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―― 結局、事情聴取にはかなりの時間を取られてしまいました。

調書を書いていた警察官の方が言うには捕まった男性の証言が滅茶苦茶で裏を取るのに忙しいとの事。
それに被害者である私を付きあわせないで欲しいとは思いましたが、あの男性は決して許せません。
そう思って根気強く同じ事を聞かれる事に付き合っていましたが、解放された時にはもう日付変更間近でした。

―― その後は…迎えに来てくれた両親に泣かれて…。

ストーカー事件という大きなものに巻き込まれた私が心配だったのでしょう。
二人共、忙しいにも関わらず、仕事を切り上げ、私のことを抱きしめてくれました。
久しぶりに感じる両親の暖かさに私もまた涙を流してしまいます。
そんな私の事を心配混じりに「どうして相談してくれなかったんだ」と叱ってくれる両親に…私は愛されている事を実感したのです

―― でも…結果として私は須賀君の付き添いに行けませんでした。

勿論、今から病院に走ったところで須賀君の病室に案内してもらえるはずがありません。
もう病院の受付時間は過ぎており、お見舞いすら出来ないのですから。
しかし、それでも…私は何とか頼み込んででも…彼の傍にいたかったのです。
須賀君が目覚めた時に…一番にお礼を言えるように…その傍についていたかったのでした。

―― ですが…それを両親が許してくれるはずがありません。

ストーカー事件に巻き込まれているのを黙っていた私はただでさえ心配を掛けてしまっているのです。
そんな私が怪我をした人の付き添いに行きたいと言っても素気無く却下されてしまいました。
夜も遅いし、面会時間も終わってるから、また明日、行けばいいじゃないか。
そんな両親の言葉は正論で…だからこそ、私は項垂れながらも頷くしかありませんでした。

―― でも…次の日も私は気が気じゃなくて…。

私がストーカー事件に巻き込まれていたという噂は一夜にして清澄の中に広がっていました。
ゆーきやここ最近少しずつ仲良くなってきたクラスメイトの女の子たちは朝早くから心配し、私の傍にいてくれたのです。
けれど、私はその最中も、須賀君の事が気になって、殆ど上の空に近い状態でした。
そうやって心配してくれる彼女たちには感謝していましたが…今の私にとって最優先事項は須賀君の事だったのです。

―― だからこそ…放課後、部活にも行かずにすぐに病院へと走って…。

その途中でスーパーへと寄った私の手にはお見舞い用の花と桃の缶詰が入ったビニール袋がありました。
病院へと入院している人へのお見舞いなんて行った事がないので、一体、どんなものを差し入れすれば良いのか分かりません。
ドラマなんかの知識から選んだそれらが正しいのか疑問ではありましたが、流石に何も買わないのは味気がなさ過ぎるでしょう。

―― 警察の人から聞いた話によれば…もう須賀君は目が覚めているみたいですし…。

どうやらあの傷は意識不明になるほどのものではなく、食欲も旺盛でピンピンしているとの事でした。
それでも検査の為に数日は入院しなければいけないらしいので、花や缶詰も無駄にはならないでしょう。
彼が目覚めた時に傍に居たかったという欲求をそう言い聞かせる事で誤魔化しながら、私は受付にて彼の病室を聞きました。

―― えっと…312…はここですね。

三階の西側へと位置するその部屋は個室でした。
普通、長期入院の為に空けられているその部屋に須賀君がどうして運ばれているのかは私には分かりません。
そもそも私にとって重要なのは、その扉の向こうに須賀君がいるという事だけ。
とりあえず彼の安否をちゃんと自分の目で確認するまではその他の事は些事に過ぎません。
ふと浮かぶ疑問をそう切り捨てながら、私は大きく深呼吸して、その扉に手をかけようとし… ――

「…え?」

瞬間、中から聞こえてきた声に私は小さく声をあげてしまいました。
だって、中から聞こえてきたそれは…女性の声だったのです。
聞き覚えのないそれは、勿論、ゆーきの声などではないでしょう。
だって、彼女は授業終了と同時に我慢できずに飛び出してしまった私の代わりに先輩たちに事情を説明してくれているはずなのですから。

―― 誰…でしょう。

扉の前でそう疑問を浮かべる私の耳に聞こえるそれは若々しいものでした。
張りのあるその声は恐らく私達とそれほど年の差が開いている訳ではないでしょう。
そう思った瞬間…私の胸に浮かんできたのは…顔も知らない『宮永咲』という女性でした。
須賀君の幼馴染であり、今は疎遠になっているという彼女が…どうして真っ先に浮かんできたのかは分かりません。
しかし、一方的に意識してる彼女の影を感じて冷静でいられるほど…私に余裕はなかったのでしょう。
ついつい扉の前で立ち尽くしながら、中の会話に耳を傾けてしまうのです。

「どうしたんだよ、ずっと黙って」

最初に私の耳に届いたのは須賀君の声でした。
何時も通りの軽い調子な、でも、少しだけ緊張を滲ませる声。
私と最初に会った時でさえ感じさせなかった須賀君の感情に、私は今、彼の前にいる女性がそれだけ気まずい相手である事を悟りました。

「…京ちゃん…私…怒ってるんだからね」

―― き、京ちゃん!?

瞬間、聞こえてきた言葉に、私は驚きに身を竦めてしまいました。
姉弟でも今時しないような親しげな呼び方は年若い女性の声で紡がれたのですから。
正直に言えば信じられない気持ちが強く、何かの聞き間違いでないかと思ってしまうのです。

「またこんな無茶して…京ちゃんってば…もう…本当に馬鹿だよ…」

けれど、そんな私の気持ちを裏切るようにして、再びその親しげな呼び方が私の耳を突くのです。
さっきのそれが決して偽りでもなんでもない事を教えるようなそれに私はギュッと拳を握りしめました。
しかし、それが一体、どういう感情によるものか自分でも分からず、私は定義する事の出来ない感情を持て余していたのです。

「おばさんから怪我して病院に運ばれたって聞いた時…私がどれだけ辛かったか分かる…?」
「…それは…」

責めるような口調に、須賀君は言葉を詰まらせました。
それは相手が辛いと感じるほどに心配を掛けてしまった事をその言葉から感じたからなのでしょう。
実際、扉越しに聞いている私にも…彼女の辛さが伝わってきて…胸が小さく痛みました。

―― でも…それは私も同じです…。

心配していたのは何も彼女だけではありません。
私だって、須賀君の事を心配していましたし…昨夜だってマトモに眠れなかったのです。
正直、早退して病院に駆けつけたいと思ったのは一度や二度ではありません。
そこまで考えた瞬間、どうして自分が名も知らぬ相手と張り合っているのかが分からなくなり、そっと肩を落としました。

「…気まずいまま京ちゃんがいなくなっちゃうかもって思ったら…私…」
「…咲…」
「…っ!」

瞬間、聞こえてきたその言葉に、私は反射的に自分の胸を抑えました。
痛みがズキズキと駆け抜けるそこをかばうようなそれに、けれど、痛みが消える事はありません。
締め付けられるような強い痛みに私は息苦しささえ感じました。
けれど、私はどうしてそんなものを自分が感じているのかまったく理解出来ません。
だって…それは私の予想が当たっていた事を示すだけの言葉に過ぎないのですから。
今、彼の目の前にいるのが『宮永咲』さんであった所で…私に不利益等一切ないはずなのです。

「京ちゃんのバカ…アンポンタン…スケベぇ…」
「…ごめんな」

しかし、そう思う私の心とは裏腹に嗚咽混じりの咲さんの言葉は私の胸を抉ります。
いえ…より正確に言えば、その後に布擦れの音がしたのが…一番の原因なのでしょう。
それと同時に声のトーンが変わった辺り…もしかしたら二人は抱き合っているのかもしれない。
そう思うだけで私の胸はまた痛みを強くして…目尻に熱い感覚を残すのです。

「でも…ほら、俺は元気だからさ」
「そんなのは当然だもん!…元気じゃなかったらこんなものじゃ済まさないんだからぁ!」
「はは…そりゃ怖いな」

張り詰めるような咲さんの言葉に須賀君は気まずそうにそう返しました。
それはきっと本気で怒った彼女の恐ろしさを誰より彼が良く知っているからなのでしょう。
『京ちゃん』『咲』と呼び合う二人の関係が一朝一夕ではない事を感じさせる言葉に私は思わず歯を噛み締めました。
お陰で胸の息苦しさはさらに強くなり…私はぎゅっと制服を握りしめてしまうのです。

「もう心配掛けないからさ。泣き止んでくれよ」
「嫌だもん…また絶対…京ちゃん無茶するの分かってるんだから…」

必死に咲さんを泣き止まそうとする須賀君の言葉に、けれど、咲さんは機嫌を直しません。
時折、しゃっくりを混じらせながら、拗ねるように口にする彼女は、それが護られるはずのない約束である事を知っているからなのでしょう。
でも…逆の立場であった時、私がそれを見抜けるか自信がありませんでした。
最初に約束した事なんてまったく護ってくれなかったにも関わらず…私は多少、機嫌を治していたでしょう。
細やかなその言葉一つにも私と咲さんの間に決定的な違いがあるような気がして…私は無性に惨めな気持ちになったのです。

「俺だって好きで無茶やってる訳じゃないんだけどな」
「後ろから殴られたのに犯人追いかけるなんて無茶以外の何だって言うの!?」

怒声に近い咲さんの言葉は、正直、私も同意出来るものでした。
携帯を奪われるほど傷めつけられたのにも関わらず、犯人を追いかけるなんて無茶にもほどがあるのですから。
警察の人にも呆れられるほどのそれは無茶以外の何物でもないでしょう。
その御蔭で助かった私が言える事ではないのかもしれませんが…しかし、あんな事はもう二度としてほしくないのが本音でした。

「でも、それは俺の所為でのど…いや、友達が危険になったからで仕方なく…」
「分かってる。分かってるよ…そんなの…」

須賀君の言葉に急にトーンを落とすのは、それが仕方のない事だって理解できているのでしょう。
実際、そうやって須賀君が後を追いかけてくれたお陰で、私はあの人に穢される事はなかったのですから。
しかし…それで幼馴染が死んでもおかしくないような無茶をしたという事に納得する事は出来ません。
私だって…ゆーきがそんな無茶をしたら、納得する事が出来ませんし、小言の一つでも言いたくなるのでしょう。

「京ちゃんが…正義感の強い人だって言うのは私も知ってるよ。でも…そんな自分を犠牲にするようなやり方は止めてよ…」
「…何の事だ?」
「とぼけないで。私…おばさんに全部聞いて知ってるんだから」

尋ね返す須賀君に咲さんは強い語気のこもった声でそう返します。
さっきの怒声のように荒上げるものではなく、静かな怒りを込めたそれは迫力さえ感じるものでした。
きっと今の咲さんは、須賀君を強い視線で睨めつけているのでしょう。
しかし…それが一体、どうしてなのか、私の頭では理解が追いつかなかったのです。

「…京ちゃん…わざと犯人挑発していたんでしょう?」

その言葉は強い確信に満ちていました。
まるで証拠が揃っているかのようなそれに、私は内心、首を傾げました。
だって…彼女は事件の全容をまったく知らない部外者なのです。
それなのに…須賀君の母親から聞いただけでこうも確信を得られるでしょうか。
二人のように幼馴染という存在を持たない私にとって、それは強い疑問を感じるものでした。

「…仕方ないだろ。そうしないと事件になんないんだから」
「だからって!死んだらどうするの!!相手はストーカーなんだよ!何するか分からない相手なんだから!」

しかし、その確信混じりの言葉は正しかったのでしょう。
須賀君はそれを認めるようにポツリと言葉を漏らします。
それに再び強い言葉を放つ咲さんに…私はどうして彼女がこれまで追い詰められているかを理解しました。
咲さんは…須賀君が自分から囮になったとそう知っていたからこそ…こんなにも感情を顕にして、さっきまで泣きじゃくっていたのでしょう。

―― でも…どうして…?

勿論…それは私も考えていない訳ではありませんでした。
いえ、忘れ物をしたと言って家を出た時の彼の様子を思い返せば、それは当然の帰結と言えるでしょう。
ですが…それは宮永さんの言う通り、とても危険な行為なのです。
一歩間違えれば帰らぬ人になっていたかもしれないそれを…どうして須賀君がしてくれたのか。
それが私にはどうしても理解出来ず、私はそれを馬鹿な考えだと胸の奥底にしまいこんでいたのです。

「今までずっと警告ばかりで手を出して来ないような奴に人一人を殺すような度胸はないって」
「そうかも…しれないけど…」

しかし、須賀君は私が思っていた以上に冷静だったのでしょう。
犯人を一刀両断に切り捨てるような言葉に迷いは一切ありませんでした。
けれど、だからと言って、暴力事件を引き起こさせる為に囮になるなんて普通では出来ません。
幾ら襲撃がわかっていても無事で済ませられる確証なんて何処にもないのですから。

「それに…分かってたらこっちで取り押さえる事も出来るなってそう思ったんだよ。まぁ…実際は返り討ちなんて無理だった訳だけどさ」

何処か自嘲気味に告げるその言葉は、あの日の事件が彼の思い通りになっていた訳ではない事を伝えます。
幾ら彼が尋常ではない覚悟を決めていたとしても、単純に犠牲になるつもりなんてなかったのでしょう。
勿論、そうなるかもしれないと思っていたのは確かでしょうが、捨石になんてなるつもりはなかった。
それを思わせる言葉に私は一つ安堵しながら…けれど、怒りを抑える事が出来ません。

「でも…そこまでする必要はあったの?」

自分の事ながら…私は胸中で宮永さんに同意しました。
確かに須賀君が囮になったお陰で犯人も捕まり、起訴が決まっています。
それに私は心から彼に感謝しなければいけないのでしょう。
しかし、それは着実に証拠を集めていけば…決して不可能ではない事だったのです。
何も須賀君が大怪我をしてまでなさなければいけない事ではなかったでしょう。
少なくとも…最初の約束を完全に反故にされた怒りは私の胸の内でメラメラと燃えていました。

「咲は知らないだろうけどさ。和…いや、その被害にあっていた子はすげぇ綺麗で…可愛くて…」

―― ふぇっ!?

けれど、それは宮永さんの疑問に応えるような須賀君の言葉に一気に鎮火してしまいます。
まさかこのタイミングでそんな風に褒められるとは欠片も思っていなかった私は思わず狼狽を浮かべてしまいました。
意味もなく視線を彷徨わせる私の胸はドキドキと鳴ってうるさいくらいです。
ですが、そんな鼓動にむず痒さこそ感じるものの、決して不快感はありません。
寧ろ、それは…正直…悔しいですが…嬉しいと言っても良いようなもので… ――

「京ちゃん!!」
「はは。悪い」

けれど、その言葉は宮永さんの不機嫌そうな声で遮られてしまいます。
それにドキドキも少しずつ収まって、感情の波も緩やかになっていくのを感じました。
そんな自分に安堵を浮かべる一方で…私は残念さを感じていたのです。
それは微かで…ほんのちょっぴりで…欠片ほどのものではあれど…私は恐らく…心の何処かでその続きを聞きたがっていたのでしょう。
盗み聞きをしているにも関わらず浅ましい自分の欲求に、私はさっきとは違う感情で頬を赤く染めてしまいました。

「まぁ…勉強も出来て、クールで…家事も万能でさ…ちょっと意地っ張りなのも可愛くて…」
「……」
「と、とにかく…女の子らしい女の子で凄い奴なんだよ」

そこで言葉を纏めるのは、恐らく宮永さんから睨みつけられたからなのでしょう。
どうやら二人の間の力関係は完全に宮永さんに分があるようです。
長年、培われてきたであろうその関係に、再び胸の痛みを湧き上がらせながらも…私はまた可愛いと言われた事に内心、喜んでいました。

「でも、そんな子が俺に助けてって言ったんだ。まだ知り合って…一ヶ月も経ってない俺に…助けてって」

瞬間、トーンを低めて言葉を紡ぐ須賀君は…きっと真剣そうな表情をしているのでしょう。
何時もの冗談めいた軽いものではなく、真剣で引き締まった顔を。
それを見たいという欲求が胸の中から湧き上がりますが、けれど、今、この扉を開く訳にはいきません。
そんな事をすれば…私はこの話の続きを…私の前では決して聞けないであろう須賀君の本心に触れる事が出来なくなるのですから。

「俺みたいな奴の前で泣くくらい怖かったのを…ずっと一人っきりで…誰もいない家で我慢してたんだ」

―― 須賀君…。

そんな私の耳に届いたその声は…私の心を鋭く突くものでした。
当時の私の恐ろしさを理解するそれに私の目尻が滲むのを感じます。
勿論…その結果、彼が怪我をしてしまったのですから、それを喜ぶできではありません。
けれど…あの時…誰にも頼る事の出来なかった辛さを…
須賀君だけは分かってくれているという歓喜は…そんな言葉ではかき消せないものだったのです。

「だったらさ。男の俺が頑張らなくてどうするんだよ」
「格好…つけすぎだよ…」
「そうかもな。でも、男ってのはそういう生き物なんだって」

なんでもなさそうに言うその言葉は…決して真実ではないでしょう。
だって…世の男性全てが須賀君のように親身になってくれるとは思えないのですから。
いえ、自分が怪我をするかもしれないのに…囮になって犯人と立ち向かえる人の方が少数派でしょう。
少なくとも…もし、私が男性であったとしても同じ事が出来るとは到底思えません。

「可愛い女の子の前じゃ格好つけたがるのが本能みたいなものだからな」
「それで怪我してたら…世話ないでしょ」
「痛っ!」

何処か冗談めかした須賀君の言葉に、宮永さんは呆れるように言葉を紡ぎます。
しかし…そこには何処か嬉しそうなものが滲んでいるように思えるのは私の気のせいでしょうか。
いえ…きっと彼女はこうして須賀君を何気ないやり取りが出来る事を喜んでいるのです。
数ヶ月…下手をすれば数年ぶりのそれを宮永さんは待ち望んでいたのでしょう。

「本当…京ちゃんは私がいないとダメなんだから」
「それはお前の方だろ。つーか、お前、ここまで来るの大丈夫だったのかよ」
「ちゃーんとタクシー使いましたー」
「それ自慢でも何でもないからな?」

そして…それは須賀君もまた同じです。
だって、その言葉はまったく遠慮がなく…そして嬉しそうに跳ねているのですから。
ゆーき以上に気の置けない…幼馴染独特の関係に戻りたいと、彼も思っていたからなのでしょう。
そして…それを…私も祝福するべきなのです。

―― なのに…どうしてでしょう…。

こうして扉越しに二人の掛け合いを聞いていても、胸が痛くなる一方でした。
旧交を暖めるように嬉しそうにする二人を感じて…まったく嬉しくないのです。
私の為に頑張ってくれた須賀君に齎されたその幸運を喜ぶべきなのに…胸が押しつぶされそうなほどに痛いまま。
それに目尻から一つ熱いものが零れたのを…私はしっかりと感じました。

「その…ごめんな」
「…何が?心配させた事なら当分、許さないけど」
「いや…そっちじゃなくて…気まずくて避けてた事だよ」

その瞬間、須賀君は自分の中で向き合う覚悟を決めたのでしょう。
気まずそうに言葉を詰まらせながらも…そうはっきりと言い切りました。
ストレートに謝罪するそれを…一体、彼がどれだけ抱え続けていたのかは分かりません。
しかし、それでも須賀君の中で一区切りついた事を感じさせるそれに…私はやっぱり喜ぶ事が出来なかったのです。

「…そんなの気にしてないよ」
「気にしてないって顔じゃないだろ」

そう告げる須賀君の言葉から、今の宮永さんの表情が普通ではない事が伝わって来ました。
恐らく…その頬は膨れて、拗ねているのをアピールしているのでしょう。
扉越しに伝わってくる声音も、その想像を肯定していました。

「だって…京ちゃん…あの時…何時までも友達だって…そう言ってくれたのに…私の事避けるし…」
「あの時は…大丈夫だって思ったんだ。…だけど…」

―― …?

けれど、そんな宮永さんが漏らす言葉に私の理解は追いつきませんでした。
だって、それはただ疎遠になっただけでは言わない言葉であったのです。
まるで…疎遠になる前にもうワンクッションあるようなそれに私は内心、首を傾げました。
けれど、どうにも対人関係の経験が薄い私にはそれが一体、何を指しているのか分からなかったのです。

「分かってる。…分かってるから…気にしてないってそう言ってるの」
「でも…本当は怒ってるんだろ?」
「……それは…」
「だったら…ついでだし、それを丸ごとぶつけてくれよ」

理性と感情が乖離しているであろう宮永さんの言葉。
そんな彼女の中の感情を肯定するような須賀君の言葉に、宮永さんは沈黙を返しました。
お陰で私は中の様子がまったく分からず、そわそわとしてしまいます。
一体、二人は今、何をしているのか。
見つめ合っているのか…抱き合っているのか。
まったく物音が聞こえてこない病室からは何も伝わってこず、私は思わず扉に耳をつけてしまうのです。

「…私…京ちゃんと疎遠になるなら…あんな事言わなかったもん…」
「ごめんな」
「ううん…悪いのは…子どもだった私の方」

その御蔭…という訳ではないのでしょうが、中から再び二人の話し声が聞こえて来ました。
それに一つ安堵しながら私はそっと扉から耳を離します。
流石に人通りもそこそこある病院内で扉を耳をつけていたら、不審者として見咎められる事でしょう。
こうして病室の前で棒立ちになっている時点でかなり怪しいですが、それでも幾分、今の状態の方がマシなはずです。

「…仲の良い幼馴染である事と…恋人になるって事がまったく違うって…想像せずに…付き合おうって言っちゃったんだから」

―― …え…?

そう思った瞬間、聞こえてきた声を…私は正常に咀嚼する事は出来ませんでした。
その言葉の意味を私はちゃんと理解し、整理する事が可能です。
ですが、それが一体、どういう立場でどういった過去があったからこそ紡がれたものなのかが…私には理解が及びません。
まるで頭がそれを理解するのを拒否しているように…私は呆然としてしまうのです。

「それに…変にギクシャクしちゃって…別れを切り出したのも私の方だし…」
「それは咲だけの問題じゃない。意識してたのは俺の方も同じなんだからさ」
「でも…結果的に…私がそんな事言っちゃったから…京ちゃんは避けてたんでしょ?」
「それは…」

けれど、そんな私を打ちのめすように…再び宮永さんが言葉を紡ぐのです。
悲しみと後悔を強く感じさせるそれは…紛れも無い事実なのでしょう。
こんな状況で嘘を吐くメリットなんてありませんし、何よりそこに込められた感情に嘘偽りなどなかったのですから。
須賀君と同じく、長い間彼女が抱き続けていたその感情は…聞いているだけの私の足元が思わず揺れるくらいだったのです。

「だから…本当は悪いのは…私の方。自分から告白したのに途中で耐え切れなくなって…
  京ちゃんに追いすがる事すら怖くて出来なかった…弱い私」
「咲…」

しかし、それでも宮永さんの独白は止まりません。
今までずっと抱え込み続けていた感情を吐露するように…ポツリポツリとゆっくり漏らしていくのです。
きっとその表情はとても暗く、落ち込んだものなのでしょう。
それは心配そうに彼女の名前を呼ぶ須賀君の言葉からも伝わって来ました。

「振られたってのが気まずくて逃げた俺が一番、悪いんだからさ。そう自分を責めるなよ」
「でも…」
「そうじゃないと、俺が情けなさ過ぎるだろ」

何処か自嘲気味に告げる須賀君の言葉に…私はズキリと胸が痛みました。
だって、私はそんな弱ったような声音を見せる彼の姿なんて見たことがないのです。
私の知る彼は軽くてお調子者で…でも、肝心なときには助けてくれるまるでヒーローみたいな人なのですから。
けれど…きっと須賀君の恋人であった宮永さんには違うのでしょう。
そう思ったら…また目尻が熱くなって…一粒の涙が溢れるのでした。

「それは本当?」
「…嘘じゃねぇよ。咲の事意識してギクシャクしてたってのもあるけど…大事だってのは本当だ」
「じゃあ…許してあげる」

クスリと笑う宮永さんの言葉にはもう暗いものはありませんでした。
恐らく、大事だって言う須賀君の言葉に気分を上向かせたのでしょう。
それはきっと…宮永さんが普通よりも強い感情を…須賀君に向けているから。
いえ…もっとはっきり言うのであれば…それは恐らく… ―― 

「私もね。色々と急ぎすぎてたかなって思うんだ。少なくとも…周りから囃し立てられて…恋人になろっかなんて言うべきじゃなかった」

その言葉に込められた感情を私は全て読み取る事が出来た訳ではありません。
過去を思い返し当時の感情を呼び起こすような言葉は、きっと宮永さん本人でなければ理解しきる事は出来なかったでしょう。
ですが…それでも私にはその根幹にある彼女の感情がはっきりと伝わってくるのです。
例え、軽率であったとしても…恋人になっても良いと思う…感情が。
そして当時を振り返って…『失敗だった』ではなく『急ぎすぎた』と告げる感情が。
今も…彼のことが好きだという彼女の気持ちが…私の胸を揺さぶるのです。

「だから…京ちゃんさえ良ければ…もう一回、幼馴染をやってくれないかな?」
「そんなの…俺のセリフだろ」

宮永さんのその言葉が微かに震えていたのは、彼女が恐らく怖がっていたからなのでしょう。
ずっと須賀君に逃げられ続けていた過去を持つ宮永さんにとって、それは拒絶されるかもしれないと思ってもおかしくはないものなのですから。
けれど、須賀君はそんな彼女を安心させるようにして…明るい声で答えました。

「寧ろ…咲と仲直りするのに色々と画策してたくらいなんだぜ?」

冗談めかしたその言葉は、彼女の不安を取り去ろうとする意図を感じさせるものです。
彼の本心を知る私にはそれが決して偽りでない事を知っていました。
実際、彼は私にその手伝いを頼むほどに切羽詰まっていたのです。
その上、昨日は私にその心の一部を吐露していたのですから…彼がそれに対してよほど心を痛めていたのでしょう。

「え…例えばどんなの?」
「あー…例えば、親父さんに咲がブックカバー欲しがってるって聞いたから機嫌治して貰うのにプレゼントするつもりだった」
「えー…それならその時まで仲直り待っておけばよかったかも」

そんな須賀君に応える宮永さんの言葉もまた冗談めかしたものになっていました。
明るく元気なその声にはさっきの怯えはもうありません。
代わりにあるのはそうやって冗談の応酬が出来る事への安堵と…そして嬉しさ。
きっと今、この病室の中で彼女は綻ぶような笑みを浮べている。
そう思わせるその声音に…私の痛みは大きくなりました。

「じゃあ、今度一緒に見に行くか?」

―― …え…?

瞬間、聞こえてきたその声に私は足元がグニャリと崩れていくのを感じます。
まるでこんにゃくか何かを踏んでしまったかのようなその感覚に、私は思わず蹲りたくなってしまいました。
それを堪えようと私は反射的に壁に手をつき、自身の身体を支えます。
ですが、グニャグニャと足元がおぼつかないその感覚は収まらず、私は強い不快感を覚えました。

「良いの!?」
「まぁ、これくらいはな。咲を寂しがらせたお詫びって事で」

―― 待ってください…!

そんな私に構わずに明るく進行する二人の話題。
それに心の中で叫んでも…それが須賀くんに届くはずがありません。
だって、扉の外で盗み聞きをしている私の事など二人が知る由もないのですから。
ようやくかつての蟠りを乗り越えた二人は、今、再び幼馴染として一歩を踏み出す事に夢中なのです。
しかし、そうとわかっていても…私は須賀君に置いていかれたような気がして…再び涙を漏らしてしまうのでした。

―― それは…私との約束だったじゃないですか…っ!

あの日、私と須賀君が仲良くなる切っ掛けとなった日。
お礼をしたいと言った私に、須賀君は買い物に付き合ってくれとそう言ってくれたのです。
ソレ以降、色々あった所為で、結局、具体的な日時をどうするかを決める事は出来ていませんでした。
かつてはアレほど執着していたそれを須賀君との他愛ないやり取りの中で忘れていたのです。
だからこそ、それはきっと私が言える事ではないのでしょう。。
ですが…ですが、それでも…それは私と交わしていたはずの約束だったのです。


―― 勿論…須賀君の選択が間違っていない事くらい私にだってわかっていました。

結果的に話題にもならなくなった相手との口約束よりも、それを贈ろうとしていた相手と見に行った方が遥かに良いはずです。
特に今の二人に必要なのは冷えかけた旧交を暖める時間なのですから。
その為に一緒に出かけるというのは二人にとって一番の特効薬でしょう。
しかし…そうと分かりながらも…私は裏切られたような感覚を否定する事が出来ませんでした。

「じゃあ、出来るだけ高いの買わなきゃ!」
「ちょ…やめろよ。俺の小遣い少ない事くらい知ってるだろうが」
「こんなに可愛い幼馴染を寂しがらせた罰なんだから、ちょっとくらい貧しくなっても我慢するべきでしょ」

そんな私の耳に届く楽しげな声。
それに私は…ムカムカとした感覚を抑える事が出来ませんでした。
様々な負の感情の上澄みだけを集めたその感情が…一体、どんなものなのか私には分かりません。
ですが、そこから感じる辛く…悲しく…そして寂しい感覚は私の心を暗く沈めていくのです。
そんな感情を私はどう処理すれば良いのか分からず…ポロポロと涙を漏らしながら扉の前に立ち尽くしていました。

「あの…大丈夫ですか?」
「え…?」

そんな私に声を掛けてくれたのは白衣の女性でした。
その手にバインダーを抱えた彼女は心配そうに私を見つめてくれています。
けれど…そんな女性の姿を見ても、私の感情はまったく晴れる事はありません。
そうやって心配してくれて申し訳ないという気持ちさえも湧き上がらず…ただただ、暗い心地のまま沈み続けていました。

「いえ…何でも…ありません」
「あ…」

その女性にそう答えながら、私はそっとその場を後にしました。
その背中に気遣うような声が向けられましたが、私はそれに振り返る気力さえもありません。
今にも自分の中から漏れだしてしまいそうな重苦しい感情に意識の殆どを持っていかれていたのです。
それでも…時折、後ろを振り返ったのは…私のことに気づいた須賀君が追いかけてきてくれないか期待していた所為なのでしょう。

―― 私…何をやっているんでしょう…。

勿論、そんな事はありません。
今の彼は宮永さんとの会話を楽しむので手一杯なのですから。
お見舞いに来た私の事など気にしていないどころか…その存在に気付けたはずがありません。
それがとても惨めに思えた私は…何度手の甲で目尻を拭っても、涙を湧きあがらせてしまうのです。
そんな私に怪訝そうな目を向ける人たちの中には私を心配して話しかけてくれる人もいました。
けれど、今の私にはそれさえも億劫で…途中から逃げ帰るようにして…家へと走りだしたのです。

「…あ…」

バタンと扉を締めてから…私はようやく自分が握りしめていた花束の存在に気づきました。
けれど、それはもう花弁も散った滅茶苦茶なものになっていて…到底、須賀君に渡せるような状態ではありません。
本当ならば、それを須賀君に手渡した時に…色々と言いたい事があったはずなのです。
有難うとか…何であんな無茶をしたんですかとか…それこそ…数えきれないくらいに。
けれど、滅茶苦茶になった花のようにそれらは散って…一言だって伝える事が出来ませんでした。
それが無性に悲しくなった私は…そのままゆっくりと玄関に崩れ落ちて… ――

―― そして私は両親が帰ってくるまで玄関先で泣き続けたのでした。



……
…………
………………

―― 次の日、私は朝から落ち着きませんでした。

泣いているのを両親に知られた私は二人をとても心配させてしまったのです。
つい先日までストーカー被害を受けていたのですからそれも当然でしょう。
しかし、私は自分でもどうしてこんなに悲しいのか分からず、また事情の説明も出来ませんでした。
一人で出歩くなと両親から言い含められて居たのに我慢出来ずに須賀君のお見舞いに行ったなんて言えないのです。

―― 結局…私は殆ど気持ちの整理もつけられなくて…。

お陰で昨夜もまた殆ど眠れませんでした。
かと言ってゆーきとメールする気分にもなれず、私は成果を尋ねる彼女のメールにもぼかした返事しか出来なかったのです。
突然、部活を休むと言い出した私の為に、事情を説明しに言ってくれたゆーきに対して、それはあまりにも不誠実な行為でしょう。
しかし、須賀君の代わりに迎えに来てくれた彼女は何かを察したのか、それに対して突っ込む事はありませんでした。
それが有難い反面、とても心苦しいですが、自分でも整理しきれていない現状でゆーきに説明する事は出来ないのです。

―― そんな私にとって唯一の救いは須賀君が今日から登校出来るという事でした。

父が改めて謝礼を伝える為、向こうの親御さんと連絡した際にそう教えて貰えました。
どうやら検査の結果はまったく問題なく、日常生活に支障はないそうです。
又聞きではあるものの、命に別条はないと聞いて、私がどれだけ安堵した事か。
これまで生きてきた中で文字通りの意味で胸を撫で下ろした事なんて今までありませんでした。

―― 実際…こうして見る限り、彼の様子に違和感は感じません。

教室で一緒になってから、彼は常に他の人へと囲まれてアレやコレやと質問責めにされていました。
彼が事件に巻き込まれて怪我をしたという事は学校の中でも噂になっていたのです。
それを私のストーカーと結びつける人は少なからずいましたが、須賀君はそれをやんわりと否定していました。
それは恐らく私の所為なのだとクラスメイトに思わせない為のものなのでしょう。

―― だけど、お陰で私は須賀君のところに近づけなくて…

彼がぼかした態度を取るから、クラスメイトたちも気になってしまうのでしょう。
休み時間が訪れる度に須賀君は人の輪に囲まれ、私が話しかける隙なんてなかったのです。
その上、私にも興味本位で似たような質問をする人がいるのですから、近づけるはずがありません。
結果、私は彼に色々と言いたい事があるのにろくに挨拶すらする事が出来ず、ズルズルとお昼休みまで自分の席に釘付けにされていました。

―― でも…流石に…大丈夫ですよね…?

私のカバンの中には今、一つ余分にお弁当が入っていました。
普段使っているそれよりも1.5倍ほど大きなそれは勿論、須賀君のものです。
事件に巻き込まれたお礼をそんなもので出来るとは思いませんが、昨日、お見舞いに行けなかったお詫びくらいにはなるかもしれない。
そう思って普段よりも時間を掛けて作ったそれはかなりの自信作でした。

―― きっと…これなら須賀君も喜んでくれるはずです。

男の子の好きなおかずをこれでもかとばかりに詰め込んだのですから。
普段、学食やパンなどで昼食を済ましている須賀君はきっと喜んで受け取ってくれるでしょう。
まぁ…その…その際に夫婦だとか色々とからかわれる事になるかもしれませんが、それくらいは我慢しなければいけません。
彼に誠意を見せる為にも、ここは思い切って足を踏み出すべきなのです。

―― それに…まぁ…夫婦だとか言われるのは最近はそれほど嫌じゃありませんし…。

自分の中でそういったものをさらりと流せる余裕が出来てきたからなのでしょう。
最近はそう囃し立てられるのはそれほど嫌じゃありません。
いえ、寧ろ、まんざらでもなさそうな須賀君の表情を見る度に私の顔も綻びがちになってしまうのです。
勿論、恥ずかしいので頬を赤くしてしまいますが、それだって決して嫌なものではありませんでした。

―― 問題は…タイミングです。

今の時刻は四限目の終業時刻の二分前です。
今、教鞭を執っているのは授業時間ギリギリまで使う事で有名な先生ですが、そろそろ終わる事でしょう。
そうなれば皆が皆、気を抜いて昼食の準備を始める事でしょう。
その一瞬の隙をついて、私は須賀君の元へと移動し、このカバンの中のお弁当を手渡さなければいけない。
そう思うと緊張で胸がドキドキして先生の言葉さえも右から左へと抜けていってしまうのです。

―― 大丈夫…私になら出来るはずです。

何せ、私は朝からこの時の為のシミュレーションを欠かさなかったのですから。
終了の宣告を聞いてから須賀君の席へと近づくまで、しっかり思考した私にミスはあり得ません。
お陰で午前中の授業が一体、どんな内容だったのか思い出せませんが…それは些細な事です。
それよりもこのまま須賀君にお礼すら言えない方がよっぽど大事なのですから。

―― ピーンポーンパーンポーン

瞬間、聞こえてきたチャイムの音に私の肩が強張ります。
ピクンと微かに震えるそれはきっと緊張なのでしょう。
しかし、それはあくまでも許容範囲であり、私の計画を阻害するものではありません。
今の私に精神的動揺によるミスはあり得ないのです。

「お…もうこんな時間か。それじゃ号令」
「きりーつれーい。ありがとうございましたー」

その言葉が聞こえた瞬間、私はそっと腰を屈め、脇にぶら下がったカバンを手に取りました。
瞬間、視界に飛び込んできた青色の包をぎゅっと握り締めるのです。
そのまま包を持って顔をあげれば、須賀君は昼食を買いに席を立とうとしているところでした。
その周りには人はおらず、私と須賀君の間にも人一人が通れるラインがあったのです。
予想通り…いえ、それ以上の結果に私は内心、浮かれながら、彼を呼び止めようとして… ――

「あの…し、失礼しまーす…」 
「…え?」

瞬間、聞こえてきたその声に私は意識をそちらへと向けてしまいました。
須賀君へと渡すべきお弁当をそのままに立ち尽くすそれは計画にはなかったものです。
それに私の理性が警鐘を鳴らしますが、しかし、身体が動く事はありませんでした。
だって、その声は…聞いた覚えのある…もっと言えば、昨日聞いたはずの声だったのですから。

「その…須賀君はいますか?」

ほんのすこし緊張を混じらせて紡がれる可愛らしい声。
それを放つのは黒髪の小柄な女の子でした。
ショートに切り揃えたその雰囲気は大人しく、まさに文学少女と言った風体です。
何処か小動物めいたその雰囲気はきっと男性の庇護欲を擽るでしょう。
決して華やかな何かがある訳ではないけれど、人の心を惹きつける少女。
私にとって彼女の第一印象はそんなものでした。

「あれ?咲」
「あ…京ちゃん」

そんな二人のやり取りに教室がざわめいたのは決して私の気のせいではないのでしょう。
私だって病室で二人のやり取りを聞いていなければ、かなりの動揺を浮かべていたのですから。
しかし、渦中の二人はそんな教室の変化に気づく事はなく、不思議そうな表情を浮かべながら近づいていくのです。
まるで二人だけの世界にいるかのようなそれに私の胸は張り裂けそうな痛みを覚えました。

―― 行かないでください…!

その痛みを泣き叫ぶような言葉が私の胸の中で響きました。
まるで二人の世界がそこにあるかのようなその姿に…私は後ろから縋り付いて止めたかったのです。
しかし、思わず口から飛び出してしまいそうなそれを私は理性と体面という言葉で抑えこみました。
だって、そんな事を口走ってしまえば…今もざわめきいているこの教室がより一層、動揺を広げる事になるのですから。
それは私も須賀君も…そして宮永さんも望むところではないのでしょう。

「はい。お弁当」
「って本当に作ってきたのか。有難うな」
「約束した事くらい護りますー」

―― お弁…当…?

しかし、そう思いながら成り行きを見つめる私の前で、宮永さんが須賀君に緑色の包を手渡しました。
私の持ってきたそれよりも一回り大きなそれを須賀君は嬉しそうに両手で受け取ります。
お礼と共に告げるその言葉から察するに私が逃げ帰った後、お弁当を作ると約束したのでしょう。
頭の中ではそう理解しながらも、私はその光景を信じる事が出来ませんでした。

―― 私だって…作って来たのに…。

そう。
私の手の中には彼に食べてもらう為に作ったお弁当があるのです。
眠れないからと朝早くから厨房にこもったそれは自信作で…須賀君も喜んでくれるはずでした。
そして…私はそんな須賀君に無茶をした事を責めながらも…ちゃんとお礼をするはずだったのです。
しかし、そんな私の計画は今、目の前で無残にも打ち砕かれ…粉々になっていったのでした。

「のどちゃん…大丈夫?」

そんな私の隣にいつの間にかゆーきが近寄ってきてくれました。
心配そうに私を見上げるその表情に私の胸はズキリと痛むのです。
しかし、私はそんな彼女に空元気を見せるところか、ろくに返事一つ返す事が出来ません。
ただ、身体の反応としてそっと頷きながら、私はじっと須賀君たちの様子を見つめ続けるのです。

「ちゃんと後で洗って返してね。前みたく忘れたなんて言ったら許さないから」
「はいはい。分かってるって」

そう言葉を交わす二人に教室のざわめきが再び膨れ上がります。
だって、それは二人が以前からそういったやり取りをしていた事が分かるものなのですから。
高校生活開始から一ヶ月、大体の人となりがわかりはじめた時期に投下されるその爆弾に皆が驚くのも無理ないでしょう。
この一ヶ月の間、そういったやり取りを見る事がなかったのですから尚更です。

「じゃあ…私もう行くから」
「おう。また後で…いや、ちょっとまってくれ」
「え…?」
「ん?」

そこで宮永さんを呼び止める須賀君の表情は微かに強張っていました。
微かにその頬を引き攣らせるそれは恐らく教室の雰囲気に気づいたからなのでしょう。
チラリと背中を伺うその視線には「失敗した」と言わんばかりの表情が浮かんでいました。
その表情に彼と特に中の良い一部の男子がゆっくりと近づき、包囲を始めます。

「…やっぱ俺も一緒に行くわ」
「逃がすな!追い込め!!」
「全てゲロって貰うぞ背信者京太郎!!」
「女子の弁当とかうらやまけしからん!俺にもちょっとよこせ!」
「ふざけんな!誰がやるか!!」
「…あ…」

そう言ってドタドタと駆け出す数人の男子から逃げ出すように須賀君が教室を飛び出して行きました。
そんな彼を追いかけて数人の男子も教室から出て行くのを、何人かの女子は呆れたように見送ります。
その他の女の子は大人しそうな外見からは想像もつかないほど大胆な事をした宮永さんを興味深そうに見ていました。
そんな彼女たちに気圧されるようにして小さく声をあげながら、宮永さんはそっと扉を閉めようとして… ――

―― ふと一瞬…視線が合ったような気がしました。

真っ直ぐに私の方を見つめるようなその視線はきっと気のせいなのでしょう。
だって、私と彼女はまったく面識がないのですから。
一方的に私だけが面識のある今の状態で、彼女に見られる理由なんてありません。
だからこそ、それはきっと…私が宮永さんを意識しているが故の誤解なのでしょう。

―― 意識…?私が…?

瞬間、浮かんできた自分の思考に私は疑問の声を返しました。
私にとって宮永さんは須賀君の幼馴染であるというだけで、意識するような対象ではないはずです。
確かに私の作ったお弁当が無駄になってしまいましたが、それは何も宮永さんの所為という訳ではないのですから。
私が事前に彼に伝えておけば、こんなブッキングが起こる事はなかったのです。
全ては…昨日、私があの場から逃げてしまった所為でしょう。

―― そう…宮永さんは…何も悪くはありません。

そう。
悪いのは弱かった私の方であり…彼女も須賀君も何も非などないのです。
しかし…どうしてでしょう。
さっきから私の胸は『取られた』という気持ちで一杯で…他の感情が割って入る余地がなかったのです。
まるで自分の事を棚に上げるようなそれが悪い事だと理解しながらも…私は自己嫌悪すら感じる事はありませんでした。
その分の嫌悪を、さっき会ったばかりの何の非もない少女に向けながら…私はぎゅっと包を握りしめたのです。

「のどちゃん…?」
「あ…ごめんなさい…」

そんな感情から私が開放されたのは伺うようなゆーきの言葉のお陰でした。
何処か怯えるようなそれに私は小さく謝罪しながら、そっと頬に手を当てます。
微かに強張るそこからまださっきの暗い感情が蠢いているのを感じました。
ゆーきのお陰で幾分、冷静になった思考が、そんな自分に自己嫌悪をわきあがらせます。
しかし、それでも胸の奥底に根付いた暗い感情を消し去る事は出来ず…私は胸の痛みを強くしました。

「ゆーき。これ食べますか?」
「え…?でも…」

それから逃げるように努めて明るく紡いだ私の声に、ゆーきは逡巡の言葉を返します。
一瞬、チラリと扉の方を見たそれは私がこのお弁当を作ってきた意図を察してくれているのかもしれません。
ですが…もう私が作ってきた意味は…なくなってしまったのです。
それを食べて欲しかった人はもう別の人のお弁当を手にしているのですから必要ないでしょう。

「遠慮しなくて良いんですよ。ゆーきにも色々とお世話になってしまいましたし」
「のどちゃん…」
「まぁ、タコスは入っていないので、ゆーきが良ければ…ですけれど」

そう言う私の声にゆーきは小さく笑いました。
元々、学食のタコスがあるという理由で清澄を選んだ彼女は筋金入りのタコス好きなのです。
そんな彼女に男性向けのお弁当は気に入って貰えないかもしれない。
そう思う私の不安を吹き飛ばすような明るい笑みに私はほんの少しだけ自己嫌悪を緩ませる事が出来ました。

「のどちゃんの料理は何時だって最高だ。お嫁さんにしたいくらいだじぇ!」
「もう…ゆーきったら…」

ぐっとガッツポーズしながら明るく言う彼女に、私は呆れるような言葉を紡ぎます。
しかし、その内心はゆーきへの感謝に溢れていました。
彼女がいなければ…私は病室の前に居た時のように泣きだしていたかもしれません。
ですが、努めて明るく振舞ってくれている彼女のお陰で、私はギリギリのところで踏みとどまる事が出来たのです。

「…有難うございます」
「何の事か分からないな!」

それに御礼の言葉を放つ私の前で、ゆーきはとぼけるような言葉を口にします。
そんな彼女に私も小さく笑みを浮かべてから…机を移動させ始めました。
その頃にはもう教室内のざわつきも収まり、各々がそれぞれに昼食を摂り始めます。
まるで最初から…何もなかったかのようないつも通りの雰囲気。
けれど、どれだけ見渡しても須賀君や彼の友人たちがいない事が私の心に突き刺さりました。

―― …私は……。

ドラマの話なんかの他愛ない話に移っているクラスメイトたちにとって、それはもう気にする事ではないのでしょう。
実際、さっきのそれは今までの日常からはかけ離れたイベントではありましたが、それを話題にするのにはあまりにも情報が少なすぎるのです。
須賀君がまた帰ってきた頃になると話は違うのかもしれませんが、今はまだ気にするようなものじゃない。
恐らくは皆そう思っている事なのでしょう。

―― さっきから…味がしません…。

ですが、そうやって私が口にする料理は殆ど味がしないものでした。
須賀君が喜ぶように何時もよりも濃い目の味付けにしたのは何度も味見で確認したのです。
故に私が味付けを失敗したなんて事はあり得ないでしょう。
ですが、そう思っても私の舌は麻痺したように味を感じず、ゆーきの話題にも気のない返事しか返せませんでした。

―― 須賀君は…今頃、何をしているでしょうか…。

追いかける友人たちから逃げ切れたのか、或いはもう捕まってしまったのか。
流石に未だに逃げているなんて言う事はないでしょう。
もしかしたら、もう宮永さんのお弁当に口をつけて、『美味しい』なんて言っているのかもしれません。
そう思っただけで私の目はジュッと潤み…悔しさに似た感情が胸の底から沸き上がってくるのです。

「のどちゃんのお弁当はすっごい美味しいじぇ!」
「ゆーき…」

そんな私を励ますような彼女の言葉に、私はほんの少しだけ救われました。
あぁ、私がやった事は無駄ではなかったのだと…そう思えたのです。
須賀君に手渡す事は出来なかったけれど、美味しいと言って貰えたんだって…自分の心を慰撫する事が出来たのでした。

―― ですが…それはほんの少しだけ。

勿論、そうやってゆーきに美味しいと言って貰えるのは嬉しい事です。
けれど…それは本来…須賀君から言ってもらえるはずの言葉だったのです。
少しだけ照れながら、けれど…嬉しそうにはにかみながら…そう褒めてくれるはずだったのでした。
ですが…それは今、私の目の前にはなく…代わりにその人は誰かのお弁当を『美味しい』と言っているのかもしれないのです。

―― …止めましょう。こんなのは…不毛です。

どう足掻いても、それは出口のない感情なのです。
思えば思うほど心が沈み込むだけの想像でしかありません。
そんなものに暗く沈むよりもゆーきの振ってくれている話題に少しでも良い返事をした方が有意義でしょう。
そんな事は…私にだって分かっていました。

―― でも…なんでなんでしょう…。

ただ…ほんの少しだけ行き違いになってしまっただけ。
それが刺のように胸の奥に突き刺さり、ズキズキとした痛みを走らせるのです。
そこから湧き上がる嫌な想像に…私はどれだけ目を背けようとしても出来ません。
まるでそれが今にも起こっている事実のように、胸中を浮かぶのを止められず… 

―― 結局、私はろくに味が分からないまま昼食を終えたのでした。



―― その暗い気持ちは結局、放課後まで続きました。

結局、須賀君は昼休み終了ギリギリになって教室へと戻って来ました。
その周囲を友人たちに囲まれながらのそれは、途中で彼が捕まってしまった事を伝えます。
体育の授業を見る限り、須賀君の運動神経は悪くないはずですが、それでも数人がかりで逃げ切れるほどではなかったのでしょう。
うなだれる彼を時折、友人がからかう様を見る限り、幾らかお弁当を食べられてしまったそうです。

―― でも…それが私の胸に突き刺さって…。

だって、それは須賀君がそうやって落ち込むくらいに宮永さんのお弁当を楽しみにしていたという事なのですから。
もしかしたら…美味しい美味しいと言ってくれた私の料理よりも楽しみにしていたのかもしれない。
そう思うと胸の痛みが強くなり、感情がまた暗く沈み込むのが分かります。
結果、私は放課後までその感情に揺さぶられ続け、授業にも集中出来ていませんでした。

―― これから…どうしましょう。

勿論、これから先は部活の時間です。
昨日、いきなり休んでしまった分、今日は部室に顔を出さなければいけないでしょう。
しかし、今の私にとって、それは憂鬱な事でした。
何せ、部室に行くという事は須賀君とも顔を合わせなければいけないという事なのですから。
もし、彼から宮永さんのお弁当が美味しかった…なんて言われたら私はまた暗く沈んでしまう事でしょう。

「おい!京太郎!」
「ん?」

そう思う私の耳に須賀君を呼ぶゆーきの声が届きました。
ふとそちらに目を向ければ、そこには箒を手に持ちながら仁王立ちする彼女の姿があります。
カバンを持つ須賀君の前に立ちふさがるようなその姿は迫力に満ちていました。
まるでここから先は通さないと言わんばかりのゆーきはそのまま須賀君に指を向け、力強く唇を開きます。

「私、今日掃除当番だから、ちゃんとのどちゃんを部室までエスコートするんだじぇ」
「そうだな。昨日の今日じゃ不安だし」
「えっ!?」

そんな二人のやり取りに私は驚きの声を漏らしました。
私の知らないところで勝手に決まるそれに理解が追いつかないのです。
しかし、カバンを持った須賀君はそんな私にはお構いなしというようにこちらへと近づいてくれました。

「それじゃ…行こうぜ」
「あ…」

そうやって私に向けられる言葉は…一体、何時ぶりのものでしょう。
いえ、私にだって…それが2日ぶりだと言う事くらい理解できているのです。
しかし、その言葉に喜ぶ心の震えは、到底、2日ぶりとは思えません。
まるで一ヶ月ぶりにそうやって言葉を交わしたように…胸の中が喜びに溢れているのです。


―― 存外…単純なものですね。

そうやって声を掛けられただけで、あっさりと喜んでしまう自分に胸中で自嘲の言葉を浮かべます。
しかし、そうやって自嘲気味に言葉を漏らしても、私の感情は揺らぎません。
勿論、その奥底に暗い感情が横たわっているのは変わりませんが、今はまったく気にならないのです。
さっきまで重苦しくて仕方がなかったそれかた開放された所為でしょうか。
須賀君に並び立つ私の足はここ数日で一番、軽いものになっていました。

「……」
「……」

けれど、そうやって並び立って教室を出ても、私達の間には沈黙が降りていました。
お互いに距離を測っているようなそれに、けれど、私はあまり気まずさを感じません。
そうやって須賀君が宮永さんではなく…私の傍に居てくれるのが嬉しいからでしょうか。
こうして並んで歩いているだけで私の心は喜び…暗い感情から解き放たれるのです。

―― でも…何時までもそうしてはいられません。

私の方は今でも十分、満足出来ているとは言え、須賀君の方はとても気まずそうにしているのです。
まるで何か言いたいような、けれど、どうにもそのきっかけを掴みかねているような様子をさっきから見せ続けているのですから。
普段は頻繁に話題を振ってくれている彼とは思えないその姿に、私はここが恩返しする場面だとそう心に決めたのです。

―― でも…何を話しましょうか…。

勿論、言いたい事は沢山ありました。
聞きたい事だって一杯一杯あったのです。
しかし、こうして須賀君の傍にいるだけでそれらは揺らぎ、思考の向こうへと消え去ってしまいました。
まるで彼の傍にいるだけで満足してしまっているような自分の奥底を私は必死に探ります。
ですが、何が言いたかったのかをどうしても思い出せない私は少しずつ狼狽を覚え始めました。

「その…ごめんな」
「え…?」

そんな私の耳に届いたのは須賀君からの謝罪の言葉でした。
ポツリと、けれどはっきりと紡がれるそれに私は思わず彼の顔を見返してしまいます。
そこにあったのは気まずそうな、そして、恥ずかしそうなものでした。
けれど、一体、それがどうしてなのかまで理解が追いつかず、私はそのままじっと彼の顔を見つめてしまうのです。

「ちょっと調子に乗ってた。心配させてごめん」
「そんな…」

そう漏らす言葉に、私はようやくその謝罪が自分が囮になった事だと言う事を理解しました。
あの病室での様子から察するに彼は確信犯であったものの、私に心配かけた事を申し訳なく思ってくれているのでしょう。
ですが、それは全て事件を早期に解決する為のものだったのです。
勿論、それに対して言いたい事はありますが…謝って欲しかった訳ではありません。
寧ろ…それに関しては私の方が彼に謝らなければいけない事が沢山あるのです。

「私の方こそ…ごめんなさい。須賀君の言う事を聞かなかった所為であんな…」
「それこそ俺が調子に乗って携帯取られた所為なんだから。謝るのは俺の方だ」

そう思って紡いだ私の言葉を須賀君は首を振りながら答えます。
どうやら彼の中ではもう自分が悪いという事で確定しているようでした。
首を振る彼の表情は固く、申し訳なさに染まっています。
私がどれだけ自分の非を並べ立てても、それを変える事は出来ないでしょう。
ならば、ここで私がするべきは自分の非を訴える事ではなく… ――

「ありがとう…ございました」
「えっ」

そう謝礼を述べる私に須賀君は信じられないような表情を見せました。
まるでそう言われるのを欠片も想像していなかったようなその表情に私は小さく笑ってしまいます。
きっと彼はそうやってお礼を言われるような事をしたとは思ってはいなかったのでしょう。
あの気まずそうな様子から察するに、きっと些細な失敗で自分の事を責め続けていたのです。

「須賀君のお陰で、私は凄い助かりました」
「でも、俺は…」
「…そう自分を責めないでください。須賀君は…何度も私を助けてくれたじゃないですか」

初にストーカーのことを打ち明けてから今日までの間、彼は数えきれないほど私を助け、そして支えになってくれたのです。
それをこの場で忘れてしまうほど私は恩知らずではありません。
寧ろ、重視されるべきはあの事件が起こった日よりもそれまでに彼が積み重ねてくれたものでしょう。
幼馴染と仲直りしたいという自分の都合を曲げてまで私の事を支え続けたその献身性にこそ私は強い感謝を感じるのでした。

「百歩譲って須賀君が失敗したとしても…私は須賀君に…感謝しています」

勿論、それはあの日の彼の行動を悪いと思っている訳ではありません。
彼があの日に行動してくれなければ、もしかしたら私はあの人にひどい目に合わされていたのかも知れないのですから。
それは仮定の話ではありますが、決してあり得ないものではなかったのでしょう。
実際、ああやって事件になるまでの間に警察は何もしてくれず、警告はエスカレートしていくばかりだったのですから。

「有難うございます。私は…須賀君に救われました」
「和…」

そう言いながら頭を下げる私に須賀君はポツリと言葉を漏らしました。
それが一体、どんな感情によるものなのか私は判別する事が出来ません。
しかし、そこにはさっきまでの自責の色はあまり感じられませんでした。
恐らくは…私の言葉は彼が自分を許す為の材料になれたのでしょう。
そう思うと少しだけ誇らしくなり、胸を張りたい気分になったのです。

―― 彼を勇気づけたのは…宮永さんではなく、私なんですから。

そう対抗心を抱くそれはきっと情けないものなのでしょう。
私が一人で勝手に…意識しているだけなのですから。
しかし、頭をあげた瞬間に彼が見せた安堵するような表情は…私の…私だけの手柄なのです。
そう思うと少しだけ『取り返せた』ような気がして…私はつい笑みを浮かべてしまうのでした。

「…はは。ホント、格好悪いな。こういう時…洒落た言葉の一つも出てこないや」
「いいえ。須賀君は…何時だって…格好良いです」

いえ、須賀君が格好悪かった時なんて殆どありません。
私の傍に居てくれる彼は…何時だって頼もしいものだったのですから。
あの時、意識が朦朧としながらもストーカーを抑えてくれた姿だって…最高に格好良いものだったのです。
そんな私にとって気恥ずかしそうに、けれど、何処か嬉しそうにその頬を掻く須賀君の姿は可愛らしく思えても格好悪くは映りません。
いえ、寧ろ、そうやって視線をそらす姿さえも何処か愛嬌のある魅力的な仕草に見えるのです。

「…え?」
「あっ…」

けれど、それはそう簡単に口にして良い言葉ではない。
それに気づいたのは私の目の前で須賀君が驚いたように私を見つめるからです。
まるで信じられないような言葉を聞いたかのようなそれに私の頬は一気に紅潮していくのが分かりました。

「ご、ごご…誤解しないで下さいね!そ、そういう意味じゃなく…お、お世辞!お世辞なんですから!」
「お、おう…」

それと共に湧き上がる羞恥心に私はついついそうやって可愛げのない言葉を放ってしまいます。
格好良いと思った事全てをまるごと否定するようなそれに須賀君は気圧されるようにそう頷きました。
恥ずかしすぎてその顔をはっきりと見る事はできませんが、もしかしたら変な女だと思われているのかもしれません。

―― わ、わわ…私ったら…な、なんて事を…!

本来ならお礼を言わなければいけない相手に、向けるその言葉は最低も良い所でしょう。
自分で口走っておいて、お世辞だと誤魔化したのですから。
正直、そうやって取り繕うよりはウソじゃないと言っていた方が幾らかマシだったでしょう。
けれど、時間はもう戻りはせず…その機会も失われて… ――

―― いえ…そういうのがいけないんです。

そう引っ込み思案に陥りそうな思考を、私はそう叱咤しました。
そうやってすぐさま内側へと閉じこもってしまうからこそ、対人関係をちゃんと構築出来ていないのです。
悪いと思ったならば、或いは間違っていると思ったならば、機会云々なんて言わず…ちゃんと訂正すべきでしょう。
少なくとも…友達だと思っている相手にはそんな不義理をしたままにはしたくありません。

「あの…でも…私を助けてくれた時の須賀君は…ちょ、ちょっぴり…格好良かったです…」
「そ、そっか…」

そう思いながら紡いだ言葉に、須賀君は再び明後日の方向に視線を飛ばしました。
チラリとその顔に目を向ければ、そこには私に負けないくらいの紅潮が朱となって現れています。
視覚的に訴えてくるほどの恥ずかしさに、言った私の方も恥ずかしくなるくらいでした。
結果、私達の間にはまた沈黙がそっとその手を差し込み、何とも落ち着かない雰囲気になってしまうのです。

「で、でも…須賀君は私との約束破りましたよね?」
「う…それは…」

それを何とか打開しようとする私の脳裏に浮かんできたのは『危ない事はしない』という須賀君の約束でした。
私の信頼の根拠であり前提であったそれをあっさりと破られた事を私は決して忘れてはいません。
幾ら、格好良かったとは言っても、そのことについて一言くらい言ってやらないと気が済まないのです。

「私…アレだけ言ったのに…」
「いや…アレは不可抗力で…」
「…それを今更、信じられるとそう思っているんですか?」

気まずそうに言葉を紡ぐ須賀君に、もしかしたら私は騙されていたかもしれません。
しかし、彼は知らない事ですが、私は病室での二人のやり取りを聞いてしまっているのです。
彼自身が語った言葉を盗み聞きした私がそれを鵜呑みにするはずがありません。
寧ろ、そうやって誤魔化そうとする彼についついジト目を向けてしまうのです。

「い、いや…本当だって!俺もまさか襲われるなんて思ってなくてさ」
「……じゃあ…忘れものってなんだったんですか?」

そんな私に言い訳じみた言葉を並べる須賀君に私は冷たくそう言い放ちます。
実際、私は警察署で事情聴取の一環として、須賀君の荷物をチェックするのにも付き合わされているのです。
その中にはパジャマから制服から一式が揃えられ、忘れ物らしいものは見当たりませんでした。
少なくともあの場でわざわざ取りに戻らなければいけないようなものなんて一つも思いつかないくらいしっかりと準備されていたのです。

「枕だよ。俺、実は枕が変わると眠れなくてさ」
「それ…須賀君のお母様に聞いて良いですか?」
「う…」

それでも誤魔化そうとする須賀君に私は携帯を取り出します。
勿論、それはただのブラフでしかありません。
事件が起こった後、須賀君の両親とも連絡先を交換していますが、それは両親だけなのです。
私にまでそのデータが回ってくる事はなく、携帯の電話帳は一つたりとも増えていません。
しかし、それでも須賀君を追い詰める効果はあったようで、その表情を苦しそうに歪ませました。

「…どうしてですか?」
「…いや…その…」
「…どうして…私にそこまでしてくれるんですか?」

そんな須賀君に尋ねる言葉は、詰問するような強いものになっていました。
どうやら私は自分でも思っていた以上にその事について怒っていたみたいです。
一歩間違えれば私の所為で友人が…しかも、始めて出来た男友達が死んでしまっていたかもしれないのですから。
しかし、折角、私を護ってくれた人に…そうやって問い詰めるべきではありません。

「…女の子が怖がっているってのに男の俺が何かしない訳にもいかないだろ」
「だからって…何も自分から危険に飛び込むような真似をしなくても良いでしょう!」

そう言い聞かせながらも、次の言葉は大声になってしまいました。
心の中に押し込めていた苛立ちをそのまま声にするようなそれに下校途中の生徒の何人かがこちらを振り返ります。
それに気恥ずかしさを感じながらも、しかし、ようやく蓋が開いた感情は収まりません。
昨日、病室でぶつけられなかったそれが私の胸の中を埋め尽くし、胸を苦しくさせるのです。

「そうやって須賀君を犠牲にしたやり方で助かっても…私…全然、嬉しくないです…」

その言葉に浮かぶ一番の感情は恐ろしさでした。
もし…須賀君が私の所為で死んでいたら私はきっと自分のことを一生、許す事が出来なかったでしょう。
間接的にではありますが…須賀君が死ぬ原因を作ったのは私なのですから。
結果、今回のように事件となって犯人が逮捕されても喜ぶ事なんて出来ません。
寧ろ、失った物の大きさに打ちのめされ、私はトラウマを抱えていた事でしょう。

「私の事を助けてくれるって言うのなら…ちゃんと…最後まで面倒見てください…」
「…ごめんな」

そこまで言った時にはもう私の声は震え…目尻には濡れたものが浮かび始めていました。
それを反射的に手で拭い去ろうとする私の視界にハンカチが映ります。
そのままゆっくりと目尻を拭ってくれるそれは優しく、そして暖かなものでした。
それに須賀君が生きてここに居てくれる事を遅ばせながら、ようやく理解した私から…ポロポロと大粒の涙がこぼれ始めます。

「…もうあんな真似はしない。約束する」
「約束したのに破ったじゃないですか…っ」

そんな私の顔を飽きずに何度も拭い去ってくれる須賀君の言葉を私は信じる事が出来ません。
何せ、あの病室でのやり取りを聞くに彼がこうした無茶をしたのは何も今回が始めてではないのですから。
流石に日常的にとは言わなくても、前科は一回や二回ではないのでしょう。
それを思うと彼の言葉をどうしても信じる事が出来ず、涙に濡れた目できっと睨んでしまうのでした。

「いや…もう絶対にそんな真似はしないって」
「どうして…そう言い切れるんですか…?」

しかし、須賀君はそんな私に怯むような様子は見せず、淡々と顔を拭いてくれるのです。
そうしながら絶対と断言するそれに私はそう尋ねました。
もし、特に根拠のないものだったら思いっきり泣いて困らせてやろう。
そんな前向きに後ろ向きな事を考えながら、彼を見つめる私の前で、須賀君はゆっくりと口を開くのです。

「そもそも…俺はそうホイホイ自分を囮に出来るようなヤツじゃない。本当は小心者で臆病者なんだ」
「そんな事…」

何処か自嘲気味に口にするその言葉を一体、誰が信じる事が出来るでしょう。
彼がやった方法というのはとても愚かではありますが、けれど、効果的で…勇気がなければ決して出来ない事だったのですから。
そもそも、彼が自分で言う通り小心者で臆病者だとすれば、私に関わらず距離を置いていた事でしょう。
それなのにこうして自分が怪我をするのも厭わずに助けてくれた彼がそうだとは到底思えません。

「いや、マジだって。実際、直前まで俺は実行に移すか迷ってたからな」

そう自嘲気味に笑う須賀君の言葉は当然のものでしょう。
誰だって怪我をするかもしれないと思えば、二の足を踏んでしまうものなのです。
それを気にせずに突っ切ってしまえるような人は、危険や怪我に慣れすぎて頭の中が麻痺しているだけでしょう。
安全な場所で生きていれば極自然なその反応に臆病だとは言えないはずです。

―― 何より…須賀君はそれでも実行に移してくれたのです。

そうやって迷って苦しんでいるのを表に出さず、最後まで私を気遣ってくれた彼。
それを臆病だと言う人がいるのだとすれば、それはきっとその人の方が間違っているのです。
普通の人の領域にありながら、誰かの為に傷つく事を厭わないその精神は寧ろ、優しいと称されるべきでしょう。
その行為そのものを私は心から喜ぶ事は出来ませんが、さりとて、迷いながら決断を下した彼を悪く言われるのは我慢出来ません。
それをして良いのは…世界でただ一人、彼に助けてもらった私だけのはずなのですから。

「何より…俺は誰相手にでもこんな事するほど酔狂じゃねぇよ」
「え…?」

ポツリと呟かれるその言葉に私は思わずそう聞き返してしまいました。
だって、その言葉はまるで私が特別だと思ってくれているように聞こえるのですから。
勿論、そんな事はあり得ません。
私はあまり可愛げのない女で…ついこの間まで須賀君ともギクシャクしていた間柄なのですから。
仲の良さで言えば、恐らく彼の友人の誰一人 ―― 
それこそ宮永さんどころかゆーきにさえ勝てないであろう私が、特別だなんてあり得ないでしょう。

「その…凄いエゴなんだけどさ。和は…どうしても俺の手で護ってやりたかったんだ」

けれど、そう言い聞かせても…須賀君のその言葉にドキドキするのは否めませんでした。
理性よりも自分の一時の感情を優先するようなそれは…私にある言葉を彷彿とさせるのですから。
彼の価値観を感じさせるそれを…私が忘れるはずがありません。

「…誰よりも傍で…ですか?」
「お、覚えてたのかよ…」

あの修羅場と言っても良いような騒動の中、はっきりと聞こえたその言葉。
それを口にする私に須賀君が気まずそうに視線を背けました。
その頬に再び朱色を混ぜるその姿はまるで拗ねた子どものようです。
それが可愛らしく映りますが…けれど、私にはそれに笑みを浮かべる余裕はありませんでした。
それよりも彼が次に何を言うかにその意識の全てを傾け、注視していたのです。

「まぁ…その…何て言うか…」
「……」
「そう…言う…事…なんだよな」

ポツリと、けれど、はっきりと口にする須賀君の言葉は愛の告白も同然でしょう。
だって、彼はあの騒動の中で、『愛しているなんて誰よりも傍で護れるようになってから言え』とそうはっきり口にしていたのですから。
勿論、それはあの騒動の中で犯人の敵意を自分に向ける為の言葉に過ぎなかったのかもしれません。
しかし、その漏らすその顔には…余裕めいたものなんてありませんでした。
まるで本当に告白してくれたようなそれに…私はトクンと胸を沸き立たせてしまうのです。

―― わ、わわ…私は…。

けれど、私はその言葉に答える事が出来ませんでした。
だって、私はそうやって告白された事なんて初めての経験だったのですから。
小中と女子校で育った私にとって異性とは程遠い存在だったのです。
勿論、最近だとあの犯人に愛を囁かれていますし、
須賀君にはこれまで告白めいた言葉を何度も聞かされていますが、それはカウントに入らないでしょう。
犯人のアレは愛とは程遠いものでしたし、また彼も私を『可愛い』という時にこんな表情をした事はないのですから。

―― ど、どどどどどどどうしましょう!?

結果、私にもたらされたのは困惑に近い狼狽でした。
まさか須賀君にそんな風に思われているとは欠片も思っていなかった私にとって、それは予想外もいいところだったのです。
正直、呆然と須賀君を見つめる胸中には夢ではないかとさえ思っている私がいるくらいなのですから。
寝耳に水と言う言葉が相応しいそれに、私はどうすれば良いのか分からなって完全にその思考を固めてしまいました。

―― でも…少なくとも…嫌じゃない…です…。

それでもゆっくりと自分を振り返るその思考に私は胸中で小さく頷きました。
確かに驚きこそしましたが、今の私には厭うものなんて何もないのです。
困惑に満たされているはずの胸もさっきからトクントクンと脈打って全身に喜びを広げるのですから。
それが始めて告白された所為か、或いは須賀君に告白された所為なのかは…私にはまだ分かりません。
けれど、気まずそうな顔をしている彼にせめてそれだけは伝えなければと口を開き… ――

「わ、私は…」
「あ、いや、返事は良いんだ。あの事件の後でまだまだそういう事考えられない状態だって言うのは分かってるし」

そんな私の言葉を遮るように言いながら須賀君はそっと首を振りました。
まるで私の返事を拒絶するようなそれにほんの少しだけ私は悲しくなってしまいます。
けれど、今の私は困惑が強く、返事を今すぐ求めらていないというのは正直、幸いではありました。
さっきの言葉はあまりにも予想外過ぎて自分の中でろくに結論は出ていないのですから。
何をするにしてもまずは自分と向き合って答えを出す時間が必要でしょう。

「ただ、俺は和が思っているような立派なヤツじゃないって事を説明したかっただけなんだけど…あー…どうしてこうなるかなぁ…」

そう言いながらそっと肩を落とす須賀君に、私は何を言ってあげれば良いのかわかりません。
有難うというのは何処かズレている気がするし、ゴメンナサイだと誤解を招きかねないのですから。
しかし、私が変に突っ込んでしまった所為で、まるで事故のような告白が起こってしまったのは事実でしょう。
そう思うと申し訳なさが胸をつき、私の肩もそっと落ちるのです。

「…あ」

そうやって気まずい沈黙を交わす私達に部室の扉が現れました。
どうやらそうやって私がためらっている間にかなりの時間が過ぎていたみたいです。
それに安堵とも落胆とも言えない感情を抱く私の前で須賀君がそっと扉に手を伸ばしました。
恐らくその向こうには先輩方がいて…扉を開いたら最後…もういまみたいに二人っきりで話す事は出来ないでしょう。

「あの…須賀君」
「ん?」

そう思った瞬間、私の口は自然と開いていました。
まるでこの時間をまだ終わらせたくはないと言うように…はっきりと言葉を放ったのです。
しかし、その後に続く言葉なんて私が考えているはずがありません。
ついさっきの告白から未だ立ち直りきれていない私にとって自分で話題を探すというのはハードルが高い事だったのです。

―― で、でも…な、何か言わないと…須賀君が…!

そんな私に振り返る彼の表情はとても複雑なものでした。
期待しているような、それでいて不安が溢れそうな…矛盾したものだったのです。
私の言葉ひとつでどちらにも転びそうなその表情は、さっき私に告白したが故のものなのでしょう。
きっと彼は私から返事が貰えるのかもしれないと…そう内心、思っているのです。

―― …でも…私は勿論、そんな事出来なくて…。

少しは頭も回るようになりましたが、それは結局、問題の先送りをしているが故のものでしかないのです。
今の私は須賀君の告白に答えられる状態ではなく、そのつもりもありませんでした。
それなのに期待をもたせるだけもたせて、こうして黙っているのはあまりにも不誠実な状態でしょう。
けれど、ただ、彼と二人きりの時間がもう少しだけ欲しかっただけの私には…話題なんて… ――

「あ、あの…っ!今度…一緒に出かけませんか…?」
「え…?」

そう思った瞬間、私の口は勝手に動き出していました。
まるで須賀君と一緒にいたいという気持ちをそのまま顕にするそれに彼は驚いたように私を見つめます。
微かに目を見開いたそれに私は自分が口走ってしまった事の重要さを自覚しました。
だって…それは…半ば告白を受け入れるも同然の言葉なのですから。
告白されて…返事は良いと言ってくれた人に対して…デートに出かけるなんて…OKだと受け取られても仕方のないものでしょう。

「ち、違いますよ!こ、今回のお礼に色々としてあげなくちゃって思って…そ、それに…約束破ったお詫びだってしてもらわなきゃいけませんし!」
「そ、そうか。そうだよな…」

瞬間、耐え切れなくなった私の口からそんな言葉が漏れだしました。
必死になって須賀君の期待を打ち砕こうとする自分の言葉に内心、嫌気が沸き上がってきます。
しかし、気づいた頃にはもう遅く、須賀君は気落ちした様子でシュンと肩を落としました。
まるで希望が打ち砕かれたその様子に、私の胸は痛みますが、
けれど、勢いのまま口にしてしまった言葉をどう取り繕えば良いのか私には分かりません。
下手をすればさっきよりも傷つけてしまったであろう彼にどうフォローすれば良いのかなんてまったく思いつかないのです。

「あ…あの…」
「まぁ…それならそれで俺なりに頑張るだけだけどな」
「…え?」

それでも何とか彼を励まそうと声をかける私の前で彼はそっと顔をあげました。
その顔はまさにケロリとしたと言うものが相応しく、私は呆然としてしまいます。
一体、さっきまでの気落ちしていた姿は一体、何だったのか。
思わずそう思うほどのそのギャップに困惑で滞った私の理解は追いつかなかったのです。

「デートコースしっかり考えてくるからな!」
「で、デートありませんってば!」

それでもぐっと握り拳を作る須賀君に言い放つのは、半ば反射的なものでした。
私にだってそれがデートという意識くらいはあるのですから、ウソもいい所なのです。
しかし、長年、染み付いた可愛げのない性格がそうやって意地を張り、須賀君の言葉を否定しました。
けれど、彼はニヤニヤとその頬を緩めて、私のことを見返してくるだけなのです。

「もう…心配して損しました…!」

そんな彼に言い聞かせるように言いながらも、私は内心、胸を撫で下ろしていました。
だって、彼の様子は私の言葉にまったく傷ついていない事を知らせるものだったのですから。
いつも通りの冗談めいた明るいその仕草に頬を膨らませながらも、ついつい嬉しく思ってしまうのです。

―― 何より…関係が変わらないのが…嬉しかったです。

何だかんだ言いながらも、こういうやり取りを嫌ってはいないのでしょう。
だからこそ、告白しても関係そのものは変わらないんだと告げるようなその様子に、私は嬉しく思うのでした。
これなら…きっと…関係がどう転んでも大丈夫。
そう思いながら、私は浮かれる須賀君の代わりにそっと扉を開き、久しぶりの『日常』を謳歌したのでした。


……
…………
………………

今から思えば…全ての歯車はここから狂っていたのでしょう。
私がここでちゃんと自分と向き合っていれば…
或いは彼が必要以上に明るかった事をちゃんと考えていれば…後のすれ違いはなかったはずなのです。
けれど…当時の私にとって状況に流され過ぎないようにするのが精一杯で、他の事を考える余裕なんてありませんでした。
この当時に私にとって、後に大きな破滅が待っている事なんてまったく想像もしておらず…
ようやく帰ってきたその『日常』が永遠に続くと思っていたのです。

















―― 永遠に続く関係なんて…決してないと…分かっていたはずなのに。