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人間論道徳学  PARTE POSITIVA  第一部 聖書にみる性と結婚   第二章 新約聖書    I. 性と結婚に関する主の説教     1. 肯定的態度     2. 「初めに」:結婚についての神の計画     3. 離婚(夫から妻への)についての談話     4. 欲望の目で見ること     5. 性と終末論     6. 処女性、新しい価値    II. パウロの作品に見る性と結婚     1. 1Cor.5-7 における性と結婚     2. エフェソの信徒への手紙における「偉大な神秘」     3. 男女平等     4. パウロ作品における性的罪 福音書に見るイエスの性と結婚観を前半で、パウロの性と結婚観を後半で。 I. イエスの性と結婚に対する態度は成熟しており、当時の偏見からも自由であった。たとえば、女性に対する態度。弟子に女性がいるのは、他のラビにはあり得ないこと。復活の最初の証人も女。何といっても、自身、女から生まれることを選んだと。イエスとの出会いにより尊厳を取り戻す女たち。娼婦、姦婦、病持ち、寡婦、異邦人。律法の定めるタブーからの解放。結婚に対しても肯定的。神の国の告げ知らせは、婚礼の宴へのまねき。独身性を称えるが、婚姻と福音が矛盾するわけではない。 前述の離縁制(夫→妻)について、ファリサイ派と議論。先述の Gen.2,24 を引いて、「神が結び合わせたものを、人が離してはならない」。離縁して再婚するのは、男であれ女であれ姦通。姦通は女のみの罪ではなくなる。この部分についての共観福音書の記述、マタイのみ例外規定とおぼしきものを設けている。「“不義の場合でもないのに”離縁する者は...」(“マタイの例外”)。このπαρεκτός λόγου πορνείαςの解釈あれこれ。 「復活の暁には、娶ることも嫁ぐこともなく、天の天使のようになる」(Mc 12,25) 。復活したら無性になって結婚もなくなる。という意味ではなくて、地上の関係においては達しえない、完全に神に開かれた新しい男女関係が開かれるのだと。この状態を先取りするものとして、旧約の時代には評価されなかった処女性、独身性が称えられるようになる。 II. 以上を発展させてパウロ。『コリントの信徒への手紙』。コリントは二つの門を持つ商業の一大中心地。1000人の聖なる娼婦をしたがえるヴィーナス神殿の町。この土地の未成熟なキリスト教徒に宛てる。 パウロにとって、結婚は合法的な性欲充足の場。むらむら罪を犯すくらいなら結婚しろと。夫にとっても、妻にとっても、身体を差し出すことは義務。祈りの期間に身を保つのは、「義務」ではなく「許可」。多分、逆の傾向の厳格派に抗しての態度。 離縁は男の側からも女の側からも不可。ただし、一方のみがキリスト教徒というケースで非キリスト教徒側が離縁を望んだら、それは可。後者のケースでキリスト教徒側が再婚できるかは、パウロの文書からははっきりしないが、原始教会は“パウロの特例”の名の下にこれを認める。寡婦の再婚は喜ばれないが、キリスト教徒とであればまあいいかみたいな。 結婚生活は良いものだが難しいもの、主への注意をそらすもの。終末をむかえる最良の形態ではない。肉の懊悩。独身万歳。パウロの結婚に対する態度はつねにアンビバレント。子を残すことについては語らない。できれば自分のように、イエスのように、神のために身を捧げてほしいというのが本音。 『エフェソの信徒への手紙』第五章。パウロの手によるものではないが、パウロ理論によるもの。キリスト教徒の生はキリストのまねび、その具体的な形が相互服従:夫妻、親子、主従。というわけで、世俗の結婚はこの一つの形。先述の Gen.2,24 を引いて、「この神秘は偉大である」(Eph. 5,32)。このτο μυστηριον τουτο μεγα εστινの解釈あれこれ。キリストと教会の婚姻。キリストと教会の内の婚姻。結婚はエピファニー。そこから結婚の秘跡的性格。さらに、秘跡そのものでありうるか。花嫁花婿は、キリスト-教会の体現。 女嫌いのパウロ。「ヴェールかぶっとれ」「典礼中は黙っとれ」。しかし、「キリストの内には男も女もない」とも。結婚の規定では相互性を強調。パウロの教会には女性の助祭もいた。 パウロ作品における不義、姦通、ゲイ。同性愛は最悪の罪だそうです。失敬な。マスターベーションについては新約全般、言及なし。 [[人間論道徳学に戻る>人間論道徳学]] ----
性道徳・結婚道徳  PARTE POSITIVA  第一部 聖書にみる性と結婚   第二章 新約聖書    I. 性と結婚に関する主の説教     1. 肯定的態度     2. 「初めに」:結婚についての神の計画     3. 離婚(夫から妻への)についての談話     4. 欲望の目で見ること     5. 性と終末論     6. 処女性、新しい価値    II. パウロの作品に見る性と結婚     1. 1Cor.5-7 における性と結婚     2. エフェソの信徒への手紙における「偉大な神秘」     3. 男女平等     4. パウロ作品における性的罪 福音書に見るイエスの性と結婚観を前半で、パウロの性と結婚観を後半で。 I. イエスの性と結婚に対する態度は成熟しており、当時の偏見からも自由であった。たとえば、女性に対する態度。弟子に女性がいるのは、他のラビにはあり得ないこと。復活の最初の証人も女。何といっても、自身、女から生まれることを選んだと。イエスとの出会いにより尊厳を取り戻す女たち。娼婦、姦婦、病持ち、寡婦、異邦人。律法の定めるタブーからの解放。結婚に対しても肯定的。神の国の告げ知らせは、婚礼の宴へのまねき。独身性を称えるが、婚姻と福音が矛盾するわけではない。 前述の離縁制(夫→妻)について、ファリサイ派と議論。先述の Gen.2,24 を引いて、「神が結び合わせたものを、人が離してはならない」。離縁して再婚するのは、男であれ女であれ姦通。姦通は女のみの罪ではなくなる。この部分についての共観福音書の記述、マタイのみ例外規定とおぼしきものを設けている。「“不義の場合でもないのに”離縁する者は...」(“マタイの例外”)。このπαρεκτός λόγου πορνείαςの解釈あれこれ。 「復活の暁には、娶ることも嫁ぐこともなく、天の天使のようになる」(Mc 12,25) 。復活したら無性になって結婚もなくなる。という意味ではなくて、地上の関係においては達しえない、完全に神に開かれた新しい男女関係が開かれるのだと。この状態を先取りするものとして、旧約の時代には評価されなかった処女性、独身性が称えられるようになる。 II. 以上を発展させてパウロ。『コリントの信徒への手紙』。コリントは二つの門を持つ商業の一大中心地。1000人の聖なる娼婦をしたがえるヴィーナス神殿の町。この土地の未成熟なキリスト教徒に宛てる。 パウロにとって、結婚は合法的な性欲充足の場。むらむら罪を犯すくらいなら結婚しろと。夫にとっても、妻にとっても、身体を差し出すことは義務。祈りの期間に身を保つのは、「義務」ではなく「許可」。多分、逆の傾向の厳格派に抗しての態度。 離縁は男の側からも女の側からも不可。ただし、一方のみがキリスト教徒というケースで非キリスト教徒側が離縁を望んだら、それは可。後者のケースでキリスト教徒側が再婚できるかは、パウロの文書からははっきりしないが、原始教会は“パウロの特例”の名の下にこれを認める。寡婦の再婚は喜ばれないが、キリスト教徒とであればまあいいかみたいな。 結婚生活は良いものだが難しいもの、主への注意をそらすもの。終末をむかえる最良の形態ではない。肉の懊悩。独身万歳。パウロの結婚に対する態度はつねにアンビバレント。子を残すことについては語らない。できれば自分のように、イエスのように、神のために身を捧げてほしいというのが本音。 『エフェソの信徒への手紙』第五章。パウロの手によるものではないが、パウロ理論によるもの。キリスト教徒の生はキリストのまねび、その具体的な形が相互服従:夫妻、親子、主従。というわけで、世俗の結婚はこの一つの形。先述の Gen.2,24 を引いて、「この神秘は偉大である」(Eph. 5,32)。このτο μυστηριον τουτο μεγα εστινの解釈あれこれ。キリストと教会の婚姻。キリストと教会の内の婚姻。結婚はエピファニー。そこから結婚の秘跡的性格。さらに、秘跡そのものでありうるか。花嫁花婿は、キリスト-教会の体現。 女嫌いのパウロ。「ヴェールかぶっとれ」「典礼中は黙っとれ」。しかし、「キリストの内には男も女もない」とも。結婚の規定では相互性を強調。パウロの教会には女性の助祭もいた。 パウロ作品における不義、姦通、ゲイ。同性愛は最悪の罪だそうです。失敬な。マスターベーションについては新約全般、言及なし。 [[性道徳・結婚道徳に戻る>性道徳・結婚道徳]] ----

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