大韓航空機爆破事件―金賢姫の陳述書 要旨読売新聞1988年1月16日 

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4-金賢姫の陳述書 要旨 読売新聞88年1月16日  構成や字の変換がオリジナルと少し違っているのは大目に見てくれ 出国   858便爆破計画に従って、1987年11月12日朝6時30分、私達(崔課長=注・朝鮮労働党調査部の課長と見られる=、金勝一先生と私)は招待所の応接室に上がり、宣誓の会をしていた。私は崔課長の書いた宣誓文を朗読した。会終了後、私達は朝食を取り、7時ごろ、招待所を離れた。順安飛行場に着いてまもなく、副部長が車に乗って現れた。私達一向4人(崔課長、崔指導員、金先生、私)は、副部長の見送りを受け、飛行機に乗った。この朝鮮航空機は平壌―モスクワ―東ベルリン間に開通したルートを飛ぶ初の飛行機。機内では、これまでに比べて苦労があったと、贈り物(トランプ、キーホルダー、財布)などをもらった。モスクアに12日午後到着。モスクワ駐在指導員が迎えに来て、駐モスクワ朝鮮大使館の招待所に案内した。私達はここで夕食を取った後、午後11時ごろモスクワ飛行場へ行った。ソ連機に乗り、13日朝4時ごろブタペストに到着した。 ブタペスト  駐在指導員がいて、私達は彼の家(招待所)に行き、休息した。14日、私達は金先生だけを残して地下鉄などで市内観光をした。15日は駐在指導員の案内で、2台の車に分乗、ブタペスト広場などの観光地を回った。16日もやはり市内を回りながら、写真を撮った。17日夜、ヒルトンホテルで夕食を取って18日の出発準備をした。駐在指導員の話によれば、ウィーン入国は飛行機敏では検閲が厳しいため、飛行機で行く計画を変え、崔課長と崔指導員は汽車で、金先生と私は、指導員の乗用車(ベンツ)で入国することに決めた。 ウィーン   18日朝8時ごろ、私達2人は車でブタペスト国境線を越えた。国境の出入国検閲は簡単だった。朝鮮旅券にスタンプを押してくれ、ウィーン入国時にはスタンプを押さず、旅券を一回見ただけ。通過後、私達の朝鮮旅券を指導員に渡して、(偽造の)日本旅券を受け取った。ウィーンの南駅に到着した後、指導員は車でで引き上げた。南駅でホテルの予約を金先生がした後、私達はタクシーでホテルに行った。この日は自動車で10時間乗ったので酷く疲れていたため、ホテルで簡単に食事をして休んだ。19日午前10時ごろ、金先生と私はオーストリアの航空会社に行き、あらかじめ研究していた計画通りに、飛行機の予約をした。その後、ホテルでもらった観光地図を頼りに市内を見て回った。20日にはイタリアの航空会社で、アブダビ―アンマン経由―ローマ行きのチケットを買った。21日には華やかなショッピング街を見て回り、私のワンピース一着と冬用靴下、首飾り、イヤリングなどを買い装備品を補充した。22日午後に金先生がオーストリア駐在朝鮮大使館に電話をかけ、崔課長に、チケット購入を知らせ、27日夜7時にベオグラードのメトロポールホテルで会うことを約束した。 ベオグラード  23日午前11時ごろ、ホテルで昼食を終え、タクシーで飛行場に向かった。出国手続き後、午後2時ごろ搭乗。午後6時ごろベオグラードに到着した。タクシーでメトロポールホテルに行った。24日、私達は電車に乗り、市観光をして回り、写真を撮った。25日も中心街を観光してセーター一枚を買った。26日、オーストリアの航空会社に行き、飛行機のチケット(ローマ―ウィーン)を購入した。27日夜7時にホテル正門で、崔課長、崔指導員と会い、部屋に上がった。部屋で十分間、崔課長は持ってきた爆破用ラジオと酒を手渡してくれ、私達が持ってきた旅行用カバン一個(その他不必要なものを入れた)を持っていった。28日午前11時ごろ、ホテルから飛行場へ向かった。 大韓機に  飛行機は予定されたとおりに午後2時35分に出発。夜7時ごろ、バグダットに着いた。ところでその時はイラクの飛行機に乗ったのだが、飛行機に乗る時、所持品の電池(バッテリー)を全部、乗務員が検閲し、没収したうえ、バグダットに着陸した後で返してくれた。飛行場内で待ちながら、金先生がラジオへバッテリーを入れた。ところが、飛行場の女性案内員が乗り換える乗客たちを連れて、乗り換え用ホールに行き、男性、女性それぞれの手荷物を没収した。ラジオのバッテリーが問題となった。なぜなら、バグダット空港の規則では、バッテリーを持って飛行機に乗ってはいけないということだ。ここで、金先生が「なぜ、明らかに個人のものまで没収して取り締まるのだ」と言い、ラジオを持って見せながら抗議し、そのまま持っていくことが認められた。検閲が終わった後、飛行機にチェックインする途中、二度目の検閲を受けた。その時は私があらかじめラジオを金先生にあずけていたので、全ての検閲が無事に済んだ。搭乗二十分前に、金先生がラジオの作動スイッチを九時間後に合わせた。飛行機はバグダットを28日23時35分に出発。私はエコノミー席の前から二番目(左側)の中央に座り、左横には西洋人女性一人、右側には金先生が座った。金先生は自分の旅行用カバン一個と爆破用ラジオと酒瓶、その他が入っているビニール袋をイスの上の棚に置いた。食事の後、西洋人女性と私がまず、トイレに行って戻ってきて、十分後に金先生がトイレに行って戻ってきた。 アブダビ  アブダビ到着後、爆発物をそのまま残して降りた。アブダビ空港で、空港案内員がの乗り換え便のチケットを見せるように言った。そのためベオグラード―バグダッド―アブダビ―バーレーン行きのチケットを見せた。アブダビでは、日本旅券では通過しか出来ず、出国もビザがないのでできない。そのため、他のチケット(計画したアブダビ―ローマ行き)を見せることができなかった。このため、偽造調整策として設定された、アブダビ―バーレーン行きを利用するしかなかった。 バーレーン  29日朝9時、バーレーン行きに乗り、三時間後到着した。空港で三十㌦出し、三時間の滞在ビザをもらった。空港の電話ボックスからホテルへかけたが、全く通じない。それを見て、空港警察官が来て代わりに電話をかけ、リージェンシーホテルにつないでくれた。30日は航空会社に行き、前に予約してあったアブダビ―ローマ行きチケットを、一日出発のバーレーン―アンマン経由―ローマ行きに変えた。  ホテルの部屋に戻り、しばらくすると、電話がかかってきた。(▽一回目の電話=ホテル側が名前、旅券番号などを聞いてきた▽二回目の電話=韓国人だった▽三回目の電話=日本大使館から旅券に対してだけ聞いた▽四回目の電話=韓国人が部屋に訪ねてくるということだった)。しばらくたって韓国外交官が部屋へ訪ねてきた。彼らは金先生と向かい合って座ったが、言葉が通じないので、日本語数後を並べて八五八便が墜落したと説明した。彼が帰った後、金先生は、大韓機が明らかに墜落したようだ、心配せずに眠って明日出発すればいいと話した。  12月1日朝7時ごろに起き、出発する準備をした。その時、金先生が毒薬アンプルの入ったタバコケース一個を私のカバンに入れた。寝坊してしまったため、あわてふためき、ちょっとドキドキしながらホテルの清算をすべて済ませ、タクシーで飛行場に着いた。出国検閲所を通過するとき、一人の男性が私たちの出国カードを没収して、ちょっと待つようにと言った。間もなく日本大使館職員(男性)一人が来て、旅券が偽造であることが判明、日本大使館に行って日本の飛行機で日本に帰らなければならないと言い旅券を取り上げられてしまった。金先生は「いまやすべてが終わりだ。日本に送られると我々はあれこれ苦しみながら死ぬことになるだろう薬を飲まねばならない」と話した。このとき、バーレーンの警察官達が来て、手荷物と身体検査をした。その後、一人の警察官が、私の手提げカバンを没収すると言った。そのため、私はアンプルの入っているタバコのケースだけを手に持ち、カバンを渡してやった。すると、女性警察官が忘れていたタバコ検査を思い出したのか、私にタバコをよこせと言った。そこで、私が金先生を見つめると、金先生は渡してはいかんと、めくばせした。急いでその警官の手にあるタバコを奪い、フィルター部分を噛んだ。そして、気を失った。 一九八七年十二月二十八日 陳述人 金賢姫

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