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性道徳・結婚道徳

 PARTE SISTEMATICA

 第二部 性および愛の真理
  第六章 同性愛
   6.1 定義と頻度
   6.2 同性志向の始まり
   6.3 古代、および聖書の中の同性愛
   6.4 伝統にみる同性愛
   6.5 新しい理解へ
   6.6 異性愛の人類学的意味
   6.7 公会議後の指導
   6.8 司牧的アプローチ
   結論


ホモセクシャルというタームは、1869年にハンガリーの文学者 K.M.ケルトベニーにより作られる。「肉体関係を欲する欲しないにかかわらず、性的感情または情愛を、もっぱらもしくは優先的に成人の同性に感じる男女」。ジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー・ロール、性志向の区別。
同性愛者は、生まれの性に違和感を感じているわけでも、別の性になりたいわけでもない。ある程度持続した性関係において、生まれの性とは逆の性の役割を任じることはあるが。また同性志向からその肉体的実行への移行は、必ずしも必然的ではない。

同性愛者の特徴:しばしば幼少期からの同性への強い志向;異性への無もしくは薄い関心;心身の喜びを得るために、たとえば空想の上でも、同性愛行為を行いたいという欲望。つけくわえて女性の同性愛の特徴。
A.キンゼイの調査の見直し。近年の調査では、生涯を通じて排他的同性愛者として生きる人の率は、男性 2-3%、女性 1.5-2%、何らかの形で同性愛的行動を、とりわけ19才以前に、経験したことのある人の数はその三倍。真性同性愛と一時的なそれとの区別。後者の様々なシチュエーション。

同性愛は人の性行動のノーマルなヴァリエーションか。大多数が異性愛者であることはどう説明しうるか。科学以前の説明としてはプラトンのアンドロギュノス神話。科学の領域では、生物学的・心理学的考察あれこれ。胎児へのインプリンティング、母胎の免疫機能、遺伝学的原因など。今なお無視できぬフロイトの分析心理学。マザコン/エディプスコンプレックスの裏返しとしての男性同性愛、一方、女性同性愛にみられる、娘の独立を阻む母の陰。

同性愛は古今東西の文化に見られる。同性愛的行為の確認される76の非西洋文化圏において、64%が認容可と回答。古代においては、社会生活のイニシエーションとして少年愛をたたえたギリシャの例、一人の男性奴隷との同性愛を認めたローマの例など。
一方、ユダヤの伝統は同性愛を拒否しつづける。レヴィ記では、男性同性愛は偶像崇拝の観点から死罪。ソドムとゴモラ(創世記)の罪ははっきりしない、これを同性愛の罪としたのはアレクサンドリアのフィロン。ユダヤの伝統に育ったパウロにとって、同性愛はあらゆる道徳の乱れの象徴。同じラインにペトロの手紙二とユダの手紙? はっきりしない点も多いが、新約旧約共に同性愛行為への非難は明らか。ただし、人としてホモ・へテロを区別する概念はない。

教会のホモフォビア。教父の時代はアウグスティヌスやクリソストモス、神が定めた性と生殖の繋がりを強調。その考えは教会内外の法制度や民衆感情にも影響。帝国法では同性愛行為をした者は火あぶり。しかし、女性同性愛への非難は比較的弱い。生殖において男の種のみを称揚したこと、もともと女は道徳的に弱い(から仕方がない)と考えられたことによる。十一世紀の教会改革運動において、聖職者の妾問題に加えて同性愛行為も糾弾される。総括はトマス・アクイナス。性を生殖のためのものと見るので、人肉食、獣姦とともに同性愛行為を自然に反する罪、放縦の爆発とする。しかし負けない同性愛。異教文化の花開いたルネサンス期にはますます広まり、応じてこれを難ずる説教や法もめたくそ編まれる。にもかかわらず、同性愛がそれ自体として認識されることはなかった。フーコーは、男性間の“友情”というカテゴリの消える十七世紀に今日的意味で同性愛が語られるようになり、十九世紀後半に病理として扱われるようになったとする。

性理解・人間理解が大いに変革された十九世紀末から二十世紀後半、同性愛の考え方も変わる。身体的性の静的で反復的な理解から、心理的領域の動的で創造的な理解へ。とりわけマルクス主義哲学との出会い。ライヒ、フロム、そしてマルクーゼ。「現代の課題は、人の性を家族制度から解放し、あらゆる禁忌、禁止をうち破って、完全に自由な展開をエロスに与えることだ」。自然と文化の対立、生物的性の拒絶とジェンダーの称揚。異性愛は特権的地位を失い、かつての放縦は単純に性表現の一つとなる。性の意味は一つではなくなる。The queer theory。性の多極化。「それは自由放任主義の結果ではない、むしろ凝り固まった性理解を乗り越える性アイデンティティの下克上である」(ゲイル・ホークス)。ゲイ・カルチャーからの刺激のものと、一部の学問領域においても、同性愛を正常な性志向の変形(つまり異常)とみる見方を否定するに至る。少数ながら、異性愛と同性愛をまったく同列に見るカトリック神学者も出てくる。

ここで異性愛の意味の確認。出発点はつねに創世記。人類の可能性のすべてを表しうる場所は異性愛。人間論的真理が非自己への開けであるなら、男性に対して全き他愛を実現しうるのは女性のみであり、逆もまたしかり。同性愛関係においては人は自己超越できない。
教皇庁の態度あれこれ。伝統を尊重しつつ、現代の学問成果も反映しつつ。同性愛それ自体を咎とはしないが、少なくとも異性愛と同列に見るのは無理っぽい。同性愛者の結婚は、そもそも“結婚”の定義にはずれる。
司牧の領域では。教会から排除されることを畏れ、己の性志向を否定して己を閉ざす同性愛者。どうするか。結婚を勧めるのは無理。何らかのコミュニティへの参加を勧めるのは良いが、キリスト教のゲイコミュニティはゲットー化しやすいという限界があり、一般のコミュニティにおいては、結局自分を殺しつづけてしまうという危険がある。ホモとヘテロの共存の可能性の模索。告悔の場での場合分け。聖職においては、同性愛それ自体が不適当なわけではないが、混乱を避けるために去ってもらわなければならない。

伝統的倫理と人格的な性の再解釈との板挟み、というのが現状。