山道は半分にさしかかる。

平地に近づくにつれ星空は遠のいていくようで、京太郎はぼんやりと空を見上げ続ける。

来る時からその素振りが気になっていた淡だが、ここにきてようやく、その理由に思い至った。

ようするに、彼は懐かしがっているのだ。

山から見る星空というヤツを。

「大星」

不意に、京太郎は見上げたまま問いかけてきた。

「ひとつ聞きたいんだけど、君に後悔はあるのかな」

両手を上着のポケットにいれたまま、白い息をする京太郎。

淡にはその姿が、幻のように遠く感じられた。

「……どうしたの、突然そんなこと聞いて」

「いいから、答えて。聞きたいんだ。

君に、悔いはあるのかないのかを」

……それは、哀しい問いだった。

なんと答えても彼は多くの物を失うのだろう。

それでも答えを求めている以上、淡はさっぱりと返答する。

「ないわよ、そんなの。だってそれをしない為に、今を頑張ってるんだもの。

後悔なんてのはね、京太郎。するものじゃなくて、無くしていく為にあるものなのよ」

「――――」


……ああ、と。

噛みしめるように、彼は万感の想いを葬った。

もう形も匂いも薄れている全てに、手を伸ばさず、手を振った。

「そうか。後悔も、無くなるものなのか」

呟く顔にはかすかな痛み。

ただ、鮮やかで。

そう言い切れるほど自分は強くはないけれど、それに焦がれている。そう言い切れる彼女に、強く焦がれている。

なら、いつか

いまは、空も闇も遠く。

今日だけの景色が、いつまでも美しく思えるのなら。

残してきた幾つかの悔いが、星のように思える日が、いつかはあるのだろうか?

「いい空だね。町じゃ、ちょっと見れないよ」

見上げる京太郎にならって、淡は暗い空を眺めた。

星は町でのそれより強く輝いている。

澄んだ空気と、明かりのない闇のおかげだ。

それを憎むような眼差しで京太郎は見つめていた。

……こんなにも綺麗な星なのに、それを偽物と決め付けるように。

「……そうだね。でも、ここでも手は届きそうにない」

「え……?」

突然の否定に驚いて、淡は京太郎の顔を覗き見る。

……憎むような瞳は、もうくすんだ色に戻っていた。

一呼吸して京太郎は呟く。

視線はいまだ星空に釘付けたまま。


一呼吸して京太郎は呟く。

視線はいまだ星空に釘付けたまま。

「長野ではね、大星。星は本当に手が届きそうなんだ。届かないのは分かっていても、望めば
本当に掴めそうなぐらい近いのに。都会の星は、そう思う事さえ許してくれない」

それが本当のソラ。

彼の語る山の星空は、天象儀より素晴らしい物だった。

降り注ぐ雨のような、回る星々。

指でなぞるだけで観測できる、原初のままの夜空。

……それは、彼にはもう戻る事のできない、帰り道すら知らない故郷。

「……今まで、目に映るすべてを山と比べていた。こんな場所は、本当は嫌いだったんだ。
今でも、正直なじめない。でも、いつか比べるのは山になってしまうんだろう。
自分は、こっちに下りてきてしまったんだから」

それが今までの後悔。星空から視線を離して、京太郎は淡へと視線を向ける。

いつもとは違う、ためらいがちの彼女の瞳が、少し痛い。

それは自分への同情か、それともただの憐愍か。

……そのどちらにしたって、彼女らしくない瞳をさせているのは自分だ。

淡の無言の問いかけに、京太郎は目を閉じてうなずいた。

「……うん。それは仕方のない事だ。

ただ、そうなるのなら、そうなってしまう以上に、すばらしい物を手に入れないといけない。

後悔を、いつか、後悔と思わないために」

彼は感謝するように、そう告白した。

古いカラは捨てなければいけない。

喪失は踏み越えなければならない。

それが、淡の答えで彼が失った、彼の全てだったモノ。


「……やめてよね。私の一言でいちいち人生観変えられちゃ、荷が重いじゃない」

向けられた笑顔があんまりに柔らかくて、淡は顔を背けながら憎まれ口を言う。

……本音である可能性も大きいが、それはそれで彼女らしい。

道は、もうじき平坦な路面に戻ろうとしていた。

柔らかな土の地面は、畦道の固い土の道になるのだろう。

その前に、ぴたりと京太郎は立ち止まった。

目を閉じて、耳を澄ます。

その後にうん、とうなずいて淡に向き直った。

「おめでとう、大星」

淡はわけも分からず目をまたたかせる。

「なによ、突然」

当然の反応。

それに、少年はほころぶように、

「新しい年だ」

喜びに満ちた笑顔で、そう返答した。

「――――」

淡は呆然と、ただ彼の顔を見てしまう。

あまりの不意打ちで、遠く離れた社木から除夜の鐘が聞こえた気がするぐらいだ。

今日が今年最後の日だと知っていたのに、彼女はそれをどうとも思っていなかった。
なのに、たった少しの言葉だけで。

遠い昔に置いたままの、鐘の音の奇跡を信じていた少女が振り向いた気がしたのだ。

「そっか……午前零時で、もう新しい年なんだ」

知らなかった事のように淡は呟く。

その口元に、少しだけの微笑みを浮かべて。


……そう。

思い出の中で振り向く少女は、初めての振り袖なのに緊張の素振りもなくて、あんまり可愛くはなかったけれど。

それでも、鏡越しに微笑んでしまうだけの愛らしさはあったのだ。

温かそうな淡の顔を見て、京太郎は満足そうに目蓋を閉じた。それが何より嬉しい、と言うように。

「うん、色々あったけど。

新しい年を、君と迎えられて良かった」

そう言って京太郎は歩きだした。

たぶん、こんな夜なのにひとりで待っている照の為に。

その横を歩きながら、淡はさっきの言葉をもう一度だけ思いだす。

新年を告げる言葉。

本当に自然に告げられたあの一言のせいで、もう何年も前から知り合っている友人の気さえした。

それをとても幸福な事だと感じるのは、たぶん間違いじゃないはずだ。

いずれ、この少年ともあっさりと別れる日が来るのだろうけど。

その時まで、こんな風に自然に、古い友人のように付き合えるのなら、それは悪いことじゃない。

一見素朴な、けれど特異な少年。

彼との束の間の友情がいったい何時まで続くか考えながら、淡は足を進ませる。

途中で一度だけ、京太郎のように、名残惜しく夜空を見上げてから。

空には満天の星の夜。

ふたりは届かない星空の下、山道を下りていく。