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―― 誰にだって苦手な人というものはあるでしょう。

例えば、昔から男性の視線を身体の一部分に感じてきた少女にとって、男性というのは苦手な相手になるでしょう。
またあまり人とベタベタするのが好きではない女の子にとって、必要以上に馴れ馴れしい相手には身構えしたくなるはずです。
或いは自分にとって唯一友人といっても良い相手と急速に仲良くなっていく姿を見て、
なんとなく嫉妬めいたものを感じるのもあり得ないとは言えません。

―― そして、私にとって須賀京太郎という人はその全てを満たす人物でした。

「あー…終わったぁ…」

そう言って、須賀君は背もたれに大きくもたれかかりながら、大きく息を吐きました。
その顔に浮かぶ疲労感は根強く、彼がそれだけ集中していた事を感じさせます。
しかし、それだけではないのは須賀君が未だ麻雀に対して初心者だからでしょうか。
手探りながらでも、強くなっている実感にその頬を緩めているのが伝わってきます。

「お疲れ様。ほら」
「お、ありがとな」

だからこそでしょう。
一人ネト麻をやっていたゆーきがすぐさま須賀君に対してお茶を差し出しました。
それに一つ感謝の言葉を返しながら、須賀君はそっとそれを呷り、喉を潤していきます。
その様にゆーきが妙に嬉しそうな顔をする姿から私はそっと目を背けました。

―― 須賀君はこの清澄で唯一と言っても良い男子麻雀部員です。

そして同時に唯一の初心者である彼はもうこの部活に馴染んでいました。
まるで最初からそうあるのが当然であったかのように、皆と距離を詰め、親しげに話すようになっていたのです。
唯一の異物と言っても良い立場を感じず、あっという間に馴染んだその様は私にとって理解できないものでした。

―― 勿論…私にだって須賀君が悪い人ではない事くらい分かっています。

その軽口や金色の髪、そして不真面目そうな顔つきからは考えられないくらい真面目である事もまた分かっているのです。
麻雀に対しても真剣で、一局ごとに色んなことを吸収しようとしているのが伝わってきていました。
ですが、それでも…一足飛びに仲良くなっていっている軽々しい彼の様子はどうにも共感出来ません。
あまり友達が多いとは言えない私にとって、それは異物にも映るほどでした。

「『和』もお疲れ様。やっぱ強いな」
「…ありがとうございます」

私が彼を警戒する大きな理由が、その呼称でした。
今まで父親以外の男性にそんな風に呼ばれた事がない私にとって、それは違和感を感じさせられるものです。
ですが、ゆーきが名前呼びを許している以上、あんまり強く拒絶しても部内の雰囲気を悪くするだけ。
それが分かっているが故にいちいち、口に出しはしませんが…正直、そうやって馴れ馴れしく呼ばれるのは苦手でした。

「俺ももうちょっと勉強しないとな」
「京太郎の頭の出来じゃ幾ら勉強したってのどちゃんには敵わないじぇ」
「なんだと優希!」
「きゃー襲われるぅー」

そんな私からはほど遠いはしゃいだゆーきの姿に私は内心でそっとため息を吐きました。
確かにゆーきは前々からテンションが高く人懐っこい子ではありましたが、こんな風にはしゃいだ所なんて見たことがありません。
お淑やかという訳ではありませんが、その活発さは私が友人としてついていけるレベルに収まっていたのです。
しかし、今のゆーきにはそんな姿がまるで見て取れません。
まるで私の知らない部分を花開かせるような姿に胸に微かな痛みが走りました。

「ほら、はしゃいでないで片付けを手伝って」
「…ほら、優希の所為で怒られたじゃないか」
「今のは誰がどう考えても京太郎が悪いじぇ」
「仲ええなぁお前ら」

そんな二人の様子に先輩二人も微笑ましい視線を向けていました。
私も…そうするべきなのでしょう。
ですが、そう頭の中で分かっていても、私は二人からそっと視線を背け、逃げるように片づけを始めました。

―― 本当は私にだって分かっているのです。

自分が須賀君に感じいているものの殆どは嫉妬なのでしょう。
自分の知らない友人の姿を引き出した彼に…私は嫉妬しているのです。
しかし、そうと分かっていても、自分の胸の内に横たわるようなぐちゃぐちゃした感情はなくなりません。
それに一つため息を吐きながら、私は荷物を纏め終わりました。

「あ、そうだ。どうせですし、親睦会でもやりません?」
「何がどうせなんじゃ?」
「俺の最下位脱出を記念して…なんてどうですかね?」

冗談めかして言う須賀君の顔には若干、誇らしそうなものが混ざっていました。
まるで子どものようなそれは今日初めて三位になれた事がよっぽど嬉しかったのでしょう。
褒めてもらいたそうなオーラを撒き散らすようにして、その笑顔を浮かべていました。

「そうね。そろそろ新入部員も望めない時期だし…いいかもしれないわ」
「よっしゃ」
「でも、最下位脱出記念…なんて情けない事言わずに早く一位になってみなさいよ」
「無茶言わないで下さいよぉ」

情けなさそうに言う須賀君に、部長さんもクスリと微笑みを浮かべます。
からかうように言っているだけで、決して本気という訳ではないのでしょう。
そもそも経験者ばかりの卓で初めて一週間ちょっとの須賀君が最下位を脱出出来ただけでも凄い事なのです。
それでもこうやってからかうのは、そうやってからかっても大丈夫な相手なのだという認識が部長さんの中にあるからでしょう。

「わしも今日は特に用事はないぞ」
「私も大丈夫だじょ。でも、親睦会やるならタコスがある場所が良い!」
「はいはい。後で携帯で探してやるから座っとけ。んで…和は?」
「…私…は…」

気軽にそう訪ねてくる須賀君の言葉に私はそう言い淀みました。
両親が共働きで忙しい私にとって、家に帰った後にやるべき事というのは少なからずあるのです。
しかし、一日くらいそれをサボったところで両親に何も言われたりしないのは目に見えていました。
だからこそ、ここで頷くのは何の問題もなく…私の理性もまたそうするべきだと訴えていたのです。

「…ごめんなさい。今日はやらなきゃいけない用事がありまして…」

しかし、私は思ったよりも感情的な人間であったのでしょう。
頭ではそうするべきだと分かっている事をねじ曲げて‥・そう嘘を吐いてしまいました。
そんな自分に胸の奥底からドロドロとした自己嫌悪が沸き上がってきますが、一度、口にした以上、どうにもなりません。

「そっか。んじゃ、親睦会は今度にしますか」
「そうね。やっぱり全員が揃ってこそのものでしょうし」
「あ…」

そんな私の嘘の所為で、親睦会そのものがなくなってしまう。
それに思わず声をあげましたが、かと言って何か出来る訳でもありません。
「私抜きでやって下さい」なんてあまりにも不自然ですし、私だってそれを望んでいる訳ではないのです。
私だって須賀君さえいなければ、喜んで親睦会に参加した事でしょう。

「…ごめんなさい」
「気にするなって。用事があるなら仕方ないし」

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、須賀君がにこやかにそう返しました。
そこには一片の悪意もなく、私の嘘に気づいた様子もありません。
だからこそ、良心の呵責を感じる私にゆーきが一瞬、気遣うような視線を向けました。
それに私は気づかない振りをしながら、ギュッとカバンを握りしめ、隠すように胸元へと寄せるのです。

「それじゃ和の時間も危ないでしょうし、今日はもう解散しますか」
「うぃっす」

部長さんの言葉に各々が頷きながら、解散する麻雀部。
その中で私とゆーきは途中まで帰り道を同じくしていました。
中学で一緒になってから、そのまま清澄に来た私達の家はそれほど離れていないのです。
方角的にはほぼ同じで、だからこそ、清澄に進学しても私たちの帰宅は常に一緒のままでした。

「…」
「…」

けれど、そこに本来あるべきにこやかな会話というものは一切ありませんでした。
勿論、普段であればゆーきの方から色々な話題を紡ぎ、場を和ませてくれるのです。
しかし、今の彼女からはそのようなアクションはありません。
代わりにゆーきは私の顔をチラリと見て、心配そうな表情を浮かべるのです。

―― 本当は…私から何か言うべきなのでしょう。

しかし、ゆーきとは違い、あまり話題の豊富なタイプではない私に場を和ませるようなネタと言うのは思いつきません。
ましてや、今の私はさっき吐いた嘘への自己嫌悪がまだ止んでいないのです。
未だ思考がグチャグチャになり、気を抜けばため息を漏らしてしまいそうな私に…そのような余裕はありません。
悲しいかな、これまでずっと受け身であった事に対する経験値不足が、こうして土壇場で現れてしまっているのです。

「あの…のどちゃん?」
「…どうしました?」

夕焼けが差し込む春の帰宅路の中、二人で作る沈黙を破ったのはやっぱりゆーきの方でした。
しかし、その声にはいつものような快活さはなく、何処か伺うようなものです。
普段のゆーきからは到底、考えられないそれに私は心の中が強張るのを感じながら、そう返しました。

「のどちゃんは…京太郎の事嫌いか?」
「それは…」

そんな私の確信を突く言葉に、疑問は殆どありませんでした。
まるで確認するようなそれに…私が応えられるはずがありません。
だって、どれだけ私が鈍いと言っても、ゆーきが須賀君と仲が良いのは明白なのですから。
そんなゆーきの前で嫌いとはっきり言ってしまえば、誰よりも彼女の方が困ってしまうでしょう。

「……」

しかし、その一方で私はそれに対して否と応える事が出来ませんでした。
さっきはあんなに簡単に嘘が吐けたはずなのに、今の私の口は閉ざしたまま動きません。
そんな私の顔をゆーきは数秒ほど見つめてから、ゆっくりと口を開きました。

「…京太郎は良い奴だじぇ」
「分かってます…」

これが本当に嫌なだけの人であれば、私はこんなにも思い悩む事はなかったでしょう。
しかし、彼はこうして一週間ちょっとで皆と仲良くなりました。
同じ女であり経験者である私の方が浮いているようにも感じられるその速度は、ゆーきが言う通り、彼の人徳がなすものなのでしょう。
しかし、だからこそ、私は自分とはまったく違う生き方をしてきた彼を認められず、どうしても彼に対して身構えてしまうのです。

「…ああやってのどちゃんに構うのだって、本当は仲良くなりたいからなんだ」
「分かって…ます…」

須賀君はとても良い人です。
それこそ…部活にまだ馴染み切れていない私に対してお節介をするくらいに。
ああやって親睦会と言い出したのも、決して自分が褒めて欲しいからだけではないのでしょう。
勿論、それが一片もなかったとは言いませんが…
私が見せるぎこちなさを解消しようというのが主目的だったのは皆の姿からも伝わっていました。

―― だって…部長さんと染谷先輩の都合が合うなんて滅多にないんですから。

部長さんは学生議会議長として忙しいですし、染谷先輩は実家の手伝いがあります。
勿論、お互いに部活の時間は捻出くれていますが、片方がいない日も珍しくはありません。
少なくとも、部活後の余暇が揃って空いている日なんて言うのはこの一週間ちょっとの間には一度もなかったのです。
それなのにたまたま口にした親睦会に出られるか怪しい二人が、たまたま大丈夫だなんて簡単に信じられるはずがありません。

―― 誰がこれを考えたのかは分かりませんが…。

しかし、その目的は私が一方的に須賀くんへと抱いている苦手意識の解消であるのはほぼ間違いありません。
何せ、わざわざ親睦会なんてやらずとも、既にゆーきも須賀君も十分過ぎるくらいに麻雀部に馴染んでいるのですから。
当時は冷静さを失って、そんな事にも気づきませんでしたが…少しは頭も冷えた今ならば、それを察する事も出来ました。

「…それでものどちゃんが京太郎の事が苦手だって言うんなら…私から伝えるじぇ」
「えっ…」

しかし、ゆーきのその言葉は私にとって予想外もいいところでした。
だって、それはゆーきにとってとても辛い言葉なのですから。
仲の良い二人が不仲のまま放置するだなんて根が人懐っこい彼女にとっては到底、耐えられる事ではないでしょう。

「のどちゃんに無理して貰いたくはないし…」
「ゆーき…」

そうやってそっと肩を落とす彼女に…私は今回の仕掛け人が彼女である事に気づきました。
思えば須賀君が三位になった時もゆーきはかなり彼の事を援護していたのです。
普段から集中力を切らして後半から失速する気来がある彼女のミスだと思っていましたが、どうやらそれはキッカケ作りのものだったようです。
それに感謝と共に申し訳なさを感じながら、私はそっと口を開きました。

「…大丈夫…ですよ」
「のどちゃん…」

その言葉は自分でも思った以上に硬いものでした。
まるで無理している事をアピールするようなそれにふと肩を落とします。
しかし、それでも私はもうその言葉を撤回するつもりはありませんでした。
この長野で唯一と言っても言い友人をここまで悲しませて、そのままになんて出来ません。
せめてゆーきが動いてくれた分は…私もまた誠意を見せなければいけないでしょう。

「ちょっとずつになると思いますけれど…でも、頑張りますから」

とは言え、すぐさまその成果が出るなんて私も思っていません。
まだ彼に対する苦手意識がなくなった訳ではありませんし、警戒心も残っているのですから。
やる気になったとは言え、未だ残るそれらを解消していくのに時間が必要なのは目に見えていました。

「…本当?無理してない?」
「無理なんてしてません」

嘘です。
本当はちょっぴり虚勢を張っています。
けれど、それを口にするような情けない真似をゆーきの前で見せたくはありません。
だって、ゆーきはこうやって私に伺うように言うくらい私に心砕いてくれていたのですから。
それに対して何のアクションも取っていない状態で、弱音なんて口にしたくありません。

「でも…ダメだった時はフォローしてくださいね」
「勿論だじぇ!」

私の言葉にゆーきはニコリと笑いながら、握り拳を作りました。
ゆーきらしいその明るい笑みに私もまた釣られて笑みを浮かべてしまいます。
そうやってお互い笑いあった瞬間、私たちは何時もの分かれ道へと着いてしまいました。

「もしセクハラされたら私にすぐ言うんだじぇ!私がコテンパンにしてやるからな!」
「ふふ…ええ。その時はお願いしますね」

シュシュッと自分で口にしながらシャドーボクシングの真似事をするゆーき。
その背中が夕日が照らす道の向こうへと消えるのを見送ってから、私もそっと歩き出します。
その心の中にはさっきまでの自己嫌悪はなく、なんとなく気持ちも晴れやかです。
それを消して私に前へと向く勇気をくれた彼女に心の中で感謝を告げながら、私は夕飯の準備をする為にスーパーへと向かったのでした。

……
…………
………………

―― とは言っても、そう簡単に自分の心を変える事なんて出来ません。

そう思い知ったのはさらに数日後の休日の事でした。
アレから須賀君は私に何度も話しかけてくれていましたが、やっぱりぎこちない反応ばかり返してしまうのです。
勿論、以前からは多少、態度も柔らかくなったと自負していますが、それはきっと私だから分かる事なのでしょう。
実際、私の対応に須賀君はたまに傷付くような反応を見せるようになっていました。

―― 本当…仲良くなるのって大変です…。

気性があまり積極的ではないのと、これまで転校が多かった所為もあって、私には数えるほどしか友人と言えるような人はいません。
しかも、そんな彼女らと知り合えたのは彼女たちの側から積極的に構ってくれていたからでした。
運良く自発的に動かないままかけがえのない友人を作れた私にとって、積極的に誰かと仲良くなるというのは初めての挑戦です。

―― まだ…諦めた訳ではありませんけれど…。

まだ挑戦した回数も少なく、成果が出るような期間、続けた訳ではないので諦めるつもりはありません。
しかし、その一方でこれまで積極的に私へと関わってくれたゆーきたちの凄さを肌で感じる日々でした。
気性の違いという言葉では説明しきれないそれに改めて彼女たちへの感謝を感じるほどです。

―― その一方で…焦りのようなものを感じているのですけれど。

そんな彼女たちとは対照的に、まったく遅々として進まない私と須賀君の関係。
勿論、こういったコミュニケーションの経験値が少ない私が焦っても仕方のない事なのだと分かっています。
しかし、自分の知る彼女たちの堂々とした姿と自分の情けない姿というのはどうにも比較してため息を漏らしてしまうのでした。

「…はぁ」

そうやって私がため息を漏らすのは昼下がりの駅前広場です。
今日も両親は仕事で帰ってこず、一人で食事や家事を済ませなければいけません。
けれど、それをする為に必要なものを幾つか切らしており、こうして買い出しに出てきた訳です。

―― 普段はそんな事ないんですけれどね…。

基本的に日用品の類は切らす前に補充するようにしていました。
しかし、ここ最近は良くも悪くも須賀君との事で頭がいっぱいでろくにチェック出来ていなかったのでしょう。
お陰でこうして切らしていた事にも気づかず、なくなってから買い物に出る羽目になったのです。
勿論、私も女の子なので買い物そのものは嫌いではありませんが、
そうやってちょっとした事で余裕をなくしてしまう自分が何とも情けなく思えるのでした。

「ねぇ、そこの君」
「…え?」

そんな私に話しかけてきた声に私は思わず聞き返しながら視線をそちらに向けました。
そこに居たのは何とも怪しいワインレッドのスーツを来た青年です。
恐らくですが、年の頃は20ちょっとといったところでしょう。
その顔はまだ若々しく、顔立ちも爽やかそうな好青年に見えました。

―― …嫌な感じです…。

しかし、それに対して好意的なものを感じないのはそこににやついたものが張り付いていたからでしょう。
まるで下心が滲み出るようなそれを私は決して見間違うはずがありません。
これまでそんな男性の視線や表情に晒され続けていた私には、そういった感情は敏感に伝わってくるのです。
どれだけ爽やかそうな顔に隠したとしても、それは変わりません。

―― だから…男性なんて…嫌いなんです…。

そんな青年の興味が私の一部分 ―― 人並み以上に育った胸にあるのは分かっていました。
さっきからその視線はチラチラと私の胸に向けられ、その度に下卑た下心が強くなっていくのを感じるのですから。
そして…それは何もこの人に限った話ではありません。
私の知る男性というのは父親というものを除いて…同じような反応を見せるのですから。
勿論、この人のように露骨な反応は珍しいものの、多かれ少なかれ男性は私の胸をジロジロと見るのです。

「君、綺麗だねー。何処の子?」
「…急いでいますんで」

そんな青年から逃げようと足を早めますが、彼はずっと私の横に付き纏っていました。
それに突き放すような言葉を向けますが、彼は諦める事はありませんでした。
一見、爽やかそうな表情をその顔に貼り付けながら、下卑た視線を私へと向け続けるのです。
そのあまりの不快感に吐き気さえも覚えましたが、青年はまったく構う様子はありません。
馴れ馴れしく様子で私へと話しかけ、私の中の不快感を刺激するのです。

「ねぇ。人助けと思って話だけでも聞いてくれない?」
「お断りします」

勿論、私はこの人の人となりは分かりません。
しかし、その性根が決して褒められたものではないのははっきりと伝わってくるのです。
そんな人の話を進んでいくほど私はお人好しでも世間知らずでもありません。
きっとろくでもない話であるのは分かっているのですから、一刻も早くこの人から開放されたいのが本音でした。

「そう言わずにさー。君ならきっと思いっきり稼げるって」
「~~っ!」

瞬間、ぐっと手首を掴まれる感触に私の頭の中は不快感で一杯になりました。
気持ち悪い。汚い。嫌だ。
そんな感情が奥底から沸き上がって、思考が滅茶苦茶になってしまいます。
代わりに不快感に反応した私の感情が、その身体を動かしてその頬を張り倒そうとして… ――

「あっれー?カレンじゃん。こんなところでどうした?」
「え…?」

そんな底抜けに脳天気な声。
聞き覚えのあるそれに身体が硬直し、視線がそちらへと惹きつけられます。
そこにいたのはラフな私服に身を包んだ須賀君でした。
いつも通りの軽い感じで近寄ってくる彼に私は反応できず、私は呆然と須賀君を見つめていました。

―― だって私は…カレンなんて名前ではないのですから。

勿論、人違いなんて事はありません。
私も須賀君もお互いに目立つ容姿をしているので、見間違えるはずがないのですから。
例え、世の中に自分のそっくりさんが複数いると言っても、こんな長野の片田舎で出会う事はまずないでしょう。

「んで…この人誰?なんで俺の恋人の手ぇ握ってる訳?」
「え…あ…」

瞬間、ギロリと睨めつける須賀君の雰囲気は何時もとまったく違いました。
普段は軽そうな容姿の中に熱意と真面目さを混じらせる須賀君からは想像も出来ないくらい荒々しいものだったのです。
まるで本当に性根まで不良になってしまったようなそれに私の身体は強張り、どうして良いか分からなくなってしまいました。

「アンタ何処の人?まさか浮気相手とかじゃないよな」

「いや…俺は…」
「そうじゃないならとっととどっか行ってくれないか?」
「…分かった」

凄むような須賀君の言葉に青年はそっと手を離して去っていきました。
何処かおずおずとしたそれは気圧されていると言うよりは面倒になったのでしょう。
さり際に舌打ちをするその様には反省の色がまったく見えません。
それに一つ胸の奥で怒りが湧き上がるのを感じた瞬間、私の腕はそっと引っ張られました。

「…ついでだし、ちょっとお茶しようぜカレン」
「あ…」

そう行って私の手を握る須賀君の手は、熱いものでした。
微かに手汗が浮かぶそれはきっと緊張していたが故なのでしょう。
格好からして明らかに堅気の人ではなかったのですから…それも当然です。
実際、周囲には人がいたにも関わらず、割り込んできてくれたのは須賀君だけでした。
その上、普通ではない相手を凄んで退散させたとなれば、手汗の一つもかくでしょう。

―― でも…嫌じゃ…ないです…。

これがさっきの青年の手だと思ったら、今すぐ振りほどきたくなります。
しかし…これが私を不器用ながらも助けてくれた人の手だと思ったら、振りほどくのが悪い気がしました。
勿論、ベタつく手汗は不快ですし…男性に手を握られていると思うと居心地が悪くなるのは変わりません。
ですが、どうしても振り解く気にはなれず、私は素直に彼の後ろに着いて行きました。

「ほんっっっっっっっっっとうにごめん!!!!!」
「あ…」

そんな私達が広場から離れ、住宅地へと足を踏み入れた瞬間、須賀君は私の手を離し、がばっと頭を下げました。
今にも土下座しそうなその勢いに私は何を言って良いのか分かりません。
そもそも、未だ状況の困惑から立ち直り切れていない私には須賀君が何に対して謝罪しているのかさえ分からなかったのです。

「な、何で謝るんですか…?」
「勝手に手を繋いだ挙句、恋人呼ばわりしたら…そりゃ怒るだろ」

それを素直に口にする私の前で、須賀君は顔を下げたままそう返しました。
しかし、私はそれに対して怒りも何も持っていません。
幾ら私でもそれが私を助ける為の方便だと言うのは分かっているのです。
それを無視して彼に謝罪を求めるほど私は恥知らずな女ではありません。

「しかも、手汗ベタベタで気持ち悪かっただろ?あぁ…もう…せめてちゃんと拭いときゃよかった…」
「…クスッ」

後悔するようにそう付け加える須賀君の言葉に余裕はまったくありませんでした。
もしかしたら、私以上に今の状況に動揺しているのは須賀君かもしれない。
そう思うと妙に微笑ましくなって私の口から笑みが漏れてしまいます。
まるで…ゆーきの時と変わらないリラックスしたそれに自分で違和感を感じた瞬間、須賀君の顔ががばりと上がりました。

「今、和笑った!?」
「え…?」
「あー…くっそ…見逃したかぁ…」

残念そうに言いながら、須賀君はその頬を僅かに掻きました。
何処か罰が悪そうなそれはまるで悪戯がバレた子どものようです。
まるで大きな子どものようなそれに私が微笑ましいものを感じた瞬間、須賀君が漏らすように口にしました。

「優希の奴が和の笑顔を絶賛するから一度、見てやろうと思ってたんだけどなぁ…」
「…ぜ、絶賛って…」

ゆーきが私の事を必要以上に持ち上げるのは別に今に始まった事じゃありません。
しかし、そうやって他人にまでそれを口にしていると思うと顔に熱が集まるのを感じます。
カァァと羞恥を示す自分を見られるのが嫌でついつい視線を背けますが、須賀君の視線が私から外れる事はありませんでした。

「と、ともかく…別に私は怒ってなんてないですから」
「それなら良いんだけど…でも、悪かったな」

そんな須賀君を誤魔化すように口にする私に彼は再び謝罪の言葉を口にしました。
私は良いと言ったのに再び告げられるそれは彼が本当に気に病んでいるのを感じさせます。
それは恐らく私がこれまで須賀君と碌な信頼関係を構築出来ていない所為なのでしょう。
恐らく…ゆーき相手なら、彼がこれまで気に病む事はない。
そう思うと自分が逃げてきた現実を突きつけられるようで、なんとなく重苦しいものを感じました。

「それで…和は何をするつもりだったんだ?」
「えっと、お買い物に…」

それでも須賀君に応える声は何時もよりもスムーズなものでした。
さっき助けられた事で心を許すようになったのか、或いはまだ自分の心が混乱しているのか。
どちらかは自分にも分からない私の前で、須賀君は申し訳無さそうな表情を浮かべました。

「あー…それじゃ俺も付き合って良いか?荷物持ちくらいならするし」
「え…でも…」
「アイツがまた狙ってきたら面倒だしさ」

そう付け加える須賀君の言葉に私の背筋はブルリと震えました。
胸の底から蘇るような気持ち悪さに恐怖混じりの寒気を覚えるのです。
それに私は反射的に自分の身体を抱きしめますが、それは中々、なくなってはくれません。
もし、あの時に須賀君が現れなければどうなっていたかと考えるだけで…恐ろしくて堪らなくなるのです。

「あ…悪い。怖がらせるつもりはなかったんだ」
「い、いえ…」

そんな私に謝罪の言葉を向ける須賀君に、私は首を振りました。
確かに須賀君の言葉で恐怖が蘇ってきたのは事実ですが、それは私を護る為。
最悪の事態を考えての事なのですから、悪い事はありません。
寧ろ、それをまったく考慮していなかった私の方が油断しすぎと言われるべきでしょう。

「でも…須賀君は良いんですか?」
「あぁ。俺はどうせ暇つぶしにTUT○YAに寄るだけのつもりだったし」

そうあっけらかんと返す須賀君の表情に嘘はありません。
どうやら本当に暇つぶしの為に出かけていたみたいです。
それで丁度、私のピンチを救ってくれたなんてまるで少女漫画か何かみたいで現実感が湧きません。
しかし、今もまだ私の中に残る不快感がさっきの出来事を嘘だと思わせず…私に小さくうなずかせるのです。

「じゃあ、お願いします」
「あぁ。ドーンと任せてくれよ、お姫様」
「お、お姫様って…」

そう返す須賀君の言葉に私の顔は再び朱を混じらせました。
羞恥の色を強くするそれは仕方のない事でしょう。
誰だって突然、男性にお姫様呼ばわりされたら照れるか怒り出すものでしょう。
そして、私に怒るほどの気概なんてなく、こうして羞恥に頬を染めてしまうのでした。

「女の子は誰でもお姫様なんだって幼馴染が言ってた」
「そんな訳ないじゃないですかもう」

キリリと顔を引き締めて自慢げに言う須賀君に呆れるようにそう返しました。
けれど、そこに嫌なものが混じっていないと思うのは…きっと気のせいではないのでしょう。
だって、私の顔は何時もよりもリラックスして…自然に笑みを浮かべられているのですから。
流石にゆーきに対するものほどではなくても…昨日までのように強ばってはいません。

―― このままいけば…少しは改善出来るかもしれません。

不幸中の幸い…なんて言えるほど何かトラブルがあった訳ではありませんが、しかし、今の私の状態は僥倖と言っても良いくらいでした。
強張ってぎこちない返答を返す事はなく、幾分、素直に感情を表す事が出来るのですから。
それが何時まで続くのか分かりませんが、今の間に距離を縮めておくのは悪い事ではないはずです。

―― 須賀君は意外と買い物に手馴れていました。

いえ、より正確に言うのであれば、『誰かと買い物に行く事に慣れていた』のです。
ほんの小さな事でも話題を見つけ、話し出してくれるのですから。
基本的に私は頷いたり、須賀君の質問に答えるくらいでしたが、それでも彼の隣に居て退屈はしませんでした。
いえ…一人で手早く済ませるはずの買い物が意外に伸びて、
夕方前までズレこんでしまった事を考えれば…私はそれをきっと楽しんでいたのでしょう。

「いやー色々と買ったな」
「…すみません」

そろそろ日も落ちてしまいそうな住宅地で、私はそう謝罪の言葉を紡ぎました。
それは勿論、私が買ったものの殆どを須賀君が持ってくれているからです。
私も幾つか手荷物を持っていますが、それは須賀君の運んでくれている量とは比べ物になりません。
自分の持つ手提げのカバンよりも多少、重い程度なのですから。

「あ、違うんだ。一家まるごとってなるとこれだけ買うもんだなーって思ってな」

それを軽々と運ぶ須賀君の顔は晴れやかでした。
昨日まで私に向けられたものよりも幾分、明るいそれは彼の中の緊張が解けている事を感じさせます。
流石にゆーきに対するそれよりもまだ距離がありますが、以前のように傷ついた様子を見せる事はありません。

―― そして…それは私も同じでした。

ほんの数時間。
たったそれだけの時間を須賀君と過ごしただけで私は以前のような嫌悪感を捨て去っていました。
勿論、男性という事なので完全に警戒心をなくした訳でもありません。
実際、須賀君もたまに私の胸をチラリと見て、すぐさま視線を背けるのですから。
しかし、それに関して呆れながらも「仕方がない」と思う程度には、私は須賀君に心を許し始めていました。

「買い置きを切らしちゃってたので…」
「はは。和もたまにはそういうミスをするんだな」
「ぅ…す、須賀君には言われたくありません。…この前もチョンボしてたじゃないですか」
「うぐ…まぁ、その通りなんだけど…」

とは言え、私はまだ須賀君との距離を測りかねているのが現実でした。
ゆーきに対してはもうちょっと素直になれるのについそうやって意地を張ってしまうのです。
勿論、それはからかうような須賀君の言葉にも、私の負けず嫌いな気性にも原因があるのでしょう。
そうは思いながらも、中々、それを改善する事が出来ませんでした。

―― こんなので…良いんでしょうか…?

今まで生きてきた中で原村和という少女はこんな風に意地を張る少女ではありませんでした。
自分で言うのも何ですが、基本的に感情の起伏は少ない方であり、落ち着いていたはずなのです。
しかし、それがまるで嘘みたいに須賀君の前だと意地を張ってしまう。
まるでゆーきのように自分の違う部分を引き出されるような感覚に違和感と疑問を覚えていました。

「実際、意外だったんだよ。和って何でも完璧なイメージがあったし」
「そう…でしょうか…?」

勿論、私は完璧でも何でもありません。
寧ろ、ドン臭くて色々と失敗も多い方なのですから。
実際、須賀君に対しては失敗ばかりでもう目も当てられないくらいなのです。
さらに、距離と関係を測りかねている事を思えば、完璧なんて程遠い言葉でしょう。

「はは。まぁ、勝手なイメージだったってのは今日の事で良く分かったよ」
「む。それどういう意味ですか?」

しかし、そう思いながらも、からかうような須賀くんの言葉は看過出来ません。
元が負けず嫌いなのもあってついつい強気な言葉を向けてしまうのです。
それに須賀君はクスリと笑いながら、口を開きました。

「何処にでもいる普通で可愛い女の子って事だよ」
「か、可愛いって…」

その外見にそぐわない軽い言葉に私の頬はついつい赤くなってしまいます。
勿論、須賀君がそれを冗談で言っている事くらい私にだって分かっていました。
文脈的にも、そして微かににやけたその表情も、それを示しているのですから。
しかし、それでも私の紅潮はなくならず、ついぷいっと顔を背けてしまうのでした。

「そういう所が可愛く見えるんだよな」
「も、もう!そ、そういう事言わないでください…!」

そんな私を微笑ましそうに見る須賀君に私は強い言葉を放ちました。
しかし、須賀君の視線は私から外れず、赤くなった顔を見られてしまうのです。
それを隠したいという欲求が湧き上がりますが、しかし、私の両手も荷物で塞がっていました。
代わりにこれみよがしに大きなため息を吐きましたが、須賀君の微笑ましそうなそれが強くなるだけでした。

―― あの人に言われても…こんな風にはならなかったのに…。

あの広場で出会ったしつこい青年にも私は可愛いと言われていました。
しかし、それは不快感を煽るだけの言葉でしかなく、気恥ずかしさに繋がる事などなかったのです。
ですが…須賀君に言われると妙に胸の中がムズムズとして居心地が悪くなってしまうのでした。
不快感とはまた違ったその何とも言えない感覚に私は一つ決意しながら、須賀君の方へと向き直るのです。

「私も今日、一つ分かった事があります」
「ん?」
「…須賀君は割りと外見通りの性格をしてるって事です」

仕返しをするように放った言葉は割りと本心でした。
少なくとも軽い性格でなければ、こうも簡単に女の子の事を可愛いだなんて言わないでしょう。
勿論、それを差し引いても真面目で一生懸命な性格をしているとは思いますが、やっぱりその軽さは否定出来ません。
それが嫌であるかはまた別問題ですが、私の中で須賀君はもう『軽い人』にカテゴライズされたのでした。

「可愛い子に可愛いと言って何が悪いのか。いや、ない」
「何やら断言してますけれど…それは決して一般的ではないと思いますよ」

きっぱりと自信満々に言い放つ須賀君に私はジト目と共にそう言いました。
しかし、彼の無意味に自信に溢れた姿は決して揺るぎません。
どうやらこの程度では彼のポリシーは変わらないようです。
別に変わって欲しいなどと分不相応な事を思っていた訳ではありませんが、ここまで意思が硬いといっそ呆れてしまいます。

「でもさ。それなら誰にだったら可愛いって言っても良いんだ?」
「そ、それは…」

純粋に尋ねてくる須賀君に私は思わず言葉を詰まらせました。
確かに可愛いと思った相手に可愛いと言わなければ、誰にだって言えません。
正直が無条件に肯定される訳ではありませんが、さりとて嘘を吐く事が正しい訳ではないでしょう。
そんな私にとって一つだけその言葉を肯定出来る関係が浮かびあがりましたが、それを口にするのは中々に勇気がいる事でした。

「こ、恋人…とか…ふ、夫婦とかです!」
「かーわーいいー」
「う、うぅぅぅ…」

それでも勇気を振り絞って口にした私の前で須賀君はニコニコと笑いながらそう言います。
何処か冗談めかしたそれは、私にとって予想通りなものでした。
これまでの須賀君とのやり取りを考えれば、そうやってからかわれるのは目に見えてたのですから。
しかし、それでも、こうしてからかうように言われるとまた胸の奥底から恥ずかしさが沸き上がってくるのです。

「でも、それなら、恋人になりたい!って思ってる子が居ても、可愛いって言っちゃいけないのか?」
「そ、その辺りは…ふ、二人の親密度によるんじゃないでしょうか…」

そんな私に再び尋ねてくる須賀君の言葉に私は曖昧な言葉でそう誤魔化してしまいました。
そもそも何かはっきりとした目安があって、こんな事を言っている訳ではないのです。
私が口にしているのはあくまで自分の価値観であって、絶対的に正しいものではないのですから。
そんな風に突っ込まれても困る訳ではありませんが、曖昧な答えしか返す事が出来ないのです。

「わざわざ告白なんてしなくても、恋人に近い親密度なら可愛いって言っても良いって事か?」
「え、えぇ。それくらいだったら…まぁ…」

ですが、そんな私の言葉でも、須賀君は一応の納得はしてくれたようです。
特に具体的な何かを示した訳ではない私の言葉に神妙そうに頷いていました。
その姿を見る限り、さっきの言葉は私を虐める為ではなく、単純に疑問を口にしていたのでしょう。
何処か子どもっぽいそれが妙に可愛らしく思えた私はそっとその頬を緩め… ――

「じゃあ、和にとって『可愛い』ってのは告白に近い言葉なんだな」
「ふぇ!?」

瞬間、告げられる須賀君の言葉に私はマヌケな声を返してしまいました。
だって、それは私が須賀君の事を可愛いと思っていた事を見抜いているようなタイミングだったのです。
そんなオカルトなんてあり得ないと分かっていても、ついつい心臓がドキンと跳ね、動悸も激しくなってしまいました。

「和?」
「あ…ぅ…そ、そうです!そういう事です!!」

そんな私を心配そうに尋ねる須賀君に私は強くそう言い放ちました。
それに須賀君が首を傾げるのが視界の端で囚えましたが、そちらを見る事は出来ません。
何せ、今の私の心臓はバクバク鳴って、頭の中も冷静ではないのですから。
ゴチャゴチャになった今の状態で須賀君を見れば、また変な事を言われるかもしれません。

「だ、だから、もう可愛いとか言わないで下さい」
「えー…でもなぁ…」

それを防ぐ為に先手を取るように口にした言葉。
それに須賀君は迷うように言いながら、視線をそっと彷徨わせました。
何処か迷うようなそれは数秒ほど続き、私達の間に微妙な沈黙を流します。

「俺は和ともっと親密になりたいし」
「ふぇ…?」

瞬間、告げられる予想外の言葉に私はそう問い返しながら、須賀君へと視線を向けました。
そこには私と同じくらいに頬を赤く染めながら、視線を真正面に固定する彼の姿があるのです。
さっきまで可愛いと気軽に口にしていた彼と同一人物とは思えないそれに思わず私の胸はトクンと脈打ちました。
自分でも一体、何なのか分からないそれに疑問を感じる間もなく、私の思考は真っ赤に染まってしまいます。

「な、なな…ななななな…っ!」

しかし、そんな私が紡ぎ出そうとする言葉はロクに意味を持ちませんでした。
ただの音の羅列でしかないそれに私自身の混乱と困惑が深まっていきます。
それも…仕方のない事でしょう。
だって、私が今、されたのは遠回しの告白も同然なのですから。
勿論、それそのものでは特に深い意味はないただの独り言です。
しかし…これまでの『可愛い』連呼や、価値観のすり合わせを経た今、告げられるそれは告白以外の何者でもなくって… ――

「ば…っ!ち、違うって!べ、別に恋人になりたいとかそんなんじゃなくってな!」
「だ、だだだ…だって…」

それを須賀君が否定しますが、中々、信じる事は出来ません。
だって、さっき恥ずかしそうに口にしたそれは…私からすれば『可愛い』よりも遥かにハードルの低いものなのですから。
それをどう捉えられるかを知っていなければ、あそこまで逡巡する必要はないでしょう。
少なくとも私の価値観ではそうとしか捉えられず、こうして否定めいた言葉を口にしてしまうのです。

「お、俺はただ…和とも友達になりたいだけだ」

そんな私の前で須賀君が平静を取り戻し始めました。
その言葉にはまだ気恥ずかしさが残っているものの、さっきのような逡巡や困惑はありません。
そして、そんな彼に引っ張られるように私もまた少しずつ冷静に戻り、須賀君の言葉を素直に咀嚼できる余地が生まれるのです。

「友達…?」
「そ。折角、部活が一緒になったんだから、部活仲間ってだけじゃ寂しいだろ」

あっけらかんと口にする須賀君の言葉は私にとって大きな衝撃でした。
それは私にとってはあまり馴染みのない…いえ、もっと言えば、まったくなかった考え方なのです。
勿論、それは部活が一緒になった仲間のことを軽んじているからなどではありません。
私にとって先輩二人も…そして中学の頃の後輩たちもすべからく大事に思っているのですから。

―― …でも、それはあくまで『部活仲間』としての範疇です。

勿論、彼女たちに何かあれば、私も協力するでしょう。
しかし、それが友達かと言えば、私の中では首を傾げざるを得ません。
何かあった時に手を貸すのは吝かではありませんし、率先して動くでしょうが、それは私の中では友達ではありません。
やっぱり『部活仲間』としての括りで纏まっているのです。


―― でも…須賀君は違う…。

いえ、もっと言えば、多分、ゆーきも同じタイプなのでしょう。
人懐っこく社交的な彼女は私以外にもたくさんの友人を持っているのですから。
それはきっとこうやって誰かと仲良くなる事を肯定的に、そして日常的に行えるからでしょう。
そう思うと…とても疎外感めいたものを感じて、妙に寂しくなってしまうのでした。

「まぁ、和は美人だし、下心がないとは言わないけどさ」
「…やっぱりあるんじゃないですか…」
「しょうがないだろ。その辺は男なんだし、可愛い子を見かけたらお近づきになりたいって思うのが普通だって」

まるでそれを隠す事ではないと言わんばかりにカミングアウトする須賀君に私はジト目を向けました。
しかし、彼の調子は変わらず、その表情も当然だと告げるようなものから変わってはいません。
一体、何処の『普通』かは分かりませんが、それは須賀くんにとってごくごく当然の事のようです。
それに一つ理解できないものを感じた瞬間、私の視界に自宅の姿が入って来ました。

「あ、あそこが私の家です」
「そっか。悪いな。ここまで来ちまって」

そう須賀君が謝罪するのは私の家を知ってしまったからなのでしょう。
けれど、今更、その程度を気にするほど、私は須賀君を嫌悪してはいませんでした。
そもそも、彼が私の家を知ったからと言っていかがわしい事を企むような人とは最初から思っていません。
私が須賀君を警戒していたのはそういう事ではなく、もっと根本的なものなのですから。

「いえ…それよりこちらこそ荷物持ちをさせてすみません」
「これくらいお安いご用だって。それに和と仲良くなれるって役得もあったしな」
「もう…軽すぎですよ」

そうは呆れるように言うものの、正直、須賀君の言葉は同感でした。
色々ありましたが、こうして関係が正常化へと進んだのは何よりだと私も思っているのですから。
流石にそれを役得だと称するのはちょっと違う気もしますが、まあ、そう言われて悪い気はしません。
須賀君もまた私と仲良くなろうとしてくれているのが伝わってくるのですから当然でしょう。

「さて…それじゃここまで来たらもう変わらないし、扉の前まで運ぶけど…」
「…折角ですし、お茶を飲んで行きませんか?」
「んー…」

須賀君はここまで荷物を運んでくれただけではなく私のボディーガードも兼ねてくれていたのです。
そもそも最初助けてくれたお礼もまだちゃんとしていませんし、ここはお茶の一杯でもお出しするべきでしょう。
そう思っての言葉は須賀君の迷うような声に打ち消されてしまいました。
てっきり二つ返事でうなずかれると思っていた私はそれに微かな驚きを感じます。

「いや、止めとくよ。親御さんいないのに男あげるのはまずいだろうし」
「でも…」

その風貌からは想像も出来ないくらい真面目な言葉に私は思わずそう返してしまいました。
私だって須賀君の言葉がある意味では正しいという事くらい分かっているのです。
ですが、それでもここで何も返せないまま、須賀くんと別れるのはやっぱり心苦しいものがありました。
今日は私がお世話になりっぱなしだった分、少しくらいはお礼がしたいのです。

「あー…じゃあ、今度一緒に買物に付き合ってくれないか?」
「買い物…ですか?」

そんな私に須賀君から齎された条件は、首を傾げるものでした。
だって、私たちはついさっき一緒に買物に出かけたばかりなのですから。
何か欲しいものがあったのなら、その時に買えば良かったのです。
しかし、それでもこうして日をあらためて口にするのは… ―― 

「ま、まさか…で、デート…ですか?」
「そうだって言ったらどうする?」
「ぅ…それは…」

意地悪そうな須賀君の言葉に私はどう応えていいか分からなくなります。
し、正直、まだデートとかそういうのは早いと思いますし…ま、まだ人となりも分かっていません。
いえ…そ、もそもそういう事を理解する為のデートなのかもしれませんが、
で、でも、まだ出会って10日ちょっとでそれは…あまりにも早すぎではないでしょうか。
ですが…私の買い物に付き合ってくれたのに…須賀君の買い物に付き合わないて言うのはおかしな話ですし… ――

「はは。冗談だよ」
「え…?」
「幼馴染が新しいブックカバー欲しいって言ってたからそれを和に選んで欲しかっただけだ」
「ぅ…」

瞬間、ようやくからかわれたという事を悟った私の顔が赤く染まっていきます。
けれど、それはさっきとは違い、羞恥と共に悔しさを強く秘めるものでした。
それはきっと今の私の狼狽がさっきとは比べ物にならないほど大きいものだったからなのでしょう。
そう冷静に理解しながらも私の感情は止まらず、ついつい強い力を込めて唇を開いてしまうのでした。

「す、須賀君!!」
「おぉ、怖い。んじゃ、コレ以上、怒られない内に退散するわ」
「あ…」

そう言って須賀君は私の家の前にあるポストにそっとビニール袋をかけました。
そのまま早足でさっさと立ち去っていくその姿に私は何を言えば良いのか分かりません。
怒っていたのに呼び止めるのは変ですし、かと言ってこのまま見送るのも何か違います。
しかし、そうは思いながらもからかわれていた困惑から中々、立ち直る事の出来ない私の口からは中々、言葉が出て来ませんでした。

「あ、ありがとうございました!」

数秒後、私の口から出てきたのは結局、何の変哲もないお礼の言葉でした。
本来であればもっと早くに口にするべきであったそれに須賀君は振り返らずに右手をあげてパタパタと振りました。
何処か格好つけているようにも見えるそれに私の悔しさは萎えていき、クスリと小さな笑みを浮かべます。
それは須賀君の姿が曲がり角の向こうに消えるまで続いていました。

「さて…と…」

そうやって須賀君を見送った後は、荷物を家へと搬入し、片付ける作業が残っています。
しかし、日頃からそれをやっている私にとってそれは決して苦痛ではなく、ごく普通なものでした。
それに今日は色々と嬉しい事もあったので足取りは軽く、しなければいけない家事もするすると進んでいきます。
勿論、それは別に須賀君にデートに誘われたからなどではなく、と言うかそもそもアレはただの買い物で… ――

―― あれ…そう言えば…

そこでふと思い至ったのは須賀君が私を買い物に誘った理由でした。
幼馴染にブックカバーを買うのに…女の子を連れて行く…と言うのは一体、どうしてなのか。
そもそも未だに交流がある幼馴染というくらいならば趣味も把握している事でしょうし、相手の趣味も知らない私を誘うメリットなんてありません。
それでも…こうして私のことを誘ったのは…恐らく…その幼馴染が…須賀君とは違う存在だからなのでしょう。

―― …何を考えているんでしょう、私。

例え…例え、須賀君に女の子の幼馴染が居た所で何の問題もありません。
寧ろ、そうやってプレゼントを送る幼馴染が居る事に微笑ましさを感じるべきなのです。
しかし…私の胸は微かにチクリとした痛みを覚え、どうにもそんな気分にはなれません。
それを家事の忙しさを理由に思考の奥へと押し流しながら、私はその日を無事平穏に過ごしたのでした。

……
…………
………………

―― 須賀君は基本的にその傍に誰かがいる人です。

遠巻きに見ていてもはっきりと分かるくらい須賀君は何かの中心近くにいる人でした。
友人も多く、話題の引き出しも多いタイプなのですから当然でしょう。
流石にクラスみんなの人気者、という程ではありませんが、お調子者で人が良い彼を悪く思っている人はあまりいないようです。

―― …そんな事にも今まで気づかなかったんですね…。

同じクラスになってからもう二週間も経つのに、私はそんな事にさえ気づいていませんでした。
勿論、新しい環境に慣れるので必死だった…というのもありますが、それはあまり言い訳には出来ないでしょう。
それは須賀君も同じであるのに彼はもうクラスに馴染みきっているのですから。
勿論、得手不得手はあるとは言え、そんな様子にさえ気づかなかったのは
自分のことで頭が一杯だったと言う理由では補え切れないものでしょう。

「のどちゃん?」
「…はい?」

瞬間、私の耳に届いたゆーきの声に私の意識は現実へと引き戻されました。
昼休みの教室では何人かが机を合わせて歓談しながら食事をしています。
その中には須賀君の姿もあり、男子たちと昨日のドラマの話で盛り上がっていました。

「また京太郎の事見てる?」
「ま、またってなんですかまたって」

ジトーと私に目を向けながら、怪しむように言うゆーきに私はついそう取り繕ってしまいます。
勿論、そうやって取り繕ったところで私がさっきまで須賀君の事をじっと見つめていた事に変わりはありません。
しかし、それでもこうして否定するのは、そんな風に言われるほどジロジロと見ていないからです。

「…最近ののどちゃんは良く京太郎の事をチラ見するじぇ」
「そ、そんな事あり得ません」

須賀君とのわだかまりが大分、解消されてからたまにその姿を視線で追う事があります。
街中でチラリと見えた金髪が須賀君ではないかと考えた事は一度や二度ではありません。
しかし、それはあくまでもたまにというだけで、毎時間やっている訳ではないのです。
精々、休み時間の内、二回に一回くらいの頻度でしょう。

「怪しいなー…」
「べ、別に何もありませんってば」

そうやって怪しむゆーきには広場で須賀君に助けてもらった事は既に告げてあります。
しかし、その終わり際にデートに誘われた事は結局、言えないままでした。
そもそも冷静になって考えれば、アレは冗談であった可能性は決して低くないのですから。
もし、そうだった場合の事を考えると立ち直れなくなりそうで、私は彼女にそれを伝えていないままでした。

「その割には…京太郎とは殆ど話さないしー?」
「ぅ…た、たまたま…です」

そしてそれを確認しようにも私は彼が目の前に立つとついつい逃げてしまうのです。
たまに彼を見る私と視線がぶつかり、私の元へと須賀君が歩いてきてくれる事もありますが、その瞬間、私はそこを離れるのでした。
仲良くなるどころか以前よりも悪化した自分の様子に、内心、ため息が尽きません。
しかし、それでも須賀君に対する態度を改善する事は出来ないままでした。

―― それをゆーきに相談しようにも…原因が原因ですし…。

須賀君の前に立つとデートの約束を思い出すから、逃げてしまうんですけれど、どうしたら良いですか。
今の私の状態を端的に相談しようとすれば、きっとそんな言葉になる事でしょう。
しかし、これをそのまま口にすれば、ゆーきにデートのことを黙っていたことがバレてしまいますし、何より気恥ずかしくて堪りません。

「もしかして京太郎に何かされた?」
「別に…そういう訳じゃないです」

心配そうに尋ねるゆーきに私はそっと首を振りました。
確かにされたと言えばされた訳ですが、それをここまで引きずっているのは私なのです。
今もこうして男子と仲良さそうに話す須賀君はいつも通りですし、私が意識しすぎなのでしょう。
しかし、そうは思っても自分の態度を改善する事は出来ず、部活でもぎこちない様子で彼と接してしまうのでした。

「じゃあ…京太郎の事嫌いになった?」
「そっ…そんな訳ありません」

変に意識してしまっているのは事実ですが、それは決してマイナスのそれではありません。
寧ろ、わだかまりが消えつつある今、彼の良さをちゃんと受け止める事が出来るようになっているのですから。
勿論、その軽さに色々と思うところがない訳ではありませんが、嫌いになったりするはずがありません。

「だったら、ちゃんと話した方が良いじぇ。アレでいてアイツ結構繊細だからな」
「そう…なんですか?」
「そうそう。実はこの前も私に『最近、和から避けられてるんだけど理由知らね?』ってメールで泣きついてきてたしな」
「そ、そうですか…」

しかし、そんな私の態度はまったく逆に受け取られてしまっているようです。
実際…こうしている今は普通にしているものの、ゆーきにメールで聞くほど傷ついているのでしょう。
そう思うと胸の奥は申し訳なさで満たされますが、かと言って自分を抑え込める自信というのはやっぱりありません。
どうしても彼の前に立つと理性が感情を上回り、みっともない姿を晒してしまうのです。

「とりあえず『理由は聞いてない』って素直に返しといたけど…本当に何もないんだな?」
「強いて言えば…私の心の問題なので…須賀君には何の非もありません」
「じゃあ…そうやってメール送るけど…良い?」
「お願いします」

それを認めるのは恥ずかしいですが、かと言って認めないままだと話は進みません。
それに私とて、このまま須賀君に誤解されたままというのは心苦しいのです。
せめてそうやって傷つく事がないように…ゆーきにはフォローしておいて欲しい。
そんな友人任せな自分に自己嫌悪を感じますが、須賀君のアドレスも知らない私にとって彼と連絡を取る手段がありませんでした。

「ほいほいっと…」
「…行儀悪いですよ」

そんな私の前で携帯を取り出してポチポチを打ち始めるゆーき。
しかし、彼女の目の前で広げられているお弁当箱には未だおかずが残っていました。
簡素なお箸をその口に咥えて携帯を使うその様は、決して行儀は良いとはいえません。
そうして私のために素早く動いてくれるのは嬉しいですが、それを咎めないという事は出来ませんでした。

「こういうのは早め早めが一番だじぇ~」

お箸を咥えながら器用にそう言いながら、ゆーきはそっと携帯をしまいました。
その数秒後、須賀君が携帯を胸元から取り出したところを見るに、どうやらちゃんと送信出来たみたいです。
それに一つ内心で安堵しながら、私はそっと視線をお弁当箱へと戻しました。
須賀君を見ていた所為で普段よりもさらに進んでいない昼食を口へと運んだ瞬間、私の目の前でゆーきが驚いたような表情を浮かべす。

「…あ」
「え?」

その表情に反応した私がゆーきの視線をたどれば、そこには見慣れた男子制服がありました。
まだ新品の匂いを残すパリっとしたその制服はこうして椅子に座った私たちの二倍近くあります。
立っている私よりもさらに二回りほど大きいその人は何処か申し訳なさそうに私の横に立ち、その頬を掻いて… ――

「っ~~~~~!!!!」

それを認識した瞬間、私の顔が真っ赤に染まり、椅子を蹴飛ばすように立ち上がります。
そのままだっと駆け出す私の胸には気恥ずかしさしかありませんでした。
あんな話を聞いたのにまったく学習しない自分に自己嫌悪が湧き上がる隙間すらありません。
衝動にも近いその感情に突き動かされ、私は廊下へと飛び出しました。

「和!!」
「ひゃぅ!?」

しかし、そんな私を須賀君が追いかけてくるのです。
今まで逃げたら追いかける事はなかった彼の思いもよらない反応に私は小さく声をあげました。
そのままそっと視線を後ろに向ければ、そこには凄まじい勢いで、私を追いかける彼の姿があります。
元々、私は運動が得意ではなく、また体格的にも劣っている以上、追いつかれるのは時間の問題でしょう。

―― でも、でもでもでもでも…!

ゆーきが一体、どんなメールを送ったのかは分かりませんが、きっと須賀君は怒っているのです。
私の勝手な都合で逃げまわり、ろくに話もしない私の事を怒っているのでしょう。
そう思うとどうしても足を止める事が出来ず、私は必死になって走り続けました。
まるで自分にとって最悪な現実から逃げるように…ひたすら手足を動かし続けていたのです。

「くそ…!和!止まってくれ!」

そんな私の後ろで須賀君がそう声をあげますが、私が止まれる訳がありません。
そうしてしまったら最後、私にとってつらい現実が追いついてくるのですから。
折角、仲良くなれて友達になりたいと言ってくれた人に嫌われたという…苦しい現実が。
それから逃げる為であれば普段、苦手な運動でも頑張る気力が湧き上がり、私の身体に力をみなぎらせるのです。

「…くそ!止まらないと最終手段使うからな!!良いんだな!!」

まるで最後通告のような須賀君の言葉を聞いても、私は止まりませんでした。
一体、須賀君が何をするつもりなのかは知りませんが、それはきっと私の後ろに迫る現実よりも辛いという事はないでしょう。
それが自分が逃げ続ける為の言い訳なのか、或いは本能的に何かを察知したのかは私にも分かりません。
事この期に及んでも私の中にあったのは気恥ずかしさと辛さだけだったのですから。

「和は!!!!世界一!!!!可愛い!!!!!!!」
「ふぇええ!?」

しかし、それが瞬間、全て驚きに塗り替えられてしまいました。
それも…当然でしょう。
だって、その瞬間、廊下に響いたその声は私の予想の斜め上を遥かにかっ飛んでいくものだったのですから。
廊下を駆ける私達を怪訝そうに見つめていた生徒たちも
ポカンとするくらいのそれは私がその場で足を止めるののには十二分過ぎるものでした。

「お淑やかなのに気が強いところも可愛い!意外と家庭的なのも可愛い!恥ずかしがる顔も最高に可愛い!」
「ちょ、ちょっと…す、須賀君!?」

しかし、そんな私を見ても尚、須賀君がその恥ずかしい言葉を止める事はありません。
それに私が後ろを振り返った瞬間、彼の身体はもうすぐそこにありました。
元々、殆ど無いに等しかったリードを一瞬の逡巡で詰められてしまったのでしょう。
そう理解した時には彼の手が私の手首を掴み、逃がすまいと握りしめました。

「よぉおおおやく捕まえたぞ、この不良娘」
「ふ、不良はそっちじゃないですか。ろ、廊下を走って…」
「和がにげなきゃ俺も走らなかったっての」

それに心が怯えながらも私はそう強気に返しました。
しかし、その程度で怯むような須賀君ではありません。
見事に正論で打ち返しながら、小さく肩を落としました。

「とにかく…話を聞いてくれ」
「…でも…」

こうやって捕まえられてしまった以上、私に逃げるつもりはありません。
いくら暴れたところで須賀君から逃げられないのはもう分かっているのですから。
しかし、それが話を聞く気に繋がるかといえば、決してそうではありません。
平静こそ装っているものの、さっきの空恐ろしい感覚はまだ私の中に残っていたのですから。

「…俺の事が嫌いならそう言ってくれ。それならもう二度と付き纏ったりしないから」
「…それ…は・…」

何処か辛そうな響きを混じらせるその言葉に私は思わず言葉を詰まらせてしまいました。
さっきゆーきがメールを送ってくれたと言っても、その不安全てを解消出来た訳ではないのでしょう。
実際、私がこうして逃げ出してしまったのだから、それも当然の事でしょう。
そう思うと驚きに固まった心の奥から良心の呵責が湧き上がり、胸の締め付けるのです。

「…須賀君こそ嫌いにならないんですか?」
「どうして俺が和のことを嫌いになる必要があるんだよ」
「だって…私…こんな風に何回も逃げて…」

私はそうやって逃げる事で須賀君が傷つくと分かりながらも、逃げるような最低の女なのです。
正直、それだけでも嫌われるに足る理由でしょう。
その上、最後通告を聞き入れず、結果的に須賀くんにも大恥を書かせてしまったのですから嫌われない理由がありません。

「それは俺が何かやらかしたからなんだろ?それを謝罪こそすれ嫌いになる必要あるか?」
「え…?」

しかし、須賀君はまるでそんな事考えた事もないとばかりにあっけらかんとそう口にしました。
心からそう思い込んでいるらしいそれに私は思わず呆然とした声を返してしまいます。
ですが、それを見ても須賀君の表情は変わらず、その表情には不思議そうなものさえ混じっていました。
それに私が安堵を感じた瞬間、足元からふっと力が抜け、その場に座り込んでしまいそうになるのです。

「おっと…大丈夫か?」
「え…えぇ…」

そんな私を腕で支えながら聞いてくるその身体は意外と逞しいものでした。
文化系とは言え、やっぱり男性な所為か、女性のものよりも遥かに硬いのです。
それに羞恥とも何とも言えない感情が湧き上がり、顔が赤く染まりました。
しかし、そうやって抱きとめられるのは決して嫌ではなく、ドクドクと鼓動が激しくなる事すら…何処か心地良いもののように思えるのです。

「それで…まぁ…俺が言いたい事は…だ」
「は、はい…」

そんなドキドキの中、気まずそうに告げる須賀君の言葉に私は緊張しながら頷きました。
これまで逃げる私を見送るだけで決して追いかけなかった彼に一体、どんな事を言われるのか。
それを思うと不安が湧き上がり、妙に落ち着かなくなってしまいます。
それでいて…期待めいた何かがあるのは…一体、どういう事なのでしょう。
自分でも分からないその感情に私がそっと胸中で小首を傾げた瞬間、彼の唇がそっと動き出しました。

「心の問題とか言われて…ほっとける訳ないだろ」
「須賀君…」

ポツリと漏らすその言葉は心苦しそうなものでした。
私の不用意な言葉で彼が傷ついているのはほぼ間違いないようです。
そう思うとまた胸の痛みが大きくなりました。
しかし、それだけではない…と思うのはその中に嬉しさが混ざっているからなのでしょう。
須賀君にそうやって気にしてもらえたと思うと妙に胸の辺りが暖かくなってしまうのでした。

「難しいと思うけど…俺に出来る事があったら何でも言ってくれ…って言いたかったんだ」
「あ、ありがとうございます…」

そう付け加える須賀君の言葉に私は赤くなった顔で小さく頷きました。
しかし、それでも彼の行動全てを説明する事は出来ません。
だって、それは全てメールを送れば済むものなのですから。
ゆーき越しに伝えてもらえれば問題ないそれを伝える為にこれだけの大事をしでかしたとはあまり思えないのです。

「…でも、それだけの為にわざわざお友達放っといて近寄ってきた上に…廊下まで追いかけたんですか?」
「だ、だって…昼飯食ってる時だったら逃げないと思ったし…流石に何度も逃げられると腹が立ってさ…」

そう誤魔化すように言う須賀君の言葉は、恐らく本心なのでしょう。
しかし、その一瞬、その瞳が泳いだ事を私は見逃しませんでした。
その言葉は嘘ではないにせよ…須賀君が何か隠している事がある。
それを見て取れるその態度に私が反射的に口を開きましたが、しかし、何を言って良いかわかりませんでした。

「それより…連絡取れないのは困るし、アドレス教えてくれるか?」
「う…はい…」

そうやって逡巡している間に須賀君はそっと胸元から携帯を取り出しました。
そのまま携帯を操作するのはきっと赤外線機能を呼びだそうとしているのでしょう。
それに合わせて私も携帯を取り出しますが、赤外線機能の呼び出し方を完全に忘れていました。
基本的に限られた人ばかりと交流を深める私にとって、そんな機能は滅多に使わないものだったのです。

「和?」
「あ…お、お待たせしました…」

そう須賀君が私に尋ねてくれてからようやく私はその機能の使い方を思い出しました。
そのまま携帯の高さを合わせて数秒。
お互いのプロフィールの送受信が終わった事を知らせる画面に、私は内心、安堵のため息を吐きました。

「よし。んじゃ…これで逃げられても大丈夫だな」
「ぅ…そんな事言わないでくださいよ…」

確かに事実とは言え、そうやってからかわれると顔が恥ずかしさでまた紅潮してしまいます。
勿論、須賀君はそんな私を見たがっていると分かっていても、ついつい私は反応してしまうのでした。
けれど…そんな自分があまり嫌ではない…と思うのは一体、どうしてなのでしょうか。

「悪い。でも、まぁ…もう逃げる様子はないみたいだけど」
「え…?」

そう須賀君に言われてから私はようやく手首が解放されているのに気づきました。
そもそもそうやって解放されていなければ携帯の操作なんて出来ません。
しかし、色々と切羽詰まっていた私はそんな事にさえ気づく余裕がなかったのです。
そう思った瞬間、手首の周りが急にズキリと疼き、反射的にそこを抑えてしまいました。

「あー…悪い。痛かったか?」
「い、いえ…そんな事ありません」

須賀君が私を捕まえるときに手加減してくれていた事なんて最初から分かっているのです。
本気で握りしめられていればきっと私は今頃、痣が出来ていた事でしょう。
しかし、私が見る限り、手首には痣がなく、赤くなってもいません。
最初こそしっかりと握られたのは事実ですが、それは痣を私に残すほどのものではなかったのでしょう。

「それなら良いんだけど…」
「良くないじぇ」
「「えっ…」」

瞬間、割り込んできたその声に私と須賀君は同時に驚きの声をあげました。
聞き慣れた特徴的な語尾に視線をそちらへと向ければ、そこには見慣れたゆーきの姿があったのです。
しかし、その頬は微かに膨らみ、まるで子どものように不機嫌さをアピールしていました。

―― まぁ…それも仕方のない事でしょう。

ある程度、ゆーきには事情を言っているとは言え、一緒に食事をしている友人がいきなり席をたって逃げ出したら良い気はしません。
その上、ようやく探したと思った二人が勝手に仲直りしていたら、面白いはずがありません。
私だって逆の立場だったら、決して拗ねたくもなるでしょう。

「さっきの可愛いとか言うアレは一体、何だったんだじぇ?」
「あ、いや…それは…」

しかし、そう思う私とは裏腹にゆーきの視線は須賀君へと向けられていました。
ジトーと不機嫌さを込めるようなそれに須賀君は申し訳なさそうに口を開きます。
しかし、それから何かしら言葉が出る事はなく、数秒ほど沈黙の帳がその空間を支配しました。

「京太郎の評判が下がるのは良いけど、のどちゃんの評判まで下がったらどうするんだ!この!この!!」
「ぬあぁ!」
「ゆ、ゆーき。そんな風に怒ってあげないでも…」

そんな須賀君の態度に我慢出来なくなったのでしょう。
ゆーきはぴょんと須賀君に飛びつくようにして、その頬を引っ張りました。
勿論、それはゆーきなりに手加減しているものだと分かっているものの、人前でそんな事をするのは流石に可哀想です。
特に今回は逃げた私が一番の原因なのもあって、そうやって須賀君ばかりを責めて欲しくはありません。

「甘いじぇ。のどちゃんはもうちょっと周りを見るべきだ」
「周り…?」

そんなゆーきの言葉に私はここがようやく廊下である事を思い出しました。
瞬間、頭の中がサァと急激に冷え込んでいくのを感じます。
お陰で今までずっと自分と須賀君にしか向いていなかった意識が周りへと向けられました。

「…バカップルめ」
「くそ…もげてしまえ…!」
「リア充爆発しろ…!」
「良いなぁ…」
「まだ始まったばっかりなのに…羨ましい…」

そんな私の耳に届いた声はやっかみ半分、羨ましそうなものが半分でした。
しかし、例えどちらであったとしても、周囲から私たちへと視線を向けられているのは確かです。
勿論、今までのやり取りも…全部、聞かれていたのでしょう。
そう思った瞬間、羞恥心が一気に燃え上がり、私の思考を埋め尽くしました。

「はぅ…」
「ほら!京太郎が馬鹿な事言った所為で思いっきり誤解されてるだろー!」
「わるひゃった。はんしぇーしてる」
「反省で足りるかああああ!」

そんなオーバーヒートする私の横でグイグイとじゃれあうようなやり取りをする二人。
それに羞恥心の奥で羨ましいものを感じながらも、私は動けないままでした。
まるでタスクが処理限界近くにまで溜まったパソコンのように思考の動きも鈍いのです。
そしてまた二人もじゃれあうようなやり取りをするのに必死で、逆に周囲の注目を集めているのに気づいていません。


―― 結局、私たちはそのまま数分ほど周囲の視線に晒され、一年の名物トリオとして一日で名を馳せてしまったのでした。