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「夏の暑さは、海を越えても変わりませんね」
日傘を手に道を歩く一人の少女が小さく呟く。
雀明華、14歳。
母親の出張と学校の長期休暇が重なった事もあり、少女は初めて日本という国、長野と呼ばれるその地を訪れた。
四季の感覚は概ねフランスと同じ様なものだと聞いていたが、やはりその土地特有の空気というものはある。
初めて見る風景と感じる風はとても新鮮で、ただの散歩であっても心が弾み、自然な笑みが浮かんでいた。
そうして散策を続ける中で、ふと目についた建物があった。
「あれは、何でしょうか……?」
実際に近くまで行ってみると、その答えは風に乗ってやってきた。
人の熱気、多くの歓声、声援、怒声、足音……
「体育館……何かやっているんですね?」
気が付けば、明華は自然と体育館に足を踏み入れて……
観客席から見えた光景は、不思議と見慣れたものであった。
――――
「おいボサっとしてんな! 速攻速攻!!」
「サイド空いてんぞ! 無理に中通んなって!!」
「頑張れぇぇぇぇ! ファイトォォォ!」
体育館に轟く応援の声、指示伝達の叫び、床を蹴る力強い足音。
多くの音と周りの熱気をひしひしと感じて気圧されている。
心身は緊張と不安でガチガチに固まっている。
須賀京太郎、13歳。
中学に入って、初めて目にしたスポーツであるハンドボール。
部活として始めたそれは今まで触れたどのスポーツより刺激的で、一度の見学で即座に入部を希望した。
そうして訪れた初めての夏。長野県大会。
恵まれた体躯と運動神経を遺憾無く発揮して瞬く間に頭角を現わし始めた京太郎を、周囲は大きく期待した。
元々マイナースポーツであり部員が少ない上に、選手交代が自由であるハンドボールは全員がレギュラーの様なものであるが、実際に大きな試合にレギュラーとして挑める事はとても楽しみであった。
筈だった。
(やっべぇ……緊張しすぎてどうすりゃいいか分かんねぇっ……!)
その楽しみを上回る程のプレッシャー。
練習通り出来なかったらどうしよう、自分のせいで負けたらどうしよう、期待されてる事に応えられなかったら……
先輩方は気楽にやって大丈夫だと、大会に出られる事だけでも十分だと言って励ましてくれたものの、不安は拭えない。
試合開始が近づきコートに入ると、緊張はいよいよ京太郎の心身を支配する。
(クソっ……何ビビってんだよ俺! いつも通りやれば良いだけだろ!)
アップは十分、コンディションも万全だというのに、心がついてこない。今試合が始まっても、普段の半分も動ける気がしない。
刻一刻と迫る開始時間、不甲斐ない自分を奮い立たせようと苦悶していたその時
『LAAAAAAAAAAAA………』
観客席から響く少女の歌声が、風と共に全ての音を塗り替えていった。
「ふぅ……」
“風”を呼び込むこの歌を、誰かに向けて歌い上げたのは何時以来だろうか。
立ち上がって一頻り歌い終え、明華は再び席に着いた。
幸い観客は満員という程ではなく、僅かな間立ち上がっても大きな迷惑にはならなかっただろうと思いながらも、周囲からの目線は随分と奇異を含んだものだった。
(これで、少しは軽くなったでしょうか……?)
母国で親しまれているハンドボールの試合風景。
その中にあってたった一人、自ら枷た重りで潰れそうになっている一人の少年の姿。
高く、強く飛べる力と真っ直ぐな心を持ちながらも、不安の影にもがき苦しむ少年の姿を目にして、気が付けば明華はその歌を贈っていた。
言葉を交わした事も、そもそも互いを認識し合った事さえ無い相手。
それでも、明華は見てみたかった。
彼がしなやかに高く跳ぶ姿を、風を切って走る姿を、力強く投げる姿を。
だからこそあの歌は、自分に向けてた今までよりも想いを込めて。
(その風はきっかけ……後は自分を信じて、貴方の風を見せてください)
見れば、コートには恐れも疑いも迷いも捨て、輝きを取り戻した様子の少年の姿がある。
それから明華は時間の許す限り、少年の活躍を目で追い続けた。
――――
全ての試合を終えた後、京太郎は観客席に向けて駆け上がった。
観客席には家族も来ていたが、目指すところはそこではない。
試合前の、歌の少女。
彼女がどのような意図で、何の為に、誰の為に歌ったのかは定かではないが、他校の応援という事では無さそうだった。
私服だったし、何よりも彼女が歌いだした途端、体育館中の注目が彼女に注がれていた。
ともあれ、あの歌声に京太郎は救われた。緊張感は解けて気持ちは軽くなり、十全以上の実力を発揮出来た気さえする。
お礼が言いたい。その一心で階段を駆け上がり周囲を見渡すも、少女の姿はどこにも見当たらなかった。
「帰っちゃったのか……」
会って一言「ありがとう」と。そんな感謝を告げる事も出来なかった。
名前も知らない少女の歌声に助けられたこの日の事は、京太郎にとって忘れがたい思い出の1ページとなった。
あれから月日が流れ、東京・第71回全国高校麻雀選手権会場。
京太郎は、チームのための買い出しを終えてフロアで一息ついていた。
大量の荷物のうち、飲み物や昼食を控え室へ差し入れたあと、ホテルに残りの荷物を置いてこなければならない。
少しでも試合を見る時間を増やすため、もうひと頑張りと立ち上がって歩き出した時に誰かとすれ違い、同時に静かな風が頬を撫でた。
(風……?)
そんな勢いですれ違った筈ではないと思い、ふと振り返る。
相手も何か気がかりだったのか、殆ど同時に振り返っていた様で、必然的に二人は数歩の間を空けて向き合うようになる。
透き通るような白い肌、幾分か赤みががった瞳、引き込まれそうな程美しい長い髪。
忘れるものか。
あの日、一瞬で全ての人の目線を集めた少女に同じであるのだから。
「あっ……あ、あぁ……!!」
もう二度と無いと思っていた機会の強襲に二の句が継げない。万感がこみ上げてくる。
話したい、伝えたい。そう思うばかりで空回り、頭が整理しきれない。
そんな京太郎の姿を眺めていた少女が優しく微笑み、自らの胸元へ手を当てて小さく息を吸い込むと、あの日と同じ歌声が響き渡り……
――――
覚えているのは、静かな風が心地良いあの夏の日に、小さな出会いがあったこと。
「こんにちは、とても素敵でした」
少女は、再会できたなら贈りたかった言葉を。
「会えて嬉しいです、ありがとうございます」
少年は、再会したならば届けようと思っていた言葉を。
三年越しの再会で、二人はようやく伝え合う事ができた。
カンッ