしなければ私の口は彼女への罵詈雑言を放ってしまいそうだったのです。
だって…だって…そんなの…あまりにも自分勝手じゃないですか。
勿論、彼女の環境がお世辞にも良いとは言えなかった事は私にも分かります。
でも、それは決して…麻雀や対局者に対して、不誠実であって良い理由にはなりません。
寧ろ、だからこそ、誰よりも真摯に向きあわなければいけないでしょう。

―― それで…プラマイ0…?…ふざけないで下さい!!

その叫びを私は何とか心の中に押し留めました。
きっとそんな事を言っても宮永さんには伝わりません。
『お年玉を取られたくないから』『怒られたくないから』と言った理由で無関係の他人まで侮辱するような人には、私がどうして怒っているのか分からないでしょう。
そんな事よりも…私は今、するべき事があるのです。

「もう一回…もう一局打ってくれませんか…?」

そう。
そんなふざけた打ち方をする宮永さんを…今度こそ打ち砕かなければいけません。
少なくともプラマイ0だなんて実力だけ誇示するような打ち方を破らなければ気がすまないのです。
それが…人並み以上に麻雀へと打ち込み、その結果を出してきた私がするべき事なのでしょう。

「ごめんなさい。私は麻雀、それほど好きじゃないんです」

そう言って宮永さんは私に背を向けて去って行きました。
まるで私にはもう用はないと言わんばかりのそれに私は再び歯を噛み締めます。
力を入れた顎が微かに震えるほどのそれは…勿論、彼女に対する罵詈雑言を押さえ込む為でした。
しかし、そうやって押さえ込めば押さえ込むほど私の感情はふつふつと煮えたぎり、行き場をなくした怒りが思考を赤くするのです。

―― それだったら…なんで麻雀部になんて来たんですか!!

真っ赤になった頭でも…その答えは…私にもなんとなく察する事が出来ました。
きっと宮永さんは須賀君に義理立てしたのでしょう。
あの日、看病してくれた須賀君の顔を立て、麻雀部に足を運んだのです。
その心意気そのものはきっと褒め称えるべきものなのでしょう。
しかし、だからと言って、彼女に侮辱されたと思う私の心は決して収まりませんでした。

―― 悔しい…!悔しい悔しい悔しい悔しい…っ!!

勝ったのは…私のはずなのです。
三回の内トップになったのは私だけだったんのですから。
ですが、それは隠れた実力者であった宮永さんに譲られただけなのかもしれない。
そう思うと…欠片も勝った気がしません。
寧ろ、心の中は敗北感と屈辱感で溢れ…私はいつの間にか涙を漏らしていました。

―― その上…麻雀が好きじゃないって…っ!

勿論…個人の好悪に文句を言うほど私は偉い人間ではありません。
しかし、それならば麻雀に無縁な人生を送ればいいだけなのです。
それなのに…彼女は今日、あの卓につき…そしてその実力を誇示するだけに務めました。
私を含め、真剣に勝ちを狙っているのに…一人自己満足の為に違うものを目指していたのです。
それら全てが真剣に麻雀をやっている人をバカにしているように見えて仕方がありません。

―― ですが…再戦の機会はなくって…。

麻雀をあまり好きではないと言った彼女は多少の迷いを見せました。
しかし、それでも今まで麻雀部に近寄らなかった宮永さんがまた麻雀しようと思う事はないでしょう。
きっと須賀君が誘ってもやんわりと断るはずです。
つまり…私があんなふざけた打ち方をする宮永さんにリベンジする機会は失われ…この屈辱感が晴れる事はありません。

―― もっと早くに…早くに気づけばよかった…!

そうすれば…もっと違うやり方もあったでしょう。
場を荒らすようなやり方は好みではありませんが、それでも宮永さんをどうにかする方法はあったのです。
しかし…その道はもう閉ざされ…ゆーきや須賀君までもが侮辱されたままでした。
その悔しさと無力感に私はその場から動く事はなく、雨に打たれ続けていたのです。

「…和」
「あ…」

そうしてどれくらいの時間が経ったのでしょう。
いつの間にか私に振りかかる雨はなくなり、隣から声が聞こえました。
反射的にそちらに目を向ければ、そこには折りたたみ傘を私に指す須賀君の姿があったのです。
その頭から先がずぶ濡れになってしまうのも構わず、私にそれを差し出してくれる彼に私の胸は感謝の念を抱きました。

「や…。み、見ないで下さい…!」

けれど、私がそれよりも遥かに強く感じていたのは羞恥心なのです。
さっきからずっと泣き続けてぐしゃぐしゃになった顔なんて須賀君にだけは見られたくありません。
既に一度、泣いているトコロを見られているのですが、やっぱり泣き顔を見られるのは恥ずかしくて仕方がありません。
しかし、私の身体がずぶ濡れになっている今、以前のように彼の胸に飛び込む訳にもいかず、私は顔を背けました。

「泣いてる和も可愛いと思うんだけどなー」
「ふぇぇ!?」

そのまま乱暴に手の甲で涙を拭う私の耳に信じられない声が届きました。
思わず変な声を漏らしてしまった私がそちらに目を向ければ、そこには悪戯っぽい表情を浮かべる彼の顔があったのです。
一体、どういうつもりかは分かりませんが、私はまた須賀君にからかわれてしまったのでしょう。
そう思うと顔が一気に赤くなり、体温が急上昇するのが分かりました。

「す、須賀君!」
「泣いてるところ見られて赤くなる和も可愛い!」
「もう!もう!!!」
「拗ねてるのを全身で表現する和可愛い!」
「ぅぅぅぅ!!」
「唇尖らせる和も可愛い!」

そんな私の姿を可愛いと表現する須賀君に何を言っても無駄でしょう。
しかし、そう理解しながらも、私は何か言ってやりたくて仕方がありませんでした。
なんだかんだで負けず嫌いな私はこのままでは引き下がれないと思っていたのです。
しかし、色々と頭の中が一杯になった私には良いアイデアなんて思い浮かびません。
それが悔しくて歯噛みした瞬間、私は自分の涙がいつの間にか止まっている事に気づいたのです。

―― あ…。

突然、人のことを可愛いと言い出したのは…きっとそれが目的だったのでしょう。
泣いている私を泣き止ます為に彼は道化を演じてくれていたのです。
そう思うのは、何も今の私が泣き止んでいるからだけではありません。
ストーカーの存在を伝えてから須賀君はそうやって私の事を可愛いと言う事がなくなったのですから。
ストーカーに怯える私を気遣ってくれているかのように、その言葉を封印していたのです。

「はぁ…もう…本当に…須賀君はバカです」

それを私を泣き止ます為だけに使う彼に私は呆れるような言葉を漏らしました。
その胸中には彼の思い通りになってしまった事への悔しさが溢れています。
けれど、それは宮永さんに対するものとはまったく違いました。
悔しくて悔しくて…泣きそうなものではなく、何処か心やすまる暖かなものだったのです。

「バカって言う和も可愛」
「そう言うのはもう良いです」
「アッはい…」

それでもコレ以上、そう言われるのは我慢出来なくて私はそう冷たく言い放ちました。
幾ら暖かなものでも悔しいものは悔しいですし、あまりされっぱなしというのは趣味ではありません。
その言葉で須賀君が反省するとは思いませんが、それでも多少は反撃もしないと気が済まないのです。

―― それに…可愛いと言われるのはそれほど嫌ではありませんし…

以前は恥ずかしさが強く、なんとも言えないモノ痒さに身悶えしていました。
勿論、それは今もそれほど変わらず、私の心は羞恥心を湧き上がらせています。
しかし、それよりも大きいのは…まだ名前をつける事のできない暖かな感情でした。
歓喜とも安堵とも言い切れないそれは須賀君に『可愛い』と言われる度に私の胸を埋め尽くすのです。
それが一体、何なのか私にはまだ分かりませんが、きっとそれは悪いものではないんでしょう。

「その…ごめんな」
「え…?」

それにふと笑みを浮かべてしまいそうになった私の前で須賀君がそう謝罪の言葉を漏らしました。
驚いてそちらに目を向ければ、そこには申し訳なさそうに肩を落とす須賀君の姿があったのです。
もしかしたら…さっきの言葉で必要以上に彼の事を傷つけてしまったのかもしれません。
ですが、私には彼を傷つけるつもりなんて毛頭なかったのです。
ただ、ちょっと反撃したかっただけであり…本当はそう言われるのを喜んでいたのですから。

「あの…わ、私は気にしていませんから!」
「いや…でも…な」

それをストレートに伝える私に須賀君は逡巡を見せました。
微かに言い淀むほどのそれには嘘っぽさが欠片もなく、彼が本心から傷ついているのを私に伝えます。
どうやら私の思っていた以上に、須賀君の事を追い詰めてしまったらしい。
それに胸を痛めた私は何かを思考するよりも先に口を開いてしまうのでした。

「大丈夫です!む、寧ろもっとして欲しいくらいですよ!」
「そ、そう…か?」

そんな私の勢いに気圧されたのでしょう。
須賀君は微かに言葉を詰まらせながらも、ぎこちなく頷いてくれました。
そこには驚きの所為か、もう落ち込んだ様子はありません。

「でも…流石にもう咲は呼べないな…」
「え…?」
「え?」

それに一つ安堵した瞬間、聞こえてきた言葉に私の顔は真っ赤に染まりました。
だって…私は須賀君が落ち込んでいたのはさっきのやり取りの所為だと思っていたのです。
いえ…誰だってあのタイミングで謝れれば、きっとそうだと思うでしょう。
しかし、須賀君はもうその事を過去にして、宮永さんの件について謝っていたのです。
そのすれ違いに今更気づいた私の頬はまた赤くなり、彼から視線を背けたくなりました。

―― でも…どうしてここで…宮永さんの話題なんですか…!?

勿論、それが彼にとって一番、優先スべき案件だったからなのでしょう。
それくらいは私にだって分かっているのです。
しかし、それでもやっぱり…このタイミングで彼女の名前を出して欲しくはありませんでした。
折角の二人っきりなのですから…普段は出来ないやり取りをもっと楽しみたかったのです。

「えっと…ごめんな。咲が麻雀出来るって聞いてつい先走っちゃって…」
「…別に須賀君が悪い訳じゃありませんよ」

そう思って不機嫌になった私に勘違いしたのでしょう。
須賀君はそう申し訳なさそうに言葉を付け加えながら、私に小さく頭を下げました。
しかし、そんな須賀君に返す言葉は子どもっぽく…もっと言えば、拗ねているようなものだったのです。
それは本心から思っている事なのに誤魔化してるようにしか聞こえない自分の声音に私は内心、肩を落としました。

―― 実際…須賀君は何も悪くありません。

彼はただ麻雀が出来る女子の知り合いを見つけて、連れてきてくれただけなのです。
後一人で団体戦に出れる私たちの為を思って、部員候補として誘ってくれたのでしょう。
ただ、そうやって誘った宮永さんの打ち方が色々と特殊であっただけで須賀君は悪くありません。
彼の行動は100%善意のものであり…その結果、私が傷ついたのは宮永さんの所為なのですから。

「いや…まぁ、麻雀好きじゃないって言ってる咲を連れてきたのは俺だしな。だから、原因は俺にもあるんだ」

そう肩を落とす須賀君は再び落ち込むような色を見せていました。
さっきのものよりも遥かに薄いとは言え、やはり彼の自嘲を完全に止められた訳ではなかったのでしょう。
それにふと無力感を感じるのは…つい宮永さんと比較したからです。
幼馴染である彼女であればもっと上手に須賀君の事を元気づけられたのかもしれないと思うとまた胸がズキズキと痛み出しました。

「だからって訳じゃないけど…咲の事、嫌わないでやってくれるか?」
「…え?」

それが今まで感じたことがないほど強いものに達したのは、恐らく須賀君がそう言ったからでしょう。
まるで自分のことはどうでも良いから、宮永さんの事だけは嫌わないでやってくれと言うようなそれは信じられないものでした。
だって…須賀君は私の事が好きなはずなのです。
私に嫌われる事なんて本当なら考えたくはないはずでしょう。
しかし、私に嫌われても良いとばかりに宮永さんの事をかばおうとするようなそれは… ――

「和が誰よりも麻雀に真剣なのも知ってる。でも…きっと咲にも理由があるはずなんだ」
「……」

言い聞かせるようなその言葉に私は返事を返す事が出来ませんでした。
それは勿論…彼女があんな打ち方をした下らない理由を須賀君に伝えるのを堪える為です。
勿論…嫌っていると言っても過言ではない彼女のそれを伝えたところで私には何の不利益もありません。
しかし…須賀君は宮永さんに何か仕方のない理由があったのだとそう信じているのです。
その信頼を自分勝手な理由で砕き、彼を傷つけてしまうのは流石に気が引けました。

「和も付き合えば分かると思うけど…咲も根は良い奴なんだ。だから…」
「もう…良いです」

それでも宮永さんを必死にフォローする須賀君の言葉を聞いてはいられませんでした。
だって、そうやって彼が彼女をかばう度に私の胸の痛みはドンドンと強くなっていくのですから。
思わず握り拳を作ってしまうほどのその痛みに、私は再び平静の仮面を身につけました。
お陰でその声は驚くほど平坦なものになり、視界の端で須賀君が怯むのが分かります。
ですが、私はもうその場には居られません。
だって…ここに居たら…また須賀君の前で泣いてしまいそうなのですから。
幾ら私の泣き顔を可愛いと言ってくれた須賀君でも…あんまり見られたくはありません。

「…私、今日は帰ります」
「あ…そ、それなら傘…」
「大丈夫です。私も持っていますから」

そう言って、私はスタスタを旧校舎に向かって歩き出しました。
数秒ほど須賀君は私の後ろに着いて来ましたが、何時しかそれもなくなります。
お陰で私の身体は再び雨に打たれ、急速に身体が冷え込んでいきました。

―― でも…今の私にはそれが…有難いです。

だって今の私は再び頭に血が登っているのですから。
宮永さんにも…そして宮永さんをかばう須賀くんにも…私は怒っているのです。
そんな頭を文字通り冷やしてくれる雨は有り難く、そして悲しいものでした。
その雨を払ってくれていた傘がない事が…須賀君が私の傍にいてくれない証が…私の胸を締め付けるのです。

―― なんて…自分勝手な…。

着いて来るなと言わんばかりの言葉を放ったのは私の方なのです。
一応、私よりも自分で傘を使って欲しいという意図もありましたが、あの声音でそれを素直に受け取るのは無理でしょう。
寧ろ、私の不機嫌さを悪い方へと受け取るのが普通です。
そもそも怒っているのに傍にいて欲しいだなんて…我侭にも程があるでしょう。
しかし、それが須賀君が私ではなく…宮永さんを選んだ証のような気がして…なりません。
もしかしたら私を見捨てて宮永さんを追いかけてのではないかと思うと…どうしても息が詰まるのです。
それに何時しか我慢出来なくなった私は駆け出して… ―― 



―― そして私は須賀君から逃げるように家へと帰ったのでした。




―― その日は私にとって人生、最悪の日と言っても過言ではありませんでした。

今日もまた宮永さんは麻雀部に顔を出しました。
部長の背中から気まずそうに現れた彼女が一体、どういうつもりなのかは分かりません。
昨日、麻雀が嫌いだと断言し、あんな風に人を侮辱した打ち方をしたのにも関わらず、
のうのうと顔を出せる彼女の考え方なんて分かりたくもありません。
しかし、それでも…私にとってリベンジの機会が訪れた事だけは素直に有難かったのです。

―― でも…私は勝てませんでした…。

二度目があればもう同じ事はさせないと…気負っていた自分。
しかし、そんな私を嘲笑うように…宮永さんはまたプラマイ0を達成しました。
いえ…より正確に言うならば…それは昨日以上に酷い有様だったのです。
一回目はともかく、二回目は…一位を取られた上でプラマイ0を達成するという…訳の分からないものだったのですから。

―― あり得ません…!あんなの…あり得ません…!

1000点スタートという通常ではあり得ない仮定から始まった宮永さんの麻雀。
それに対し、私は大きくリードを広げられていたはずでした。
しかし、彼女は最後、四暗刻で和了り…私を完全に捲ったのです。
勿論…開始1000点計算ではプラマイ0になるように…点数を調整しながら。

―― プラマイ0にする事だって…私には出来なかったのに…。

昨夜、私はネット麻雀の方でプラマイ0を目指して何局か打ってみました。
しかし、その結果は散々で…到底、狙って出来るものではない事が分かったのです。
麻雀に才能があるなんて信じてはいませんが…しかし、もし、それが日常的に出来る人がいるならば…それは天賦の才と賞賛されるでしょう。

―― それだけであれば…まだ良かったんです。

それが…まだ…点数調整するだけの才能であれば、私はイヤイヤながらも認める事が出来たでしょう。
ですが…宮永さんはさっき点数を調整しながらも…私達に勝ったのです。
それまでの打ち方がまるでお遊びに過ぎなかったのだと、私たちの努力なんて無意味だと嘲笑うように…一位になりました。
それに心から喜ぶ彼女に…私は我慢出来ず…ついカバンを持って部室から逃げ出してしまったのです。

―― これから…どうしましょう。

2日連続で格好悪いところを見せてしまった自分。
それに胸中でため息を漏らしながら、私は夕暮れ時のベンチで一人項垂れていました。
本当は…突然、飛び出した事を詫びる為に今すぐにでも部室に戻るべきなのでしょう。
しかし、私の足は中々、動かず、遠くカラスの鳴き声が響く空の下で座り続けていたのでした。

「原村さん!」

そんな私に聞こえてきた声は…宮永さんのものでした。
けれど、私はそちらに視線を向ける気にはならず、ただ、俯き続けていたのです。
恐らく私はそうやって宮永さんが近づいている事を認めたくなかったのでしょう。
小さな足音が近づき、おずおずと私の隣に座っても尚、私は彼女に一瞥もくれず、拒絶するように無言の貫いていたのですから。

「……」
「……」

そして、宮永さんも何も言わないまま時間が流れていくのです。
まるで自分の言いたい事を頭の中で纏めているようなそれに…私はどうしようか迷っていました。
何も聞かず、そして言わずにこの場から逃げるべきか、或いはこのまま拒絶を貫くべきか。
勿論、それが子どもが拗ねるような…情けないものだという事くらいは理解していました。
しかし、それでも…私は彼女の事をどうしても認める事をしたくなかったのです。

「私にとって麻雀はお年玉を巻き上げられるイヤな儀式にしか過ぎませんでした」

そんな私に話しかける宮永さんの声はポツリポツリと漏らすようなものでした。
一つひとつ自分で確認するようなそれは、きっと彼女の本心なのでしょう。
しかし…私には正直…それさえも理解出来ません。
嫌ならば参加しなければ良いだけの話ですし、そもそも金品を賭ける事自体、私は肯定的ではないのです。
勿論、彼女がそれを拒否出来ない理由があったのかもしれませんし、それがトラウマになるだけの理由もきっとあったのでしょう。
しかし、その想像に溜飲を下げてあげるほど私は宮永さんと親しくはないどころか…嫌っていると言っても良いくらいでした。

「でも、今日は原村さんと打てて嬉しかった」
「……」

その言葉はあまりにも人のことを小馬鹿にしているものでしょう。
あんな人の努力を嘲笑うような打ち方をして…しかも、勝ったのですから。
それで嬉しいと言われても…私はまったく喜べません。
寧ろ…バカにされているようにしか思えず、苛立ちが膨れ上がるのです。

「なんだって勝てば嬉しいものですよ」

それを抑えながらの言葉は敗北感に満ちたものでした。
結局…私は彼女のプラマイ0を崩す事も勝ち続ける事も出来なかったのです。
麻雀が好きではないと言った彼女に…人並み以上に努力し続け…インターミドルで優勝した私が…手も足も出なかったのですから。
それも当然だと思いながらも…そんな自分が悔しくて堪らず…ぎゅっと指を握り込みました。

「ちがうよ。相手が原村さんだったから!」

そう言う彼女の表情はきっと明るい笑顔なのでしょう。
しかし…それを好意的に見てあげられるような余裕は私にはありませんでした。
そもそも…あの卓に居たのは私だけではないのです。
昨日から一緒に打っているゆーきも居たのでした。
それなのに…まるでゆーきなんて見えていないような彼女の言葉は決して心地良いものではありません。
私と一緒に努力してきた彼女のこれまでをバカにされたようで…面白くなかったのです。

「家族が相手の時と違った感じがして難しかったし…面白かった!」
「……」

―― それに…私が何を思ったのかは分かりません。

ただ…私は胸中に湧き上がらせていた苛立ちを…一気に膨れ上がらせたのは確かです。
少なくとも…この人だけには…麻雀が好きではないと言った人にだけは…そんな風に…面白かったなんて言われたくはありません。
あんな打ち方をして面白かっただなんて…侮辱もいい所なのですから。

「…私は」

しかし、私は…宮永さんにそう言わせないほどの力はありません。
悔しいかな…私は結局、宮永さんにいいように翻弄されていただけなのですから。
結局、実力でも勝つ事は出来ず、彼女の手のひらの上で踊らされていた私が何を言っても負け犬の遠吠えもいい所でしょう。

「私は…悔しいです」

それでも…その気持ちをもう抑えておく事は出来ませんでした。
彼女に対する苛立ちと悔しさは…もう私の中で臨界点を超えていたのですから。
昨日今日と連続で侮辱され続けて尚、大人しくしていられるほど…私は穏やかな気性をしていないのです。
その声にはっきりとした苛立ちを混ぜながら…私はベンチからそっと立ち上がりました。

「私は麻雀が好きです」

麻雀を通して…私はゆーきとも出会えたのですから。
いえ…ゆーきだけではありません。
須賀君や部長、染谷先輩たちとも…麻雀がなければ出会う事はなかったでしょう。
その他にも今まで対局してきた皆と知り合えたのは…全て麻雀のお陰です。
才能なんて関係なく…努力したら努力しただけ報われるそんな競技の事を…私は心から好きだと言う事が出来ました。

「だから、あなたに負けたのがとても悔しい」

そう言って振り返った私に…宮永さんは不思議そうな顔をしていました。
恐らく彼女には…負けて悔しいという気持ちなんて分からないのでしょう。
真剣に麻雀に向き合っていない彼女には…分かるはずないのです。
彼女にとってそれは所詮、『好きでもないけどその気になれば勝てる遊戯』でしかないのですから。

「麻雀を好きでもないあなたに…」

だから…きっと…こんな事を言っても無駄だと…私には分かっていました。
けれど、その感情はもう私にはどうする事も出来なかったのです。
ただただ…目の前の宮永さんが不愉快で…嫌いで仕方がありません。
だからこそ…私は彼女から逃げるようにそっと背を背け、歩き出すのです。

「それに…手強い相手は沢山いますよ…全国に」

その言葉は私の願望もいいところでした。
私では宮永さんには勝てませんでしたが…きっと全国の中には…彼女に勝てる人もいる。
真面目に麻雀に向き合って…頑張ってる人がきっと宮永さんを打倒してくれると…そう信じたかったのです。
だって…そうでなければ…あまりにも不公平でしょう。
そう思うくらいに…宮永さんの才能は異質で…異常なものだったのですから。

「…はぁ」

そう思いながら歩く私の口からついついため息が漏れだしました。
宮永さんの前から離れて多少は頭も冷えた今、私はさっきの自分に自己嫌悪を抱き始めていたのです。
当時は宮永さんの事が腹立たしくて仕方ありませんでしたが…彼女に気持ちを伝えるならば、もうちょっと言い方というものがあったでしょう。
アレではまるで私が拗ねているだけみたいではないですか。
そう自嘲気味に思った瞬間、肩にどっと疲れがのしかかってきました。

―― 今日はもう…休みましょう

結局、昨日はプラマイ0を狙えるかという実験の為に遅くまで起きていたのです。
さっきまではそれどころではなかったのであまり自覚はしませんでしたが、眠気が四肢へと絡みついてきて不快でした。
そう言えば今日は部室で仮眠を取るつもりでしたっけ、と何気なく思い返した私は…ふとある事を思い出したのです。

―― エトペン…。

そう。
今日、部室で仮眠を取るつもりだった私は部室に愛用の抱き枕であるエトペンを忘れてきてしまったのです。
それに帰路へと着いた足が止まり、私は逡巡を全身に行き渡らせました。
子どもっぽくて秘密にしている事ですが、あのエトペンがないと私の寝付きは悪いのです。
これだけ眠くてしかたがない今でも…エトペン抜きでは数時間も眠れないかもしれないと思うくらいに。

―― どうしましょう…。

けれど、部室に顔を出すのは今は恥ずかしくて仕方がありません。
2日連続で飛び出していった私をからかうような人はいないと思いますが、自分自身で納得する事は出来ないのです。
結果、数秒ほど私はその場に立ち尽くしましたが…結局、元きた道を戻る事にしました。
羞恥心に打ち勝つくらいあのエトペンは私にとって大事なもので…そして譲れないものだったのです。

―― でも…宮永さんに会う事だけは避けないと…。

さっきあんな事を言ったのに宮永さんとばったりなんて格好悪いなんてレベルじゃありません。
それこそ恥ずかしさに全力で走りだしてしまいそうになるくらいです。
だからこそ、周囲を警戒する私の歩みは遅く、旧校舎へたどり着いた頃にはもうそこは真っ赤に染まっていました。
後一時間もしないであろう内に日が落ちて真っ暗になってしまうであろうその光景に私は思わず足を早めます。
今日は母が早めに帰ってこれるという事なので急いで食事の支度をしなければいけないのですから。
あんまりのんびりはしていられません。



―― ガチャ

「……」

しかし、それでも部室の扉を開く事には慎重になってしまいます。
だって、下手をすればその向こうに宮永さんがいるかもしれないのですから。
だからこそ、私は立て付けの悪い扉をゆっくりと開き、その隙間から中の様子を伺いました。

「あ、のどちゃん」
「ゆーき…」

しかし、そんな私の姿はすぐさま椅子に座っていたゆーきに見つかってしまいます。
そのまま椅子から勢い良く立ち上がり、近寄ってくる彼女に、私は隠れているのを諦めました。
意を決してゆっくりと扉を開き、部室へと入るのです。
しかし、その中にはゆーき以外に誰もおらず、ガランとしていました。

「良かった。メールに気づいてくれたのか」
「メール…?」

ニコニコと嬉しそうに私へと話しかけるゆーきは両手でエトペンを抱えていました。
私を忘れていたそれを大事そうに抱きかかえるその姿は微笑ましいものです。
けれど…私以上に持っているのが様になっているのは一体、どうしてなのでしょう。
そんな事を思いながら私がカバンから携帯を取り出せば、そこには新規メールを知らせるアイコンが表示されていました。

「あれ…?このペンギン忘れてるって送ったんだけど…もしかして気づいてない?」
「…ごめんなさい」

一体、何時、ゆーきがそれを送ってくれたのかは分かりませんが、恐らくついさっきではなかったのでしょう。
もし、そうなら私はもっと早くに気づく事が出来ていたのですから。
恐らくこの部室を出てからエトペンの事に気づくまでの間に送られてきたはずです。
そして、ゆーきはそんな私が帰ってくるのをずっと待ってくれていたのでしょう。

「良いって。先輩たちも今日は忙しいみたいでさっさと帰ったし、暇だったからな」
「有難う…」

それに謝罪の言葉を返す私をゆーきはあっけらかんと許してくれました。
そんな彼女に強い感謝の念を抱くのは決して許してくれただけではありません。
無邪気に振る舞う彼女に私の心はほんの少し上向くのを感じたのです。
宮永さんの所為で荒れていた感情がほんの少し落ち着いていく感覚は彼女の明るさに影響されての事でしょう。
幾度となく私の事を助けてくれたそれに再び感謝を抱きながら、私は一人かけている事に気づいたのです。

「そう言えば…須賀君は?」

そう。
さっきゆーきが説明していた中には須賀君の姿がありません。
先輩たち二人はともかく、須賀君が急いで帰らなければいけない理由はないでしょう。
それに何より、須賀君は一人部室で待つゆーきを置いて、帰るような人ではないのです。
そんな彼の姿も見えない事に私は疑問を覚え、そうゆーきに尋ねたのでした。

「京太郎は咲ちゃんが心配だって言って探しに行ったじぇ」
「…え…?」

瞬間、聞こえてきたその声を私は信じる事が出来ませんでした。
だって…そんなの…おかしいじゃないですか。
心配されるべきは…宮永さんじゃなくて…私の方なのです。
人を侮辱しただけの彼女を心配するような余地なんて何処にもありません。
寧ろ…私の方が…傷ついていたはずなのです。
それなのに…一体、どうして…須賀君が彼女のことを気遣うのか理解出来ません。

「私じゃなくて…ですか?」
「う…うん…」

そんな私が到達した答えは聞き間違えというものでした。
しかし、それを尋ねたゆーきは小さく頷き、否定を返すのです。
ゆーきは不必要な嘘をつくような子ではありませんし、それはきっと事実なのでしょう。
そう思った瞬間、一度は収まりかけた激情が一気に燃え上がり、私の胸を撫でるのです。

「そう…ですか…」

そうゆーきに返す声は微かに震えたものになってしまいました。
また激情に揺らぐそれを私は何とかして抑えこもうとしていたのです。
ですが、自分でも理解出来ない苛立ちや不平等感は収まらず、私の思考を揺らすのでした。
それについ私の顔も俯きがちになり、指先にもぎゅっと力が入ってしまうのです。

「の、のどちゃんは…さ」
「…?」

そんな私に怯えるように言葉を詰まらせながら、ゆーきはゆっくりと言葉を漏らしました。
しかし、その言葉はそこで途切れて、中々、次の言葉が出て来ません。
普段の快活な彼女からは想像も出来ないくらいに歯切れの悪い姿に、私は胸中で首を傾げます。
しかし、一体、ゆーきが何を言いたいのかは分からず、私は理解できないイライラの中で疑問を強めました。

「京太郎の事…好きなのか?」
「ぇ…?」

そのまま一分ほど掛けて決心したように紡がれるゆーきの言葉。
それに疑問を浮かべていた私の頭はすぐさま反応する事が出来ませんでした。
だって…そうでしょう。
それはあんまりにもいきなりで…予想外な言葉だったのですから。

「ふぇ…えぇぇ!?」

一体、どうしてこのタイミングで…いえ、そもそもどうしてそんな事をゆーきが思ったのか。
それさえも理解出来ない私は数秒ほど掛けてようやくそんな声を漏らしました。
けれど、それは私の思考を整理するのにはまったく役立つものではなく、ただ驚きを吐き散らしたものでしかありません。
結果、私の困惑は収まる事はなく、彼女の前でうろたえるように首を振りました。

「違う…のか?」
「ぅ…」

それを否定の意と誤解したのでしょう。
ゆーきはそう伺うように言いながら、私の顔をじっと見つめました。
まるで嘘は言わないで欲しいと言うようなその仕草に、私は思わず言葉を詰まらせます。
それは…勿論…私がそれを意図的に考えないようにしてきた事だからです。

―― だって…そんな…ま、まだ…早い…です…。

須賀君は…私に告白してくれました。
凄い遠回しではあれど…私の事を好きと言ってくれたのです。
そんな彼に対する返事を…私はまだまったく考えてはいませんでした。
「先延ばしで良い」と言ってくれた彼の言葉に甘えて…何の返事もしていなかったのです。

―― そもそも‥・最近はそういう事を考えられる余裕なんてなくって…。

須賀君がそうやって私に告白してくれたのを皮切りに宮永さんは一気に私の領域へと踏み込んできたのです。
今や私にとって彼女は顔も知らないけれど対抗心を抱いている相手ではなく、敵意を向ける明確な敵でした。
そんな宮永さんにここ最近は翻弄され、気持ちが落ち着く暇もないのです。
それなのに自分の感情を省みるなんて出来るはずはなく…結局、なあなあのままの関係が続いていました。

―― 勿論…須賀君の事は嫌いじゃありません。

いえ、寧ろ、彼は私の人生の中で一番、仲良くなった異性と言っても良いでしょう。
今や父と並ぶかそれ以上に親しいのですから。
そんな彼を私は決して嫌ってはいません。
寧ろ、友人として認めるくらいに心を許しているのでした。

―― でも…それが…異性としてのものだと言うと…。

私は…恋をした事がありません。
これまで女子校育ちであった私にはそのような感情を抱くほど親しくなった異性なんていないのです。
だから…私が須賀君に抱いているそれが…異性としての好意かどうかなんて私には分かりません。
嫌いではない事だけは確かですが…それ以上かというと…私には答えなんて出せないのです。

「のどちゃん?」

そう言い淀む私をゆーきは心配してくれたのでしょう。
私の顔を覗き込む彼女の視線には心配するようなものが浮かんでいました。
しかし、衝撃の問いを投げかけられた私には…それが『早く答えろ』と急かされているように思えるのです。
けれど、ずっと逃げ続けていた私に答えなんて出せるはずもなく…私は… ――

「須賀君…は…お友達…です…」

ポツリポツリと漏らすそれは逃げの言葉も良い所でした。
どっちとも取れるその言葉は卑怯と罵られても仕方のないものでしょう。
しかし…今の私にとって須賀君はそれ以上でもそれ以下でもありません。
少なくとも宮永さんの所為で荒れた心はそれ以上に踏み込んだ答えを出す事は出来ないのです。

「のどちゃん…嘘吐かないで欲しいじぇ」

けれど、ゆーきにとってその答えは不満だったのでしょう。
その目に怒りすら滲ませながら、強く私を睨みつけてくるのです。
そこには…友人に嘘を吐かれたという確信めいたものがあり、逃げた私を責め立ててくるのでした。
初めて見ると言っても過言ではない…
ゆーきのその表情にただでさえ追い詰められた私の心は狼狽を浮かべ、どうして良いか分からなくなります。

「私は…のどちゃんの友達だと思ってる。だから…私にだけ…正直になってくれないか?」

そんな私に言い聞かせるようなその声は一気に穏やかなものになっていました。
しかし、優しげなその声に…私の困惑は薄まる事がありません。
頭の中は突然の疑問で一杯で…今の状況がまるで理解出来ないのですから。
忘れ物を取りに来ただけなのに…一体、どうしてこんな事になっていうのか。
まるで夢のなかにいるように思えるほど現実感が伴わない感覚に私は吐き気さえ覚え始めていました。

「のどちゃんなら…京太郎の事を任せられるから…私…」
「私…は…私は…」

ポツリポツリと漏らすゆーきの言葉の意味すら私は理解できていませんでした。
胸中を支配する困惑は、グルグルとめまぐるしく思考を変え、私に結論を出させないのですから。
まるで答えから逃げようとするようなそれに…私はロボットのように同じ言葉を繰り返します。
しかし、そこから先の言葉なんて出てくるはずもなく…私はただ…『答えようとしている』というポーズだけを取り続けたのでした。

―― そんな私の胸の中に…今までの事が浮かび上がって…。

出会ったばかりの頃、私は須賀君に嫉妬していました。
けれど…変な勧誘から助けてもらってから…私たちは少しずつ仲を深めていったのです。
そうして…あのストーカー事件が起こって…私は…彼に幾度となく助けてもらいました。
下手をすれば命の恩人かもしれない彼を…私は友人として認めて…それから…告白されて… ―― 

―― でも…それならどうして…彼は私の傍に居てくれないんですか…?

ふと浮かんだその思考に私の胸は悲鳴のような痛みを発しました。
今の私はこんなにも辛くて苦しいのに…彼が傍に居てくれないのです。
それだけであれば…私は多分、こんなにも辛くはならなかったでしょう。
ですが…彼は私を放っておいて他の人のところへ…しかも…私が敵とさえ思っている宮永さんのところへいっているのです。

「私は…っ!」

その苛立ちは…正直、否定出来ないものでした。
どうして好きだって言ってくれたのに…傍にいてくれないのか。
私ではなく宮永さんを優先するのか。
あの言葉は嘘で…私の事を弄んでいただけなのか。
そんな言葉がグルグルと私の中で混ぜ合わされ、一つの感情へと固まっていきます。

「須賀君の…須賀君の事なんか…!」
「のどちゃん!」

そんな私を咎めるようにゆーきが言葉を口にしました。
けれど…私はもう止まりません。
早くこの訳の分からない状況から…吐き気を感じるほどの気持ち悪さから逃げ出したかったのです。
そんな私にとって…胸中で固まっていくその感情は限りなく答えに近いものでした。
だからこそ…私はそれを…しつこく付きまとって、私に解放してくれないゆーきにぶつけようとして… ――







「須賀君の事なんか…嫌いです!」








「……あ」
「…え…?」

その声は…私の後ろから聞こえて来ました。
何処か呆然とした聞き慣れたそれに私の身体は反射的に後ろを振り返ります。
その瞬間…私の目は優しい金色の光を捉えました。
夕日がカーテン越しに差し込む部室の中でも尚、優しい色を放つそれは…今の私にとって…
一番、傍にいてほしくない人が…そこにいた事を教えます。

「す、須賀…君…?」
「あ、あはは…なんか…その…ごめんな」

私の声に須賀君は気まずそうにそう答えました。
しかし…その声は今にも泣き出しそうなくらい震えて…私の胸が詰まります。
呼吸すら不安定になるそれに抗うようにして…私は何度も口を開こうとしました。
けれど、私の頭は真っ白で…声は出ても言葉は出て来ません。
何か言わなければいけないと本能が叫んでいるのに…それを作り出す思考がまったく動いてくれないのです。

「き、京太郎!今のは…!」
「良いって。気にすんなよ」

そんな私の脇を抜けや須賀君は雀卓の上にあったカバンをそっと持ち上げました。
その様はいつも通りで…彼がまったく動じていないように見えたのです。
ですが…それはきっと…彼が必死に自制しているからなのでしょう。
だって…須賀君の足はまるで堪えきれないかのように微かに震えていたのですから。
「す…すがく…」
「ごめん。もう付き纏ったりしないからさ」

間違いなく…私の不用意な発言で彼を傷つけてしまっている。
それを感じさせる姿に私はようやく唇を動かす事が出来ました。
けれど、その動きは緩慢で彼の名前を呼ぶ事さえも出来ません。
そんな私の言葉を遮るように言い放ちながら…須賀君は再び私の脇を抜け、部室から出て行ってしまいました。

「のどちゃん!!追いかけないと…!」
「あ…」

瞬間、私の耳にゆーきの声が届きました。
下手をすれば私以上に焦燥している彼女の声に私の心も同意します。
私は須賀君を傷つけてしまったのですから…彼を追いかけて謝罪しなければいけないのです。
誠心誠意謝って…須賀君に許してもらわなければいけないでしょう。

―― でも…私に…何が言えるって言うんですか…?

あの時感じた感情は追い詰められたが故のものでした。
ですが、それは決して嘘だったという訳ではありません。
あの時限定ではありますが…それは間違いなく真実であったのです。
そんな私が…須賀君にどんな顔をして…謝れば良いでしょう。
あの時の私は…間違いなく…彼を疎ましがっていたのですから。

「のどちゃん!のどちゃん!!」
「あ…あぁぁ…」

結果、私の足はその場に縫い付けられたかのように動きませんでした。
私に必死に呼びかけるゆーきがガクガクと私の身体を揺らしても尚…動かないくらいに。
いえ…きっと…私は動きたくなかったのです。
だって…その場から一歩でも動いてしまえば…今のこれが現実だと…
大事な友人二人を疎ましがってしまったのが現実だと…認めてしまいそうになるのですから。

「~っ!!」

そんな私にゆーきも諦めたのでしょう。
彼女は私から手を離してだっと駆け出していきました。
小柄で元気いっぱいなゆーきらしいその背中を私は呆然と見送ります。
自然…私は部室の中にただ一人残されましたが…私の足は一向に動きません。
いえ、それどころか…私の足はふっと脱力し、その場にへたりこんでしまうのです。

「私は…私…は…」

瞬間、私の口から漏れだしたのは…無意味にもほどがある言葉でした。
だって、それは誰も聞く人はおらず、またその先に行く事もないのですから。
自らその先へと行く道を閉ざしてしまった私には…それを口にする資格はありません。
しかし、それでも私の感情は諦めたくないと言わんばかりにそのフレーズを繰り返し…――

―― 結局、私は母が心配して電話を掛けてくれるまで…暗い部室で言い訳のような言葉を繰り返したのでした。