ふわりふわりと意識と無意識の波間をたゆたう、気怠げな満足感。
それはある意味自分を見失っているわけだけど、圧倒的な心地よさはそんな考えをたやすく否定し、私を捉えて離さない。
その時、意識の波が大きくなって私を運ぼうとする動きが。少し不機嫌になりつつ、しかし同時に響き渡る低い音が私を優しく包んでそっと浮上させようとする。

………みさ………かみさん………

音の誘いに従うまま、私は浮かび上がる。
目をそっと開けると薄暗い部屋の中、補助灯のかすかな光を受けて黒く縁取られた彼が私の髪を撫でながら

「尭深さん、朝です……そろそろ行きます」
「うん……」

京太郎君の優しい声に私はつい生返事を漏らしてしまった。恐らくそれで私の半覚醒状態を把握したんだろう、京太郎君はくすりと笑ってベッドから立ち上がった。
ギッと骨組みが軋むと同時に私の傍から失いたくない温もりが離れていくのを、どうしても許せなかった。
思い返すに自分でも驚くほど機敏な動作だったと思う。普段でも出来ないだろうに、起き抜けの状態の私が良く出来たものだ。
離れる京太郎君の身体、その腕を私は身体を起き上がらせて両腕で抱きすくめた。

「尭深さん?」
「……行かないで」
「いや、でも……」
「少しでいいから」

ぽそぽそと小さい声で彼にねだる。一緒にいて何をするというわけでもない。して欲しい事は色々あるけれど、ありすぎてどうすればいいか分からないくらいだ。
と言っても昨晩の続きをいて欲しいというわけではない。ないのだが、

「わかりました。とりあえず尭深さん、なにか着て下さい。目に毒です」
「ん」

そう言われて私は彼の腕を離した。
今私は京太郎君のワイシャツ一枚、ボタンを全開にして着ている。この生活を始めて少ししてから、彼から一枚もらった物だ。
もらった当初は京太郎君が着ていたという事実や染み付いた汗や匂いが感じられて恍惚と出来たけれど、私自身が秘密の寝間着として着古した今その感動はとうに失せている。
失せているが、男物の、いや、京太郎君の私物だったということは私のみっともなくも浅ましい欲望を満たしてくれる。

パンツは昨晩さっさと脱ぎ捨てたおかげでほとんど汚れていない。下着に足を通し、どてらを羽織って私はベッドから出た。
まだ春先のこの時期。朝晩は薄着できないくらいに冷え込む。

「足、寒くないですか?」
「少し…でも平気だよ」

下着一枚のむき出しの足に京太郎君が少しは反応してくれるだろうかと思ったけれど、逆に気遣われてしまった。
まぁ、もう見慣れてるだろうし。仕方ないよね。
浅慮極まりない策が見事に空振りに終わった私は、

「お茶、飲んでいって」

結局こうなるわけだ。


「モーニングティーですか」
「うん……いつも慌ただしく出て行くから、たまにはゆっくりしていって欲しいな」
「そ……うですね」

彼がふと壁掛けの時計に目をやった。いつもどおりの時間、いつもならもう部屋から出て行っている時間。
京太郎君は真面目な人だ、何事につけてもいつも時間に余裕を以て臨む。まだ日も昇らないこの時間なら、朝の点呼の時間に十分間に合う。
彼の安全のためには慎重になるべきなのは理解できるけど、その分さっさと出て行ってしまうのはさすがに不満だ。

「すぐにお湯を沸かすから、待っててね」
「お願いします」

私の部屋には20リットル程度の小型の冷蔵庫がある。そこに茶葉に湯冷まし水にお菓子といった、お茶呑みグッズが詰め込まれていた。
湯冷まし水を入れているペットボトルを取り出し、電気ケトルに注ぐ。沸騰はさせない、60度くらいの中温が望ましいけれど冷えた朝方と抽出時間を考慮して80度くらいにしよう。
沸き具合は音でわかるから大丈夫。狙った温度になるまで急須に茶葉を入れ、湯呑みを二つ用意する。
京太郎君にお茶を煎れてあげるのはもう何度目か。部活中は何度もあるがこうして私の部屋で入れるのは初めてだ。それまで男の人に煎れたこともない。数カ月前の私が今の状況を知ったらどうなるんだろう。
それにしても、こう、朝一番に男の人に、男の人のためにお茶を煎れるのって

「こういうの、悪くないですね」
「え?」

思わず京太郎君を見る。私、思わず口に出してた?

「いえ。すいません、なんでもないです」

そこは突っ込んできて欲しかったなぁ。
……悪くないって、言ったよね今。少し考え耽っててちゃんと聞き取れなかった。
悪くない、かぁ。私はむしろ、良い、ていうか。最高、というか。
あー。時間、止まらないかなぁ。
そうこうしている内に電気ケトルからゴーと何やら勇ましい音が聞こえてくる。高熱で内部の水が激しく動いている証拠だ。もう少ししたら細かい泡が出始める。
その直前が80度くらいだから、集中して耳をそばだてる。この微妙な時間がもどかしい、さっさと時間が進めばいいのに。
頃合いを見計らってケトルを台から離す。電気供給を断たれたケトルはカタンと安全弁が下りると同時に湯沸しを止める。
そのまま湯呑みの半分くらいまでお湯を注ぎ、分量を見計らって急須にもお湯を入れる。30秒くらいしたら湯呑みに煎れたお湯も急須に入れる、これで多分お湯の分量は丁度良くなったんじゃないかな。
あらかじめ注いだお湯が茶葉を開かせているから、湯出す時間は少しでいい。
湯呑みにお茶を煎れて京太郎君に渡す。

「はい」
「ん、頂きます。……あー、温まる」
「そう? 良かった」

飲み始めにそんな言葉を交わして。それからお互いに静かにゆっくりとお茶を飲むだけだった。不快じゃない沈黙。独特な時間の流れ。ちょっぴり気まずい? そんなことはない……はず。
私の手料理……というと大袈裟だけど、私が煎れたお茶を一緒に飲んで、一口に飲める程度の熱さなのに少し時間に追われている中お互いに味わうようにゆっくり飲んで。
何かを話しても良いのに。お互いに目を合わせてにっこりと微笑み合ったりしても良いのに、私はそれをしない、彼は必要だと思わない。
こうして一緒に静かにしているだけできっと満足。味わって飲んでくれてる、それだけの事実が何よりも雄弁。
でも。いくらゆっくり飲んでいるといってもそこは湯呑み一杯分。200ml程度の分量でしかも飲むのに不自由しない熱さ。
お茶を楽しめた時間は実際には5分も経っていなかった。
京太郎君は飲み終わったと思しき湯呑みを撫でたり少し弄んだりして、ベッド横においているちゃぶ台に湯呑みを置いた。
コトンと音がした。妙に大きい音がした。それはとても乾いているようなそんな気がした。

「美味しかったです。……じゃあ、もう行かないと」
「うん」

京太郎君が立ち上がる。無造作に置いてあった薄いコートを着込んで窓に手をかける。
人が動けば空気も動く。京太郎君が動いて部屋の中に無視すべき程度の気流が生まれた。恐ろしく冷たい気流が。
それは私の中に生まれたささやかな温もりを容赦なく抉り取る暴力的な喪失感だ。
……どうかしてる。いつものことなのに。どうして今日に限ってこんなに辛抱できないのか我ながら理解に苦しむ。
でも感情は止まらない。

「途中まで、お見送りさせて……」
「え……」


一応私は部の中でもトップランカーに位置づけされている。だから寮の中でも特別に個室を割り当てられている。
当然男子禁制の女子寮だ。だから京太郎君は私に会うためには人目を忍んで暗い内に窓から出入りしている。
押し切った形になるのだろうか、途中まで見送りたい私に京太郎君は何も言わなかった。その時京太郎君が何を考えたのか私はわからない。
玄関まで靴を取りに行く勇気も忍耐力も私にはなかった。パジャマのズボンを履き、裸足のまま窓から降りようとした私を見て京太郎君は靴を貸そうとしてくれたけど、私は構わなかった。
この時点で重いのは分かっていた、だからこれ以上京太郎君に寄りかかりたくなかったんだ。

「……」
「……」

紫だった空の下、私たちは無言で歩く。
張り詰めたような朝の冷気が体を刺す。思わず自分の体を抱くと京太郎君が手を取って握りしめてくれた。体がブルリと震える。寒さではなく、嬉しさで。
思い返すに彼から手を取ってくれたことはあっただろうか。思った以上に積極的だった自分自身に圧倒された日々の中では記憶に当たらない。
そう、私は自分でも信じられないくらいに京太郎君に積極的だった。
長野から東京に移ってきた彼は宮永先輩の知己だった。私生活が破綻しかけていた彼女を支えるに適任であると部長に目をつけられ、京太郎君は半ば強制的に麻雀部に在籍することにった。
宮永先輩の家族に頼まれていたこともあり、京太郎君は元から部に入るつもりだったみたいだけど。
かくして京太郎君はチーム虎姫の中に入り込んできた。やがて宮永先輩に次ぐ私生活破綻者である大星さんが加入するに至り、京太郎君と虎姫はいよいよ分かちがたい関係になってきた。
私はずっと不安だった。どうして私なんかがチーム虎姫なんだろう。右を見ても左を見てもすごく麻雀が上手な人ばかり。オーラスで役満が作りやすい以外はてんで平凡な私がどうしてここにいるんだろうって不安で仕方ない。
自信のなさは見える世界も歪めてくる。宮永先輩は私なんか眼中にない。部長は立場上仕方なく接しているだけで内心はそうでないかもしれない。せーこちゃんも同情で私に付き合っている。大星さんに至っては実力不足の私を見下している。
彼女たちの人となりを鑑みるに、そういう見方をする人たちじゃないのは分かるけれども、私は怖かった。
そんな中、やってきた男の人。間違いなく初心者で私より麻雀が下手。彼は別け隔てなく優しくて、みんなからも認められていて。私に対しても誠意をもって接してくれる。
立場も実力も私より下の人間。それは間違い無く私の中に安心をもたらした。
そうして下に見ている人間に私は遠慮なくもたれかかった。離してなるものかとしがみついた。
そしてドツボに嵌った。

「ねぇ、私達。いつまでこんなのなのかな」
「……!」

街頭に照らされたベンチ。二つの寮の境界線。それを目前に京太郎君の手からが力抜けたのを、私は握りしめて引き止める。

「ね。京太郎君」
「それは……」

低い声。懊悩に満ちた苦渋の声。
宮永先輩、大星さん。あなた達は彼のこんな声を聞いたことがありますか? などと後ろめたいにも程がある優越感が湧く。
宮永先輩と大星さんの、京太郎君に対する好意は間違いないだろう。
宮永先輩は普段のダメっぷりが加速した。京太郎君の関心を惹きたいからだ。
大星さんは媚びるようにじゃれついたりつまらないことで突っかかる。京太郎君に構って欲しいからだ。

「京太郎君って……ずるいよ」
「……」

本当にずるいのは私だ。京太郎君に優しくして欲しいから彼を誘惑した。他の誰かのものになって私への関心が薄れてしまうのを恐れた。
同時に私が逆立ちしても敵わない二人の懸想相手を夢中にさせられたら、どんなに気持ちいいだろうかという下卑た考えもなかったわけじゃないだろう。
不安から逃れるために、誰かの優位に立ちたい為に、私は見下している相手に身体を差し出した。


当時の私が目の前にいたら顔の原型も留めないくらい殴り潰したくなる。

「ずっと私から。一方的」
「申し訳、ありません」
「謝って欲しく……ないかな」

私が始めて、私が続けて。
私が誘って、私が求めて。
ねぇ、京太郎君。私の部屋に行きたいって言っていいんだよ? お茶だって私が用意してもいいし、飲みたいなら言ってくれてもいいじゃない。
私さ、もっと手を繋ぎたいの。手を繋いでさ、ベッドに寄り添ってお話しようよ。裸になるのはいいけど、するだけして終わりって味気ないじゃない。
あなたの目に私は映ってるのかな。瞳を鏡に出来るくらい見つめ合いましょうよ。気まずそうに目をそらしたりしないでよ。あなたの考えが知りたいの。
どうしてかな、あんなに身体が近づいてもちっとも心があなたの傍にあると思えない。こうして隣に立っていても出会ったあの頃のほうが居心地良かった。皮肉だね。

「ん、あ、ごめん、そろそろ時間だね……私も早く戻らなきゃ」
「尭深さん……」
「ほら、早く行きなよ。先輩と大星さんの相手をするのは時間がかかるでしょ?」
「えぇ、まぁ。…………………それじゃ」
「うん、今日は、ありがと。……ありがとね……」

そうして手が離れ、京太郎君は男子寮へと歩いて行く。
……振り向いてくれないかなぁ。私の方、気にしてくれないかなぁ。
ねぇ京太郎君、私、あなたの事好き。好きよ。
自分の優位を確保したいがために京太郎君を求めない。あなたを道具としてみなさない。
今も少しだけ自分の弱さとか、他のみんなが怖いの。でもそれ以上に京太郎君を失うほうが怖いよ。振られたくないの。
お願いだからさ、好きだって言ってよ。セックスしてる弾みで言うんじゃなくて普通になんでもないときに好きだって言って欲しいよ。
京太郎君……こっちを見てよ。好きだって言ってよ。痛いくらいに私を抱きしめて、離さないでよ。

「…………ひ…………っぐ…………」

京太郎君の姿が男子寮の奥に消えても、私はしばらく外に立ちすくんでいた。
京太郎君が振り向いてくれるのを待っていた。


時間は進み、日は昇る。個々人の意志の介在を許さず日常は容赦なく進められる。
打ちのめされた私を残して世界は朝に向けて活気を得ていく。
こんな格好のまま外にいたのでは何事かと思われてしまう。眼鏡をあげ両手でぎゅっと目頭を押さえて、何とか感情の迸りを止めた。
さて、まずは足を洗わなきゃね……。

朝の点呼を終えると次は着替えて朝食だ。重い足取りをどうにかこうにか運ばせて私は食堂に行く。
とにかく私は急いで食べようとした。残すとせーこちゃんとかがうるさいから出来ないけど、もし残せたら間違いなく全部残して部室に駆け込んでいただろう。

「ほら、淡。座れ…って突っ伏すんじゃない! 朝ご飯に突っ込むつもりか。あっ、くそ、離せ、どうなってるんだこの髪は……!」

そうこうしている内に部長が大星さんを部屋から連れてきた。まずいまずいまずい、早く食べなきゃ。
隣にいるせーこちゃんが「今日は急いで食べるね、お腹すいてたの?」なんてのんきに聞いてくる。曖昧に答えて濁しておく。
食欲なんて全くない、それでも早くここから出ないと……。

「みなさん、おはようございます。部長、照さんいますか?」
「ぬっ、くっ、照ならいつも通り、部屋で寝てる……よっとぉ! 淡! 切るぞこれぇ!」
「あ、それ切っても大丈夫ですよ、すぐ伸びてくるから」
「なんだそれ怖いホントに」

うぅ。早い。いつもどおりの時間のはずなんだけど早く感じる。それはきっと私の問題なんだろうけど。
かという私はようやく朝食を半分ほど進めたところ。食べるのが速い方ではないけれども急いでもこの体たらくなんだもんなぁ。
気まずさでいっぱいの私は思わず顔を伏せてしまう。京太郎君はそんな私に気付いているのいないのか、さっさと食堂を抜けて宮永先輩の個室へと向かった。
そしてすぐに戻ってきた。制服姿でお姫様抱っこされている。まるで猫のように顔を京太郎君の胸に寄せている。
傍目から見れば可愛いのだろうか、しかし以前せーこちゃんが同じようにお姫様抱っこしたら顔を外に向け、腕も下に垂らしていたから絶対にあの仕草は故意だ。


「よいしょっと。はい、照さん、朝ご飯だから食べましょう。はい、お箸ですよーわかりますか」
「うー。分かる、分かるよ……この黄色い目玉みたいなのは何?」
「その名の通り目玉焼きだ。じゃあ須賀、淡も頼む。なんだか気持ち悪くなってきた」
「了解です。おーい淡、髪の毛で食器を掴むんじゃない、行儀が悪いぞ。」

京太郎君は男子寮でさっさと朝ご飯を食べたらこうして大星さんと先輩の朝の準備を手伝うためにこうして来ている。
女子寮が公的に男子を迎え入れる唯一の例外だ。部長の負担の軽減のためとはいえこれはどうなんだろうとは思う。
なんて、密かに一夜を共にしている私が言えた義理じゃないけど。
慣れた手つきで京太郎君が二人の食事の手伝いをしている内に私の方はなんとか食べおおせることが出来た。いつもより少し早く食べられただけでその目論見は見事に叶えられなかったけど。

「ご馳走様でした」

そう言って去ろうとすると、

「あの、渋谷先輩」

その時私は一刻も早く寮から出ようと躍起になっていたから、去り際に後ろからかけられた小さな声に気付かなかった。
気付かなかったけれど、なんとなく呼ばれたような気がした私は後ろ振り向くと、
目が、
あった。
そして彼はすぐに先輩と大星さんの方に顔を向けてしまった。
私はそのまま寮を出た。目があった、たったそれだけのことに胸を弾ませながら。

「今夜、先輩の部屋に行っていいですか。大事な話があります」

放課後の部活中、京太郎君がこっそりそう伝えてきた。
問い返す間もなく、京太郎君は他所へ行ってしまったので、私は巻き起こる頭の中の暴風雨をどうすることも出来ない。
もうなんにも集中することなんて出来なかった。あたり前のことだけど、部活の練習もさんざん。チョンボなんて何年ぶりだろう?
部活の帰り際、また京太郎君と目が合った。もう何が何だか分からない。朝から今日は何を起こして何が起きているのか。
今日だけで一ヶ月近く過ごしているような気がするよ。

「はぁ……」

夕食時、部長がため息をついていた。今夜のことについてあれこれ考えたくない私は取り敢えず話しかけてみることにする。

「あぁ……少し面倒なことになりそうなんだ」
「何がですか?」
「うーん………」

部長が腕を組んで呻いている。この人も部長職を引き継いでからこうして悩むことが多くなった。
白糸台の部長ともなると気苦労も多いのだろうかと思うけれど、悩みの多くはやっぱりあの問題児二人なんだろうな……。

「まぁ、尭深もチームの一員だしな……伝えてもいいだろう。あのな、須賀が部を辞めるかもしれないと伝えてきたんだ」
「え……」
「あくまで可能性の話だが、ということだ。明確な答えは近日中に出す、と。もともと無理矢理部に入れたようなものだし、本人がそう言うなら止めようがないが……しかし痛い」
「近日、中……」
「照と淡二人を押し付けたのはやっぱキツかったのかなぁ。でもあの二人を御せるのなんて須賀くらいだし……ったく、当の二人は夕飯を要らないなんて言ってるし、わがままにも程がある……て尭深? どうかしたか」
「なんでも、ないですよ」

そう答えるのが精一杯だった。
思考は止まらない。京太郎君が部を辞めるかもしれない。なんで? 先輩と大星さんの相手が疲れたから? 他に入りたい部があるとか? 麻雀が弱いから?
私が、私との関係が、鬱陶しくなったから?
分からない、部を辞める理由なんて分からないけれども、客観的に見てどれが京太郎君にとって無視できない事柄かなんて、私以外にないような気がする。
だって……重いよね。自分の為に京太郎君を誘って、それだけで済ませればいいのに私はそれ以上を彼に望んでいる。
私は身体を差し出したのであなたの心を下さい、なんて理不尽極まりないだろう。勝手に始めたのは私なんだから。
今日、私の部屋に来るのは何で? 京太郎君から来たいと言ったのは初めて。期待していいの? それともあなたはとどめを刺すつもり?
止せばいいのに考えはどんどん悪い方に繋がっていく。挙げ句の果て、捨てられること前提で私はこれからどうしよう、死のうかなんて考えだす始末。
そうやってさんざん怖がって逃げ出したい、来ないで欲しいなんて思っていつつ、お風呂では折角京太郎君から来たいって言ってるんだからと、いつも以上に入念に体を洗う私がいるのだった。
こいつどうにかしろよもう。


夜10時から就寝時間。と言ってもそれは建前で実際はみんなしばらく談話室でお話したりテレビを見たり勉強したり、麻雀卓で鳴き無しののんびり麻雀をしたりする。
要は外出禁止時間がそれであって、みんなが本当に寝るのはもう少し後だ。就寝時間前に寝る人もいるけど。
本当の就寝時間は0時少し前。つまりそこからが……

コンコン

私と京太郎君の時間になる。

「尭深さん、須賀です。窓を開けていただけますか」
「……キョッ」

緊張のあまり声が上擦って奇妙な鳴き声になってしまった。京太郎君が錠のかかった窓の向こう、訝しげに羞恥に赤く染まる私を覗きこむ。

「キ、キョうは、何の用事、キョッ太郎君」

もうやだ死にたい。

「今日は……」

そうやって言い貯める京太郎君はいつも以上に凛々しく見える。力が漲っているというか、瞳に決意が満ちているようだった。
その決意が一体何なのか私には把握しかねるのに、ただその力強い表情に惹きつけられる。
顔は赤く、胸の鼓動も止まらない。しかしその質は変質してきて、視野と思考の中心に京太郎君が居座ってくるようになる。
あぁ……もうどうにでもなれ。

「ケジメを、付けに来ました」
「ぇう……は、入って」
「失礼します」

そうして侵入してきた京太郎君。途端に広がる男の人の香り。急いで来たのか、汗混じりのその香りは揮発性高く、全く間に部屋に広がって私の鼻腔と脳内を刺激する。

「えっと、じゃあ、早速する? まだ少し時間が早いから、最初は控えめに」
「尭深さん、違います」
「えとえとね、いいよ、そんな遠慮しなくて」
「尭深さん、お茶をいただけますか。あなたのお茶がほしいです」
「お……茶……?」
「はい……まずは、一服しましょう」

お茶がほしいと言われたら誤魔化せない。どうにかはぐらかそうとしたけれど、私のお茶が飲みたいなんて言われたら……。
私はお茶にこだわりを持っている。その私のお茶を認めてくれるというのは、やはりそれは私の嗜好を認めてくれるということだ。嬉しくないはずがない。
少し汗ばんでいる彼。今度は温めにしてあげよう。本当ならじっくり氷水から出した氷出し茶が良いんだけど、それは出来上がるのに一日二日かかる。
いつものように電気ケトルに水を注いでスイッチを入れる。その間に素早く茶葉と湯呑みの準備。途中、京太郎君をチラリと見てみると彼はクッションを引っ張りだして勝手にちゃぶ台の傍に胡座をかいている。なんか、亭主臭い……うわわ何考えてるんだろ私。
電気ケトルからジリジリと音が鳴り出してから十数秒ほど。それくらいのタイミングでケトルを取って湯を湯呑みに注ぐ。ちょうど60度くらいの温めのお湯になる。

「湯出すのに少し時間がかかるけど」
「構いません。むしろ申し訳ありません、手間を掛けさせてしまって」
「いいよ、好きな事だから気にしないで」


温茶は緑茶の正しい出し方だ。緑茶の苦味であるカテキンは高温であればあるほど抽出されやすくなる。低音であればほとんど出てこなくなるため、氷出し茶にするとほとんど甘味しか出なくなる。
温茶ではさすがに抽出されるけれど、熱茶ほどではない。苦味と旨味、そして甘味の調和が一番取れるの温茶だ。
一分ほど静かに蒸らしたお茶を湯飲みに注ぐ。最後の一滴まできっちり出さないと味が落ちる他、茶葉の劣化にも繋がるから要注意。きちんと入れれば二番出汁でも三番出汁……はさすがにきついけれど、きちんと味は出る。
差し出したお茶を京太郎君が少し見つめてからクンッと飲んだ。勢いが良い。なんだか緊張する。白糸台を受験した時の面接試験よりも緊張する。

「あぁ………美味い」
「そう。良かった」

良かった、本当に良かった。多分呼吸止まってた私。妙に息苦しいもん。

「朝よりもだいぶ温いですね」
「うん、少し汗掻いてるみたいだし。熱いほうが良かった?」
「いえ、お気遣い通り温くて良かったです。ただ一つ難点を言うなら、すごく味が良いのに……んっ…すぐ飲み干せてしまうことですね」
「ふふ……もっとたくさん入れれば良かったかな」
「いえ、よく味わいもせず一気に飲んじゃった俺が悪いんで、この一杯でちょうどいいですよ」
「そっか」
「はい」
「……」
「……」

ふと、会話が途切れる。京太郎君がコトリと静かに湯呑みを置くと、キッと私を見つめてきた。あ、なんかマズイ流れ。どうにか話題を振ろうとしたけれど、その前に京太郎君が口を開いてしまった。

「お話が、あります」
「……はい」

もう、逃げようがない。心臓が嫌な音を立てる。

「こうして尭深さんの部屋に来ること、もうやめにしようと思います」
「……そっ………か……」

あぁ……やっぱりそうか。こうなったか。不安で凍りついていた心が諦めでほだされるようだ。

「……照さんと淡に、これ以上一緒にいられないと伝えました」
「…え?」
「勘違いさせてすまないと。あなた達の気持ちには答えられないと」
「ど、どういう……こと……」
「好きな人がいるから、と……」
「好きな、人……」

好きな人。え、それは誰?
誰なんだろう。気づきもしなかった。好きな人が出来たから先輩と大星さんを振った。振ったということは、京太郎君は二人の気持ちに気付いていたんだ。
そしてきっと私の気持ちにも気付いている。今彼は、好きな人のために関係の清算をしているんだ……。


「尭深さん。あなたが好きです」
「………ぇ」
「今までハッキリせずに申し訳ありません。ズルズルと甘えに甘えてあなたに負担をかけ続けて申し訳ありません。なぁなぁで済ませ続けてどっち付かずでいた事はもう本当に最低だったと思います。それを承知で、今言わせて下さい」
「……」
「渋谷尭深さんが好きです。正式に恋人として一緒にいさせて下さい」

京太郎君はクッションを退かすと跪き、両手と頭を揃えて地面につけた。土下座だ。

「きょ、京太郎君、そんな、頭を上げてよ」
「俺は!」

静かに、しかし力強く彼は叫んで私を制止した。

「全部、分かっていました。照さんが、淡が俺の事好きだって。俺の気を惹きたいからあぁやって甘えていたんだって! 分かった上でハッキリさせないでいて、一方尭深さんと夜な夜な淫らなことをしていたんです。
それが、一番気が楽だったから……気持よかったから! 俺なんか足元にも及ばない人たちが俺を巡って意地の張り合いをしているんだって優越感に浸っていました。全部……分かった上で…くっ……」
「それは……それ、は」

京太郎君の身体が震えている。震える度に、彼の手の甲にポタリポタリと雫が落ちていく。
彼はこうして吐き出している自らの惨めさとあざとさと、申し訳なさに圧倒されているんだ……。

「俺は……そうやってあなた達を食い物にするように、あなた達を傷つけてきました。軽蔑すべき最低な行いをしてきたんです。それを……今朝身に滲みて、思い知りました」

今朝……私が気持ちを抑えきれずにやってしまった、不文律を破いた数々の行為、要求……。

「尭深さんの我慢する姿、傷ついた姿をもう見たくなくて……だから、終わりにしようと思ったんです。それでも、こんな愚かな俺ですけど、尭深さんの恋人になりたいんです」
「……今朝さ、別れた後、私、泣いちゃったんだ……知ってた?」
「っ! 申し訳ありません……傷つけて……」
「同情なんでしょ? 目の前でこれ見よがしに傷ついてる女がいたから、取り敢えず何とかしようと」
「違います! そう思われて仕方ないかもしれないけど、違うんです」
「違わないよ。取り敢えず慰めておこう、キープしておけばこっそりセックスできるし、気軽に遊べる都合のいい女だって」
「やめて下さい!!」

密会していることを忘れてしまったのか、京太郎君が叫んで詰め寄ってきた。
私の方を掴み、今までにない必死な形相で。


「こんな女のどこが好きになるの? 都合よく勝手に始めた関係で、私はいつの間にか君に多くを要求している。過分なまでに」
「過分なんかじゃない。正当な要求をしただけです。俺の気持ちを、しっかり伝えろと。始めたのは尭深さんかもしれないけど、爛れさせたのは俺です。
俺が、ハッキリしないから」

それでも私は止められない。本当は嬉しいくせに、悲しみを装って京太郎君の主張を退けようとする。私の醜い部分を次々に吐き出す。

「ハッキリしないのは私も同じ。私なんてそうやって関係を引き伸ばしつつ陰ながら宮永先輩や大星さんにいい気になってたんだよ?
あなた達が好きな男は毎晩私の横で寝ているって。麻雀は強くても女としては弱いなって嗤ってたんだ」
「そんなの、俺だって似たようなものだ。それに、人間誰しも少なからずそういう面はある。優しいだけの人間なんていないし、悪意だけで人間は動いているわけじゃない。
尭深さんも他人を嗤うだけの人じゃないって俺にだって分かる」

私の汚い部分を知っても京太郎君は怯みもしない。言う度にそれを否定してくる。私は眼前の輝かしい存在を貶めんが如く、なおも飽きたらず彼もろとも私自身を罵倒する。

「あなたに私の何が分かるっていうの? 知った風なことを言わないでよ、私がどんな思いであなたに擦り寄って部屋に招き入れて、服を脱いだか分かるっていうの?
そんな阿婆擦れじみたことをする女の優しいところって何よ、良いところってどこよ」
「尭深さんは……優しい人だ。控えめながらもこっそりと気遣いをしてくれる、濃やかな人です。あなたに微笑まれると人は気分が安らぎます。
あなたの煎れるお茶で一服すると心まで洗濯されるように感じます。誰かが困っていると声をかけずにいられない人です。
誰かの苦しみや悲しみを癒そうとそっとそばに居てくれる。一緒にいると、安心と力強さを感じられます。自分を卑下しないで下さい」

そんなことはないと私はそれでも自分を蔑む。彼に否定して欲しくて、汚い部分を曝け出した彼に認めて欲しくて、こんな醜い私でもあなたを好きでいて良いと思わせて欲しくて愛して欲しくて愛して欲しくて愛したくて!

「私は! 宮永先輩が嫌い! 私なんか眼中にないから。部長が嫌い! 立場上仕方なく接しているだけでどうでもいいと思っているから。
せーこちゃんが嫌い! 惨めな私に同情で傍にいるだけだから。大星さんが嫌い! 実力不足の私を見下しているから」
「俺は知ってる。あなたは照さんのことを心配している。迷子にならないように、なにか変な間違いをしないようにそっと見ている。部長はあなたを頼りにしている。あなたは些細な事でも真剣に考えてくれるから。
亦野先輩はあなたのことを認めている。あなたも亦野先輩のことを認めている。二人ともお互いに気安く接してるじゃないですか、仲が良い以外に何があるんです。淡はあなたに甘えている。辛いことがあると大体あなたの方へ行く。抱きしめて頭を撫でて欲しいと思っている。
尭深さん、あなたはみんなから必要とされている。無くてはならない人なんだ」
「ぅ……う……あぁ……」

私は……私はもう顔を上げられなかった。嬉しくて、情けなくて、みっともなくて、嬉しくて、惨めで愛おしくて嬉しくて抱きしめてたくて訳が分かんなくて。
握って欲しいのに振りほどこうしている手を握ってくれるのが。
捕まえて欲しいのに逃げ出しているのを捕まえてくれるのが。
受け入れて欲しいのに拒絶しているのを受け入れてくれるのが。
沸き起こる矛盾した思いが極まって目から止め処なく溢れてきて。
気がついたら私は京太郎君の腕と体に挟まれ、包まれていた。


「たとえあなたが自分をどう思っていようと、どんな尭深さんであろうと、俺はあなたを好きでいる。それを、止めないでほしい」
「きょうたろうくん……きょう、たろうくぅん……!」

矛盾という酸っぱいブドウが尽き果てた先は――

「あ、あなたが好き! ずっと、見て欲しくて、好きだって言って欲しくて抱きしめられたくて! で、でも私、怖かったの! だって、こんな私なんて駄目だから……身体で勝負するしかないダメな女だから!
怖かったから、一生懸め、人の話を聞いて、練習、して、お気遣いとか、して! 認められ、たくて、でも怖くて! これで良かったのか、怖くて!」
「無理なんてしないで下さい。あなたはちっとも駄目じゃない。すごく立派な女性です」
「う……ひっぐ……私、ぢゃんどやれでる?」
「これ以上ないくらい素敵です」
「う、れしい、よぉ……京、太郎ぐん……してぇ……キス、してぇ……ん、むぅ……はぁ…ギュッて……ギュッてしてぇ……あ、はぁ……京太郎君」

見つめ合うと、紅潮しつつも目が潤んだ愛しい彼の顔があった。その瞳に、彼に負けないくらい真っ赤に泣きはらした顔の私があった。
もう何も考えられない。もう京太郎君で一杯で。

「死ぬほど愛して」

激しい夜になりそうだった。
激しい夜だった。
激しい夜にした。


結局、なんで部活を辞めるかも、というと。
先輩と大星さんの面倒を見ない上振った以上、部における在籍理由がないというか、いるほうが悪影響をもたらしかねないからだと判断したという。なんだか凄い自信過剰だ。無理もないかもしれないけど。
私と結ばれようとなかろうと、三人を巻き込んだケジメをつけようとしたらしい。勝手な理由だ、結局逃げじゃないか。
さんざん私を説教し倒した張本人がそんな体たらくでは納得いかないので、

「先輩と大星さんには別に今まで通りでいいよ」
「い、いいんですかね」
「女ってのはそんなに弱い生き物じゃないよ。それにあなたを好きにはなれませんサヨウナラ二度と会いませんって冷淡すぎると思わない?」
「ぐ……まぁ確かに」
「ま、私の彼氏になった以上それなりの線引は必要だと思うけど? そこらへんは京太郎君の方で上手くやってね。浮気っぽい事したら泣くけど」
「難しいこと言いますねぇ、淡は多分遠慮なく来ますよ……それになんですか、泣くって。やめてくださいよ凄い居た堪れないじゃないですか」
「なら重畳。殺すとか死ぬとかそういうのはいくら何でも無茶だし……えっと、別れるっていうのも……辛いし……まぁ、彼女を悲しませないでねって話だよ」
「……なんか、強かになりましたね」
「色々吹っ切れたからね。私も、怖いよ不安だよとかそればっか言ってられないし。それに……」

「おい尭深! ドアを開けろ! 扉の前に何を置いているんだ! おい誠子、窓から様子をうかがって来い。おい尭深! 点呼に出ろ、起きているんだろう!?」

「どうしよう」
「昨晩はちょっと頑張りすぎましたね……取り敢えず靴は回収して隠れます」
「うん……どうせ臭いでバレるだろうけど……さて。頑張ろう」

カン