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―― あの日から私の周りはほんの少し変わりました。

「原村さん、お疲れ様ー」
「えぇ、お疲れ様です」

あの日以来、こうして私に話しかけてくれる人というのは増えたのです。
それまでゆーき以外とろくに会話がなかった私にとって、それは微かな驚きでさえありました。
勿論、それはまだほんの数人 ―― クラスメイトの中の極一握りでしかありません。
しかし、それでもその変化は嬉しく、私の高校生活をより良いものにしてくれていました。

「原村さんはこれから旦那のお世話?」
「だ、旦那じゃありませんっ」

勿論、そうやってからかわれるのは須賀君の事です。
あの日の可愛い連呼はクラスにまで届いてしまったのでした。
お陰で学年でも公認のカップルになってしまった私たちを彼女たちはからかってくるのです。
それに顔を赤くして反応するのがいけないと思いつつもついついやってしまうのは、そういった冗談になれていない所為なのでしょう。

「ふふ。その割りには最近、随分と仲良さそうだけど」
「アツアツで羨ましいよねー」
「う、うぅ…し、知りませんったら」

からかってくる学友たちにぷいっと顔を背けながら、私は手に持つ箒をロッカーへと入れました。
そんな私の後ろで「かーわーいーいー」なんて声が聞こえてくるのを私は無視します。
一々、そんな言葉に反応していては、今の私の日常生活はままならないのですから。
麻雀を打っている時のような冷静さを常に維持するように心掛ければ、これくらい何ともありません。

「まぁ、後始末はうちらがやるし、早く部活行っといでよ」
「そうそう。旦那さんがきっと首を長くして待ってるからさ」
「ですが…」

お疲れ様とそう言葉を交わしたと言っても、まだ掃除は終わりきってはいません。
細々とした片付けというのはまだ残っているのです。
それが終わらない内に一人だけそそくさと出て行くのはあまり気分の良くないものでした。
例え部活があると言っても、ズルをしたような気になってしまうのです。

「何時も真面目にやってくれてるんだから、ちょっとくらい大丈夫だって」
「普段、数人分働いてるんだしさ」
「そう…ですか?」

とは言え、そこまで言ってくれるクラスメイトの気持ちを無碍にするのもなんとなく気が引けました。
普段から掃除をしている事に対しての慣れがある所為か割り当てられた作業が早く終わってしまうだけなのですが…それでも厚意は厚意です。
下手に謙虚になろうとせず、受け入れるのが良いでしょう。

「分かりました。では、お願いしますね」
「はーい」
「旦那さんによろしくねー」
「だ、だから、違いますって!!」

そんな風に言葉を交わしながら、私はカバンを掴み、教室から出ました。
向かう先はここからほんのすこし離れた旧校舎の屋根裏 ―― 麻雀部の部室です。
掃除当番だったので少し遅くなってしまいましたが、きっと今頃はそこにゆーきや須賀君がいる事でしょう。
そう思うとなんとなく足取りも軽く、心の中も浮かれるのが分かりました。

―― 別に…須賀君に会うのが楽しみだとかそういうんじゃありません。

勿論、クラスメイトと言うよりは身近ですし、心を許しているのもあるでしょう。
ですが、それはあくまでゆーきのものとは比べ物にならず、未だ身構える事もあるのでした。
特に旦那だの恋人だのとからかわれるようになってからはあまり人前で話したくはありません。
そんなところを見られれば、また噂になってしまうのが分かっているのですから。
せめて。不特定多数の相手がいる時には話しかけないで欲しいとそう思うのです。

「あれ?和じゃん」
「ぅ…」

しかし、そんな私の願いも虚しく、私はばったりと廊下で須賀君に出会ってしまいました。
その手に小さな袋を持っているのは恐らくゆーきから頼まれたタコスなのでしょう。
人の良い須賀君は良くゆーきに甘えられて、学食へとタコスを買いに走っているのでした。
きっと今もメンツが揃わない所為で暇だと言い出したゆーきに遣わされたのでしょう。

「こんなところで奇遇だな。これから部活か?」
「……」

そんな事を考えている間に須賀君は私の横へと立ち、気軽に話しかけてくれました。
まるで噂の事を気にしていないかのようなその姿に私は何を答えれば良いか分からなくなります。
勿論、普通に考えれば頷くべきですし、肯定の言葉ひとつでも返すべきなのでしょう。
しかし、未だに人通りの残る廊下で会話をしてしまったら、またどんな噂が出来上がるか分かりません。
それを思うとその当然のはずの反応さえ出来ず、私は無視するようにスタスタと歩き続けてしまいました。

―― あ…あわわ…ど、どうしたら…。

恐らく今の私は平静そのものの表情を取り繕う事が出来ているのでしょう。
ピクリともしない表情筋は私の自制心が無意味に強い事を教えてくれました。
しかし、その内心もまた穏やかかと言えば、決してそうではありません。
まったく予想だにしない出会いに狼狽し、返事を返せていない自分に困惑してしまうのです。

―― せ、せめて部室まで行けば…。

部室まで行けば、私と須賀君が話したところでからかう人なんていません。
ゆーきはそんな噂に危機感を覚えている側ですし、先輩二人の耳にまで届くほど大規模なものではないのですから。
ですが、未だ校内という状況で須賀君と話すなんてやっぱり出来ず、私は決して褒められない態度を取り続けてしまいます。

「のーどーかー?」
「…ぅ」

そんな私の態度に須賀君はこっちの顔を伺うようにそう言いました。
その表情には特に傷ついた様子も怒っている様子もありません。
私がこうして頑なな態度を取るのは別にこれが最初ではないのでもう慣れてしまったのでしょう。
実際、メールのやり取りそのものは一日に数回程度ですがやっていますし、以前のように心配させてはいないはずです。

「のどかわいい」
「ひゃぅっ!」

そんな事を考えている間に須賀君は焦れ切ってしまったようです。
訳の分からない新しい言葉を放ちながら、私の横でぐっと握り拳を作りました。
まるで力説しているようなその姿に周囲から視線が集まっていくのが分かります。

「必死になって平静を取り繕う和が可愛い」
「わ、分かりましたから!分かりましたからもう止めて下さい!!」

そんな須賀君の意図を察した私は狼狽を見せながらそう答えます。
恐らくその顔はもう真っ赤になって見れたものではないのでしょう。
さっき平静を取り繕えていた私からは想像も出来ないその姿に内心、自嘲が飛び出します。
しかし、やっぱり横で可愛いと連呼されるのは気恥ずかしく…何とも胸の中がムズムズするのでした。

「まったく…な、何を考えてるんですか」
「俺を無視する和に構ってもらう方法?」
「ぅ…」

遠回しに私の態度の悪さを指摘する須賀君に私は何も言えなくなってしまいます。
そもそもヤリ方はおかしいとは言え、最初に須賀君を蔑ろにしたのは私の方なのですから。
それに対して須賀君が起こしたリアクションに、私は強く打って出る事は出来ません。
そもそも悪いのは最初に無視した私であるのは自分にだって分かっているのです。

「…須賀君は周りの事気にならないんですか?」
「周りって?」
「その…夫婦とか恋人とか言われてるじゃないですか」

そうやってからかわれているのは別に私だけではありません。
須賀君の男友達もまたからかい混じりにそう言っているのです。
それに関して須賀君が不快そうな反応は ―― 少なくとも私が見ている中では ―― ありません。
勿論、私もそうやってからかわれるのが100%嫌な訳ではありませんが…ま、まぁ、それはさておき。
ともかく…彼もまたそれに嫌がってはいなくとも、そろそろ霹靂しているのではとそう思ったのです。

「別に気にした事ないな。寧ろ、和相手だったら光栄な話だし」
「ふぇ!?」

そんな私に答える須賀君の声はあっけらかんとしていました。
まるでそんな事欠片もないのだと言うようなそれに私の方が驚いてしまいます。
けれど、それ以上に私の胸を支配していたのは、何とも言えない恥ずかしさでした。
言外に私を持ち上げるそれに私の肌が紅潮し、熱を強くするのが分かるほどの。

「それとも本当に付き合うか?」
「ばっ馬鹿な事言わないでください!」

幾ら何でもこのタイミングでのそれは不躾過ぎます。
告白めいたその言葉は明らかにからかっているのが分かるものなのですから。
どうせならもっとロマンちっくなタイミングで言って欲しいと私は…お、思ってません。
まったく思ってませんが、しかし、その…なんというか…凄い悔しかったのです。

「はは。でも、周りに振り回されて生き方変えるのなんて窮屈だろ?」

そんな私の姿を爽やかに笑いながら、須賀君はポツリとそう漏らしました。
何処か実感を伴ったそれは彼がそうやって振り回された事があるのを私に伝えます。
見るからに軽く、こうして女性慣れもしているとは言え、須賀君も苦労していなかった訳ではないのでしょう。
それを思わせる言葉に胸が疼くのを感じながら、私はそっと視線を背けました。

「だ、だからって須賀君は周りのことを気にしなさすぎです」
「俺は和が気にし過ぎだと思うけどな」

真っ向から対立するその意見は価値観の違いからでしょう。
とは言え…私は須賀君の言っている事も正直、分からないでもありませんでした。
少なくとも周りのことを気にして話しかけてくれたクラスメイトを無視するのはあまりにもやりすぎです。
幾ら理由があるとは言え、彼が傷ついてもおかしくはないものなのですから。

「どうせ何やってもからかわれるんだからいつも通りで良いんだって」
「そう…なんでしょうか…?」

ですが、それでも私は須賀くんの言葉に素直な同意を返す事は出来ませんでした。
こういった状況にも慣れているらしい須賀君とは違い、私にとって今の状況は初めてなのですから。
これまで女子校育ちで、ゆーきと一緒に過ごしていた私には異性の噂なんてたった事がありません。
その対処の仕方も知らない私にとって、気安くクラスメイトが話しかけてくれるようになったのは嬉しいですが、
どうすれば良いのか分からないのが本音でした。

「まぁ、和が本気で嫌なんだったら距離も置くけどさ」
「それは…」

とは言え、それも正直、頷き難いものでした。
勿論、私の希望を叶える為にはそれが一番である事くらい分かっているのです。
しかし、こうして気軽に私に話しかけてくれる須賀君の姿が見れなくなると思うのは…やっぱり寂しいものでした。
何だかんだ言いつつも、私は普通の部活仲間程度には須賀君に心を許し始めているのでしょう。

「そ、そのままで…良いです…」

そんな私が選びとったのは現状維持の言葉でした。
不慣れな状況と須賀君とのコミュニケーションを天秤に掛け、後者を選んだのです。
しかし、それは私にとって驚きを感じるものでした。
あれほどまでに周囲の様子を気にしていた私が、須賀君に振り回される事を選んだのですから当然でしょう。

「で、でも…これからもあんな風な態度を取るかもしれませんから…」
「分かった。その時はまた可愛いって言うよ」
「ど、どうしてそうなるんですかぁ!?」

キリリと表情を引き締めながらの須賀君の言葉に私は思わずそう返します。
何せ、それはまったく私の意図しないものだったのですから。
例え、それがからかい混じりのものであったとしても、この文脈でどうしてそうなるのかと言いたくなるのです。

「でも、別に可愛いって言ったのは今回だけの話じゃないし」
「ぅ…そ、それは…」

にやついた笑みを浮かべる須賀君に私は言葉を詰まらせました。
確かに須賀君の言う通り、私が可愛いと言われたのは一度や二度ではないのです。
いえ、あの廊下での騒動以来、人前で須賀君を無視するようになった私はほぼ毎日、言われていると言っても過言ではありません。

「それなのに俺を無視するだなんて…実は和は言われたがってるとか?」
「そっそんなオカルトあり得ません!」

からかうような須賀君の言葉に私は大きく口を開きながらそう放ちました。
まるで叫ぶようなそれは廊下に響き、何人かの生徒がこちらに視線を向けます。
それを数秒ほど遅れて自覚した私の頬はぼっと熱くなり、居心地悪そうにそっと肩を縮めさせるのでした。

「なんだ。結構、期待したのにな」
「ぅぅ…またそんな事言って…」
「嫌、コレは割りとマジな話で」

そうあっけらかんと口にする須賀君は本気で言っているようには見えません。
その表情には失望も何もなくごく普通にしているのですから。
しかし、かと言ってからかうようなものはなく、冗談とも思えません。
そんな私の前で須賀君はゆっくりと口を開き、その心を吐露してくれました。

「和も俺と仲良くなりたいって思っててくれるんだってそう思ったからさ」
「そ、それは…」

勿論、私も本心ではそう思っています。
べ、別にそれは異性としての好きとかそういうんじゃありません。
やっぱり部活の雰囲気が悪くなるのは見過ごせませんし、ゆーきの心労だって気になります。
それに…須賀君はクラスメイトですし…仲良くしておくに越した事はないでしょう。
けれど、それらを口にするには私の態度はあまりにもひどく、須賀君には伝わっていないのです。

―― 実際…話しかけて無視して言える話ではないですよね。

ついさっきも見せた私の醜態。
それを見て傷ついた様子はなくとも、彼に誤解を与えてしまった可能性は大いにあるのです。
と言うか…普通に考えれば、誰だって鬱陶しがられていると思う事でしょう。
それでも尚、私へと話しかけてくれる須賀君のタフネスさが異常なのです。

―― でも…それだって何時まで続くか分かりません…。

その須賀くんのタフネスさだって永遠に続くものではないのです。
少なくとも今のような態度を取り続けていれば、きっといつかは見限られてしまうでしょう。
それを思うと妙なもの寂しさが胸を塗り、落ち着きがなくなってしまいます。
恐らく…私は思った以上に、須賀君の事を信頼し始めているのでしょう。

―― それなら…今こそ勇気の出しどころですよ…原村和…!

丁度、こうして話の流れが来たのですから、後はそれを掴むだけ。
そう自分を叱咤しながら、私は拳に力を込めました。
微かに爪が手のひらに食い込むその痛みに、私の心は固まっていきます。
さぁ、今こそ勇気を出して可愛いと言って欲しいと言うべき時… ――

「って…な、何で可愛い言う言わないからそんな話になるんですか!?」
「チッ…もう少しだったのに」

そこでようやく論点がズラされている事に気づいた私の横で須賀君が明らかに舌打ちをしました。
まったく悪びれないその様子に私は、須賀君がからかっていたのに気づきます。
それに直前まで気付けなかった自分への気恥ずかしさと悔しさに顔が赤くなるのを感じながら、私は下手人である彼をきっと睨めつけました。

「すーがーくーんー?」
「テヘペロ」

悔しさ混じりの私の声に須賀君はまったく悪びれずそう言葉を紡ぎました。
それにさえまったく悪びれることなく冗談めかして返す彼に私はそっと肩を落とします。
完全にノセられる直前だっただけに何を言っても自分の中で悔し紛れにしか思えません。
怒れば怒るほど惨めになるという不思議な状況に私は小さくため息を漏らしました。

「まぁ、でも、俺が和と仲良くしたいのは本当なんだぜ?」
「信じられません」

付け加えるように言う須賀君の言葉は多分、本当のものなのでしょう。
そうやって彼が私と仲良くしたいというのは何もこれが初めてのものではないのですから。
とは言え、さっきの悔しさが未だ尾を引く私にはそれを素直に頷いてあげる気にはなれません。
分かっているのについつい意地を張って、ぷいっと顔を背けてしまうのです。

「じゃあ、どうしたら信じてくれる?」
「それは…」

そんな私が追い打ちをかけるような須賀くんの言葉に即答出来ないのもある種、当然の事でしょう。
だって、私は須賀君の言葉を本心では信じているのですから。
それをこうして条件に出されても、どう答えればいいのか分からなくなってしまうのです。

「毎日愛を囁けば良いのか?」
「止めて下さい」

とは言え、流石にそれは全力で遠慮したいです。
別に須賀君の事が嫌いという訳ではありませんが、愛を囁かれるような仲ではないのですから。
決して興味が無いとは言いませんが、毎日、進んで聞きたいとは到底、思えません。

「ちぇー」
「ちぇーじゃありませんよ、もう…」

そんな私の前で子どものように拗ねた声をあげながら、私たちは校舎から外に出ました。
外ではもう運動部が部活を始め、景気のいい掛け声が聞こえてきます。
それをBGMに旧校舎へと向かう私の横で須賀君はクスリと笑い、その表情をあっけらかんとしたものに変えました。

「ま…こうして掛け合いが出来るだけで今は満足しとくさ」
「…今は…ですか?」

まるでその先があるような須賀君の言葉に私はそう聞き返しました。
勿論、私だって今の状況に100%満足しているかと言えば、否です。
アドレスも交換してメールも交わすようになりましたが…私ももうちょっと彼と仲良くなりたいのですから。
ゆーきと同じくらい…とは言えなくても、普通に男友達と言えるくらいに仲を深めたい気持ちはありました。

「とりあえず当面は恋人同士が目標かな?」
「え…?」

瞬間、聞こえてきたその声に私は思わず足を止めて、須賀君の顔を見つめました。
そこは微かに朱色が混ざり、気恥ずかしそうにしている彼の表情があります。
あの日、家へと送ってくれた時と似たようなその顔に私はなんと言えば良いのか分かりません。
何か言わなければいけないのに、けれど、その言葉がまったく出なくて、身体を硬直させてしまうのです。

「は、はは。でも、俺なんかじゃ和の恋人には役者不足かな」
「そ、そんな事…」

そんな私の前で気まずそうに笑う須賀君の言葉を私は反射的に否定しようとしました。
私はそれほど素晴らしい女性という訳でもありませんし、そして須賀君はそうやって卑下するような男性でもないのです。
誰とも仲良くなれるその気質はきっと得がたいものであり、また人のために動く事を苦に思わない優しい人なのですから。
普段、冗談ばかり言っているのは減点ですが、
しかし、彼がふざけてばかりいるような人ではないのはこの前、助けられた時に分かっています。
今の私にとって『人情味あふれる暖かな人物』として映る彼が自分に相応しくないとは到底、思えませんでした。

「…わ、私…は…」
「こおおおらああああああ!」

それを口にしようとした瞬間、聞き慣れた声が私の鼓膜を打ちました。
反射的にそちらに目を向ければ、そこにはこちらに全力で走ってくるゆーきの姿があります。
私よりもさらに小柄な身体を精一杯動かすようにして走るそれは普通であれば可愛らしく映るものでしょう。
しかし、その顔は鬼気迫るものが混じり、彼女が平静ではないのを私達へと伝えました。

「またのどちゃんを困らせてたな!!」
「あー…まぁ、そうかもな」

そのまま私達の傍へと到達したゆーきはそのままビシッと須賀君に指を指しながらそう言います。
行儀の悪いそれに、しかし、須賀君は咎めもせずに認めました。
けれど…私は別に困ってなどおらず、大事なことを伝えようとしていただけなのです。

「ほうほう。随分と殊勝な態度じゃないか」
「だろ?だから、お沙汰の方は寛大なものを…」
「だが、断る」
「何…!?」
「この片岡優希の最も好きな事の一つは京太郎にNOと言ってやる事だじぇ!」
「俺限定じゃねぇか畜生!!」

しかし、それを伝える前に二人はじゃれあいのようなやり取りへと移ります。
まるでさっきのそれが嘘のようなそれに私は小さな胸の痛みを覚えました。
それはきっと私が一人この状況に置いてけぼりにされているとそう思ったからなのでしょう。
ですが、そうわかりつつも、仲の良い二人の間に割って入る事は出来ず、オロオロと狼狽するだけでした。

「まったく…京太郎は目を話すとすぐこれだ。まるで発情期の犬だじぇ」
「流石にその表現には異を唱えたい」
「うるさいじぇ、犬」
「くっそ!じゃあ、お前はタコスだな!やーい!タコスー!」
「…タコスかぁ…」
「いや、悩むなよそこで」

少し前はそんなやり取りも微笑ましく見れたのでしょう。
或いは須賀君にストレートに嫉妬するだけで済んだはずです。
しかし、今の私にとって二人は仲の良い相手である所為か、どうにも複雑な気持ちで胸がいっぱいになり整理出来ません。

「っと、のどちゃん!犬に何もされなかったか!?」
「お前、まだそれを引っ張るのか」
「…私は大丈夫ですよ」

そう言葉を返す私の胸に突き刺さったチクリとした感触。
それを取り去ろうとするように胸に手を当てました。
しかし、複雑な感情の中に突き刺さったその痛みはどうしても取り去る事が出来ません。
それに胸中で一つため息を漏らしながら、私はゆーきに向かって口を開きました。

「でも、ゆーきはどうしてここに?」
「京太郎が遅いから心配になってやってきた。でも、のどちゃん口説いてて腹がたった」
「ってゆーき…聞こえてたんですか?」
「え?本気で口説いてたの!?」

そこで驚きの声をあげるゆーきの前で須賀君がそっと目をそらしました。
明らかに気まずそうな彼にゆーきのジト目が突き刺さります。
瞬間、彼は誤魔化すように口笛を吹き始めますが、ゆーきの視線は止みません。
そんな状態のまま数秒ほど見つめた後、ゆーきはそっとため息を吐きました。

「まぁ、その調子じゃ振られたんだろうけれど」
「ぐっ…まさにその通りなだけに言い返せねぇ…」
「いや…あの…」

振られたというか、私が返事をする前にゆーきが来てしまったので有耶無耶になってしまっただけ。
そう言おうとしながらも私の口からそれが言葉として出る事はありませんでした。
何だかんだ言ってそれはもう過去の話題ですし、何よりそうやって有耶無耶になった方が有難いというのも私の中に確かにあったのですから。

「それより早く部活だ!染谷先輩が首を長くして待ってるじぇ」
「っと…こら、引っ張るなって」
「ちゃんと繋いどかないと心配だから仕方ないじぇ!」
「あ…」

そう言いながらゆーきは須賀君の手を繋いでぐいぐいと引っ張ります。
何処か怒っているようなそれに私も須賀君も何も言えません。
そんな沈黙も旧校舎に入れば、なくなりました。
それまで無言で彼を引っ張っていたゆーきから少しずつ言葉が漏れるようになったのです。
彼女はあんまり根に持たないタイプなので少しずつ怒りも削げていったのでしょう。
それに内心、安堵しながら、私たちは雑談を交わしながら、麻雀部へとたどり着きました。

「ただいまだじぇー」
「すみません。遅くなりました」
「遅れてすみません」
「ぉー待っとったぞ」

三者三様の言葉をおおらかに受け止めながら、染谷先輩は私達を卓へと手招きします。
部長さんの姿はまだ見えないので一人で暇していたのでしょう。
そんな先輩の姿に胸中で一つ謝罪しながら、私は全員分のお茶を入れに向かいます。
それから四人揃った卓でいつも通りの麻雀部の活動が始まったのでした。

……
…………
………………

それからの日常は特に大した変化はありませんでした。
須賀君は相変わらず私に可愛いと言ってきますし、クラスメイトたちもそんな私達をからかってくるのです。
けれど、人間はやっぱり慣れる生き物なのでしょう。
そうやって過ごす日常が少しずつ嫌ではなくなっていました。
流石に須賀君のように軽く返せるような領域には程遠いですが、受け流せるようになってきたのです。

―― それが進歩と言えるかどうかは疑問ですが…。

しかし、そうやって受け流せるようになると須賀君の言っていた意味が少しずつ分かってきました。
確かに一々、そんな事を気にしていて距離を取っていたら、正直、身が持ちません。
クラスメイトたちも私達が本気で付き合っているだなんて誰も思っていないのですから。
精々が仲の良い友人程度であって、放っておけば適当に鎮火するレベルのものだったのでしょう。
だからこそ、今の私にとって問題なのはそんな事ではなく… ――

「…!!」

ここ数日間、下校途中、ゆーきと別れてから私は妙な視線を感じるようになりました。
主に後ろから注がれるそれに振り返っても、誰の姿もありません。
しかし、そのねっとりとした視線は服の上からでもはっきりと分かるくらいに気持ち悪いものでした。
初日こそ気のせいだと思いましたが、こう何日も続くと疑う余地はありません。
私は今、明らかに誰かに見られているのでしょう。

―― …どうして…?

それが決して好意的なものではない事くらい私にだって分かっていました。
けれど、それが一体、どうして自分に向けられているのかなんてまったく検討もつきません。
この数日間の間に私は自分の生活を何か改めた訳ではなく、接する人々も同じままなのですから。
交友関係の狭い私にとって、突如として生まれたその変化の原因ははどうしても分からず、首を傾げるものでした。

―― とにかく…早く帰りましょう…。

例え理由が分からなくても、気持ち悪いものは気持ち悪いです。
そう思った私は駆け足気味に足を早め、帰宅を急ぎました。
しかし、それでも妙な視線はずっと私の後ろへと付き続け、不快感を与えてくるのです。
それから逃げるように走りたいのを堪えながら、私は自宅へとたどり着きました。

「…はぁ…」

そのまま自宅前の階段を上がり、扉の内側へと身体を滑りこませながら、私は一つため息を吐きました。
こうした逃亡劇はここ数日間続いているとは言え、正直、生きた心地がしません。
自宅へと入る時に襲われてしまったらどうしよう、という不安は毎回、私の心臓を襲うのですから。
しかし、私の監視者はそういった実力行使に出るつもりはないのか、今のところ、私を見るだけでした。

―― やっぱり…ゆーきに相談した方が…。

そう思ったのは決して今日が初めてではありません。
謎の視線に気づいてからほぼ毎日、思っていた事であったのです。
しかし、気が強く、活発な彼女に相談すれば、きっとゆーきは自分で犯人を捕まえようと無茶をする事でしょう。
それを思えば、中々、相談する事は出来ず、私は一人でそれを抱え込んでいました。

―― …両親にはさらに言えませんし…。

年度初めの今は色々とトラブルも多く、検事と弁護士の両親は引っ張りだこなのです。
最近は帰ってこない日も多く、帰ってくる日も午前様になっているのが殆どでした。
日頃よりもさらに多忙に過ごす両親にこの事を言っても、心配させてしまうだけでしょう。

―― …せめて家に居てくれれば…。

多少は安心する事は出来るでしょう。
しかし、現実、多忙な両親にそれは難しいのは目に見えていました。
二人だって決して好き好んで仕事に忙殺されている訳ではないのは知っているのですから。
だからこそ、私は二人に余計な心配を掛けない為にもそれをそっと自分の胸の内に仕舞い込んでいました。

―― …本当…どうしましょう…。

これがまだ明らかな悪意があって襲い掛かってくるものであれば、私もすぐさま警察に相談する事が出来たでしょう。
しかし、今現在は監視するだけであって、特にそのようなものを加える様子はありません。
もしかしたら私の自意識過剰かもしれないそれで警察に相談する事なんて出来ませんでした。
もし、それが私の思い違いであった場合、醜聞となって襲い掛かるのは私だけではなく、
普通よりも責任ある職業に就いている両親もなのですから。
それを思うと、結局、我慢する道が最良に思えてしまうのです。

「…はぁ…って…あれ?」

それにため息を吐きながら、玄関内側のポストを開けた瞬間、白い封筒がありました。
宛名も切手もないそれにはただ一言、『原村和へ』とだけ書かれています。
朝に確認した時にはそんなものはなかったので、私が学校へ行っている間に誰かが自分で入れたのでしょう。
しかし、郵便システムが全国的に網羅された今、そんな事をする必要があるとは思えず、私はそれに気味悪さを感じていました。

―― でも…開けない訳には行かないですよね…。

それが急ぎの手紙で郵便局に預ける暇すら惜しいものだという可能性もあるのです。
勿論、携帯がこれだけ普及した今、そんな事はまずないのだと私にも分かっていました。
けれど、可能性がある以上、それを無碍に扱うわけにもいきません。
そう自分に言い聞かせながら、私は玄関に置いてあるレターナイフを使い。それを慎重に開けていきます。

―― …手紙と…写真?

そのままそっと覗き込めば中には手紙と写真らしきものが見えました。
その内、手紙を引き出して開けばそこには簡潔な文章が書かれています。
まったく何の挨拶もなく、ただ自分の要件だけを告げるそれは… ――

―― 須賀京太郎は君には相応しくない。即刻別れろ。

警告するようなその言葉はパソコンで印字されています。
まるで自分の筆跡を隠そうとするようなそれは私に危機感を与えませんでした。
それは恐らくその無味乾燥な文章に現実感が伴っていないからなのでしょう。
その文章の意味は勿論、理解していましたが、一体、何を言いたいか分からないものだったのです。

―― だからこそ、手紙の奥からそれが出てきた時、私は強い衝撃を受けました。

「ひっ」

思わずそう悲鳴をあげるのは疑問に思った私が傾けた手紙の奥から写真が出てきたからです。
それは恐らく何の変哲もない日常を切り取った一枚の写真だったのでしょう。
しかし、それはもう判別がつかないくらいにバラバラにされており、この手紙の主が被写体に強い敵意を持っている事を教えました。
いえ…それはもう敵意というよりは殺意に近いものなのでしょう。
並の敵意であれば、こんなにも執拗に写真を切り刻んだりしないのですから。

―― け、警察に連絡しないと…。

私ではない人に凄まじい怨念を向ける手紙の主。
それが私を監視している誰かと関係しているのかは私には分かりません。
しかし、ここまでエスカレートした以上、放っておく訳にはいかないのです。
だって、その写真に映っていたのは私ではなく… ――

「須賀君…」

恐らく…元は何時ものあっけらかんとした表情を浮かべていたのであろう写真。
しかし、それはもう無残にバラバラにされ、その面影を感じる事さえ出来ません。
まるで警告に従わなければ須賀君がこうなるのだと教えるようなそれに私はブルリと震えます。
いきなり底知れぬ敵意を知った恐怖に私は完全に怯えていました。
正直、どうすれば良いのか分からず、その場に蹲ってしまいたくなるくらいです。

―― でも…私…!

この手紙の主がどういうつもりなのかは分かりませんが、到底、普通の相手とは言えないでしょう。
そんな誰かの手から須賀君を護れるのは彼が敵意を向けられている事実を知った私だけなのです。
そう思ったら…玄関先で蹲っていられません。
少なくともこの異常な状態を警察に伝えなければいけない。
そう自分を叱咤しながら、私はカバンから携帯を取り出し、警察へと連絡を取るのでした。

―― 警察が市民の味方なんて言うのは大嘘なのだと私は昨日、悟りました。

あの手紙から急いで警察へと連絡したのですが、彼らはマトモにとりあってはくれません。
どれだけ必死に訴えても、それだけで捜査したりは出来ないという一点張りでした。
一応、付近のパトロールを強化するとは言ってくれましたが、それで事件が未然に防げるなら世界はもっと平和になっているでしょう。
父が日頃、「警察は事件が起きてからが仕事」」とぼやいていた気持ちが今の私にはよく分かります。

―― 私よりも…危ないのは須賀君の方かもしれないのに…。

勿論、そうやって私を護る為に少しでも動いてくれるのは有難い話です。
しかし、明らかな敵意を向けられているのは私ではなく、須賀君の方なのですから。
その為にも何とか捜査して欲しかったのですが、結局、私にはその言葉を引き出す事は出来ませんでした。

「はぁ…」
「…どうしたんだ?」

それに思わずため息を吐いてしまう私の横でゆーきが心配そうにそう言ってくれました。
放課後になるまでもう何回もため息を吐いている私の様子が変なのはゆーきも気づいてくれているのでしょう。
こうして私の事を心配してくれる言葉も今日何度目かのものでした。

―― いっそ…全てを打ち明けてしまいましょうか…。

警察があてにならない以上、須賀君た自分の身を護る為には自分の手でなんとかしなければいけません。
しかし、それは一人では到底、出来ないものなのです。
私は所詮、つい一ヶ月前高校生になったばかりの子どもに過ぎず、また運動だって得意ではないのですから。
こういった事に対処する知識もない以上、誰かの手を借りるのが一番です。

―― きっとゆーきは…言えば助けてくれる事でしょう。

そんな私にとって一番の友人と言っても良い彼女に話せば、きっと一も二もなく助けてくれるのは分かっていました。
しかし、それはゆーきを事件に巻き込むという選択肢である事を思えば、中々、思い切る事は出来ません。
もし、ゆーきが怪我でもしてしまった日には悔やんでも悔やみきれない事になるのですから。

「…何でもありません」
「そっか…」

結局、私がたどり着いた答えはゆーきの心遣いを無駄にするものでした。
それにゆーきが寂しそうに返事を返すのは私が決してなんでもないような状態ではない事を理解しているからなのでしょう。
けれど、やっぱりゆーきをこの事件に巻き込みたくはありません。
小柄で快活な彼女はそういう事に無縁であって欲しいのです。

―― でも…どうしましょう…。

友人と言える人がゆーき以外に殆どいない私にとってそれは答えの出ないものでした。
一人ではどうにも出来ない以上、誰かの手を借りなければいけないのですが、それを頼めるような相手なんてゆーき以外に思いつきません。
そして、そのゆーきの協力を自分自身で拒んでいる私にとって、その思考は袋小路にも近いものでした。

「あれ?二人ともどうしたんだ?」
「えっ…」

そんな私達に話しかけてきてくれたのは、不思議そうな顔をした須賀君でした。
その手にゴミ袋を持っている辺りから察するにもう掃除当番の仕事は終わらせたのでしょう。
軽そうな外見とは裏腹に真面目な須賀君はちゃっちゃと掃除を終わらせるタイプなのですから。
学食でタコスを注文し、それが焼きあがるのを待っていた私達に追いつくのはそう難しい事ではありません。

「やけに暗い顔してるけど…なんかあったのか?」
「それは…」

気安くそう尋ねる須賀君に私は言葉を詰まらせました。
当事者に近い立場にいる須賀君にはあの脅迫状の事を話しておいた方が良いかもしれないと思ったのです。
しかし、近くにゆーきがいる以上、そんな真似は出来ません。
自分にだけ悩みを打ち明けられず、須賀君にだけ打ち明けるのは仲間はずれにするのも同然なのですから。
例え、仕方ない理由があったとしても、それを納得して受け入れるのは難しいでしょう。

「…何でもないじぇ。それより京太郎はゴミ出しか?」
「あぁ。焼却所は旧校舎に近いし」

かと言って、部活のついでに出して来ると言える人がどれだけいるでしょうか。
例え一日にも満たない間とは言え、30人以上のゴミが入ったその袋はそれなりに重いのです。
それを掃除当番の度に運ぶのは、あんまりやりたくないとは言えません。
しかし、そういう嫌な部分を進んで引き受けられるマメな部分があるからこそ須賀君は人に好かれるのでしょう。

「ま…食べ物の近くにゴミがあるのはいい気分じゃないだろうし先に…」
「あ…ま、待って下さい!」
「ん?」

いつも通りおやつ分のタコスが入った袋を持つゆーきに気を遣ったのでしょう。
須賀君はそう言いながら足を早めて、私達を追い抜こうとしました。
その背中に思わず声を掛けて呼び止めれば、須賀君とゆーきが不思議そうな顔をします。
それに私は自分が普段よりもはるかに強い語気の篭った言葉で須賀君を呼び止めた事を自覚しました。
瞬間、頬が朱を差し、気恥ずかしさが湧き上がっていく中で、私はぼそぼそと口を開くのです。

「あ、あの…話があるので…須賀君と一緒に行っても良いですか?」
「俺は構わないけど…」

そう言って須賀君がチラリとゆーきに視線を向けました。
何処かその表情を伺うようなそれは私達の仲たがいを心配してくれているのでしょう。
基本的にゆーきと一緒にいる私がいきなりそんな事を言い出したのですから当然です。
ましてや、須賀君の言葉を借りれば、二人共暗い顔をしていたのですからなおさらでしょう。

「犬がのどちゃんにセクハラしないか心配だけど…」
「まだそのネタ引っ張るのか、お前は」

そんな須賀君に視線を返すゆーきの表情は明るいものでした。
普段とさほど大差ないそれは、恐らく意識して浮かべているものなのでしょう。
その声の微かなですが、はっきりと上擦っており、彼女の動揺を伝えていたのですから。
それに胸が鈍痛を訴えますが、やっぱりゆーきは巻き込めません。
長野で唯一の友人と言っても良い彼女だからこそ、私はどうしても言えなかったのです。

「ま、ゴミの匂いがタコスに移っちゃうのも嫌だし、私は先に行くじぇ」
「…ごめんなさい」
「気にする必要はないじぇ!あ、でも、京太郎にセクハラされたらすぐに言うんだじょ」
「しねぇよ」

そう言って駆け出すゆーきの背中はすぐさま小さくなって行きました。
そんな背中に心の中で何度も謝罪の言葉を紡ぎますが、それが彼女に届く事なんてありません。
言葉にしたって100%伝えられるか分からないそれを黙っていて理解出来るなんてオカルトありえないのですから。
しかし、それでも疼く胸の痛みには耐えられず、私は何度も胸中で彼女に謝罪を繰り返しました。

「…で、随分と深刻そうだけど…どうしたんだ?」
「それは…」

ゆーきが消えてから私へと向き直る須賀君の表情は心配そうなものに溢れていました。
それはもう仲違いを心配するものではなく、私の状況を案じるものへと変わっています。
恐らく、さっきのゆーきの姿から仲違いしていた訳ではない事を悟ってくれたのでしょう。
そんな須賀君の前で私は大きく深呼吸してから、ゆっくりと家を開きました。

「…で、随分と深刻そうだけど…どうしたんだ?」
「それは…」

ゆーきが消えてから私へと向き直る須賀君の表情は心配そうなものに溢れていました。
それはもう仲違いを心配するものではなく、私の状況を案じるものへと変わっています。
恐らく、さっきのゆーきの姿から仲違いしていた訳ではない事を悟ってくれたのでしょう。
そんな須賀君の前で私は大きく深呼吸してから、ゆっくりと口を開きました。

「あの…まずはこの手紙を見てもらえますか?」
「手紙…?」

そう言って私がカバンから出したのは透明な袋に包まれた例の手紙でした。
朧気な知識からそれが証拠になるかもしれないと思った私は出来るだけ指紋がつかないように袋に入れて保存していたのです。
それをこうして学校へと持ってきていたのは、何だかんだでゆーきに頼りたい気持ちがあったからなのでしょう。
その気持ちをもう過ぎたことだと振り払いながら、私は須賀君にそれを手渡しました。

「…なんだこれ?」

それに対する須賀君の反応は呆れに近いものでした。
恐らく彼もまた私と同じように現実感が湧いていないのでしょう。
特に須賀君の場合、視線を感じたりした訳ではないのですから尚更です。

「昨日…その手紙にバラバラになった須賀君の写真が同封されてました」
「え…?」

しかし、それは紛れもなく害になりえるもの。
それを伝える私の声に須賀君は驚いた声をあげました。
そのまま私の顔と手紙を数秒ほど見つめる彼は恐らくまだ信じる事が出来ていないのでしょう。
私も逆の立場であれば、すぐさま鵜呑みにする事なんて出来ません。

「…マジか?」
「本当です。流石に現物は手元にはありませんけれど…」

信じられないように口にする須賀君の前で私は小さく頷きました。
手紙とは違い、事情を説明するのに必要ない写真は家の中に置いてあり、手元にはありません。
しかし、それでも彼は私の荒唐無稽な話を信じてくれたのでしょう。
一つ頷いた彼はさっきよりも強い感情をその目に浮かべながら、口を開きました。

「和は大丈夫なのか?」
「えっ…?」
「だって、これストーカーだろ?」

そう心配そうに尋ねる須賀君は狙われているのが怖くないのでしょうか。
本来ならば、私よりも彼の方が危ない立場なのです。
明確な害意を向けられているのは私ではなく、須賀君の方なのですから。
まず気を配るべきは私の事ではなく、自身の安全のはずです。

「何か周りでおかしな事とかないか?誰かに見られたり、勝手に家の中の配置が変わっていたり…」

しかし、須賀君はそんな私の考えがまったく通用しない相手のようです。
困惑する私の前で真摯に聞いてくるその表情は、とても心配そうなものでした。
まるで自分よりも私の方が大事だと言うようなそれに私の胸が小さく疼き、締め付けるような痛みを覚えます。

「和?」
「あ、いえ…ごめんなさい。最近…変な視線は感じます」
「って事は…ほぼ間違いなくストーカーなんだな」

そう答える私の前で須賀君が小さく頷きながら、ぐっと歯を食いしばります。
その表情は普段の明るく朗らかな彼からは想像も出来ないくらい厳しいものでした。
まるで心の内側から湧き上がる怒りを抑えようとしているようにも感じるその姿に私は思わず…口を開いてしまいます。

「あの…怖くないんですか?」
「え…?何がだ?」
「狙われているのは須賀君の方なんですよ?」

勿論、そうやって私のことを心配したり、私の代わりに怒ってくれるのは嬉しいです。
ですが、私にとってはそれ以上に今現在危機にさらされているかもしれない須賀君の方が心配でした。
嬉しいのは嬉しいのですが、もうちょっと自分の身を顧みて欲しい。
そう思っての言葉に須賀君はキョトンと不思議そうな顔をしました。

「いや、狙われてるのは俺じゃなくて和だろ」
「いえ…でも…」
「勿論、和が嘘を吐いてるなんて思ってねぇよ。ただ…この文面だと俺は最悪、和と距離を取れば逃げられる」

そう冷静に分析するような声は…微かに震えていました。
恐怖ではなく怒りを込めるそれは須賀君が感じているその感情がとても大きなものである事を感じさせます。
今にもそれをぐしゃぐしゃにしたいのを堪えるようなそれを抑えるように須賀君は大きく深呼吸しながら、再び言葉を紡ぎ始めました。

「でも、コイツがストーカーだとしたら、和が逃げるのは難しい。だから、ここで心配するべきは俺じゃなくて和の方だ」

きっぱりとそう告げる言葉は多分、私よりも幾分、冷静なものなのでしょう。
怒りに震えていると言っても、その言葉は私よりも論理的でしっかりとしたものでした。
逆に自分が平静ではなかった事を思い知らされるそれに私は微かな感心を覚えます。
ですが、同時にこの得体のしれない相手から逃げられないという恐怖を突きつけられ、私の肩が小さく震えました。

「っと…悪い…。またデリカシーがなかったな」
「いえ…須賀君の言葉は事実でしたし…」

何より、私はそんな当たり前の事すら気づく事が出来なかったのです。
それを思えば、今ここでそれを教えてくれる須賀君の言葉は有難いものでした。
勿論、怖い事は怖いですが、それを一人の時に思い浮かべるよりも遥かにマシです。
少なくとも目の前に須賀君がいる今、それが後を引く事はないのですから。

「有難うな。後…警察にはもう連絡したのか?」
「はい。でも…これだけで逮捕するとかは難しいみたいで…」
「そうか…。未だ犯罪とは言いがたいもんな…」

そう返す須賀くんの言葉は残念そうなものに満ちていました。
今の時点で警察が動いてくれれば、全てが解決するのですからそれも当然でしょう。
しかし、現実、彼らは動いてはくれず、私たちの身は相変わらず危険に晒されたまま。
それに失望を感じるのは決して私だけではなかったのでしょう。

「この話、優希にはしたのか?」
「いえ…出来るだけゆーきは巻き込みたくなくって…」
「…そうか」

須賀君も私たちの様子が変であった理由に気づき始めたのでしょう。
そう小さく返す言葉は意外そうなものではなく、寧ろ納得に近い感情が滲み出ていました。
それに私がシュンと肩を縮めるのはなんとなく咎められている気がしたからです。
勿論、彼にそんなつもりがないのは私にだって分かっていました。
けれど、そうする方が正しい事もまた理解出来るが故になんとなく居心地が悪いものだったのです。

「でも、ゆーきには話して協力して貰った方が良い」
「ですが…」
「勿論、危ない事には関わらせはしねぇよ」

私の懸念など須賀君にはお見通しだったのでしょう。
否定を返そうとする私の言葉を遮るようにそう言ってくれました。
安心させるような力強いその言葉に私は安堵を感じ、言うべき言葉を見失ってしまいます。

「でも…和。お前、最近、眠れてないんだろ?」
「っ…!」

そんな私に告げられる言葉は疑問言うよりは確認に近いものでした。
それに思わず身を強ばらせてしまった時点で、もう私の負けなのでしょう。
何よりもはっきりと認めるような反応を見せて尚、否定の言葉など紡げません。
どれだけそれらしい言葉を語っても、白々しいだけなのは目に見えていました。

「ストーカー被害にあってるんだから当然だ。何も責めてる訳じゃないって」
「ぅ…」

宥めるように言う須賀君の前で私は顔を赤く染めてしまいます。
恐らく今の私の反応は、彼が思わずフォローをいれてしまいくらいにオーバーなものだったのでしょう。
自分ではまだまだ余裕があるつもりでしたが、思ったより追い詰められている。
それを羞恥と共に嫌というほど教えこまれた私の顔がそっと俯きました。

「親御さんが帰ってこない日だけでも優希に泊まって貰えば和も安心だろ?」
「そう…ですけど…」

確かに須賀君の言う通り、私はここ最近、眠れていません。
眠っている間にあの視線の主が家へと忍び込もうとしているかもしれないと思うと不安でどうにかなってしまいそうなのですから。
それでも二三時間ほどは意識を失うように眠りますが、眼の下に出来るクマは消せません。
母から譲り受けた化粧道具で出来るだけ目立たないようにしてきましたが、
もう須賀君の目にも分かるくらいにはっきりとしたものになっていたのでしょう。

―― そしてゆーきが居れば…そんな日にも終止符が打てるのです。

私が眠れないのは夜一人で家にいるからです。
しかし、ゆーきが居れば幾らか安心して眠る事も出来るでしょう。
それは須賀君に言われずとも、ちゃんと理解している事でした。
ですが、そうやって私の家に泊まってもらおうとするとゆーきに少なくない迷惑が掛かってしまうのです。

「もし、迷惑とか考えてるんだとしたらお門違いだぞ」
「えっ…」

そんな私の心に気づいたような須賀君の言葉に私は驚きながら顔をあげました。
そこにあったのは何処か微笑ましそうな優しい笑みです。
さっきの怒りとはまた違った暖かなその表情に固まる私の前で須賀君はゆっくりとその口を開きました。

「アイツは最近、和の様子が変だってずっと心配してたんだからな」
「ゆーきが…」

そんな様子なんて今までありませんでした。
ここ数日のゆーきはいつも通り明るいものだったのですから。
しかし、それはきっと彼女なりの気遣いだったのでしょう。
私が自分から相談するまで待ってくれていたのです。

―― そして…溜まりに溜まったそれは我慢できなくなったのでしょう。

恐らく…今日、何度も私の様子を尋ねてきたのは今までの積み重ねがあったからなのです。
そして、それを無碍にする度に彼女が悲しそうな表情を見せたのはそれだけ我慢を重ねていたからなのでしょう。
そう思うと再び胸の中が申し訳なさで一杯になり、ゆーきに謝罪したくなりました。
けれど、近くに彼女の姿はなく、謝罪したくてもする事は出来ません。

「だから、それくらいは頼っとけ。その方が優希も喜ぶだろうしさ」
「…はい…」

そのもどかしさに俯く私の前で須賀君が軽く言葉を紡ぎます。
まるで言い聞かせるようなそれに抗う感情は、もう私の中にはありませんでした。
勿論、未だ迷惑や危ないかもしれないという感情は私の中に残っています。
しかし、それ以上にゆーきにこれ以上心労を掛けたくないという気持ちの方が強く、私は彼女に頼る事を決めたのでした。

「んで、良ければ俺はその間、和のボディガードを努めようと思うんだけど…」
「えっ…」

しかし、次の瞬間、告げられた須賀君の言葉に私は即答する事が出来ませんでした。
だって、私はこれで須賀君と終わりだと思っていたのです。
例え狙われているのが私であったとしても、その害意は今、彼の方に向いているのですから。
それから身を守る為には事件が解決するまで疎遠になるのが一番でしょう。

「あ、も、勿論、ボディガードつっても家の中まで上がるつもりはないぜ?ただ、学校の送り迎えだけでも男が居たほうが安心だろ?」

そう慌てて付け加える須賀君の表情は焦りが強く現れていました。
恐らく先の申し出が下心が故のものだと思われたと感じたのでしょう。
しかし、私は驚きこそすれ、それが下心だとまったく思いませんでした。
こうして仲良くなる前ならば、そうも思ったかもしれませんが、今の私は彼の優しさを知っています。
それが自身の危険を顧みずに言ってくれている提案だという事はちゃんと伝わっていました。

「それは…そうですけれど…」

けれど、それを受け入れられるかと言えば、決してそうではありません。
何せ、それは須賀君をより危険へと追い立てるものなのですから。
ゆーきに頼る事を決めたところで何の解決にもならず、ただ、私が今よりは安心して眠れるかもしれないというだけ。
そんな状況にもう一つ安心出来る要素があるというのは有難いものですが、それは彼の安全と引き換えにするものなのです。

「元々、俺は狙われてるんだから、一緒にいるくらい問題ないって。それとも…和はこの手紙の言う通り俺と疎遠になる方が良いか?」
「それは…勿論、嫌ですけれど…」

勿論、そんなのは嫌です。
誰とも知らない相手に指図されるのも癪ですし、折角仲良くなった須賀君と疎遠になるのも悲しいのですから。
しかし、かと言って、須賀君を進んで巻き込みたいかと言えばそうではありません。
既に彼は当事者の仲間入りをしているとは言え、このまま私から離れればリスクを避ける事が出来るのですから。

「それなら…ほんの少しだけ俺を頼ってくれないか?そうしたら…後は俺が何とかするからさ」

そう思う私の前で須賀君は優しげな声でそう語りました。
まるでこの状況をどうにか出来るようなその暖かな声音に、私の心は揺れ動きます。
私だって…本当は…今だって不安で不安でしかたがないのですから。
先行きの全く見えない恐怖に怯え、どうしていいか分からないのです。
それを須賀君が何とかしてくれるというのであれば、一も二もなくお願いしたいのが本音でした。

「危ない事は…しませんか?」
「あぁ。しない」
「本当に危険を感じたら…手を引くと約束してくれますか?」
「分かった。約束する」

それでも確認するように言葉を紡ぐ私に須賀君は頷きながらそう答えてくれました。
その力に満ち溢れた表情に、ずっと我慢していた私の心は…折れてしまいます。
一人で耐えなければと、ゆーきすら巻き込んではいけないのだと思っていたそれが粉々に砕け、自分勝手な不安が胸を覆いました。
今にも押しつぶされそうなそれに私の目尻は潤み、そして感情のまま言葉を放ちます。

「…お願いします…助けて下さい…」
「あぁ、任せろ」

力強いその了承の言葉に…私はついに我慢出来なくなってしまいました。
潤んだ目尻から涙を零し、カバンをギュッと握りしめてしまうのです。
まるで子どものように大粒の涙を零す自分の姿が格好悪いという意識は勿論、私の中にもありました。
しかし、今まで一人で抑え込んでいた感情は、今、堰を切って溢れだし、私に涙を流させるのです。

「今まで…良く一人で頑張ったな。でも、もう大丈夫だから」

そう言って須賀君は取り出したハンカチで涙に濡れる私の顔を拭いてくれます。
涙で浮いたファンデーションでハンカチが汚れるのも構わずに…何度も何度も。
その優しくて手慣れた仕草に私の感情は幾らでも呼び起こされ、涙となって流れ出て行きます。
結局、30分近く泣き続けた私に須賀君は根気よく付き合い続け…そのハンカチがぐしゃぐしゃになるまで涙を拭い続けてくれたのでした。