ここは南アルプスの何某岳にある、人が滅多に足を踏み入れる事の無い渓流。

ヒュンヒュンと音がしたかと思うと、虫らしき何かが水面に落ちる。

その虫らしき何かは水流に乗って流れるが突如消えてしまう。

……ピシッ!

張りつめた音がすると、虫らしき何かが消えた場所でバシャバシャと水音がする。


「よし! 来たぞ!」


川縁でウェダーを履き、フィッシングベストを着て帽子を被った京太郎が6ftのフライロッドを操りながら小声で呟く。

そのまま器用にロッドを操作し、掛った魚を手繰り寄せていく。

手の届くところまで寄せると背中に吊っていたランディングネットで魚を掬う。


「綺麗なイワナだな…… 大体25㎝くらいか?」


綺麗なニッコウイワナだった。

魚にダメージを与えない為に水に漬けたままの状態で写真を撮る。

その時、背後から声がかかった。


「どう、京太郎。釣れた?」

「ええ、釣れましたよ。ほら、綺麗なイワナです」


振り向きながら答える京太郎。

そこに居たのは白糸台高校麻雀部の副将・又野誠子。

彼女は赤い長袖の上に白い半袖のシャツ、藍色の長ズボンを履き麦わら帽子を被っていた。


先ほどの会話から一時間ほどそれぞれ勝手に釣っていた二人だったが、お昼時になったので比較的開けた川岸で落ち合った。

京太郎、誠子とも携帯に便利なおにぎりが昼食だった。


「誠子さん、あの後どれだけ釣りました?」

「ん~……二匹。調子が悪くてね…… 京太郎は?」

「俺も調子が悪いですね…… 三匹ですが内一匹はメダカサイズですよ」


会話しながらおにぎりを頬張る二人。

東京・白糸台の又野に長野・清澄の須賀。

片方は女子で片方は男子、この一見接点の無さそうな二人がどうして一緒に釣行しているのかと言うと……

誠子のチームメイトの宮永照、京太郎のチームメイトの宮永咲。

この二人に流れる宮永家の宿命的な性質が1か月ほど前のインターハイで仲立ちした結果とだけ言っておこう。

経緯はどうであれ同じ「釣りキチ」の二人、お互いの趣味を知った瞬間に親友もかくやと言った勢いで親しくなった。

今回は夏休みを利用して長野県の渓流でイワナを釣りに源流行と洒落込んだ二人だった。


「それにしても京太郎のフライはよく釣れる…… それ手製でしょ」

「当然ですよ、フライフィッシングは自分で作った毛バリに魚を喰い付かせるのが醍醐味ですから」


ちなみに京太郎は川ではフライフィッシング専門だ。


「ちなみに今日は何使ってるの?」

「CDC・カディスですね、ボディの色はオリーブです」

「この時期だとカディスよりもテレストリアルのほうが良くない? アント・パラシュートとかさ」

「確かにそうですけど…… やっぱり、カディスに拘りたいんですよね」

「ああ、その気持ちわかるな」


フライに使う毛バリは似せる昆虫によっていろいろな種類がある。

メイ・フライ(カゲロウ)、カディス・フライ(トビケラ)、ストーン・フライ(カワゲラ)、ミッジ・フライ(ユスリカ)、テレストリアル・フライ(陸生昆虫)等々……

京太郎はカディスに拘りがあるようだ。

持ってきた携帯ストーブでお湯を沸かして淹れたコーヒーを啜りながら会話を続ける二人。


「誠子さんはやっぱり餌釣りですか」

「京太郎が拘りたいのと一緒さ。もちろんミャク釣りで餌は現地調達」

「で、今日は何をメインに使ってるんですか?」

「クロカワだね」

「あぁ、ヒゲナガの幼虫ですか。確かにこの季節は他の虫の数は減ってますからね」


渓流での餌釣りのエサには水の中に住んでいる昆虫の幼虫が良く使われる。

こう言った幼虫期を含めて一生の間にの中で生活するスタイルを持つ昆虫は水生昆虫と呼ばれる。

しかし夏ではほとんどの水生昆虫が成虫になってしまい、幼虫の種類や数はグッと減ってしまう。

クロカワ(ヒゲナガカワトビケラの幼虫)は少なくなるが全く居なくなる訳では無いのでそれを利用しているのだろう。


「さて…… お昼も終わった訳だけど……」

「結構気温が上がってきましたね…… これだと食いが悪いですね……」


ここは山の中であるが、流石に真夏である。

これでは釣果は期待できないと考えた二人は幕営(テントでの宿泊)に適した場所を探して沢を上ることにした。

もちろん上る途中でいいポイントを見つければ竿を出したが…… 予想通りいい結果は出なかった。

4時位になった頃にちょうど良い幕営ポイントを見つけた二人、急いでテントの準備を始める。

テントの準備が終わった頃には陽も落ち始め気温も下がってきた。


「そろそろ良い時間になってきましたね」

「うん。丁度いい具合に涼しくなってきたね」


そう言って竿の準備をする二人。


「それじゃ、釣れたイワナのうち25㎝以上の奴は夕飯用にキープしようか」

「了解です。でも、キープしすぎても何ですから一人2匹までにしましょう」

「ん。分かった」


さて、イワナを釣るべく別れた二人。

誠子は少し下流のポイントを目指した。


「ん~…… ここが良さそうだな……」


そう言って竿を振って餌をポイントに打ち込む。

渓流では餌釣りをする際にウキを使うことは殆どない。

ウキを使用すると渓流独特の速い流れに流されてしまって、餌がうまくポイントに留まらないからだ。

だからミャク釣りと言う方法が使われる。

この釣り方はテグスをピンと張って、魚の微妙なアタリを感じてアワセる釣り方だ。

誠子はテグスに着けてある目印に神経を集中させる。

上手く流して餌をポイントに誘導する。

餌が速い流れから遅い流れへの変わり目に来た時に目印が一瞬沈み込む。


「! 来た!」


すかさず、手首を返しアワセる誠子。

水面でバシャバシャと魚体が跳ねる。

巧みな竿裁きで魚をスッと寄せてランディングネットに取り込む。

30㎝を超える綺麗な魚体のイワナだった。


「これで一人分のオカズは確保できたな…… 次のポイントに行くか」


そう言って移動を開始する誠子。

その後も順調に釣果を上げていった。


完全に暗くなる前に二人はテントに戻ってくる。

京太郎の釣果も上々だったようだ。

釣り道具を仕舞った二人は、あらかじめ集めておいた枯れ枝で焚火を始める。

火が落ち着いてきたので飯盒でご飯を炊き、串に刺した魚に塩を振り焚火のそばに並べて塩焼きを作る。

夕飯用にキープできた魚は京太郎の分も合わせて4匹、2匹は塩焼きにし、残りは刺身にした。


「いただきます!」


そう言って食事を始める二人。

お腹が空いているからか、または空気の綺麗な山の中での食事だからか、その夕餉の味は別格だった。


「それでね…… この間、淡が……」

「アハハハハッ! 大星っておっちょこちょいですね。ウチの咲と同じだ!」


出来上がった夕食を食べながら談笑する二人。

友達のこと、釣りのこと、そしてもう一つの二人の共通の話題である麻雀と部活のこと。

付き合いこそ短いが、そんな様子は微塵も無い。

何の気負いもなく談笑する二人の顔に浮かんでいるのは自然な笑顔だった。


「………………」

「? 誠子さん、どうしたんですか?」


夕飯を食べ終わって、食後のコーヒーを淹れて飲む頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

焚火も火の勢いが二人を仄かに照らす程度まで弱くなっていた。

急に無言になって空を見上げ始めた誠子。

京太郎は不思議に思って声をかける。


「いや…… 星がきれいだなぁって」


誠子の答えを聞いて同じように空を見上げる京太郎。

そこには町では決して見ることが出来ない星空が広がっていた。


「うわぁ! 本当だ…… 天の川ってここまで綺麗だったんだ……」

「本当にね、東京じゃこんな星空なんて見れないよ」


満点の星空の下、仄明るい焚火を囲む男と女。

非常に幻想的な光景だった。


「本当に手が届きそう……」


そう言って空に向かって手を伸ばす誠子。

そんな彼女を京太郎は微笑みながら眺める。


しばらくして京太郎は手に持っていたコップに残っていたコーヒーをクッと飲み干すと欠伸をしながら誠子に声をかける。


「ふぁ~…… そろそろ寝ますか…… 源流行は始まったばかりです」

「あと2日かけて魚止めの滝まで上るんだっけ?」

「そうですよ、だからしっかり休んで体力を蓄えましょう」


焚火の始末をしてテントに戻る。

テントは二人用なので少々手狭。寝袋に入った二人は自然と身を寄せ合わなければならなかった。


「フフフ…… 年頃の男女二人でこんな事してるなんて知ったら、白糸台のみんなどんな顔するかな?」

「それを言うなら清澄のみんなも同じですよ」


横になりながら、お互いの顔を見てクスクスと笑いあう京太郎と誠子。

フクロウの鳴き声が聞こえるしじまの中、二人が入っているテントが仄明るく浮かび上がっていた。

明りのスイッチが切られたのかテントの明かりが消え暗闇が辺りを支配した。

目の前さえも全く見えない漆黒の闇、そんな静まり返る山中に時折フクロウやヨタカの声が木霊する。

そんな神秘的な雰囲気の中、時折テントがゴソゴソと細かく揺れ、二人の小さな声が聞こえてくる。

テントの中で二人が何をしているのか、それを知るのは京太郎と誠子、そして満点の星空だけだった。


              -fin-